ブログ記事369件
こんばんは。サトリの話をもうすこし…最近は、気がついたら思考がなくなっていた、という話もちらほら聞きます。一方、悟る前に強烈な感情を感じた、という話も昔からよく聞きます。以下は、必ずしも本人が悟ったと言っているわけではありませんが、私が悟った認定をした人たちが、悟る前に感じた強い感情の例です。ラマナ・マハルシ恐怖バイロン・ケイティ怒りエックハルト・トールひどいうつレスター・レヴェンソン(セドナメソッド)怒りバーナデット・ロバーツ暗ーい気持ち・・・・・これらは
今日は、ラマナ・マハルシさんの、こちらの教えをご紹介します。今の私には、これ以上に重要な教えはありません。ですが、まだ知識としての理解しかできていません。真の理解が与えられるまで、何度もこの教えに瞑想します。どなたかのお役に立てたなら、幸いです。彼の御心に従いすべてを明け渡しなさい。神のはからいにまかせなさい。もし、あなたの希望に沿うように神に頼むとしたらそれは明け渡しではなく命令である。神をあなたに従わせておきながら自分は明け渡したと考えることはできない。神は何が最善
昨日4月14日はラマナの命日だった。夜サマディー近くのラマナが亡くなった小さい部屋を開けて、その前にみんなが座りラマナに捧げる歌を小一時間歌った。私はいつもはティルから去っている時期なので(コロナのロックダウンの時はティルにいたが、アシュラムは閉鎖で入れてもらえなかった)これに参加したのは初めてだった。歌が始まる前に開いた部屋の前を通った時にチラと部屋の中が見えたが、ものすごいブリスとサイレンスで涙が出た。私が座れたのは後ろの方だが、それでも開いた部屋が木の隙間からちょっと見えた。美し
年度末にはいろいろな変化があるものですが、私自身は先月頃からやはりいろんな変化を経験しております。その中でも、特に自分の中での大きな変化はSNSを離れる覚悟ができたことです。私はFacebookとインスタをやっておりましてインスタはアルバム替わりに使っていたくらいですがFacebookの方は500人弱の友達がいて「いいね」を送り合っている遠方の友人もたくさんいる状態だったのでアカウントは残っていて、いつでもアクセスできるもののタイムラインを見ない何も投稿しない誰の投稿にも反
今の私には、真我実現へと導いてくださる存在や書籍が、絶妙なタイミングで与えられています。そういった導きの中から、「今の私を導いてくれる言葉集」として、このブログに少しずつ綴っていこうと思います。私自身の備忘録として。そして、同じ道を歩んでいらっしゃる方々に、届きますように✨第一回目は、ラマナ・マハルシさんのお言葉です☆彡✨考えることはあなたの本性ではないのです。✨「静かに在る」ということは、「考えない」ということです。✨信じなさい!彼らがそうできたのは、「できる」と信じたからです。
思考することはあなたの本性ではない。それは真実だと、自我の私でさえ感じます。今の私には「師」と呼ばせて頂ける存在が与えられた。喉から手が出るほどに待ち望んだ存在。どんなに厳しい返答であろうと、その愛の深さに感謝せずにいられない。今、私が辿っている真我実現という道は、誰にでも理解されたり、受け入れられる道ではないということを、この現象世界において実感している。でも、伝わる…というか、同じ道に在る人と真我実現の話をすると、なんの力も要らず、時間を忘れて話てしまいます。逆に、全くその段
何年か前のフェイスブックの投稿よりインドじゃなあという話RamanaSamadhi,7:40pm人が少なくてびっくりするほどサイレントだった。私がここにきはじめた8年前ぐらい人が少ない。ラマナのエナジーってこんなだったんか!あんまりサイレントで頭の中が白くなりそうだった。でも本題は以下2つインドじゃなあ!という話1.この写真の左側におじいさんがイスにすわっている。(ワザとわかりにくいように撮りましたw)おじいさんはフンドシだけなのだ。この人、昼間も見かけたぞ。ラマナ
今私自身の人生に起きていることはラマナ・マハルシ(インドの聖者)が霊性の師(以下グル)の働きについて述べたことと全く同じことを体験しているように思います。マハルシは弟子との対話においてグルのなさり方を次のように説明しています。「グルは内面と外面の両方に存在しています。それゆえ、彼はあなたが内面に向かうような条件を外側につくり出し、あなたを中心へと引き込むように内面を準備します。こうしてグルは外面からあなたを押し入れ、内面から引き込んで中心に固定させるのです。」私自身の状況として
今日は、こちらの動画をご紹介させて頂きます。しょーきんぐの超絶オススメです✨ここ数年、ずっとこのARTzeroさんの朗読「ラマナ・マハルシさんの教えの精髄[私は誰か]」を聴いている。ラマナマハルシさんの、この「私は誰か」の教えには、真我探求に必要な全てが集約されているのだろう。それだけ貴重な内容です。更に、このARTzeroさんの神聖とも言えるお声で、この教えを何度も何度も聴いていると、本当にラマナマハルシさんに導かれている気にさえなってくる。とは言え、この教えに出会ってから、
思考を観るそれを実践していたら、次の事に気づいた。思考は止める事などできない。思考を止める必要などない。思考を「止める」のではなく思考に「巻き込まれない」こと。思考に気づき、思考を眺めるだけ。ただ、流れるままに思考を放っておき、「気にしない」こと。これが重要だった。そして、思考は「自分ではない」思考は「自分のものでもない」という事に気づいた。なぜなら、、、思考が止まっている(消えている)時にも、(私)は消えずに存在しているから。思考を止める事も出来ないし、
8年前のフェイスブックの投稿よりこのシヴァ・ラトリの忘れられない思い出YesterdaywasMahaShivaratriという訳で、フツーのインテンスな日の2倍以上の事をしてしまった。まぁツーマッチとは言えるが、シヴァラトリは一年に一度だし、サットサンはもうじきおしまいなので。朝はラマナアシュラムでホマ(護摩たきの原型)がとりおこなわれた。6時からというので、5時20分に起きたのに、ホマが始まったのは7:00過ぎ。こんなことならもう一時間眠れたのにぃ。。。(火種を作っている
沈黙の聖者であるラマナ・マハルシは、言葉ではなく沈黙による伝達が多くなされたとのことです。書籍ではラマナが言葉によって、相手に伝えている様子が描かれていますが、実際のところはラマナが言葉で相手に語りかけるより、沈黙によって返答する方が多かったようです。そしてそれは当然相手を無視してのことではなく、沈黙によって返答をしていたのです。現代人は言葉によるやり取り、コミュニケーションに慣れていますが、ラマナほどの聖者となると、言葉よりもずっと沈黙によって伝わるものがあり
何年か前のフェイスブックの投稿より(この池の中にティルにたどり着いた少年ラマナは所持品全部を捨てた,)今日チャンティングが行われた小さなテンプルの隣に小さな池がある。ここにティルにたどり着いた少年のラマナがお金(16歳で死の体験をしたラマナはじきに、アルナチャラのあるティルを目指して家出した。列車の切符を買うためにしていたルビーのピアスを売ってかねを作ったのであるが、その残りの所持金)と彼のカーストであるブラフマンのしるしの聖紐(ブラフマンは左肩から斜めに白い紐をかけている)をこの池に捨
偉大な覚者であるラマナ・マハルシは、沈黙の聖者と呼ばれています。マハルシは言葉よりも、沈黙で真理を伝えていました。本来沈黙は饒舌よりもはるかに雄弁で、多くのことが伝わります。しかし現代人の多くは、そのことを完全に忘れ去っています。質問者この沈黙の力はどのように作用するのでしょうか?マハルシ言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。「私」という想念が
「ラマナ・マハルシの教え」が出版されていますが、1982年に出版されたものの復刻版です。マハルシはダイレクトに自己・真我の実現を説きます。守護霊や天使などもでてこず、ただの癒しや表面上の安心も説きません。ただあるがままの真実を静かに説くのみです。私にはそれが非常に心地よく響きます。読んでいて非常に参考になった部分を紹介します。弟子どうすれば自己実現できるのでしょうか?マハルシ実現というのは、新しく獲得される何かではない。それはすでにそこにある
まず私たちの真我を知ることです。私たちが真我を知れば、それ以外の問題はすべて明白になるでしょう。「ラマナ・マハルシとの対話より」すべての困難を一気に解決したいなら真我実現です。いわゆる覚醒、悟りしかありません。困難とは、個人の感覚です。ほとんどの人は、自分は個人であるという強い自我を持っています。そのため、都合の悪いイベントが起こると困難を感じるのです。しかし、真我実現したあとはどうでしょうか。再三言いますが、真我実現(覚醒)したあとも自我は残りますが、その自我は完全に真我
あなたのストーリーを棄てなさい。あなたの人生が始まる。Amazon(アマゾン)2,199〜9,086円ストーリーとは人生という幻想、夢、マーヤのことでしょうか。狭い意味でのスピリチュアルもそうですね、これも仮想、幻想の範疇。肉体もマインドもパーソナリティも本質じゃない。エゴは仮想の有限なものとすぐ同一化してしまう。「汝自身を知れ!」「自己を忘るることなり!」これらの言葉を胸に刻んで、偽りのアイデンティティに騙されないようにしたいですね。
昨日は143回目のラマナ・バースデー・セレブレーション(ジャヤンティと申します)だった。前日セッションとプラダクシナで忙しくて夜あんまり寝てなかったのだけれど、6:30ぐらいにアシュラムに行った。その時間だとまだあんまり人はいなくて静かだった。お母さんのサマディーの隅で坊さんたちが集まって、ツボの水の中に神のエナジーを下ろすプジャをやっていたが、すぐに終わってしまって残念だった。(坊さん方がチャンティングを延々として神のエナジーをツボのに入れる)(朝ご飯。イドュリーは1枚に減らしてもらっ
毎月、その弟子は自分の進歩を書き綴って、師にまめに送っていました。最初の月、彼は次のように書きました。「私は意識の拡大を感じ、宇宙との一体感を体験します」。師はその報告を一読すると、投げ捨てました。次の月、彼は次のように書きました。「私は、あらゆるものの中に聖なるものがあることを、ついに発見しました」。師はそれを読んで失望したようでした。三ヶ月目、その弟子の文面は、熱狂的に叫んでいました。「一なるものと多様性の神秘が顕現し、私はそれを見て、驚いております」。師は
私が横を通ろうとしたら。。。このウシさんなんと近づいてきて、頭をふったもんだからオシリをツノで突かれてしまった。ちょっとだけど。前にラマナ・アシュラムでウシさんに足に乗っかられたことがあった。思わず叫びそうだった。アシュラムのワーカーがアシュラム内のクリニックにつれていってくれた。そく破傷風の注射をオシリにされ,痛み止めと化膿止めの薬をくれた。それ以来、ウシさんの近くに寄らないように気をつけている。前に住んだ家の大家さんもウシは時々頭をふってツノでつつくことがあるし、馬は後ろ足で蹴ることが
偉大なる覚者、ラマナ・マハルシは沈黙の聖者とも言われます。マハルシは、言語による伝達より、沈黙によって伝えていました。質問者この沈黙の力はどのように作用するのでしょうか?マハルシ言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。「私」という想念が立ち現れた後に、他の想念は続く。それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。思考の
誰でも幸せになりたいと思っています。苦しみたいと思っている人はいません。これはなぜなのか、考えたことがあるでしょうか?その答えは、幸せが正常な状態で、苦しみが異常な状態だからです。ラマナ・マハルシは言います。幸せは故郷なのだと。ところが、人は幸せと幸福感を間違えます。幸せとは、静寂のことです。そして、真我(アートマン)の性質こそが静寂です。人の本性は真我であり静寂です。つまり、人のベースは本当は幸せなのです。しかし、自我に飲まれた私達は、幸せになるために幸福感を求めます。内側を
少し前に覚醒に関する動画を視聴していて、そこのコメントに「覚醒したら良いことしか起こりませんよね。そうでなければ偽物ですよね」といった趣旨のコメントがあり、色々な見解の人がいるものだと思いました。自分自身の見解として、そして私が間違いなく本物の覚者だと思われる人達は軒並み、覚醒したからといって良いだけ起こることはない、という意見です。仏陀にも色々な出来事が起こり、弟子の一人であるデーヴァダッタから命を狙われました。また生まれ故郷は滅ぼされてしまいました。
昨日は久しぶりにお山に登った。アルナチャラは登ること自体が行になるほどで毎日登っている人たちがいる。私も毎日登っていた時期があるのだが、ひざが悪くなってあんまり登らなくなったのは残念だ。7:00ぐらいから上り始めたが、その時は人が少なくて静かで気持ち良かった。人がいなければものすごくサイレントで聞こえるのは鳥の声と自分の足音ぐらいである。シヴァ・テンプルが見えるみはらしの良いポイントに着いたら、猿さんたちが山のようにいた。50匹ぐらい。私はサルにおそわれかけたこともあるのでサルがこわいの
(古めかしい世界。白いサリーのディボーティー・ルックの人)プジャのあとものすごく久しぶりにプラサードをもらった。コロナ状況が落ち着いてプラサードを再開したんだ。プラサードは小さな入れ物のミルク・ライスと揚げたスナックだが美味しかった。プラサードを通じてラマナのブレッシングを感じた。😇🕉
質問者ヴィチャーラ(真我探究)のためにはひとりになることが必要なのでしょうか?マハルシ孤独はいたるところに在る。個人はつねにひとり在る。あなたはそれをあなたの外側にではなく、内側に見いださなければならない。ひとり在ることは、人の心のなかに在る。世間の雑踏のなかに在りながら、人は静寂な心を保っているかもしれない。そのような人はただひとり在る。森林深くに暮らしながら、心を制御できない人もいるかもしれない。そのような人はひとり在るとは言えない。
第四回目を迎える「ラマナ・サットサンリアル会」今回は、たた独り(静かに)在ると同行二人は同じというテーマで、11月3日(祝)に開催されます。悟ったと言われる聖者、覚者も色々といますが、ラマナ・マハルシはその中でも非常に評価が高く、私も敬愛しております。そんなラマナ・マハルシの、日本における信奉者の第一人者である、シリウスマハナンディさんと数年前から親しくさせていただいていますが、5月にシリウスさんと一緒に、ラマナサットサンを開催し、好評だったのを受けて今
しょーきんぐ(shoking)ことSHOKOです。お越し頂き、ありがとうございます(´▽`)ノひょんなことからこの過去記事を目にし、読んでみた。今の私に必要な内容だった。過去の私、ありがとう〜!笑この記事は、願望実現という自我の世界に役立つ内容だけど、真我実現への道のりにも役立つ内容かなと思います。もちろん、人それぞれの世界だし、それぞれの段階によっても、感じ方や捉え方は違うと思いますが^_^でも今の私のように、この記事が目に留まり、気になってくださった方々に、少しでもお
20世紀の間違いなく本物の聖者であるラマナ・マハルシ。そのマハルシが主に説いていたのが「真我探究」です。「私は誰か?」と問いつづけることが目的なのではない。「私は誰か?」と尋ねることは、あなたの内面深く、すべての想念の根本である「私」という想念の立ち現れるところに意識を集中させることだ。それがあなたの言う直接的な方法なのである。真我が外面ではなくあなたの内面にあるため、あなたは外側に出ていくのではなく、内側へと潜っていくように求められる。あなた自身に向かうこと以上に簡単なことが
全託すなわち神にすべてを明け渡すという道は神を信愛する道(バクティ)の頂点に位置しています。そして本当にこの言葉ほど理解に苦しむものはないように思います。ラマナ・マハルシ師匠は『もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令です。神をあなたにしたがわせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできません。神は何が最善で、いつ、どのようにするべきかを知っています。彼にすべてを完全にまかせなさい。重荷は彼のものです。あなたはもはや何の心配もしなく