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新型コロナが流行してから、オンラインを中心に瞑想会やセッションを行なうことが増え、昨年くらいからは対面での瞑想会を行なうこともあります。自分自身の変化と共に、今まで行なってきたことをシェアする機会が増加し、それはとてもありがたいことです。そんな中で旧友のCさんからは「あんたは瞑想会だ、セッションだ、とかやる必要はなくて、ただゆったりと存在しているだけで、周りを癒やしたり、引き上げたりしているの!もっとそのことに気づきなさいよ!」ということを何度も言われてきました。
幸せはあなたが存在する上の権利です心の健康がいかに大切かを理解することも必要です。つまり、幸せを感じることも不幸せを感じることも、成熟した大人になることも未熟なままになることも、すべては心次第なのです。賢くなることも愚かになることも、全てはあなたの心が作り出します。ですから、心について学び、心をコントロールする練習をしましょう。そうすれば、この世界で正しく考え、行動し、成熟した人格になることができます。そして、時間をかけて自分の心と自分自身について理解する
ちょこっと加筆したので再アップ普及会の神観って突っ込みどころ満載なんでつい・・追求してしまうんだけど。スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイントspiritualism.jp2)神は人間をはじめとする被造物を、自らに似せて創造された。そのため被造物は、神と同じ要素を有している4)神は人間にとって「霊的な親」である人間と、それ以外の被造物を同一にしてるゾォ・・(論点に気づいてなくあくまで、神を白いひげのお爺さんのように連想してるうようだ)
ガンジス河のほとりで、あるヨーギ―が何年もの間苦行(タパス)をつづけていた。彼は非常に高度な精神集中を達成し、この集中を延長させていくことこそ解放であるに違いないと信じて、その訓練を続けていたのである。ある日、彼は深い精神集中に入る前に喉の渇きを感じて、弟子のひとりにガンジス河から水を汲んでくるように頼んだ。だが、弟子が水を持って戻ってくる前に、彼はヨーガ・ニドラーに入ってしまい、その状態にとどまったまま果てしない時が流れ、橋の下では限りない量の水が流れていった。そして、この体験から目覚
久しぶりのアルナーチャラへ出発です。アルナーチャラ?ご存知ない方が多いですね、すみません。南インドの聖山の名前です。コロナ前は毎年ツアーをさせていただいていたのですが4年ぶりぐらいなのです。デリーまで10時間の旅成田空港を離陸して30分後ぐらいに富士山が見えます今回は右下でしたが、左の時もあります。日本の山もキレイですね。たぶん中央アルプスです。向こうに御嶽山かな??で、右奥が北アルプスかと・・・思う飛んで2時間後ぐらいに機内食です実はチキンorヴェジ
もう3月になりました。とっても時のスピードが速いです。仕事や帰ってからも資格勉強・編み物などで目を使いすぎるので目や首や頭が凝り固まってましたが友だちに、リンパケアを紹介してもらい、数日するだけで、ほぐれてきて頭皮もやわらかくなって、びっくり目の疲れもとれて、表情もふんわりすっきり。リンパケア、続けていきたいと思いますそして、ホポノポノする中で、現実も、ふんわり、かわいいお花が咲くような景色に変わっていっています。とても素敵な
先日Hiromiさんにオンライン個人セッションを行ないました。Hiromiさんは長年にわたり、意識の探検、探求をされてきており、内省がしっかりとできている方です。そして呼吸を中心としたブレスワークをずっとシェアされており、私も一度体験しましたが、意識の深みへ到達し、非常に優れたワークでした。そんなHiromiさんなので、こちらがシェアしたいことが、スムースに伝わっていきました。まずはシンギングボウルの倍音を感じて瞑想していただきましたが、
|Blog|NEWSLETTER|LINE|Insta|ブログ更新しました!ラマナマハルシのアシュラムで瞑想体験“私と他人”という分離を超える愛|anjulabo今回は私がインドの聖者ラマナマハルシのアシュラムで瞑想をしていた時に深く感じたことや映像をもとに気づきを書いてみたいと思います。私たち人間は目の前の人を『他人』と『私』という「全く別の存在」という意識で分けて考えているはず。その"全く別モノ"という他人との境界線によって、私たちには色んな感情が生じるのです。だからこそ私
始めての「呼吸の教室」好評を頂いたようで、次回は、3/2(土)に行う事になりましたご参加下さった皆さんありがとうございますヨガと銘打たなかったおかげで、瞑想に興味がある方の方が多かったようです呼吸ベースのクラスをする時に始めに私の腰や背中を触って貰うのですが、そこまで呼吸で動かせる人というのが、意識した事がないからか、殆どいないです他のクラス時に判ったことですが、私よりよっぽど難しいポーズを難なくこなす人が、腰や背中が呼吸で全く動かなかったりするので、ヨガのアドバンスポーズとされているも
昨晩のYouTubeライブ…私は岐阜で、ある満月の儀式に参加し、それが終わるのが19時40分くらい…すぐに自動車に移動して、車内から妻が操作するYouTubeライブに出演するはずが…一応万全?の手配と準備をしていたはずが…インドの写真も用意していたのだが…上手く繋がらない…何をやってもダメ!原因不明…。私ども夫婦のYouTubeライブは、ライブ視聴者がこれまでは数人だったのですが、昨晩はどうだったんでしょうか?もしも見に来て頂いていた方がいらっしゃいましたら…この場を借りて、
昨晩1月25日に開催予定だったYoutubeライブ…配信の設定のトラブルにより…ライブ配信ができませんでした…この場を借りて深くお詫び申し上げます(;∀;)『仕事でも観光でもないインド旅』クライシス(危機)時代の乗り越え方020~仕事でも観光でもないインド旅~1月19日にアップした下記動画の再生回数…なんと…2400回突破\(^o^)/それで…というわけではないのですが(笑)赤松先生への感謝の意を込めて…文字起こししました\(^o^)/ご関心のある方のみ、ご笑覧くださ
ようやく…と言うかやっと…と言うか、全く期待していなかったのですが…ここに今いることに運命的な何かを感じている井上祐宏であります\(^o^)/※今日のブログはほとんど独り言なので、読むのは時間の無駄かも…一昨日、1月15日はアルナチャラの色んな瞑想場(この山には50くらいあるみたい)のいくつかを廻る機会を得ました。その様子は別の機会に記すとして…実は、インドでzoomで新規事業に関する打ち合わせやら、ある会社の新入社員候補者の面接やらで、日本にいるときより仕事充実しているんです(笑
ラマナ・マハルシというインドの覚者が住んだインドのティルバンナマライという町にいる井上祐宏であります\(^o^)/1月12日に聖なる山アルナチャラの周囲を廻った私は、翌日、午後1時くらいから、ラマナ・マハルシのアシュラムの裏手から、アルナチャラを上り始めました。と言っても山頂まで行くのには遅すぎるだろうと思い、中腹の瞑想ルーム?までくらいを散歩気分で歩いてみたのです。山道は結構きちんと整備されていて、上りは裸足でも全然登れます。ティルバンナマライの巨大寺院が眼下に広がります!小一時間
インドのティルバンナマライという町にいる井上祐宏であります\(^o^)/ここに着いたのが10日の早朝そして12日は、実は朝から聖なる山アルナチャラを一周してきました。約14キロを約三時間で廻ったのですが、それはこの記事を読んだから…さらに…下記ページの翻訳を読むと、アルナチャラの周りを歩くことをしない選択が無くなりました(笑)WalkingAroundtheHill(丘のまわりを歩く)アルナーチャラヒルは、多くの場所から明確に定義された山頂を持つ単一の山のように見えます。同
不思議な時空が開けたあの御射社神社三社巡り…あの余韻が響き渡っている井上祐宏です\(^o^)/そして…今、私、インドにいます(笑)昨年の8月頃から予定していました…実は…私が20歳になる24日前に父が急死したのですが、それから数週間はずっと「人は死ぬんだ…いつでも、次の瞬間でも…」という真実が私の中で広がり、とてもとても静かな感覚の中にいたのです。そして大勢堂書店という東京で当時一番大きな本屋と言われていた書店の棚で見つけたのが、いや遭遇したのが「ラマナ・マハリシの教え」
新年明けましておめでとうございます🎍すべての皆様にとって、そして私にとって、最幸の1年になることを心より感謝申し上げます。ありがとうございます✨一年の始まりに、この大切な大切な言葉と写真を、皆さまにもシェアさせていただきます。神の意志にゆだねてただ静かにしていなさい。後は私にまかせなさい。ラマナ・マハルシさんのこの言葉の深さを今やっと理解したように思います。この言葉が私に真理の道を歩ませてくれ私を真我へと導いてくれるそんなふうに感じています。この偉大なる言葉こ
神戸で行っている研究会、今回で74回、10周年が過ぎた。左が、柳田侃先生のご著書『ラマナ・マハルシの言葉』(ThecollectedWorksofRamanaMaharsi:editedbyArtherOsborneから、第1部の翻訳)ギーターは省略。右が、拙著『ラマナ・マハルシの思想』。マハルシ自筆による、「私とは誰か?(コーハムकोऽहम्)」のサンスクリット語原文、タミル語→サンスクリット語訳の「サット・ダルシャナ」と「ウパデーシャ・サーラ
これはCさんと一緒にオンラインで瞑想した時のことです。Cさんが瞑想に真剣に取り組むようになってから、もう少しで一年が経過しようとしていますが、最近では何か特別な瞑想は行わず、シンプルに「何もせずただ在り、静かにしている」がほとんどです。先日はたまには別のこともしてみようと思い、以前に時々やっていた「私は誰か?」と問いかけることをしてみました。「私は誰か?」の問いかけは、ラマナ・マハルシが最も重要視していたもので、シンプルですが覚醒にも直結するものです。
アーサナとはなにかに対するラマナ・マハルシの回答質問者アーサナ(坐位)とは何でしょうか?それらは必要なのでしょうか?マハルシ多くのアーサナとそれらの効果がヨーガの聖典のなかで述べられている。座はトラの毛皮、干し草など。坐位は蓮華座、半蓮華座など。ただ自己を知るためだけのために、なぜこのようなことが必要なのだろうか?真実は、真我から自我が立ち現れ、それ自身を身体と混同し、世界を実在だと誤解し、そして利己的な慢心から夢中になってアーサナを探し求めるのである。このような人は彼自身がす
この前、他の本をAmazonで見ていてふと目が行って買ってしまいました。ラマナ・マハルシ「真我」真我Amazon(アマゾン)ラマナ・マハルシは本の帯に20世紀最大の覚者と書かれています。説明できるほどよく知らないので知りたい人はウィキペディアを読んでください。ラマナ・マハルシ人が幸福を望むのは、幸福が自分にとって自然なものだからです。自然なものだからこそ、それは獲得されるものではないのです。私たちにできるのは、ただ不幸を取り除こうとすることだけです。
何かがあったから、あるいは自分の望み通りになったから、「嬉しい、幸せ、楽しい」などと条件づけに基づくポジティブな感情は、真の喜びや至福ではない。真の喜びや至福とは、無条件であり、いつも今感じられるものであり、消え去ることはない。そしてそれは、感情ではなく、私そのもの。また、ネガティブだと思う感情は、何かがあったから、誰かに何かをされたから、望まない状況だから、などという条件づけに基づく思考が作る物語によって生まれる。ネガティブな感情が湧いた時、全ての関連づけをやめ、物語に入り込まず(興味
本質の自己である真我そこから生まれた知性そして一人ひとりが生まれる時に与えられた特性や個性とどこからか生まれて来る思考や想念が結びついてさまざまな人間ドラマをこの現象世界に映し出している・・・・・・・・・いま夢中で見ている人間ドラマから視線を外し思考や想念から離れて振り返ってごらん源である真我の方へダイレクトに見ることはできないし頭では理解することができなくても知性はちゃんと感じているだから大丈夫源である真我
先日友人のCさんと一緒に瞑想しましたが、最近は瞑想が上手くできてきていたのが、その時は瞑想に入れず、OSHO好きなCさんのためにOSHOの瞑想カードを用いて瞑想していたのですが、OSHOの色々な瞑想技法の説明があり、それによってかえってマインドが活性化してしまい瞑想にならなかったので、余計なものをそぎ落として本当にシンプルなことをしてみました。ラマナ・マハルシの弟子であるプンジャジの本「覚醒の炎」に「ただ静かにしていなさい」というフレーズがあり、それが深
ここ数日仕事やプライベートで内面を揺さぶられるようなできごとがあり、その時にマインドが動いたりエゴが活性化したりもしますが、ただ静かにしていると波立っていた内面も静まり、それとともにあることを実感します。かつては私も気分が落ち込むとそこから中々回復できませんでしたが、次第にマインドに翻弄されることも少なくなってきました。沈黙の中にとどまると、それが常にあることがわかります。そこで内面にばかり引きこもってしまうと、それは現実逃避となってしまいます。本当にそれはあることを
いらっしゃいませ、マスターの濱田預士之(はまだよしゆき)です。あなたは「今この瞬間も、自分が世界を創っている」と聞いたらどんな感覚を感じますか?実はわたし(たち)は毎瞬、(自分の)世界を創り出しています。ところがわたし(たち)の多くは、全くその自覚がありません。それはそもそも【自分とは本当はなに】で【世界はどんな仕組み】になっているかを、ほとんど全く知らないというところから来ています。そのすべてをここでお伝えすることはできませんが、どのように世界
こんばんは。ブログにお越しいただき、ありがとうございます。先週、朝ドラを見ていて、主人公が「何者かになりたい」と言うセリフ※がありました。※「ほんじゃきー、わしは何者かになりたいがじゃ」と。英語ではbecomesomeoneと言うようです。いい意味で使われます。普通は。ひとかどの人物になる、といったニュアンスです。ドラマでもいい意味で使われています。ところが、スピリチュアルな世界では、価値観が反転します。在家の価値観vs.出家の価値観ともいいますね。・・・
心を探しましょうと書くと誰しも、心は大切なものだものねと思うでしょう。しかし、それは思い違いです。どういうことかというと、今目の前に犬がいるとしましょう。あなたはそれを犬が歩いてる!と認識します。そして、「かわいいな」と思うとします。この「かわいいな」という思考が、心の一つです。実は、この「かわいいな」は、見られています。何から見られているのでしょうか?それは、真我である意識です。犬の姿を認識しているのも意識であり、あなたの思う「かわいいな」を認識しているのも意識です。つまり