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モズ♂読書中の伊藤正德「日本陸軍の最後」(決闘篇)に、「ラバウルを見捨てる」という題名の章がある。本件は過去にも何度か話題にしているのだが、本書に初耳のエピソードがあるので、改めて記事一回分を割こう。著者は昭和十八年(1943年)9月に定められた所謂「絶対国防圏」の構想は、一年遅かったと強調している。前年の後半にはすでにニューギニアでは南海支隊が、ガダルカナルでは第十七軍の陸兵が飢え始めている。兵站線が伸びきっている。守れない。昭和十七年の11月、陸軍の第八
空を愛した男の死闘譜平塚勝手記(絵も)Skylover'sDeathBattleNote1942-1945byHiratsukaMasaruEditedbyHiratsukaShigeru(C)2017-___________________ラバウルに至りて昭和18(1943)年7月濛々(もうもう)たる砂塵(さじん)の蔭(かげ)より現(あらわ)れし鵬翼(ほうよく)は静(しず)かに地を
板の床に天幕の屋根、海岸に仮の幕舎が直ぐに出来た。ドラム缶の風呂も出来た。水筒の水で顔を洗い、鱧磨く。穴を掘っただけの屋の無い便所からは、美しく冴えた月がヤシの木の間から眺められた。毎日、「かんぴょう」と「高野豆腐」が飽きるほど続いた。「これから戦地ではずっとこんな家を建て。こんな生活をするのですか?」と温厚な宮原少佐に尋ねて笑われた。「ここは、戦って命を捨てるところじゃあないか・・・」応召の時、歯の悪いのが一番心配だった。戦地で歯に苦労した話しを今まで色々聞いていた
1995年8月17日、旧参謀本部のあった東京市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で、敗戦時に自決した軍人の慰霊祭が営まれた。瀬島が追悼の言葉を読んだが、ここで瀬島の二期後輩の参謀・晴気誠が自決したのだ。1942年11月、瀬島は南東方面の作戦主任に抜擢された。飢餓の島ガダルカナル奪回の至上命令が30歳の瀬島に下った。1942年9月、作戦課の派遣参謀、山本筑郎がラバウルに降り立った。司令部の参謀長、二見秋三郎によると、米軍に奪われた飛行場を取り戻すため1000人の部隊が上陸したが米軍の猛攻で全滅した。
前回の続き。北方から戻った「摩耶」は、すぐさまラバウルに送られた。南東方面は米軍が戦力を増強しつつ、西から東へと進攻し続け、日本軍は守勢に陥り苦戦を繰り返している。古賀新長官を迎えた連合艦隊がこれを食い止める重責を担っていた。昭和十八年(1943年)の9月にいわゆる絶対国防圏が、この方面を前線に置く形で敷かれることになったが、その前後も相手の勢いは止まらない。8月にソロモンのベララベラ島、9月にはニューギニアのサラモアとフィンシュハーフェン。そして10月27日、米軍は
東京箱根間往復大学駅伝競走予選会の朝。スタート地点の立川駐屯地には入れませんし、わたしの母校もこくらげ姉妹2号の母校もシード権を獲得しているので、結局、日テレで観戦することにしました。悲喜こもごもは毎年のことですが、強豪の順天堂、神大、山梨学院が復活した反面、古豪の法政、明治が出場を逃しました。【箱根予選会】青学大の原晋監督が視察「上から言うつもりはないが、シード校とは力の差があります」-スポーツ報知各校の上位10人の合計タイムで競い、10位以内の大学が箱根駅伝(来年1月2、3日)
拙ブログでは、教科書には取り上げられない優れた軍人を何人も取り上げてきました。上は総理大臣も務めた大将クラスから、下は中尉クラスまで階級は様々ですが、いずれも猛将・智将として名を馳せた方々ばかり。ですが、今回ご紹介するのはちょっと毛色が違うというか、武勇伝ではなくその道徳心溢れる言動で〝聖将〟と謳われた、今村均陸軍大将今日は、この多くの部下に尊敬され慕われただけでなく、占領地の住民や敵国からも高く評価された旧日本軍人の命日にあたります。1886(明治19
奇蹟の中攻隊【4】予科練一期生の生還光人社NF文庫前回のブログ記事は以下の通りです。『奇蹟の中攻隊―予科練一期生の生還』(潮書房光人新社)【3】アメーバブログ記事より『奇蹟の中攻隊―予科練一期生の生還』(潮書房光人新社)【3】アメーバブログ記事『『奇蹟の中攻隊―予科練一期生の生還』(潮書房光人新社)【3】』奇蹟の中攻隊【3】予科練一期生の生還光人社NF文庫前回のブログ記事は以下の通りです。『奇蹟の中攻隊―予科練一期生の生還』(潮書房光人新社)【2】アメーバ…ameb
8月29日金曜日〜その3邦光史郎著『万博気流』を詠む。香港は、世界三大夜景の一つと讃えられ、東洋の蛍籠と称されているほど夜の眺めがすばらしいと著者の邦光史郎さんが書いて居られる。私が香港に滞在したのは、H7年6月16日と17日間の二日間。戦後50年のガダルカナル島とラバウル島での慰問公演を終えて、香港のザ・ペニンシュラホテルへの一泊だけ。かなりの高層階から夜景を撮影したつもりが見当たらず。眺めただけで、カメラのシャッターを切った積りでいるのかも知れませぬ。(写真)パスポート捺された、香港へ
草鹿任一著『ラバウル戦線異状なし現地司令長官の回想』(中公文庫)には、ラバウルから航空隊が去った後、残された将兵達がどのように暮らし、戦い続けたかが詳細に書かれていて、「それからのラバウル」がわかる興味深い本です。その本の中にラバウルの夜の茶会の話がありまして、心が揺さぶられるものがあります。ラバウルの第8潜水基地隊の一隅に瀟洒な茶室があったそうです。第8潜水艦基地隊司令の牧兼幸大佐が作ったもので、いろいろな集まりに利用していたそう。牧大佐は「風流司令」と呼ばれていたそうです。草加
戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ戦時資料展2025アクロス福岡8/11~8/15この4~5年は毎年のように県の戦時資料展に足を運んでいる。その都度、現在の平和は先の大戦で亡くなった多くの英霊の想いによって成り立っていることを痛感する。悲惨な戦争と平和への想いを、子供達や孫たちに伝えて行かなくていけない。資料展の展示から幾つかを紹介したい。写真の一部は資料展からお借りしてます。■千人針寄贈:和田紀考様・中嶋利勝様↑「千人針」とは出征する兵士の家族
私の父(故人)は赤紙が届き戦場に送られました。父が送られた先は南太平洋のラバウル激戦地のひとつとして知られていますあの頃はどこも激戦地だったことでしょう漫画家の水木しげるさんが片腕を失ったのもラバウルでした父の部隊は敵兵を迎え撃つため塹壕に隠れていたそうですそこにアメリカ軍の飛行機が塹壕に沿って一斉射撃し、塹壕にいた兵士は全滅したそうです父は通信兵だったため塹壕から離れた場所にいて生き残ることができました父はマラリアにかかり生死の境を彷徨ったそうです父が復員した
8月15日金曜日〜その8(写真提供・河井琴美さん)私のこれまでの活動の中で思い出しますのは、ガダルカナル島とラバウル島へ戦後50年の時に慰霊の河内音頭を歌いに出かけた事です。あれから30年、遺骨収集もそれほど進んでいないと聞き及びます。今年は戦後80年。遥か南太平洋で戦死された皆様方に捧げる音頭を取りました。
赤トンボは春にもおります。マリアナの戦いで命を落とした三和義勇大佐(当時、第一航空艦隊参謀長)の手記が手元に二つある。もっとも、一方は他方の短縮版であり、後述する原典の後半部分(昭和十六年以降)が「巨星落つ」(副題「山本五十六の思い出」)の名で「完本・太平洋戦争(上)」(文藝春秋編)に収録されている。この手記は以前すでに記事にしているのだが、一点私の事実誤認があって説明不足になっているのと、この縮約版とその原典との関りに触れたいので今回、改めてその最終部分を参照する。山本五十
10月になりました。エンディングが発生しなくて驚いていたので、鏡に映った自分かと思いました。御覧の通り、4カ国しか残っていません。こんなものができたらしいですが、対空と対艦の発射装置って、もう出番ないですよね…空白地帯を占領しながら、豪攻略に向かいます。興味本位で諜報をしてみるといやぁ、初めて見ました。ちゃんと主要国がいない場合も想定してつくってあるのなら、エンディングは迎えられる・・・のかな…ひたすら空白地を占領しながら師団と航空隊を移動させ、10月も、はや22日。ブ
戦争中の超有名戦闘機パイロット樫村寛一(かしむらかんいち)飛曹長(戦死後、少尉)。今では「誰ですか?」って感じだと思いますが。戦争中は日本でこの人を知らない人はいなかったと言われるほど有名だった海軍戦闘機パイロットです。(↑Wikiから写真お借りしています)1937年12月9日、九六式艦上戦闘機(零戦の前の海軍主力戦闘機)に乗って、支那事変を戦い、中国の南昌攻撃の際、敵機と空戦をしている途中で銃弾がきれて、敵機に体当たりして敵機を撃墜したけれど(これが事実か否かは諸説ありますが)、自
今までアメリカ人による対日戦記を3冊紹介している。今回が俺の戦記読書歴で4冊目。とりあえず太平洋の航空戦についての本なら読んでみよう、と購入。書名から日米の名パイロット列伝だと思って読み出したが違った。一方的にアメリカ人パイロットが日本機相手に戦って勝ったはなしばかり。著者は綿密に元パイロットたちに取材し、双方の正式記録を確認した上でウラが取れたものだけを文章化したという。まあ戦線全体でみれば開戦劈頭を除いて総じて一方的にやられるはなしばかりなのは納得づくだったが、それにしてもこんなに
ソロモンに散った海兵六十八期の名物男私が大野竹好(おおのたけよし)中尉のことを知ったのは、豊田穣氏の小説を読んでいて、豊田氏の海軍兵学校同期として、よく登場していたからです。その後、『零戦、かく戦えり!搭乗員たちの証言集』で、大野中尉が残した日記を読んで、すごい名文家だ!と感動したのが、大野中尉に魅かれたきっかけでした。大野中尉、もし戦争を生き抜いていたら、豊田氏よりもすごい作家になることもできたのではないだろうか。艦爆乗りからアメリカ軍の捕虜生活を経て直木賞作家になった豊田穣氏はその生
「ザ・ヒロサワ・シティ」の零戦ラバウルの零戦隊長、宮野善治郎大尉に沼落ちしてから、寝ても覚めてもラバウル航空隊のことを思う毎日の私ですが、まだラバウルに行けていないのです。そう簡単に行ける所ではないですからね・・・。で、せめてラバウルの空を飛んでいた零戦を見たいということで、茨城県筑西市の「ザ・ヒロサワ・シティ」にある「ユメノバ」というテーマパークに行ってきました。ここに、ラバウルから引き揚げられて組み立てられた零戦が展示されているのです。この零戦はラバウル北西のニューブリテン島ラ
[PNG/ラバウル]山本バンカーCentralAvenue,Rabaul,EastNewBritain675,PapuaNewGuineaあまり戦跡に興味が無かった2006年撮影の写真デスラバウル主要部出典:帝国陸海軍現存兵器保有國一覧「ラバウル」日本海軍が使用した航空基地(飛行場・戦闘機用の東飛行場(ラクナイ地区/第1飛行場)・中攻と大型機用の西飛行場(ブナカナウ地区/第2飛行場)・第3飛行場日本陸軍が使用した飛行場・南飛行場(ココポ地区)・北飛行場(
[PNG/ラバウル]東飛行場他RabaulEastNewBritainProvince,PapuaNewGuineaあまり戦跡に興味が無かった2006年撮影の写真デスラバウル主要部出典:帝国陸海軍現存兵器保有國一覧「ラバウル」日本海軍が使用した航空基地(飛行場・戦闘機用の東飛行場(ラクナイ地区/第1飛行場)・中攻と大型機用の西飛行場(ブナカナウ地区/第2飛行場)・第3飛行場日本陸軍が使用した飛行場・南飛行場(ココポ地区)・北飛行場(ケラバット地区)ラバウ
ソロモンでアメリカの反攻が始まるニューギニアのポートモレスビーを攻略(MO作戦)の一環として戦われた昭和17年(1942年)5月の珊瑚海海戦の前に、日本海軍はガダルカナル島の隣のフロリダ諸島にあるツラギ島に水上基地を作って、零式水上偵察機を置いて哨戒・偵察業務にあたりました。ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島のフロリダ諸島は、ほとんど無血で占領できました。日本海軍は陸戦隊という海軍の上陸部隊を置いて守ることにしました。ツラギ島の向かい側に見える、ガダルカナル島のルンガ川河口付近
[PNG/ラバウル]大発格納壕他KaraviVillage,EastNewBritainProvince,PapuaNewGuinea(大発格納壕)あまり戦跡に興味が無かった2006年撮影の写真デスラバウル主要部出典:帝国陸海軍現存兵器保有國一覧「ラバウル」日本海軍が使用した航空基地(飛行場・戦闘機用の東飛行場(ラクナイ地区/第1飛行場)・中攻と大型機用の西飛行場(ブナカナウ地区/第2飛行場)・第3飛行場日本陸軍が使用した飛行場・南飛行場(ココポ地区)・北
ラバウルの貴公子とも呼ばれた笹井中尉宮野善治郎大尉とともに、私を海軍航空隊沼落ちさせたもう一人のニクイ人。それは、笹井醇一(ささいじゅんいち)中尉です。ラバウルで零戦に乗り、勇名を馳せた海軍士官パイロット。別名、ラバウルのリヒトホーフェン。またはラバウルの貴公子。または軍鶏(シャモ)。とにかくですね、すごいハンサムさんです。Wikiの写真見て、私はクラクラしましたね。ミーハーですみません・・・。(↑Wikiよりお借りしてます)笹井中尉のことを書いた本には「紅顔の美青年」
[PNG/ラバウル]ココポ戦争博物館KokopoEastNewBritainProvince,PapuaNewGuineaあまり戦跡に興味が無かった2006年撮影の写真デスラバウル主要部出典:帝国陸海軍現存兵器保有國一覧「ラバウル」ココポ戦争博物館KokopoMuseum(州立)東ニューブリテン州の戦争残置物(ここに集積した)、バイニング族の衣装や祭事用具、先史時代の石器類、その他の歴史的資料も展示されている。私は兵器に詳しくないので、以下、間違いが
はっきりしない宮野大尉の最期宮野大尉の最期をはっきりと目撃した人はいません。でも宮野大尉が「未帰還」となった日、つまり戦死した日ははっきりしています。昭和18年(1943年)6月16日、「セ」作戦、別名ルンガ沖航空戦です。ルンガはガダルカナル島の岬で、「セ」作戦は、繰り返されてきた戦爆連合の攻撃です(戦闘機隊+艦爆隊)。ガダルカナル周辺で兵力を増強させているアメリカ軍の艦船や航空隊を叩き、ムンダ基地への敵の上陸を防ぐ目的でした。(この頃は既に日本軍はガダルカナル島から撤収し、ア
[PNG/ラバウル]ラバウル地区(海軍)RabaulEastNewBritainProvince,PapuaNewGuineaあまり戦跡に興味が無かった2006年撮影の写真デスドイツ帝国は明治17年〜大正3年までの間、ニューギニア島北東部とビスマルク諸島を含む周囲の島々をドイツ領ニューギニアDeutsch-Neuguineaとして支配していた。ラバウルRabaul(黄●)は明治43年にドイツ帝国が建設している。大正3年、豪軍は独領ニューギニアを武力占領、ヴェルサイ
東京大空襲も真珠湾攻撃のときも帝国海軍と米軍は内通していた。その際には公共放送を暗号のように使っていたことを前回見ました。『東京大空襲の深すぎる闇④』東京大空襲についての続きです。『東京大空襲の深すぎる闇①』昭和20年3月10日未明、米軍のB-29大編隊が東京の下町を焼夷弾で焼き尽くし10万人以上の犠牲…ameblo.jpその真珠湾攻撃を敢行した山本五十六の最期をめぐって帝国海軍には胡散臭い行動が見られたことに注目してみたいと思います。昭和18年
とにかく太腿の筋肉痛がえぐくて寝られなかったんだよねどうせ寝られないから資料作成にいつもの倍以上の時間を費やしてたさすがに眠くなってきたぞ、、、となってもいざ横になると寝られない眠いはずなのに寝られなくなるってのはきついやっと寝られても眠りが浅いのか、走ってるのにスピードが出なくて全然前に進まない夢にうなされて、目が覚めて起きるとどっと疲れてるし健康のありがたさが身に沁みましたもし僕が心身不健康になって働けなくなったら、我が家はどうなるんだろと考えてしまった
『さらばラバウルよ』から『さらば南洋!』『さらば戦友!』まで。遺骨収集は今も続く……。[2024・11・14木曜日]安斎晃氏の『さらば南洋!さらば戦友!パラオの「墓守」倉田洋二元二等兵』(四月社)を読みました。著者は元読売新聞の写真部記者です。南洋パラオの玉砕戦を辛くも生き延びた元二等兵・倉田洋二さん(1927~2019)に密着取材をしての写真集です。倉田さんは戦前、パラオに移住し職を得ていたのですが、現地召集をされてパラオ戦域にて一兵士として米軍と戦うものの捕