一人の人間のうちに、ラザロと金持ちの両面があるのかも知れません。神様から豊かに受けている部分と、そうでない部分と。豊かに受けている部分は、本来、何らかの形で自分以外の人たちに分かち与えるために与えられている筈です。それを、自分が楽しむためにのみ用いていたなら、私たちはこの金持ちのように「遊び暮らしている」ということになるでしょう(念のために申し上げますが、人は遊んではならない、などということではありません。それは真面目さというよりも自虐的です。人への憎しみが感じられます)。その点で、私にはやはり