ブログ記事128件
〇2024年9月30日、NHK教育テレビで、『木村多江の、いまさらですが…』と言う番組が、午後7時30分から8時まで、放送された。事前の番組案内で、古墳時代とヤマト王権〜埴輪と神話から見る歴史〜と言う番組内容が紹介されていたので、気になって見た。〇『木村多江の、いまさらですが…』と言う番組自体は初見である。インターネット検索したら、次のページがヒットした。木村多江の、いまさらですが…『木村多江の、いまさらですが…』(きむらたえの、いまさらですが)は、NHK教育テレビジョ
今夜(9/30)放送されたEテレの「木村多江のいまさらですが・・」のテーマはヤマト王権と古墳時代。NHKに限らないけど、毎回テレビで古墳時代や邪馬台国をテーマにした番組を視聴したあとは情けない気分になる。限られた放送時間内で視聴者の関心を引くには仕方ないんだろうと思うけど考察内容が杜撰過ぎ古墳時代の年代設定の説明がおおざっぱのまま、卑弥呼や邪馬台国の話題(3世紀)の流れの中に「倭の五王」や馬の飼育(5世紀)などを軽く二百年位の時間経過を曖昧なまま説明している。シシド・カフカさんが
(176)和歌山県那智勝浦南紀唯一の前方後円墳下里古墳下里古墳は「大化の改新」で紀伊国に併合されるまでは熊野国と言われていた紀伊半島南部にある唯一の前方後円墳です。小高い砂丘の上に築造されており、1600年前には近くまで海が迫っていました。全長40m(30歩(ぶ)規格)で、後円部径や前方部幅は、説明書きがないので墳丘推定図から割り出すと、後円部径は約23m、前方部長さ約17m、幅約11.5mで、後円部径の半分が前方部幅ということになり、前方部が細く発達して
みなさん、こんにちは!現在、譽田亜紀子さんの著作『知られざる古墳ライフ』を読んでいるのですが、そこから学んで考えたことを少しだけ紹介しますね。みなさんは、「古墳」と言われたら、どんな形の古墳を思い浮かべますか?おそらく、これじゃないですか?私もこれです。いわゆる「前方後円墳」です。では、日本全国にある古墳のうち、「前方後円墳」は何%あるでしょうか?多いかな?少ないかな?大きいからあんまり作れなかったのでは?小さい前方後円墳もあるから、数はまぁまぁあったんじゃ
2ヶ月前7月7日日曜日橿考研の講演会へ行ってきたんです12時受付開始13時開演12時15分に行くとすでに会場は満席なんと考古学ファンが多いことロビーにイスを並べて聞くことにホケノ山古墳は卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳よりも少し古い位置関係はこんな感じ左下あたりには纒向遺跡が広がる私の師匠は箸墓は台与の墓だと自説を教えてくれましたがそれは置いておきますホケノ山古墳の大きさ、形、埋葬施設や副葬品などから時代や社会を探ります全長80mの前方後円墳で前方部がやや短
ヤマト王権による統一国家の成立https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005120302_00000ヤマト王権による統一国家の成立|10min.ボックス日本史|NHKforSchool各地に生まれたクニが次第に統一されていく様子を中国の史書や日本の遺跡、遺物を通して考える。www2.nhk.or.jp畿内に住む者としてヤマト政権の成立とは何だったのか改めて考えた一週間だった。三輪山から藤原京跡方向を
【國枝浩氏:「倭国」と「日本国」國枝氏は旧・新唐書の中でも、咸亨元年の遣唐使が倭国と日本国の関係について語った記事を重要視している。旧唐書と新唐書では明らかに発言の内容に相違点があるからだ。國枝氏は、使者によって受け答えは異なったものになっていた。「倭国を小国の日本国が併せた(『旧唐書』)」と応える者もいる。あるいは「日本国を倭国が并せた(『新唐書』)」と応える者もいた。もとより、「併せる」、「并せる」というヤマトの使者の言葉は日本国と倭国が別種・別国であることを前提にし
8月17日の今日菊水千鳳さんとメンバーのブログの呼びかけに賛同し、祈りの場所を探していました。地球丸ごと全世界~祈りのシンフォニー∞未来に繋げるTASUKIVol.6〉〈囚われてきた蝦夷の解放を願う祈り〉に参加するためです。大阪に住む私として思い浮かんだ場所は、奈良市の富雄丸山古墳でした。交通の要衝である富雄を押さえていた強い豪族がヤマト王権に反抗し、富雄丸山古墳にその豪族が葬られたと考える研究者もいます。被葬者はヤマト王権内部の人物とは思えない。王権とは距離を置き、敵対していた
💌今年の8月で敗戦亡国以来、満79年となりますが、「いつわりの歴史が国を亡ぼした張本人である!」と言えるのです!歴史を正さなければ、国家民族の真の発展、繁栄はあり得ません!崇神天皇は扶余王イリ(依羅)であり、ヤマト王権は、海外からやってきた征服王朝であり、天照大御神は滅ぼされた瑞穂の国の皇祖神である!と子供たちに教えなければ、我が国の真の再建はあり得ないのです!「真理は汝を自由ならしめん!」(新約聖書)https://note.com/quanro/n/n56246dcf934
前回の続きですが、ちょっと長くなり難しいですが、気合いで繋ぐ。。。今さらですが奥州安倍氏は、安倍の方らしいです。安日彦を祖とするため。後に阿部→阿部比羅夫説。(詳しくはわかりませーん)斗蔵山のこと前回の続きで、補足といいますか、斗蔵山(とくらやま)が、なかなかすごいのです。下から歩いてみたことがあります。空海が出てくるのですね~。青銅製の千手観音像があったそうだ。角田の領地は、「石川氏」蘇我氏と繋がります。「おとくらさん」と呼ばれており、初
3月に放送されたNHKスペシャル『古代史ミステリー』を繰り返し見ています。大王を中心とする有力豪族の連合政権であったヤマト王権について、新しい角度から勉強できました。国際的な外交力や甲冑を量産させる技術力など、私たちの祖先という贔屓目に見ても、驚くばかりです。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)をはじめとした前方後円墳が、今の韓国にもあったなんてビックリしました。前方後円墳の成り立ちや全国への広がりなど、暇を持て余してる私には、とても新鮮な内容でした。ところで私の実家のある
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は幅7~8mの環濠を張り巡らせた弥生時代の巨大環濠集落で、紀元前約3世紀~紀元約3世紀ごろの約700年間、存在しました。大きな建物があったことを表す遺構や、土器をはじめ多くの遺物が出土しています。集落の内部では、石器・木器などの生産や青銅器の鋳造も行われていました。また、広い範囲での物流や人的交流があり、重要な勢力の拠点(ヤマト王権)だと考えられています。二上山(にじょうざん・ふたかみやま)大和国と河内国の国境の山唐古・鍵遺跡は大変広くゆった
『古事記』には「崩年干支」というものがあります。『古事記』は初代神武天皇から第33代推古天皇までの治世について語りますが、天皇が何歳で崩御されたかという「宝算」を記しています。その宝算に注釈として干支が付けられています。それが「崩年干支」です。しかし、すべての天皇の宝算に付けられているわけではなく、第10代崇神天皇から始まり33代推古天皇まで、飛び飛びに15名の天皇についてのみ付けられているのです。この崩年干支は、しばしば倭の五王の比定に関連して引用されます。
大和王権の近くにいた氏族について名前に込められた職掌や地名との関係など文章にムダがないというか最初のうち難しくなかなか読み進めず元に戻ったりしばらく読まなかったりして図書館の返却日をだいぶ過ぎてしまいました備忘録です「古代氏族と社会」鷺盛浩幸塙書店2023.2.25第一部王権および宮、部民第一章丹比宮と橘反正天皇(多遅比王瑞歯別/水歯別命)丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや・現在の柴籬神社/松原市上田)丹比神社(堺市美浜区多
NHKプラス様様。なかなか録画しそびれた番組があるので、助かってます。古代史ミステリー東北古墳調査最前線-東北ココから今、全国で、ヤマト王権の謎を解き明かす発見が相継ぐ。鍵は、大和王権の象徴・前方後円墳。東北でも新発見が。今年1月、人工知能を使った調査で、前方後円墳のある可能性がある古墳を発見。ほとんど前方後円墳が発見されていない北東北もヤマト王権で結びついていたことが明らかに。東北の古墳時代の最新調査研究から、知られざる東北の姿を解き明かす。www.nhk.jp古代
この番組に気がついた時はすでに第1週の卑弥呼の回が終わっていたので、録画したのはこの第2集だけ、しかし、やっと、今週朝の少しの時間で少しずつ視聴していて、4日くらいかけて見終わった。大変に興味深く面白かった。倭の五王というのも初めて知ったし、昔からよく知っている仁徳天皇陵、雄略天皇とか数々の大古墳がこの倭の五王のもの、と言われてるのは知らなかったので。。。。自分は学生時代南大阪の河内方面のとある遺跡発掘事務所でバイトをしていたことがあって、その時にはこの弥生
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
蛇行剣の出土した富雄丸山古墳これだけ貴重なものを副葬される被葬者って誰なんやろう専門的な知識もないので推測もできないので新聞などの記事から引用します位置的にはヤマト王権中枢の天理・桜井と古市古墳群の間にあり大和と河内をつなぐフィクサー的な人物かもしれません造出しの埋葬施設の副葬品を見ると三角縁神獣鏡はヤマト王権から配布されたと思われます鏡や竪櫛は邪を払う意味があるとされ呪術性をもつ特別な巫女の存在を思わせます墳頂部の埋葬施設からは刀剣や石製品などが見つかり
テレビとNHKには失望した(笑)最近NHKスペシャルの邪馬台国と卑弥呼特集と、ヤマト王権と倭の五王の特集を見たが、その内容はまるで義務教育で学んだ内容を再履修させられているかのような内容だった。邪馬台国と卑弥呼特集では、弥生時代の日本が倭国大乱と呼ばれる戦乱となり、それを治めるため各小国連合に女王卑弥呼が祀り上げられ、卑弥呼は日本国内のライバル狗奴国に勝つ為魏に使者を送り親魏倭王の称号と金印を得たと。次回のヤマト王権と倭の五王の特集では、巨大な古墳や鉄製の武具を作れるほど大きな勢力を持ったヤ
「NHKスペシャル古代史ミステリー第2集ヤマト王権空白の世紀」が放送されました。が、私としては物足りない内容です。そう感じた方も多いと思います。最近朝鮮半島でも発掘が進められ、東アジア各地の人骨のゲノム解析も行われるようになりました。昔のというより今の教科書では、『稲作・鉄器・漢字は朝鮮半島から』となっています。この番組もこれが前提でしょう。しかし、ゲノム解析では漢人と倭人との混血が朝鮮民族であり、対馬海峡をはさんで倭人の国々があった、稲作も鉄器も海を越えて倭人が朝鮮半島に伝えた、と
あす3月24日の午後9時から、NHKスペシャル「古代史ミステリーヤマト王権空白の世紀」が放映されます。内容の詳細はわかりませんが、倭の五王(讃・珍・済・興・武)について描かれるようです。そこで、以前に倭の五王についてYouTube動画でシリーズ化していたこともあり、今回それをまとめた動画を作りました。動画本編は私の説が中心となりますので、多くの異論もあると思います。それで、今回動画では冒頭に中国史書に現れる倭の五王の記事や、一般的な解釈をまとめました。その部分を
古代史ミステリー第2集ヤマト王権空白の世紀-NHKスペシャル古代史の謎を解くカギ「空白の4世紀」に何が!?“国宝級の発見”東アジア最大の「蛇行剣」や前例なき「盾形銅鏡」が明かす驚きの技術革新。史上初の統一国家「ヤマト王権」の力の秘密は?韓国で見つかった“謎の前方後円墳”。風雲急を告げる東アジアの動乱。危機に挑む「倭の五王」の秘策は?宿敵・高句麗との激闘の行方は?最新科学や実験でダイナミックな戦略を徹底検証。私たちの国…www.nhk.jp古代史の謎を解くカギ「空白の4世紀」に何が
皆様方こんばんは。今日は富雄丸山古墳の現地見学会でした。昨年と同じくバスで現地まで行ってきました。近鉄学園前駅南口バス停に着くと物っ凄い行列っ!でした。当然1回目のバスに乗れなかったのです…。何か…太川陽介さん&蛭子能収さんのローカル路線バス乗り継ぎの旅みたいになりましたが……決してパチンコ店で休憩とかそんなのではないですから💦💦2台目のバスに乗りまして現地到着。ここからも順番で並びました。その間に富雄茶臼山古墳を撮影~🎵富雄丸山古墳の造りだし部へ。木棺の調
【速報】桜井茶臼山古墳に副葬された銅鏡枚数、国内最多を更新-奈良・桜井|奈良新聞デジタル初期ヤマト政権の王陵とされる、奈良県桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(墳丘長204メートル、3世紀末)で、これまでの国内最多を更新する103枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かり、県立橿原考古学研究所(橿考研)が7日、発表した。www.nara-np.co.jpこれが今回の目玉詳細は記事や桜井茶臼山古墳のHPを見て貰うとして、ざっくりとした趣旨としては「桜井茶臼山
3月17日(日)と24日(日)の2回にわたってNHK総合「古代史ミステリー」で、邪馬台国とヤマト王権をテーマにした番組が放送されるとのこと。17日の第1章では『邪馬台国の謎に迫る』として卑弥呼の波乱の人生をシシド・カフカさんが演じるらしい。24日の第2章は『ヤマト王権空白の世紀』。ネットの記事では、舞台となる邪馬台国をどこにしているのかわからないけど、吉野ケ里や纒向遺跡の最新情報をもとに番組編成されている感じ。楽しみだけど、卑弥呼の宮殿周辺に桃ノ木が植栽されていたりしたらちょ
「土産」と書いて「みやげ」とは普通は読めません。そもそもなぜ、「みやげ」と言うようになったのでしょうか。村上利夫氏の『知ってなるほど語源1000』によれば、土産とは屯倉(みやけ)から産物を国許へ持ち帰ったことからとして、次のように説明しています。●屯倉説地場産業の原型が朝廷の直轄地となった屯倉である。そういう土地から収穫した穀物を貯蔵しておいておく倉のことをいい、屯家から賃金の代償として国許へ持って帰る産物が今日の「みやげ」に変化したという説です。527年(継体21)、ヤマト王
土蜘蛛(つちぐも)上古の日本においてヤマト王権・大王に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。また同様の存在は国栖(くず)八握脛、八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)[1]とも呼ばれる。「つか」は長さを示す単位であり、八束脛はすねが長いという意味である。鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「土蜘蛛」蜘蛛の形状の妖怪として描かれている。近世以後は、蜘蛛のすがたの妖怪であると広くみなされるようになった。土蜘蛛は古代、ヤマト王権側から異族視されていてお
日本へいつ囲碁が伝来したのかは囲碁史において大きなテーマのひとつであり、これまでも吉備真備伝説など様々な説を紹介してきた。近年の研究では、中国南北朝時代の南朝宋の正史『宋書』に登場する「倭の五王」の時代(五世紀)に伝来したという説も有力な説の一つとしてあげられている。【倭の五王の概要】『宋書』倭国伝によると、宋代(420-479)に、倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武が約一世紀にわたり南朝へ使節を派遣し朝貢を行ったとある。邪馬台国以来、いわゆる空白の150年を経て登場した中国での日本の
邪馬台国畿内説がほぼ確定な理由なぜなら言葉の発音的に邪馬台国=ヤマト国卑弥呼=日の巫女=天照大神となるからである。また魏志倭人伝に邪馬台国や卑弥呼が記述されたとする3世紀の中頃には奈良県の纒向という場所に大規模な集落が作られた跡があるからである。また同じく3世紀中頃に築かれた纒向にある日本最初の前方後円墳である箸墓古墳には、天皇ではない皇族の女性である倭迹迹日百襲姫命が埋葬されている。さらに卑弥呼がいたとされる3世紀中頃には日食が起こってたコトが分かってるらしく、それが天照大神の天
佐紀古墳群24(奈良市山陵町)2023年11月9日第一段階の移動すなわち奈良盆地東南部から北部への大王墳移動の背景は、どのように考えられるでしょう。奈良盆地北部への移動以外は東から西へ一直線に進んでいます。現在のところ奈良盆地北部においては弥生時代後期から古墳時代前期前半の集落や古墳分布を見るかぎりは、有力な在地勢力の存在を認めることができないようです。つまり、この段階では奈良盆地北部の大半は未開の原野であったと理解することができそうです。