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マルセル・ジュノー博士〜被爆地に降りた救護医師マルセル・ジュノー博士©ICRC私がこれまで目にしてきたことを、"過去の出来事"として片づけるわけにはいけません。いまだに同じような光景が目の前に広がり、この先はさらに広がっていくでしょう。助けを呼んでいる人たちは数知れず、彼らのその声はあなたに向かっているのです。MarcelJunod『Warriorwithoutweapons』(1982年)InternationalCommitteeofth
2019年4月25日「広島平和記念資料館本館」が、耐震構造も兼ねて、「記憶の博物館」として12年ぶりにリニューアルオープンした(建築は公園全体の設計ともども丹下健三による案:原爆ドーム、慰霊碑、資料館など、モニュメントを一直線上に配置するーがコンペで選ばれた。オープンは1955年)。東館は2014年にリニューアルオープンしていた。このたびガイド向けの研修会があったのでメモる。東館の長いエスカレーターを上がって行くと、まず原爆投下前の、1930年代半ばの広島の写真が並べられている
正田篠枝さんの原爆歌集「さんげ」の中に次の歌がある。生きたさにアメリカ兵に注射薬貰った夢見たと語る眼のうつろ(正田篠枝『さんげ』)正田篠枝さんの父のいとこに当たる正田義男さんは爆心地からわずか360mのところにあった中国憲兵隊司令部の地下室で被爆した。宮島口にあった篠枝さんの父の別宅で至れり尽くせりの看護を受けたものの、やがて髪の毛が抜け、目が見えなくなり、9月3日に息を引きとった。(水田九八二郎『目をあけば修羅―被爆歌人正田篠枝の生涯』未来社1983)死にたくない、どうに
スイス在住ママのお悩み解決パーソナリティー杉野朋子です。マルセル・ジュノー博士の話をスイス人から聞いたので、国際赤十字博物館へ行ってきました。ジュノー博士は、赤十国際委員会の要請を受けて派遣員として戦争地域で活動していた人です。日本では、広島・長崎の原爆投下後、GHQと掛け合い医薬品を提供させました。(赤十字社)(博物館入り口。赤十字と赤新月←イスラム教徒への配慮)『ママが生まれた頃も戦争あった?』博物館には日本語の音声ガイドがあって、息子も堪能でき
前回はこちら広島平和記念資料館の東館の入口です。広島平和記念資料館の南側です。マルセル・ジュノー博士記念碑です。平和記念公園の説明板です。平和の塔です。嵐の中の母子像です。嵐の中の母子像の説明板です。祈りの泉です。平和の像「若葉」です。中島地区の説明板です。その後、県庁前駅からアストラムラインで新白島駅まで乗り、新白島駅から山陽本線・呉線で矢野駅まで乗り、矢野駅の撮影をし、その後、呉線で広島駅まで乗り、広島駅から芸備線で戸坂駅まで乗り、戸坂駅の撮影をしました。その後、西
マルセル・ジュノー博士記念碑建立年月日1979年9月8日所在地・中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)・中区千田町二丁目5番64号(日本赤十字社広島県支部前庭メモリアルパーク)※二ヶ所にあります碑文等の内容はほぼ同じだと思います碑文、追悼歌1945年8月9日赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を調
シトシト、シトシト、雨ですね、東京。思いがけないお休みをいただいた。まあね、私がこういう時にすることといえばね、HDDと向き合うことくらいしか能がないわけで...まあとにかく、自分でも少し呆れるほど、あれもこれもと録画して、途方に暮れる...そんな毎日、先日まで書いていたということもあって、大体今年の初夏から先月末まではとにかく何でも「後回し」にしていた。そんな中、ここ数年気になっているのが、日本人にとっての「戦争」で、夏になるとNHKがいろい