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僕にはフィリピン出身の友人がいます。彼女はフィリピン人の母親と日本人の父親との間に生まれたハーフですが、幼いころ、母方の祖母から聞かされた「マニラ市街戦」の話に衝撃を受け、日本に関心を持つようになったそうです。独学で日本語を学び、日本の大学へ留学、卒業しました。「マニラ市街戦」については僕もある程度知っていましたが、彼女が祖母から聞き、その後、自らも研究したというその内容は、僕の拙い知識をはるかに凌駕する恐ろしいものでした。それでも彼女は、日本が大好きだと言い、日本国籍を取得しま
マニラで激戦が続く2月9日、400人もの女性が連行、監禁され、その中の子どもを含む少なくとも40人が日本軍将兵に強姦されるという「ベイビューホテル事件」が起きた。12日夕方にアメリカ軍の砲撃でホテルが火事になり、それを機に脱出して虐殺を免れたことから多くの証言が残されている。14歳のイギリス人少女によると、まず日本兵が「スペイン人、スペイン人」といいながら女性を連行していったという。そして「日本兵たちは少女の腕をつかまえ部屋から引きずり出していきました。○○は抵抗し床に転がりましたが、
ウクライナのドネツク地域、マリウボリにて小児科病院へのロシア軍による空爆があったと伝えられました。以下、TBSの10日の報道です。産科小児科だという報道もありました。住宅市街地を戦場としつつロシア軍の攻撃が続いていました。ウクライナの国民は、家を焼かれ身寄りの無い老婆が一人逃げまどっていました。そして、これです。自分は、フィリピン・マニラ市街戦や沖縄の住民を殺戮する爆撃や地上戦などの悪しき例から、ウクライナにおいても相当に残虐な殺戮に発展するのではないか・・・と心配していたんですが
フィリピンの歴史を振り返ってみましょう明るい南の国フィリピン。反日感情の無いこの国に対して、日本人は思い違いをしやすいようです。この国の歴史を知らず、いい齢をして「日本がフィリピンをアメリカの植民地支配から解放した」などと馬鹿を言う爺様も少なくありません。一時はWikipediaがそのように改竄されたこともありましたが、第二次大戦では1600万人の国民のうち111万1900人が亡くなり、バターン死の行進で亡くなった2万数千人、そして収容先の(現在は‟CAPASNational
一橋大学の中野聡さんが2007年頃に書いていた論文をWEBアップされているようです。かなり長いですが、もし良ければ、直接にお読み下さい。内容は、タイトルどおり、先の大戦、占領地フィリピンの1945年マニラ市街戦のことです。当時の大日本帝国軍、米軍の動きを追いかけた論文のようです。■マニラ市街戦─その真実と記憶─(Web版)中野聡(一橋大学教員)2016年1月26日全てをここにあげる訳にもいかないので、あんまり知られていない「米軍」がマニラ攻略に臨んだ姿勢の関係を抜粋して
小野景一郎はフィリピン、ルソン島で34歳にして戦死している。NHKアナウンサー・小野文恵の祖父である。孫・文恵にとっては会ったことのない人であるが、母と娘の2人は景一郎が戦った戦場を探る旅に出た。これはその足跡をたどる番組である。戦死した日付は1945年6月20日(国の死亡告知書)と8月20日(広島県死亡連名簿)の2種類の資料がありはっきりしていない。同じ部隊の下士官の日記が残されている。その中に書かれている場所をたどっていくことにする。1944年6月5日、マニラに上陸。日本の占領下に
今年、2018年は、戦後73年目。敗戦の日8月15日の前にあげていた話題に、多少てを加えたものを再掲させていただきます。この後、ご存知のNHKスペシャル「亡き祖父の戦場」という小野文恵アナウンサーによる祖父を追いかけていくお話がありました。※そちらもご覧いただけると有り難いです。クリックしますと飛びます。その番組も見ましたが、生々しい元将兵証言という意味では、やはり、こちらの方がストレートです。あわせてどちらもご覧になると、理解が深まるんだろうと思います。改めて、アジア太平洋戦争の中で
今年、2018年は、戦後73年目。まもなく、敗戦の日8月15日がやってきます。改めて、アジア太平洋戦争の中で、大日本帝国軍の将兵はどう生きたのかに着目したいと存じます。こちらは、南方戦線のフィリピンです。「フィリピン絶望の市街戦~マニラ海軍防衛隊~NHK証言記録兵士たちの戦場」というNHK特集番組。Dailymotion約42分43秒です。滅茶苦茶。作戦もへったくれもありません。「八紘一宇の名の下に(新)」シリーズは、現地住民からの眼、住民証言から等身大の悲惨さを紹介していた
八紘一宇の名の下に(新)06「マニラ市街戦」その1-1.林博史さん2012年1月論文に続きます。ここから下は、第14軍将兵が女性達をどのように集め、ベィビューホテルに監禁し、またはコーヒースポットなどに監禁したか、その状況と日々の経過が述べられています。強姦将兵部隊は、対米侵攻戦闘に出かけるため、監禁はそれほど長く保てなかったようです。2月12日ベィビューホテルが火災となった以降は、強姦された女性達が逃げるのを認めた将兵も出ていたことも分かります。監禁された女性達の中の年配者が若い女性を
八紘一宇の名のもとに(新)05の続きです。「05」において、マニラメモマーレの追悼・記念式典と日本の当時の山崎大使からの謝罪や比大使の涙のことなどをあげました。それでは、どういう一般住民虐殺や集団強姦が1945年2月~3月のマニラ市街戦において大日本帝国第14軍により実行されていたのか・・・。概要を辿る意味で、まず下の林博史さんの掘り起こし研究論文を「その1.」としてアップいたします。研究論文にマニラの都心部地名が色々と出てきますが、記録動画Liberation:Battleof
「米国にさよなら」フィリピン大統領、中国への傾斜鮮明にAFP=時事10月20日(木)10時58分配信【AFP=時事】フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(RodrigoDuterte)大統領は19日、訪問先の北京(Beijing)で行ったスピーチで、同盟国である米国に「さよならを言う時が来た」と述べた。大統領はフィリピンの同盟関係の再構築に乗り出している。ドゥテルテ大統領は4日間の日程で中国を訪問しており、米国から中国の勢力圏に傾斜する同氏の立場が裏付けられるとみられている。20日に