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1945年9月2日アメリカの戦艦ミズーリ号上で、聯合国側代表マッカーサー元帥と日本政府代表重光葵外相が日本の降伏文書に調印しました。連合国側では対日戦勝記念日(VJデー)となってます。このミズーリには2枚の星条旗が飾られてました。1853年の黒船来航時のペリー提督が掲げてた星条旗と真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていたものです。8時40分にマッカーサーは艦に到着、9時開始までの間、何度も洗面所で吐いて落ち着かなかったということです。ミズーリは沖縄作戦時に日本の神風特別攻撃隊に攻撃さ
マッカーサー降りた厚木は座間のそば終戦の日から半月後の8月30日。マッカーサーが、コーンパイプを銜えて厚木飛行場に降り立った日。(今日は何の日から)日米の戦いは、カルタゴとローマのポエニ戦争に例えられる。(森本哲郎より)上野の西郷さんや桂浜の竜馬像よりも、はるかに大きい仁川のマッカーサー像は、ザマの戦いのスピキオか。BC200年頃の地中海の覇権をめぐっての争いは、21世紀になっても海洋資源やらの覇権で繰り返される。
一度でいいから冒険してみたいことある?▼本日限定!ブログスタンプ1945年の今日は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、厚木飛行場に到着した日です。事実上、マッカーサーが日本を支配した日でもあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8830%E6%97%A5
おはよーっす!今朝の津市は晴れ♪朝から強い日差しが照りつけています!午前7時の気温は28.8℃!まだ朝の7時なのにこの気温…(;´Д`A8月も今日と明日のあと2日ですが…夏はまだまだ終わる気配がありませんね…σ(^_^;)さて今日8月30日は『マッカーサー進駐記念日』昭和20年(1945年)の今日連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが神奈川県の厚木飛行場に降り立ちました!日本が終戦を迎えたのが8月15日それからわずか15日後のこと
本日もぉ、やってまいりましたぁ24時間いつでも対応。貴男の貴女のメインバンク。OO金融でございますニャ。ベルさん。ヤミ金ですよねぇ、捕まりますよ。下僕よ!己も今週分の利子いれんかぃニャ私、お金借りました?ミナミの帝王~萬田銀次郎~語録・ワシらの商売は無いっちゅうところから搾り取るんが仕事なんや・汚い銭でも銭は銭や・他人の幸せより今日の利息や・男やったら汗水たらして稼ぐっちゅうこと覚えんかい。・人がゼニを操ったんやない、ゼニが人を操りよったんや・夜逃げ言うん
きょうは8月30日で、私の住む信州の朝の天気は、☔です。天気予報によりますと、前線が北上、湿った空気の影響を受けるが、次第に高気圧に覆われる。信州は、☔で、昼前から☁に。最高気温は、平年並みの、29度前後になりそう。きょう8月30日の気になるニュースです。「マッカーサーが厚木到着」。報道によりますと、今から81年前の1945年8月30日、連合国最高司令官マッカーサー米元帥が、神奈川県の厚木に到着したということです。1945年8月といいますと、日本が戦争に負け、8月15日
今日は「マッカーサー進駐記念日」だそうです。1945年8月30日、連合国日本占領軍最高司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が専用機「バターン号」で厚木飛行場に到着しました。※厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えました。「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数
P.S.ニッポンひとつ、言い忘れていました。日本には、名前だけは知られていて、中身が語られてこなかった話があります。そして、記録には残っているのに、読まれないままの言葉があります。政敵が政敵を悼んだ、国会の追悼演説。議事録から削除された、1万字の演説。国会を黙らせた、無名の参考人の10分間。国境を越えて、日本のために動いた人たち。世界が離れろと言った場所へ…www.youtube.com敵将だけが語り続けたあの三十八分|昭和天皇とマッカーサー1945年9月2
トレッキングは2回目になりました。今日は3年前に登った場所。だから少し安心?最初のレイクオハラここから出発!制限があり、とりあえず抽選で当たりました。ネズミちゃん。何か食べていました。高山植物砂利道もあります。大きな岩があり、氷河に運ばれて来た?登りも高い場所まで来ました。ごつごつの石だらけやっとほぼ頂上?素晴らしい山、美しい湖。レイクマッカーサーコース✨吸い込まれるコバルトブルー🩵ガイドさんは若い日本人で、とても親切でした。快晴で素晴らしかった!
前回まで、TBSドラマの「VIVANT」(ヴィヴァン)が巷を賑わせているというお話から、「別班」は実在するのか、と言う話を書きました。ところがこのドラマ、「別班」の存在だけが問題ではありません。劇中に出てくる「テント」と呼ばれるテロ組織にも少し問題があります、と言うところで終わりました。今回はこの「テント」と呼ばれるテロ組織が、どうして注目しているのかについてご説明したいと思います。そもそも、ドラマの中の設定である組織名なんて、仮に何か思うところがあったとして現実世界には何
(PolitécnicoTV,México)8月25日にカントゥリー・ミュージックの女王のドリー・パートンさんがテネシー州のナッシュビルで死去されたそうです(享年80歳)...ドリー・パートンさんの御冥福をお祈り申し上げます。(UNAMTV/EXCELSIOR)Elcountrypierdeaunaleyenda(エル・コントリー・ピエルデ・ア・ウナ・レジェンダ👉️カントゥリーミュージック界はレジェンドを失った)↑スペイン語の新聞の見出し部分の拙訳です…⦿コントリ
2017-6-16以下はWill7月号増刊歴史通が故渡部昇一氏を特集し、永久保存版とした論文集からの続きである。作家・井伏鱒二最大の傑作といわれる作品に『黒い雨』(新潮文庫)があります。「原爆文学」の最高峰に位置づけられ、井伏が文化勲章を受章するきっかけになった作品です。ですがこの『黒い雨』は、重松静馬という人物が書いた『重松日記』の剽窃だったことが、猪瀬直樹氏『ピカレスク』(小学館刊)のなかで暴かれています。それだけでなく、井伏の最初の作品『山椒魚』がロシアの風刺文学作家サルティコフ
以下は前章の続きである。マッカーサー証言をTV放映せよ第三段階としては、そのマッカーサー証言を日本に広く知らしめることです。「梅毒」は長い時間をかければ治るでしょうが、病原菌が脳に到達しないうちに治さなければなりません。ですから、NHKがゴールデンタイムに、「マッカーサー一代記」を製作し放映することを提案したい。マッカーサーは、第一次大戦では数々の戦功を重ね、五十歳で史上最年少で陸軍参謀総長に任命されるなど、目覚しい昇進を遂げました。その後、彼は米極東陸軍司令官として対日戦を指
以下はWill7月号増刊歴史通が故渡部昇一氏を特集し、永久保存版とした論文集からの続きである。作家・井伏鱒二最大の傑作といわれる作品に『黒い雨』(新潮文庫)があります。「原爆文学」の最高峰に位置づけられ、井伏が文化勲章を受章するきっかけになった作品です。ですがこの『黒い雨』は、重松静馬という人物が書いた『重松日記』の剽窃だったことが、猪瀬直樹氏『ピカレスク』(小学館刊)のなかで暴かれています。それだけでなく、井伏の最初の作品『山椒魚』がロシアの風刺文学作家サルティコフ=シチェドリンの『
2017-6-18敵将「マッカーサー証言」は重い渡部昇一上智大学名誉教授「歴史の修正は許さない」だって?いつまで勝者気取りでいるのか。干戈を交えた大将が修正してるじゃないの!第二次政権における安倍総理の大きな特徴の一つは、第一次政権時のスローガンであった「戦後レジームからの脱却」という言葉を使わなくなり、まず、アベノミクスと呼ばれるデフレ克服の経済政策を優先したことである。これは、安倍総理が戦後体制の変革や憲法改正に消極的になったわけではなく、野に下っている問にじっくり考えた結果
2012年アメリカ・日本歴史映画U-next:2026/8/23・ボナー・フェラーズ<GHQ准将>(マシュー・フォックス)・ダグラス・マッカーサー<GHQ最高司令官>(トミー・リー・ジョーンズ)・島田あや<フェラーズの恋人>(初音映莉子)・鹿島<あやの叔父・陸軍大将>(西田敏行)他1945年8月、昭和天皇の玉音放送によって太平洋戦争は終結した。続く8月30日、厚木基地にGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーが到着する。日本占領を進めるうえでGHQが直面した
ダグラス・マッカーサーは日本の戦争は自衛のための戦争だったと証言していました。そもそもいわゆる太平洋戦争なるものはソ連崩壊後の1994年頃から明らかになってきた旧ソ連共産党の機密文書「ヴェノナ文書」からアメリカのルーズヴェルト大統領の取り巻きには約300人もの共産党員がおり日米開戦のきっかけとなる『ハル・ノート』起案者であるD・ホワイトもモスクワから直接指示を受けていたことが判明しています。中立意識の高いアメリ
(『人間革命』第5巻より再編集)67〈戦争と講和〉3解任通告が、トルーマンからマッカーサーに伝えられる前に、ラジオ放送で国連軍最高司令官の解任が発表されたのである。マッカーサーは、ラジオ放送を通じて自分が解任されたことを知った。彼にとっては、屈辱的なことであった。・・・マッカーサーは、複雑な人物であった。理想主義者でもあったが、半面、極めて現実主義的な一面も併せもっていた。有能な軍人ではあったが、同時に野心に満ち
マッカーサーの米上院証言、パール判事とウィロビー少将の言葉から東京裁判の正当性を問い、日本の歴史学者が東京裁判史観を支持した事実を批判する。東京裁判を命じ、遂行した側にいた人物たちからも、その正当性を疑う証言と批判が示されていた。それにもかかわらず、なぜ当時の日本の歴史学者は、こぞって東京裁判史観を支持したのか。2020年8月29日に発信した本稿は、マッカーサー、パール判事、チャールズ・ウィロビー少将の言葉を通して、戦後日本の歴史認識を根底から問い直す。2020-08-29以下は前章の
2639)日本は子分か?無条件降伏鳩山由紀夫氏によると、「総理大臣になるまでは、法案は国会で決まると思っていた。ところが総理大臣なってみれば、重要法案の大半が日米合同委員会で決まるのでびっくりした」◇ミズーリ号1945年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦USSミズーリの甲板で、日本の降伏文書調印式が行われた。日本側は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長、連合国側はマッカーサー最高司令官らが署名し、太平洋戦争(第二次世界大戦)が公式に終結した。ーーーーーーーーーーーーー
東京裁判は本当に法に基づく裁判だったのか。罪刑法定主義、法の不遡及、マッカーサー証言、パール判事とウィロビー少将の言葉から、戦勝国による裁きと戦後日本の東京裁判史観を問い直す。「東京裁判」という言葉を、私たちは当然のように使っている。だが、それは本当に、普遍的な法と公正な手続に基づく「裁判」だったのだろうか。罪刑法定主義も法の不遡及原理も無視されたのであれば、そこで行われたものの本質を、改めて直視しなければならない。マッカーサー、パール判事、そしてGHQのウィロビー少将自身が残した言葉は
(『人間革命』第5巻より再編集)65〈戦争と講和〉1戸田城聖が第二代会長に就任した昭和二十六年五月三日ごろから、日本の運命も、にわかに大きな転換期を迎えることになった。前年の六月二十五日に勃発した朝鮮戦争(韓国戦争)は、十カ月後の、この昭和二十六年四月下旬には膠着状態となり、七月十日には休戦会談が端緒についた。それと並行して、第二次世界大戦の決着ともいうべき対日講和条約は急進展し、九月八日には、遂にサンフ
「嗤うのなら、嗤う方が間違っている」(マッカーサー)今急に憲法の前文を久しぶりに思い出そうと、ネットですぐ出るのでみたとこと、最近の世の中にない理想に溢れていた、非常に感銘を受けてしまいました。ちょっと上げてみますが日本国憲法日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないや
岐阜市と言ったら織田信長でしょう。・JR岐阜駅前には金の信長像・岐阜公園の入り口には弓を引く信長像。・(かつては井の口と呼ばれたこの地に)岐阜と命名した。織田信長のテンコ盛りです。さらに、今じゃおもてなしされた人も現存してないし、そんな資料も(おそらくないだろうに)いろんな方面から無理くりして「信長公のおもてなし」を創出して、その思いが岐阜の街に息づくみたいな展開をかましています。岐阜公園周辺のお土産屋さんには「ルイスフロイス公が織田信長に献上した(と言わ
【序章】「終戦の日」その真相先日8月15日は81回目の終戦記念日であった。毎年この日には戦没者慰霊式典などが行われる。一般に8月15日をもって「終戦した」とされているが実際にはそうでは無い。8月15日はあくまでも玉音放送が流れた日であり、「戦いが終わった日」ではない。ポツダム宣言を受諾し降伏をした後にも進軍してきた国がある。ソビエト連邦である。日ソ中立条約を破棄し、8月18日から21日にかけ千島列島への侵攻を開始し、さらに北海道北東部の占領も計画していたのであった。白旗を上げている艦船に対
帰省旅の2日目の早朝ランは、横浜市の桜木町駅発着の6㎞走(6分41秒/㎞)でした。夜中に降雨があったためか、この日の朝はとても涼しくて走りやすかったです。山下公園を走っている時に、「ホテルニューグランド横浜」が視界に入ってきました。宿泊したことは無いですが、クラシックホテルの代表例としてこれまでも気になっていました。写真の奥に写っている塔は、高さ106mのマリンタワー(1961年建設)です。1927年創業で、本館は渡辺仁氏の設計です。1945年8月の終戦(日本降伏)直後に、連合国軍
序章日本人は、子孫に何を残せるか――このブログを書く理由私は、長い人生の中で、戦争と敗戦、そして占領下の日本を実際に経験してきました。その経験を、これまで十分に語ってきたとは思っていません。しかし、時代が移り、戦争を知らない世代が増えていく中で、「あの時代に日本で何が起きていたのか」「日本人は何を考え、何を失い、そして何を守ろうとしたのか」を、実際に経験した者の一人として残しておくことには意味があるのではないか――そう考えるようになりました。このブログを書こうと思った理由は、そこにあ
白洲次郎(しらすじろう)1902年〈明治35年〉2月17日-1985年〈昭和60年〉11月28日日本の実業家。初代貿易庁長官。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の初代長官に就任後、通商産業省(現経済産業省)を創設した。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。・生い立ち白洲次郎は1902年(明治35年)2月1