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今日のエンタメ歴史ミステリー系囁き女官の館【マザリネット】ルイ14世の初恋相手マリー・マンシーニではでは~
こんにちは。ず~っと、ブログをお休みしていました。ゴメンナサイ。その間に、このブログにも関係する「マリー・マンシーニ」をひとつの核にして、小説を書いていました。このブログは、好きな人物をご紹介するつもりで書いているのですが、史実を調べるうちに、自分が感じることがどんどん深くなって……そこから現代のお話を紡いでしまいました。そして、先月末のこと。やっと、小説の形に完成させたのです。タイトルは……“僕が伯爵と呼ばれる7日の間に”https://novel
さて、アンヌ=マリーの結婚話の前に、大事な事件をご紹介しておかなければなりません。それが、このブログの主人公、マリーの再登場です。やっとデスネ~マザランがコンティ王子に結婚をもちかける1年前の春のこと。フランスのマザランからイタリアに向けて、2通の手紙が、そして少し遅れて1通の手紙が発送されました。最初の2通の手紙は、マザランの父と姉のマルゲリータに宛てたもので、次の手紙は、妹のジェローニマに宛てたもの。その内容は、1647年と同様に、姉と妹それぞ
結婚する気はないが、アンヌ=マリーにソノ気だけは見せるキャンダールと、そのキャンダールに夢中のアンヌ=マリー。この、一向に結婚話に進展しない相思相愛ゲームに業を煮やしたマザランは、コンティ王子、アルマンに目を付け、提案したのです。それは……アンヌ=マリー(16)オランプ(15)マリー(14)※※彼女の登場については別の記事で!の3人の姪の中から、誰かひとり、嫁に選んでちょうだいよ!……というものでした。もちろん、その見返りとして、持参金
永遠のモテ期を続けたいキャンダール公爵に見切りをつけたマザランは、フロンド派の「顔」だったアルマン・ド・ブルボン=コンティ王子ArmanddeBourbon-Conti,princedeContifromWikipediaに、目を向けます。コンティ王子とは、どんな人物なのでしょうか。ブルボン=コンデ家(コンデであって、コンティではない)の次男として生まれたアルマンは、貴族の次男坊の宿命で、聖職者になることが決まっていました。お母さんが絶世
ワタクシ、フロンドの乱は、マザラン本人にとっては「一方的に嫌われてイジメられてる~」という感覚だったんじゃないかと思うんです。フロンド派の大将の多くが王家の親戚。特に、「血の王子」と呼ばれる王子たちは、マザランが「仲良く」したかったV.I.P.ばかり。喧嘩はしたくなかったはず。内乱真っ最中でも、ロール=ヴィットリアをフロンド派のメルキュール公と結婚させましたしね~内乱が終わると、マザラン伯父さんは、またもや縁組みを考え始めます。
10月のパリで勝利を獲ると、ルイ14世はすぐにマザランのもとに使者を送り、ただちに宮廷に戻るように命じました。しかし、以前、早すぎた帰還ゆえに民衆の反発を食らった経験のあるマザランは、慎重策をとって、翌年の2月にようやくパリに入りました。この3カ月の冷却期間が功を奏したのか……1653年2月3日、ルイが用意した美しい宮廷の馬車に、マザランとマザリネットたちが、そしてマザリネットに付き添っていたサヴォア・カリニャンの王女が乗り、パリに入った時には民衆は打っ
どんな時代でもどんな国でも、宮廷という場所では、なんとか王の寵愛を得ようとする者がひきもきらず。王がたとえ幼かろうと、いえ、むしろ、幼いからこそ手なづけやすいだろうとばかりに、誘惑を企む輩が必ずいるのです。ルイ14世がいつから「男」になったのかは定かではありませんが、内乱が勃発する前にはすでに熟女の魔の手が届いていた、と、する説もあります。ただ、成人(13歳)前のルイ自身は、長じてからの絶倫ぶりを想像できないぐらい、年上女性との色ごとにはあまり能動的
マザリネットの一人、ロール=ヴィットリア・ド・マンシーニfromWikipediaと、アンリ4世の孫にしてフロンド派のルイ・ド・ブルボン、メルキュール公爵fromWikipediaとの間に浮かんだ縁談は、宮廷の人々をむちゃくちゃビックリ仰天させ、すぐにヒソヒソ話の対象にされてし
マザランを攻撃する人々は、ネガティブキャンペーンのチラシにマザラン本人だけでなく、罪のないマザリネットたちのこともあげつらいました。そもそも、マザリネットたちの容姿は当時のフランスの美の基準から少しばかり外れていたため、お披露目の頃から戯れ歌の対象になることが多かったのですが、フロンド派の憎しみが加わって、こんな具合に……フクロウの目をして、白くて分厚い皮はキャベツのよう、地獄に落ちた魂の眉、そして煙突みたいな顔の色!……と、ひどい言われよう。
フロンドの乱、というのは、ひとことで表すと、右往左往の内乱でした。乱暴なまでにざっくり説明すると、ポール・ド・ゴンティ(後の“レ枢機卿”)という自己顕示欲に取り憑かれた策謀家が、コンデ一族つまりブルボン家の傍系の人々を煽って、王権奪取を狙わせようとしたもの。けれども、レ枢機卿の狙いは、ルイの王位に反対、というより「マザランの立場につくべきなのは、オレ様だ--ッ!」みたいなものだったようです。しかし、動機が不純だったせいかこのフロンドの乱、敵・味方が何度
マザリネットたちが少年王、ルイ14世にとってごく親しい友人になってからもうすぐ1年が経とうとしていた時、ルイの即位~王太后による摂政、そしてマザランの台頭、という体制に不満を抱えていた人々による、反撃ののろしが上がりました。その後4年以上にわたってフランス全土を揺さぶり続けた内乱、フロンドの乱の、勃発です。
それまでのルイ14世は、大人だけに囲まれた、いびつな環境の中にありました。もちろん、子供が全くいなかったわけではありません。ただ、貴族の中には、ルイと年齢の近い者はほとんどいなかったのです。アンヌ=ドートリッシュは娘(つまり王女)を持つことも望んでいたのですがそれは叶わず、末子フィリップ(ルイにとっては2歳違いの弟)は遊び相手には向かない性格。ルイの周囲の貴族たちの中には、自分の利益のためにルイを手なずけようと企む者、はたまた少年王を自分の色香で虜にし
マザランの3人の姪、ロール=ヴィットリアアンヌ=マリーオランプと、甥のポールは、マザランが用意していた宮廷風の装束を身に付け、集まった宮廷人たちの前にお披露目されました。年端も行かない子供達が、容姿で品定めされた上に、大勢の見知らぬ大人たちの好奇の視線に晒されるなんて…………でも、このお披露目は…実は、子供たちを護るために必要な儀式だったのです。それは、言わば特別パスを持っていることを証明するための、儀式。つまり、時の摂政、王太后アンヌ
マザランが妹たちの子供を政略のコマと考えていたことはあきらかですが、子供たちが無事に宮廷で暮らすためには、まずは王太后に気に入られることが絶対条件。幸い、アンヌ=ドートリッシュは、モットヴィユ夫人の評価は評価として、4人の子供たち、特に、3人の少女たちをたいそう気に入りました。王太后は彼らに“マザリネット”という愛称を授け、宮廷でお披露目をするよう指示します。王太后は、マザラン枢機卿とは少しばかり違う思惑で、この9歳から11歳までの子供たちが必要だ
王太后アンヌ=ドートリッシュより20歳も年下ながら、女王自らが絶大な信頼を寄せ、常に傍らに侍らせていた、フランソワーズ=ベルトー・ド・モットヴィユ夫人。パレ・ロワイアルでマザランを待ち構えていたモットヴィユ夫人の目は、小さな4人の子供を見てキラリと光りました。彼女の関心は、3人の少女に向けられ、美少年のポールのことなど、まったく眼中にありません。このとき、夫人の口からあれこれと具体的な言葉が放たれたかどうか、それはわかりません。ただ、モッドヴィユ夫人が
美女の定義とは絶対的なものではありませんが、17世紀のフランス宮廷には、だいたいこんな基準がありました。1.金髪であること2.青い、優しい目をしていること3.バラ色がかった白い肌をしていること4.適度にふくよかであること1647年9月11日、マザランは、自分と血のつながった姪と甥の4人と、ようやく対面しました。場所は、フォンテーヌブロー。子供たちは、マザランの優しい声とイタリア訛りのフランス語にホッとしますが、マザランの方はと言うと、子供たちを一
親元から引き離した4人の子をマザランはどんなふうに迎えたのでしょうか。実は、4人の子供たちは、伯父さんとすぐには会えませんでした。フランスに入るなり、付き添い人から、「あなた方の名前は、たった今からアンヌ=マリー、ロール=ヴィットリア、ポール、オランプです」と、宣言されてしまいました。「ラウラ=ヴィットリア」は本当のフランス風なら、「ロール=ヴィクトワール」になるはずなのですが、なぜかミドルネームだけ、イタリア語のままでした。「ヴィクトワール(
マリーアの母、ジェローニマ・マンチーニには、ラウラ=マルゲリータ・マルティノッツィという姉がいました。1647年の春、この2人の姉妹のもとにフランスから手紙が届きました。ジェローニマがマリーアを修道院に押し込んだ翌年でした。手紙の差出人は、ジュール・マザラン枢機卿。2人の兄弟は、フランス宮廷で絶大な権威を得つつあったのです。その、大物の兄弟からの手紙に、2人は震えあがります。そこには、極めて丁寧な口調で、こんな内容が書かれていたので