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12月6日~7日は、愛媛県に妻と長男の3人で松山市で1泊する旅行に行って来ました!6日はいつも通り妻の仕事終りを待って午後から出発昼食後、徳島ICから徳島道→松山道を走り、新居浜ICで降りて最初に向かったのはマイントピア別子ですトイレ休憩と道の駅スタンプラリーのつもりで立ち寄ったら、明日はマラソン大会があるみたいで、せっかくの列車のモニュメントの前に案内板が立てられていましたこの日も快晴、最近の旅行は天気に恵まれていますその後向かったのが東洋のマチュピチュ東平ですが、な、なんと、冬季
2025年11月愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。その22.別子銅山です。内宮神社から県道47号を国領川に沿って南下すると右側の川の対岸に道の駅マイントピア別子があります。この辺りは別子銅山の端出場ゾーンと呼ばれるエリアです。この建物に入ってすぐ右にある受付で料金を払います。バスに出発まで少し時間があるので、館内をウロウロし、観光列車の発着場に行くと、ちょうど列車が戻ってきました。道の駅の駐車場を出発した満員のバスにはガイドさんも乗り込み、移動中ほぼずっと解
赤橋から見えた紅葉🍁です。旧端出場水力発電所に向かう途中の公園にて綺麗な紅葉です。旧端出場水力発電所の銀杏と紅葉です。真っ赤綺麗でしたよートロッコ列車を待つ駅の前です。これ、分かります?当時モノですょね!旧端出場水力発電所に駅より向かう際、トロッコ列車から見えてた冬桜です。こちらは、入り口の駐車場付近のものです。こちらが本館内のレストラン🍽️でいただいた、“ししカツカレー”¥1300です。個人的には、おススメ出来ませんでした。残念😢総括して、良かったです。
さて、内観ばかりとなってましたが、外観です。煉瓦造りでハイカラです。建物の裏面です。休憩所より撮影。降りていく際は、こんな感じですが、…実際には、こんな急勾配ですヨ登り上がっての、反対側の側面正面は、こんなに見下ろした所ですよ!こんな階段を降りてったんです!下から見たアングルです。冬は、凍結するようで要注意です!
さぁ、本命です♪水力発電所です!昭和45年(1970)迄、実際に稼働してたものです!たまらん、かっこいい!タービンですよぅ🎶日立製作所MADEこちらは、三菱製天井高いでしょ!門型クレーン🏗️ですよ!誰も居ないので、やたら興奮🤩しながらつい独り言の音量が、大きくなり独占を堪能しました♪
列車を降りて入り口です。坑道には、トイレがありません。駅で済ませておきました。キレイなトイレで安心して利用できます。ちょっとビビる入り口です。幻想的なアレンジもされてます。外の気温が18℃位でしたので、若干、涼しく感じる程度でした。冬は、寒いでしょうネ出口です。鉄格子が、なんか嫌でした。(閉じ込められる感?かな?)橋を渡って駅に戻ります。30分くらいですね綺麗な所でした。
初めての”マインドピア別子”です。自宅より高速利用で約90分。秋を観に来ました♪入館料を払って、始まりです。トロッコ列車が来るまで、ロビーを散策します。これで、子供用ですよ💦でかぃって!さぁ、出発です!ちっちゃくて、レトロな列車ですね乗車時間は、5分程です。到着です。さぁ、散策の始まりです♪
ItwasthenextdayofourfirstyearendpartyatSpaccaNapoliinmycitywith3motorcyclistsfromMatsuyama.Andweenjoyedmotorcyclingtogether.Inthemorning,aftermymorningroutine,wentouttogettogetherattheirhotelat9.Beforeit
11月26日の水曜日、原付2種ツーリングのメンバーよりお誘いを受け、参加して来ました!9月にも一緒に滑床渓谷まで走ったメンバーなので気心の知れた仲間!9月のツーリングの時は125㏄のDT125Rで参加したが、今回は非力なFS-1!50㏄を60㏄にボアアップはしているが、みんなのペースについて行けるかちょっと不安!燃費が悪いので予備の燃料2ℓ、それとパンク修理の工具を積んで出発!天気は曇ってはいるが、雨の心配は無さそう!(雨男はいないので!)今回の集合場所は、東温市のセ
今日は朝から娘と妻の3人でマイントピア別子に砂金堀体験を行って来た。狸金と言うのを探してはいたが全く見つからず水に浮かぶ砂金を取ってきたが砂金が浮いている時が有り???金箔より薄いのではと思うほどです。そして一回では物足りず2回して来ましたが成果のほどは(;∀;)画像は有りません阪神高速から第二神明に入っての最初のSAの紅葉途中で寄った道の駅スキー場がある事にビックリそこで何故か丹波の枝豆を売っていた買う事に道の駅美馬において居た手作りの革製品10万円近くしますこの
対岸からのマイントピア別子赤レンガの建物以前は工場、今は道の駅温泉がある700円裏から見た千寿亭住友の迎賓館からの移築今は時折、お茶会冬桜と観光列車一回り小さい二両目は在りし日の鉱山鉄道の復活版旧端出場水力発電所膨大な電力が必要になり明治45年1912竣工20キロ離れた山向こうから長大なトンネルと長い水路最後は山肌に水圧鉄管で加圧四阪島への海底ケーブルこちらも前代未聞の20キロ別子の山中に五千人に余る人々が生活しその基盤を構築する壮大な計画を実行した先
朝早くから行動別子銅山のあるマイントピア別子へ松山駅で乗った特急はアンパンマン列車可愛いマイントピア別子採鉱本部跡地を利用した鉱山のテーマパークです。ここではトロッコ列車に乗車鉱山の坑道(洞窟)が見れます。当時を再現した人形があるんだけどちょっと怖かった。1人じゃ見れない砂金探しもしたけど思った以上に難しい1番の目的「東平」東洋のマチュピチュ住まいはもちろん、学校もあって銅山関係者とその家族が住んでいた跡地です。ガイドさん付きツアーだったので銅山の歴史が分かっ
こんにちは(*>ω<*)ゞしこちゅう市のお隣だけどしばらく探訪してない別子銅山最近では、今年の春あけぼのつつじをもとめて赤石山系へ登った時牛車道と石ヶ山丈沈砂池を通ったくらいで上部鉄道の石ヶ山丈駅跡にも立ち寄りませんでした『赤石山系アケボノまだかなの巻(4月27日)』2025-08-024月27日の石ヶ山丈駅跡今見返すと、マイントピア別子方面が少し明るくなってる様な気もしないではない(;´∀`)直ぐ近くの石ヶ山丈JCで休憩した
帰りはpart1と同じように牛車道と水管を下った。もう一度六号からの風景を確認したくなり、足を向けた。下から望遠レンズで狙った台座。崖のすぐ下の台座である。石ヶ山丈から数えて4番目の台座であ、Part1の時も今回も行っていない。とうしてスルーをしたのだろう心残りと言えば心残りだ。この台座も行っていない。石ヶ山丈から5番目の台座である。マイントピア別子から見える台座のすぐ上にある。六号から見た風景を確認してみよう。伐採地の最高地点は石ヶ山丈で標高は835m。六号
伐採地の跡地は歩きにくいものです。木の幹の部分は索道によって降ろされて、山肌には残っていない。枝の部分や販売できない部分は、現場に捨てられている。伐採して少し時間が経過しているのか葉などは枯れて土に還りつつある。雨が降らない時間が長く土は乾いてズルズル足を取られる。時間をかけながら台座までたどり着く。時間をかけてたどり着いた台座はやはり何も残っていなかった。最初から期待はしていなかったがもしかして!と思うところもあった。もし山の上で引き返していたら後悔が残った事だ
どうやら、私は夢中になると空腹を忘れるらしい。アドレナリンがそうさせるのだろうか。以前、北アルプスで同じようにエネルギー切れを起こし目が回った経験がある。今日もまた、気づけば12時半。目の前の絶景をおかずにして、お弁当を開くことにした。山では、おにぎりが一番だ。手軽で、ゴミも出ない。下にはマイントピア別子が広がり、駐車場には私の車が見える。最高の景色だ。新居浜の街並みを見渡すと、石ヶ山丈から見るのとは違う視点がある。御代島、四阪島、瀬戸内海の島々、そしてその向こうには中国山地
眼前に広がるのは、かつて巨木がそびえ立っていた場所。伐採によって姿を現した、上から二番目の支柱の台座。台座の上の肝。雑木が刈られております。一部はまだ残っているようです。見上げれば、往時の姿を留めた台座。崩壊することなく、時代を超えてそこに佇んでいる。伐採地を下り始めると、切り倒された木々が横たわり、枝が足元を阻み非常に歩きづらいところもありました。少し下るとかつての牛車道は、面影を変え横たわっていました。牛石垣はそのまま残っております。牛に曳かれた荷車がここ往来していたか
明治三十年代、石ヶ山丈策道場の絵葉書を手に取ってみましょう。そのすぐ下に、索道の支柱が二本、赤い丸を付けてみました。上の支柱は、送り出し口のすぐ下にある。現在の写真では、木々に覆われ、その姿を捉えることはできません。現地に足を運びました。台座の上には木々が鬱蒼と茂り、伐採された形跡はありません。メジャーを持っていなかったため正確な長さは測れませんでしたが、五、六メートルはあったでしょうか。この上に木製の支柱が立っていたのは間違いありません。少し回り込んで下へ降りてみると、往時の石垣が
時刻は11時を回り、惜しみながらも降りる時間だ。最後に、石ヶ山丈索道場からの眺めをもう一度目に焼き付けよう。眼下には新居浜市が広がり、海岸線には住友各社の工場が整然と並ぶ。御代島の向こうには四阪島が浮かび、今日は空気が澄み渡り、遠く中国地方の山並みまでくっきりと見える。伐採された木々の頂上から見渡すと、マイントピアからは見えなかった風景が広がる。石ヶ山丈索道場の石垣も、索道場の石垣も、時を経ても崩れることなくそこにあり、往時の技術の高さに改めて感嘆する。前方に見えるのは索道場の石垣。もう
石ヶ山丈索道の図面は私の手元にはこれ1枚だけです。東平・端出場索道(東端とうたん索道と略す)の図面にかろうじて書き込まれている程度のもので、石ヶ山丈付近までしかない。六号からpart1で探検したあたりまでの情報だ。東端索道は一本の線で示される一方、石ヶ山丈索道は四本の線で描かれている。単式と複式の索道があり、それぞれポスト(支柱)も記されている。図面を拡大すると、打除から六号までは複式索道が6個?、単式索道が3個?(不鮮明で確実ではない)。複式索道の方がポストの数が多いようだ(図面の見える範
「別子鉱山鉄道略史」51ページより石ヶ山丈索道場は停車場の端にある。この場所は尾根になっていて、一番都合の良い場所だったのだろう。石ヶ山丈停車場の役割は、別子銅山で採掘した銅を上部鉄道でここまで運び、下部鉄道にある打除駅まで降ろす中継地点なのです。礦石を運ぶことを考えて計画を立てるならば、上部・下部鉄道を繋ぐ索道場をどこにするかを第一に考え、その場所に停車場を作ったとも考えられる。(下記の図)青い線は石ヶ山丈索道です。この場所に建設しました。石ヶ山丈停車場
水槽もマイントピア別子からは見えない。地形的には見あるはず?石ヶ山上停車場の100mほど下に端出場発電所の水槽がある。標高は734m。水槽の呼び方にも色々あるので紹介する①上部水槽②水槽=住友別子鉱業所・別子銅山産業遺産課③沈砂池④沈殿池などいろいろだ。我々が「沈砂池」と言う表記でホームページに書いていたが吉川氏から「勝手に名前を付けたらいかん!」と叱られた。沈砂池の役目もあったが、水を貯める目的で作られたとの事。(ゴメンナサイ)小野晴昭氏実測による作図●大きさはどのぐ
駅と停車場1936年(昭和11年)の鉄道省の職制改正によって、停車場と駅の呼び分けが明確になりそれまでは停車場と呼んでいたが駅の表示になった。明治26年に上部鉄道と下部鉄道が開通したが上部鉄道は明治44年廃止になる。下部鉄道は昭和11年以降も存続したので惣開駅・星越駅と名前が変わったが、もう廃止していた石ヶ山丈・一本松・角石原の三駅は停車場の呼び名が引続き使われている。(駅とはならなかった)停車場跡は高い敷地石積みと、鉄道設備、打除けへの索道基地遺構が、ほぼ原型を保ち残る。ここ
牛車道が出来たのは明治13年端出場水力発電所は明治44年牛車道の建設の方がはるかに早い。牛車道が廃道になったのは明治27年理由は石ケ山丈一端出場間に索道が完成(明治24年)して役目が終わったとされている。しかし、時代を経て現在、石ヶ山丈付近までの牛車道は林道として活躍している。水管は山の上から垂直に、牛車道は荷車が通る勾配で登る。同じ場所だから水管と牛車道は交差する。いずれも牛車道の下を水管がくぐるようになる。9回も交差している。牛車道と端出場発電水管は立体交差になって
水圧鉄管路、あるいは鉄管水路。私たちは親しみを込めて「水管」と呼んでいる。水力発電所に水を送り込むための、巨大なパイプだ。古写真には、山頂から発電所へと続く鉄管水路の姿が写し出されている。その痕跡が今も残っており、私はそれを辿るように、歩を進める。マイントピア別子の駐車場から見上げれば、赤い線のように水管跡が伸びている。しかし、木々が生い茂り、その姿を直接目にすることは叶わない。赤く丸で囲まれたものは、かつて水管を支えていた台座だ。このあたりでは、水管の直径は760
さて、いよいよ登山のルート選定だ。Part1の続きから頂上を目指すか、それとも石ヶ山上停車場まで登り、伐採地を下るか。本来であれば、Part1の続きから登り始める方が、リスクは少ないはずだ。体力が尽きれば、そこで引き返せば良いのだから。しかし、私は石ヶ山上停車場から伐採地を下る道を選んだ。その理由はただ一つ、「伐採地のてっぺん」をこの目で見たかったからだ。石ヶ山上停車場へのルートも、実は三通り存在する。①東平→一本松→上部鉄道経由:標高差220m、約2時間②魔戸の滝→登山
前回、黄色いエリアを歩いた。今回は、いよいよ左側の赤色エリアへと足を踏み入れる。標高もぐんと上がり、Part1での経験から、その難しさは容易に想像できる。とはいえ、ここは伐採地。プロの職人たちがチェーンソーを手に木を切り倒した場所だ。彼らと私とでは、まるで雲泥の差だろうが、道なき道ではないはずだマイントピア別子の泉寿亭付近からカメラを構えた。視線の先は、まるで天空に続くかのような山の頂。ふと、2009年4月12日、故・小野晴昭氏が「石ヶ山丈はどこか?」というテーマ
マイントピア別子からの風景、最終章。涼しくなってからPart2…などと考えていましたが、いてもたってもいられず、現地探検へと繰り出してしまいました。2025年7月19日、朝7時47分にマイントピア別子を出発し、約9時間後の16時45分に帰還。心残りもありましたが、充実した探検となりました。今回は、単なる風景描写にとどまらず、別子銅山の歴史にも触れながら、より深掘りした内容をお届けしたいと思います。Part1よりも長文になるかもしれませんが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
どこに行こうかとGoogleマップを見ていると気になる文字を発見💡とりあえず西条市に向かいます🚙11号線を東進し別子ラインに進入。道の駅に寄ろうかなと思ったものの駐車場が満杯であきらめました⤵️夏休み最後の日曜日だし仕方ないか…😵💫少し進むとループ橋があり向こう側にはダムの堰堤が見えますいいねえ。こういう構造物は好みです❤️しばら〜く走って別子銅山最後の坑口跡の駐車場でトイレ休憩🚹で、マップで気になっていた文字がこれ↓他人事とは思えません(笑)ただね、新居浜市側で
(´-`).。oO2025.8.2『愛媛県「マイントピア別子」→「東平エリア」』(´-`).。oO2025.8.2『香川県「金刀比羅宮」「ことひら温泉敷島館」』(´-`).。oO2025.8.1『徳島県「奥祖谷二重かずら橋」』(…ameblo.jp続きです…別子での採掘を一貫して行っていたのは住友グループ採掘の為のエネルギーを得るために発電所を作ったり、採掘により傷んだ山を再生するために林業を始めたりと、今も行われている多くの事業の元がこの鉱山にあるそうです発電については、マ