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『ベル・ジャー』著者シルヴィア・プラス翻訳小澤身和子出版晶文社10代でその自意識の強さから性格をこじらせた主人公を描いた小説、という意味でこの作品は女版『ライ麦畑でつかまえて』と呼ばれているようだけれども、決定的に違うのは終わり方。この『ベル・ジャー』では主人公エスターはラストで自分を捕まえることができる。不安定な自我を、なんとか手中に収めることができたのだ、少なくとも一旦は。一方、ホールデンの方は、明確には描かれていないものの、ラストはサナトリウム(
「二代目はクリスチャン」(1985年)井筒和幸監督作品より志穂美悦子と蟹江敬三井筒作品の中では、「晴れ、ときどき殺人」と本作は好みの映画である。志穂美さんには是非とも、セックス&バイオレンスなハードコアフォークシンガー、ピーピーピーの金玉を握りつぶして十字を切っていただきたいところである。魔法のiらんどさん時代に書いた記憶があるのだが、私が青少年の時期の風俗情報で、新宿のほにゃららに志穂美悦子似の接客嬢がいるとあり、私のボルテージは千葉真一のオーバーアクションのごとく昂ったのであった。残念
行路社発行『ベルジャーエフ書作集4創造の意味』より;第5章創造と実在(3)さて、ベルジャーエフの創造論は、いよいよ核心に入っていく;創造的時代は、人間について、世界とその発展について、新たな創造的理論を創り出さねばならない。(p.171)ここで、彼は「新たな」と言っています。つまり、いままでのどこにもなかった「創造的理論」です。ヴェーダにも、イスラムにも、キリスト教にも、仏教その他などなどの、
ベルジャーエフ『創造の意味』(行路社発行)第5章p.158以降;前段において、ベルジャーエフは人間の究極の奥義へと迫る。それは、人間の本性は創造主の似姿であり、すなわち「創造的本性」だと語る。そして、彼は「創造的付加は、創造的自由から生まれる。これは神そのものへの絶対的付加である」と説き進む。その「神そのものへの絶対的付加」とは、人間が神的な生そのものを豊かなものにすることだという。彼は、神と神的なものばかりではなく、人間と人間的なものもまた、絶対的に存在すべきであると説く
ベルジャーエフ『ドストエフスキーの世界観』より;ドストエフスキーの創造は、ディオニュソス的創造である。彼はディオニュソス的なものの元素のなかを動く。ドストエフスキーを深く読むと、われわれの生命のなかにいつも何かが起こる。ドストエフスキーの世界に入ることのできた人は新しい人間となる、そしてその人には存在の他の次元が開かれる。わたしはドストエフスキーの精神の底を究め、彼の世界感の深所を開き、彼の世界観を直観的に再現したいのである。ドストエフスキーにおけるあらゆる観念は
ベルジャーエフ『創造の意味』(行路社発行)第5章から;さて、これまでに述べてきたとおり、人間の世界に「創造」行為が成り立つためには、原初のアダムを超える絶対的人間が誕生していなければならない。なぜなら、原初のアダムの段階では、人間世界にはまだ創造的行為は起こらなかったからである。人はアダムの段階では、創造的行為が起こる前に転落してしまった。創造的行為は神的な行為であって、転落した人間は創造的行為には参加できない。わたしたちが知っている創造とは、実は創造的行為なのではなく、生産であり
『ベルジャーエフ著作集第4巻:創造の意味』(行路社発行)より「第4章:創造と認識論」ここでの問題、創造と認識との関係を理解することは、そう難しいことではないと思われるので、テキストの引用を中心にしてエッセンスを捉えていきたい。(テキスト)p.136創造的行為は直接的に実在の内にある。それは実在の力の自己開示である。これは当たり前のことでありながら、大変重要である。創造運動は直接に実在の内にあって、実在そのものの自己開示だというのである。創造は実在の自己開示で
*ベルジャーエフのテキストとして使用するのは、行路社刊『ベルジャーエフ著作集第4巻創造の意味』青山太郎訳からです。創造と贖(あがな)い(「意識の変容」から「存在の変容」へ)(テキスト)p.112“世界史の新たな時代に生きる人間の宗教意識にとって、出口は1つしかない。すなわち、新約のキリスト教が完全にして最終的な宗教的真理ではないことを、新たな宗教的真理として意識化することである。新約のキリスト教は贖いの宗教であり、罪からの救いについての福音であり、聖三位一体の第二位
人間の創造的使命の奥義を開示することーーーそれが、新たなわれわれの人間論である。多少言葉のニュアンスが違うかもしれないが、ベルジャーエフがこれまでに語ってきた人間論は、これに尽きるのではなかろうか。そして、それを彼はアンゲルス・シレシウスの言葉を引用して、次のように言う。「“わたし自身が太陽であるべきだ。わたしは自らの光をもって、完き神性の無色の海を彩らねばならぬ。”しかし太陽が人間の内へ帰還するのは、ロゴスたる絶対的人間の、世界への藉身を通してのみである。ロゴスとは、人間と地球
「絶対的人間キリストにおいては、神すら人間にならなければならなかった」、と語るベルジャーエフにおいては、人間論は彼の哲学の中心点である。しかしそれは、「自然内的・世界内的人間論」ではなく、人間の創造的使命についての奥義を開示する「新たなキリスト教的人間論」でなければならない。ここで、彼が言っていることは、キリスト教人間論ではない。それは「新たなキリスト教的人間論」であることに、注目しておかなければならない。「新たなキリスト教的人間論」とは、まだ誰にも開示されていない人間論である。だ
「私の哲学的思惟は学的な形を取らない。私の思惟は推論的な思惟でなく、直観的に生に属するものである。ほかならぬ私の思惟の根底には、霊的経験(spiritualexperience)があるのであり、私の思惟の推進力は自由への情熱である。私は論証的には思惟しない。私は真理に到達するというよりは、むしろ真理から出発するのである。」(*太文字化、および英字記入は管理人による)と、ベルジャーエフは、新ベルジャーエフ著作集第4巻『始源と終末』(行路社刊)序言において語る。「私の思惟の根底に
ニコライ・ベルジャーエフ『始源と終末』ーー終末論的形而上学の試み行路社発行:峠尚武/的場哲朗(共訳)《序》「長い間、私は自分の形而上学上の立場を、全体として叙述しているような本を書きたいと思っていた」、とベルジャーエフは語り出した。そして、その「形而上学」という言葉は、伝統的な意味の言葉としてではなく、むしろドストエフスキーやキルケゴール、ニーチェ、パスカル、ベーメ、聖アウグスチヌスその他の、これらに似通った著述家たちのスピリットに現れて
ーーーーさて、ここから「占星術」とミクロコスモスとの問題を少し取り上げて見いたい。占星術とコスモスとしての人間テキスト(p.69)人間は宇宙の細片・破片ではなく、全き小宇宙であり、大宇宙のすべての質を自らの内に包含しており、自らを大宇宙に刻みつけ、また大宇宙を自らに刻み込む。神秘主義者たちの心理学は、常にコスミックである。例えば、この心理学にとって怒りとは、人間の魂の衝動であるばかりか、コスモスの衝動でもある。神秘主義者たちにあって特徴的なのは、「精神的物質主義」である。人
藤井武(回想)今日は藤井武の命日である。藤井武を知って、この世に生きた意味を知った。この世に生まれた甲斐があった。藤井武こそ、わたしにとって「イエスに似た人格」であった。わたしにとって、7月は生涯の特別な月になった。よろずのものの終りに告げる奥義はついに曙のように立ち現れて成就すべきその時がくる。かつてないほどに高く大きな音を轟かせて第7の天使(みつかい)はラッパを吹く。ああ、これこそは地上で聴くことができる最後
最近体調が著しく良くなく、ほぼ毎日のように各病院や各病科で検査の連続が続いている。夜の時間帯に、身体の内部や外部のあちらこちらから痛みが生じ、日によってその部位が異なっている。今日はこれから、救世軍のブース病院での検査に臨みます。そんなわけで、以下の投稿は過去のものの再掲です。内村鑑三の『求安録』について書きかけている記事もありますが、後日に期したいと思います。*ベルジャーエフ、自伝『わが生涯』への感想から、再掲します;わたしは、人間としてのわたしの生き方はこの生き
(ベルジャーエフ)さらにベルジャーエフは『創造の意味』において述べる;“わたしはほとんどマニ教とも言える二元論を説く。「世界」は悪であり、神により創られたものではなく、そこに神はいない。「世界」は捨て去るべきもの、徹底的に克服すべきもの、焼き尽くすべきものであり、悪に支配された自然である。「世界」からの自由こそが本書(著書『創造の意味』)のパトスである。悪の客観的始原は存在し、これに対しては敢然と戦わねばならない。必然的世界、所与の世界とは、悪に支配された世界である。これに対立する
ベルジャーエフ『創造の意味』より;(テキスト:p.67)「(*人にして神、神にして人である)キリストについての啓示のみが、人間の自己意識の奥義を開示する手がかりを与えてくれる。人間の高次の自己意識は、あらゆる学的認識にとっての絶対的限界である。学が完き権利を持って認識するのは、自然世界の一部分としての人間のみであり、人間の自己意識の二重性において、学は限界に突き当たる。」*「人間の自己意識の二重性」とは、「自らを自然世界の一部分として認識すること」と、「人間がそれ自体として存在し、
***今日もさまざまな予定がいっぱいなため、新しい記事を書く余裕が取れない。以前に書いた記事の再掲で申し訳ないが、掲載しておきます***わたしは、人間としてのわたしの生き方はこの生き方で間違いはない、という「真理」を探求しているので、あまり個人の生活や個人的な問題に関心を持とうとはしない。私的な好みや、個人的な癒着を人生に持ち込むのは、真理探求の邪魔だと思っているからである。そういう意味で、ベルジャーエフの「自伝」以外のすべての日本語に翻訳されている著作は読んで
■4月21日の産経電子版のスクラップ20220421【産経抄】栗林中将とアゾフ大隊.pdfdrive.google.com20220421【朝晴れエッセー】大学ノート.pdfdrive.google.com20220421【阿比留瑠比の極言御免】台湾論考、安倍氏に世界注目.pdfdrive.google.com20220421【宮宅邦彦のWorldWatch】危ういマクロン危ないルペン.pdfdrive.google.com20220421【正論】夫婦別姓=親子
わたしは、人間としてのわたしの生き方はこの生き方で間違いはない、という「真理」を探求しているので、あまり個人の生活や個人的な問題に関心を持とうとはしない。私的な好みや、個人的な癒着を人生に持ち込むのは、真理探求の邪魔だと思っているからである。そういう意味で、ベルジャーエフの「自伝」以外のすべての日本語に翻訳されている著作は読んできたが、自伝『わが生涯』は本棚に並べているだけで、読もうとしたことは1度もなかった。今回、ウイルスによる自粛問題が起こり、時間が普段より
Yahoo!ブログが閉鎖される知らせを受けてから1年、Amebaのブログへ移って5ヶ月が経過しました。早いものです。このブログの目的は、わたし自身の忘備記録ですが、他の人たちのお役に立つ部分もあるのかと思って公開にしています。「ベルジャーエフ」と「藤井武」についての読書記録と、若干の考察が当面の目的で、後はそのつなぎのつもりです。こんなブログですが、フォロワーの方もいらっしゃったりして、感謝です。わたしも、それらの方々のページを、ときに訪問させていただいたりしております。ベル
(※テキストは、ベルジャーエフ創造の意味弁人論の試み青山太郎訳行路社発行による。)第2章人間:ミクロコスモスとマクロコスモス(テキスト:p.68)人間論的哲学が相手どるのは、学的認識(つまり生物学的、心理学的、社会学的認識など)の対象(客体)としての人間事実ではなく、高次の自己意識の主体としての人間事実であり、自然外的・世界外的事実である。それゆえこの哲学は、人間本性を絶対的実在の似姿として、ミクロコスモスとして、実在の至高の中心として認め、・・・・・・。
ベルジャーエフ『創造の意味』ノート/第2章ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(7)-3(※テキストは、ベルジャーエフ創造の意味弁人論の試み青山太郎訳行路社発行による。)第2章人間:ミクロコスモスとマクロコスモス(テキスト:p.66)抗い難い自然環境にあらゆる点で従属する自然の1細片が、敢えて自然に抗して立ち上がり、敢えて自らの権利を主張するに至ったとは、まず考えられない。人間の自然を超えた自己意識は、自然世界によっては説明不可能であり、この世にと
ベルジャーエフ『創造の意味』ノート/第2章ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(7)-2(※テキストは、ベルジャーエフ創造の意味弁人論の試み青山太郎訳行路社発行による。テキストの訳文引用に関しては、行路社様より了承済です)第2章人間:ミクロコスモスとマクロコスモステキスト(p.62~p.63)世界の中心としての人間(人間の特権的意義)人間についての謎を解くことは、同時に実在の謎を解くことでもある、という考えに哲学者たちは絶えず立ち戻ってきた。自分自
現代人間の運命と自由――ベルジャーエフ哲学を中心に(金恩雨[梨花女子大学校師範大学教授])韓国の倫理的危機の克服(金俊燮[ソウル大学校文理科大学教授哲学博士])丁茶山の洙泗学的人間像の問題(李乙浩[全南大学校文理科大学教授])本生経類の生天倫理と菩薩思想(張元圭[東国大学校佛教大学教授])孔子の思想に現れた主体意識の問題――東洋的な理想的人間像の模索のための試図(鄭[「王」に「従」[東国大学校佛教大学教授]]興夫伝の断面――韓国倫理思想史上のその位置(洪以燮[延世大学校文科大学教授]
わたしは人間の生き方、この生き方で間違いはないという「真理」を探求しているので、あまり個人の生活や個人的な問題に関心を持とうとはしない。私的な好みや、個人的な癒着を人生に持ち込むのは、真理探求の邪魔だと思っているからである。そういう意味で、ベルジャーエフの「自伝」以外のすべての日本語に翻訳されている著作は読んできたが、自伝「わが生涯」は本棚に並べているだけで、読もうとしたことは1度もなかった。今回、ウイルスによる自粛問題が起こり、時間が普段よりも取れるようになったため、「自伝を
ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(7)-1(※テキストは、ベルジャーエフ創造の意味弁人論の試み青山太郎訳行路社発行による。)第2章人間:ミクロコスモスとマクロコスモステキスト(p.62~p.63)世界の中心としての人間(人間の特権的意義)人間についての謎を解くことは、同時に実在の謎を解くことでもある、という考えに哲学者たちは絶えず立ち戻ってきた。自分自身を知れ、これにより人は世界を知るであろう、と。人間の深みへの沈潜を欠いた外的な世界認識の試みは、
ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(6)(※テキストは、ベルジャーエフ創造の意味弁人論の試み青山太郎訳行路社発行による。)序章:創造的行為としての「哲学」(3)4.創造的認識行為としての哲学限界と障害を克服していく「創造的認識行為」は、自らの認識行為を確固として信ずる者、分裂を知らぬ完き者によってのみ為され得る。創造的哲学とは独断的哲学であって、批判的ないし懐疑的哲学ではなく、全一的なる哲学であって分裂した哲学ではない。本来の独断的哲学とは
ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(5)(※テキストは、ベルジャーエフ創造の意味弁人論の試み青山太郎訳行路社発行による。)序章:創造的行為としての「哲学」(2)3.「哲学」とは?何よりもまず、そして如何なる場合にも、哲学は「実在の総体の内なる全般的自己定位」であって、実在の個々の状態における部分的自己定位ではない。哲学が探究するのは究極の真理であって、個々の真理ではない。「哲学」は「ソフィア・智」を愛する。真の哲学の原動力は「ソフィア・智」である