ブログ記事336件
僕は車を買うまで中隊のゲストルームのような階段脇の2人部屋に住んでいた。先住人はクンリッフという飲んべぇのイギリス人で同じ小隊だったが彼はここでの生活はもうすぐおしまいであった。第2外人歩兵連隊から来ていてもう1年の新兵訓練軍曹が終わるところであった。あとは連隊へ帰るのを待っている所だった。下士官宿舎はというと2つあって、一つは連隊が管理している(連隊の敷地内にある外人部隊が所有している)お城の隣(下士官食堂や下士官クラブが入っている)とカステルノダリの街中に2個目があった。僕はすぐに申
3月10日の出来事紀元前241年ローマがカルタゴの艦隊を破り、第一次ポエニ戦争が終結。1016年(長和5年1月29日)三条天皇が譲位し、第68代天皇・後一条天皇が即位。藤原道長が摂政となる。1831年フランス外人部隊創設。1846年(弘化3年2月13日)孝明天皇が第121代天皇に即位。1876年グラハム・ベルが電話による会話に成功。第一声は「ワトソン君、ちょっとこっちに来てくれないか」1902年ボーア戦争:南アフリカのボーア人がイギリス軍に
僕は、同僚のシュミット軍曹とは仲が良かった。仕事以外でもよく一緒にいた。ある日の夜、彼が「明日の週末はアンドーラに行くぞ!」と言った。アンドーラという所はフランスとスペインに挟まれた小国で、税金が安かったので、売っているものや燃料がフランスに比べて安い。第4外人連隊から車で3時間ぐらいだったか???訓練所のある農場の方向へ向かい、ミレポワという街を経由するようであった。国境は山道ですごいカーブの登り道であった。車はシュミット軍曹のフォルクス・ワーゲンのパッサートのステーション・ワゴ
今日は外人部隊のかけ足について話そうかと思う。まず8000TAPという言葉があってフランス軍にいたものには馴染みの言葉である。このTAPという言葉は「TroupeAéroportée」というフランス語の略である。いわゆる「空挺部隊」とでも訳そうか・・・。これはどういう事かと言うと、空挺部隊はパラシュートで地上に着地してからが本領発揮なので、まず着地してからを話そうと思う。まず着地してから、部隊としてまとまってからやっと戦闘能力を発揮できるのだ。その時、着地だけでは無い。装具など持っていち早くま
駐車場にはトラックが待っていた。4日もシャワーを浴びずにいた僕らはひどい匂いを放っていた筈だがその中の1台のトラックGBC8KTのキャビンにシュミット軍曹と乗り込んだ。久々の道路はいい感じがした。何しろ4日間というものは岩だらけの道ばかりであったからだ。直ぐに見たことのある道路に出た。途中で中隊の車列と分かれて僕らは訓練場のある農場へ向かう・・・。農場へ着くと、伍長たちがテキパキと新人たちを整列させたり荷物の下ろしたりと忙しい。僕は僕の荷物を持った兵士と2階の自室へ上がる。荷物を持ってきてくれた
万年雪があった。そこは野営地の側だった。僕は背嚢に入っていた50リッターのゴミ袋を出して万年雪の斜面を駆け上り、そのゴミ袋を尻の下に敷きそりの如くその斜面を滑って降りた。万年雪の中、小隊は「ケピブラン授与式」を行った。これで新兵たちは正式な「外人部隊兵」となったのだ。今日は下り道が多かった。それに、歩いていると、その道の側は川が流れていた。全員の水筒を確認して、「水を汲め!」と命令を出した。もちろん僕もだ。殆ど全員、水筒の水の残りはあまりなかった。その辺は新兵だった。水の配分が分からなかったよ
どうやら「黒い等高線」の部分は抜けたようだ。周りには現在位置より高い部分は無くなった。かなり登った。部下の新兵達もちゃんと僕の後ろをついてきている。それにしてもきつい登り道であった・・・。しっかり歩いた新兵達を褒めてやりたい!それに自分も少しだけ。この日は登り道だけであった。だけれども、民間のハイキングコースであったので、世界になだたる「フランス外人部隊」の新兵達とはいえど、これくらいで根を上げるわけには行かない。それに先頭を歩く僕もそうであった。荷物を下ろしてタバコを吸っていると、シェフ・ア
「スペイン橋」に到着した。近くに原っぱらしきところがあった。牛のフンだらけであった。なんと花粉のないところを見つけて分隊に寝る場所を指示して僕も寝る準備をした。行軍は明日の朝からだ。レーション(携帯食料)の晩飯を食べる。酒もないので、タバコを吸うしかやる事がなかった・・・。翌朝6時過ぎぐらいに起きて大事な水筒の水を沸かしてコーヒーを作った・・・。いよいよ行軍出発だ。他の小隊が先に歩いていた。彼らは僕らの小隊より古株なので、頭にすでに白いケピを被っていたので、一眼でどこを歩い
マーティン・ユベルティ監督による戦争ドラマ映画。出演はトム・ハーディ、ポール・フォックス、ケイト・メイバリー。<あらすじ>イギリス人青年のマニーは、フランス外人部隊に入隊した。他の兵士とともに理不尽な訓練を課せられる。アルジェリアに派遣された彼らは、アルジェリア防衛のための任務に就いた。しかし、アルジェリアで起こっていたことは独立運動だった。フランスの権益のためにアルジェリア人を殺すマニー。協力するアルジェリア人たちの暴力を見過ごすことができず、理不尽な暴力を辞めさせようとするが、フラ
食事の時、中隊長とシェフ・アンドレスの話を聞いていると、近々中隊で行軍するという。その時「君の小隊はそれがケピ・ブランの行軍をやったらいいだろう???」と言う事であった。飯どころではなかったのは僕だけではなかった。シュミット軍曹も心配顔であった。食事が終わり、中隊長とシェフ・アンドレスは日程の話を中隊長と地図を見ながら話を詰めているようであった。中隊長がコーヒーを飲み終えて帰路に着くと、シェフ・アンドレスから説明があった。中隊で行う行軍についてだ。なんでも、7月後半、スペインとの国境付近を歩くら
「冒険を求めて!」フランス外人部隊に憧れた事がある。入っていたら今頃この世には居なかっただろうね(笑)計画を建てただが…叶わなかった度胸がなかったのかな?行っていたらまた違った人生を見ていたかもしれない。多分…人里離れた一軒家(笑)暮らしになっていたと思う。その代わり元フランス外人部隊の方と交流が出来た、夢は見るものだ!夢を見るのも悪くないね!(笑)
農場での新兵訓練は滞り無く進んでいた。たまに中隊長が暇な時間に様子を見に来るのだった。大体昼前で、外人部隊のワインを何本か持ってくるのだった。僕が射撃姿勢について新兵を教えていると、遠くの方に見たことのある奴がいるなぁ・・・と思っていたら、中隊長であったりした。彼の親父さんは正規軍の将軍で、それはそれでいいのだけれど、彼はランドナヴィゲーションは最悪らしかった。得意ではないのだが、そこはサン・シール士官学校出なので、なんとか言い繕っていたらしい。以前の小隊長のポーツェネム曹長の時、中隊で行軍した
ある日の朝、今朝の駆け足は、小隊みんなで走ることになった。シェフ・アンドレスが先頭で他が続いた。僕は下士官なので、どこを走っても良く、駆け足があまり好きではないシュミット軍曹の近くを走っていたが、この日の膝の調子はあまり良くなかったのを覚えている・・・。何キロぐらい走っただろうか???膝が痛みはじ寝たので、シュミット軍曹に「先に農場(訓練場)に帰っているよ!」と伝えて、途中から農場へ引き返した。農場へ着くと、中隊の中尉から電話が来た。「誰か死んだらしいが誰が死んだ???どうなっているの
先月、34年にわたるフランス生活に見切りをつけて、日本へ帰ってきたのだ。膝の手術やリハビリなどで、1年ちょっと日本にいた。その間にフランスのアパートの大家から、家を売りに出すという連絡が来た。僕の部屋は大家の家に接しているので、それ込みで売りに出すようであったので、「3月か、もう少し暖かくなってからフランスに戻ろうか?」という僕にとっては寝耳に水の話であった。また新しく住むところを探さなくては!という状況になったのだ。なので、急いで算段をつけてフランスへ戻ったのは、2023年の2月下旬であった
最初の「行軍」の訓練があった。その日が6キロの距離だと言うのを地図で確認していた。普通の軍隊なら1時間半ぐらいで歩く距離であった。特に軍隊経験のない若者たちの集団である新兵たちなので、あまり無理をさせないようにしていた。人生で初めて半長靴を履くものがほとんどで、小隊長のシェフ・アンドレスは「2時間ぐらいでゆっくり行け!」と言う感じであった・・・。僕は第3分隊であったので、3番目の出発であった。ただ、「民間の土地には入るな!」と言われただけで、普段の駆け足のコースとほとんど変わり
朝は直ぐにやって来た。シェフ・アンドレスが集合の時に少し「訓示」のようなものを話したけれど、あとは3つのグループに分かれて各軍曹達に指揮権は移った。今朝の僕の授業は敵を発見した時のその場所の表示の仕方を教えた。「自分の腕の方向約200メートル、大きな木の右側、指3本分さらに右、分隊規模の敵を発見!」と詳しく簡潔に敵の場所を軍曹に報告しなければならない。ただ新兵である。そんなに直ぐフランス語で言う事なんか出来ない。まずフランス人の新兵に言わせてみる。かなりのフランス人が元正規軍出身でこれは
GITMO、落下傘兵を乗せたフランス軍機を撃墜-realrawnews2023.2.21GITMOShootsDownFrenchMilitaryPlaneCarryingParatroopers|RealRawNewsrealrawnews.comByMichaelBaxter-February21,2023グアンタナモ湾の米軍は月曜日、フランスのA400M軍輸送機が無線連絡に応じずに同湾の防空識別圏(ADIZ)を突破したため撃墜したと、エ
伍長たちとシェフ(上級軍曹)デュミが新兵たちを使って農場(訓練所=フェルム=Ferme)へ向かう準備が整い始めた。僕ら軍曹たちも個人の荷物を作らないといけない。僕は背嚢の他は90リットルの金属製のカンティーン・ボックス(行李)に色々な装備品や小物を詰めたものだけだった。シュミット軍曹に「それだけか???」と言われたけれど、まだ初めてだし、何が必要かはこれからわかって来るだろう。最低限は詰めたつもりであったし、多分大丈夫であろう・・・。そして農場へ出発の日が来た。荷物はトラックに積んで、
小隊に新しく新兵訓練を受けるために20人ほどの新兵がやってきた。まだ面構えは民間人そのままだった。小隊長は、アンドレス上級軍曹で、曹長への昇進リストに載っていた。第2外人落下傘連隊出身で、その後仏領ギアナにある第3外人歩兵連隊に配属になって、そしてこの第4外人連隊へ転属してきていた。そして第4外人連隊では、憲兵隊長をしていた。僕が軍曹訓練コースの時、どこかの中隊の新兵が脱走したので応援の任務を受けて、カステルノダリーの西の大都市ツールーズの駅で見張るように、同僚の軍曹訓練コース生徒の第
新兵訓練軍曹の生活が始まった。だが、まだ訓練する新兵は第4外人連隊へはまだ配属になっていなかった。彼らはまだ第1外人連隊のオバーニュにいるのだ。この中隊とこの小隊は僕が新兵訓練をやった中隊、小隊と同じ第3中隊第2小隊であったので、何か不思議な縁を感じたのを覚えている。まだ3年と少し前の事だ。第2外人歩兵連隊から来ているドイツ人のシュミット軍曹とは仲が合いそうだった。もう一人の第2外人落下傘連隊から来ているトルコ人のチムラン軍曹は、でかい口ばかり聞いて、常に自分が正しく、常に一番だと思っ
第4外人連隊へは、荷物が多いので、アヴィニョンの街まで行ってレンタカーを借りることにした。ちょうどいい車があったので、連隊まで乗って帰った。荷物は100リットルと90リットルのキャンティーンロッカーが2つと背嚢と衣嚢であった。第4外人連隊には日本人で始めて下士官になったサイトウさんがいた。彼は昔第2外人落下傘連隊にいて下士官の間で有名だった。何しろ日本人で唯一の下士官であったし、武勇伝も色々とあった。彼の下士官宿舎の部屋で荷物を預かってもらい、正式の移動になったら引き取るということで話が
なんだかんだで資格は取れただろうと言う事で、ニアス軍曹の運転する彼のBMWに乗せてもらい連隊に帰った。出発したのは金曜日も午後遅い時間で、連隊に着いたのは夜中であった。僕は車を買う金などないし行く場所は彼と同じ連隊なので相乗りということになっただけの話であった。それに電車であの大荷物を持って帰るのも嫌であった。ニアス軍曹としても僕が一応予備の運転手ということで都合が良かったはずである。途中は国道沿いの小さいカフェで休憩とコーヒーを飲んだだけでただひたすら走った。当時はまだ半ドン
フランス外人部隊その実体と兵士たちの横顔(角川新書)Amazon(アマゾン)832円◆野田力『フランス外人部隊。その実体と兵士たちの横顔』を読み解く★要旨・私は二〇〇四年から六年半、フランス外人部隊に所属していました。・そのあいだにコートジボワールやアフガニスタンなどに派遣されています。・戦争が続いていたアフガニスタンでは最前線における作戦行動にも加わりました。個人的にどれほどのことをしたかはともかく、戦争を経験したわけです。・私のように戦地に派遣される場合も
工兵としての資格講習が始まった。正規軍は、上級伍長の階級が多かった。でも僕よりかは経験がありそうな連中が多かった。第17落下傘工兵連隊の連中はカンボジアでの作戦帰りが多くて金回りが良さそうであった。一人などは「次の給料で車を買う!」と言っていたが、その通り次の給料が出ると、早速黄色のアウディで帰って来た。それ以外はとにかく金がなかったので、ビリヤードでエリックという正規軍の軍曹とビリヤードで時間を潰すことが多かった。それもルールを少し変えて、ダイレクトで穴にに入れるのではなく、
「フランス外人部隊」今の世界情勢どうにかならんのかね悪いことしたらガツンとゲンコで頭叩かれたりビンタ喰らったりしたもんだされたもんだそこら中にキチガイがいる世界なんだから相応の覚悟を持たなきゃだめでしょそんなこと思うね
軍曹になると、俄然自分の小隊への教育が中心となる。僕は兵士としての工兵の訓練は受けたけれど、下士官としての工兵の資格はまだ何も持っていなかった。訓練が始まると、自分が何も知らないということを痛感した・・・。工兵の軍曹として、資格が全てであった。この時の小隊長は「トンボラト中尉」と言って下士官上がりの中尉であった。彼は字が下手くそであったので、毎日午後に翌日の訓練内容などの命令書を書くのだが、何を書いているのかさっぱりわからない日が多かった・・・。同僚のイギール軍曹に聞いてもたまに不明な事があった
salut何故、私はここにいるのだろうか?ほんの数か月程前まで日本で何の目的も持たずに自宅と会社を行き来していた日常から全くの別世界にいる自分が今でも信じられない。こんなにも多国籍な同僚たちと一緒にランニング等体力錬成をしている自分は何をしているのだろう?子供の頃からいつも挫折ばかり重ねていた私が人生で初めて腹を括り、覚悟を決めて渡仏しパリにあるフランス外人部隊の募集所の門を叩いてから既に二ヶ月は経過したはずだ。日々初めて経験するようなことばかりの為、日本での過去の日々を振る返
軍曹になって外出すると言っても、新米軍曹なのであまり知り合いはいなかった。なので、この頃は中隊にいる日本人のビトウさんとよく出かけた。と言っても、アヴィニョンにある中華レストランで食事をして飲むぐらいだった。しばらくすると、連隊に日本人が増えてきたようなので、日本人部隊兵で集まって食事会をするようになったのだが、その時いた日本人で第1中隊に「タ○グチ」と言う新兵がいた。同僚のイギール軍曹と昼飯時に下士官食堂へ向かって練兵場を歩いていた時だった。「おい、オイカワ、お前に敬礼しているやつがいるぞ??
外人部隊の新米軍曹当時の1日を振り返ってみようと思う。中隊の軍曹は7時半ぐらいに中隊へ行けば良いのだが、日番軍曹になるとそうもいかない。兵士たちの居室の整理整頓ができているか???割り当てられている掃除場所の掃除はちゃんと出来ているかなど確認しなければいけないのだ。なので朝7時ぐらいには僕は中隊に行っていた。その点検が終わって小隊事務室に戻ると、日番伍長がやってくる。人員報告や兵士の健康状態、何か特別なことがあったらその報告に来る。特に何もなければ中隊集合になる。当時の集合時