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十二月に入ったばかりのニューヨーク。摩天楼の隙間をすり抜ける風は鋭く冷たいのに、テリィとキャンディの暮らすペントハウスには、暖炉に火が入り、ほのかな甘い香りが満ちていた。結婚して初めて迎えるクリスマス。夕食を済ませたあと、キャンディがぽつりと口にした。「ねぇ、テリィ。……ここにツリーを置きたいわ」テリィは片眉を上げ、軽く頷いた。「だって、クリスマスなんだもの。ツリーがないのは寂しいもの」彼女の声は弾んでいて、まるで子どもがお願いをするときのようだった。「そうだな」「本物のもみの木
冬のはじめ。ロンドン・メイフェアの夜は、霧の香を纏って静かに沈んでいた。フィリップ卿の私邸で催された慈善演劇の打ち合わせで出会ったひとりの女性……レディ・アシュフォード。貴族の生まれにして、慈善活動と社交界の中心に立つ女。その微笑は魅了というより、支配の香を放っていた。彼女は、テリィが“断り”を重ねるたびに、より強く彼を求めるようになっていった。招待状は毎週のように届き、花束、舞台への寄付、そして甘やかな言葉。だが、テリィは一度として応じなかった。「舞台は誰のために立つの?」「観
ロンドンの深秋のある夜。テリィは、幼馴染でもあるエドガー侯爵家の長男フィリップ卿の私邸へ招かれていた。彼は幼いころからの数少ない友人のひとりであり、貴族社会のしがらみを嫌いながらも、その地位と教養を活かして文化活動に力を注ぐ人物だった。「君の名は、すでに劇作家や演出家たちの耳にも届いている。ただ、ロンドンの舞台というのは、才能だけでは立てない場所だ。まずは人脈という名の地盤を築くことだよ」そう言って彼は、テリィのために演劇関係者を招いた小規模な晩餐会を企画した。慈善演劇の企画を通してテ
ロンドンの深秋。霧が石畳を包み、街灯の光さえも濡れた空気の中に沈んでいた。馬車の車輪が遠くを通り過ぎ、トラムの鈍い金属音が霧の奥でゆっくりと消える。夜と朝のあわいのような灰色の街を、テリィは歩いていた。オファーがあった劇場とは別の劇団。煤けた壁、湿った木の匂い、出入りする裏方の声はどこの劇団も似ていた。テリィは、一つひとつの扉の前で立ち止まり、深呼吸してからノックをした。「お忙しいところ失礼します。ニューヨークのブロードウェイの舞台に立っていました、俳優のテリュース・グレアムと申します
ポニーの村の小さなホテルを出たのは、翌朝の9時だった。村の空気は透き通っていて、昨日の祝福の名残が、まだどこかに漂っているようだった。「さて、行くか」マイケルが軽く伸びをする。「うん。長旅だからな」ケビンが運転席に乗り込み、エンジンをかけた。車はゆっくりと村を離れ、舗装の甘い田舎道へ滑り出す。ハンドルが少しだけ震えるたび、昨日の笑い声や歌声がふっと蘇る。しばらく沈黙が続き、それを破ったのはマイケルだった。「なぁ、ケビン」「ん?」マイケルは窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
ブロードウェイでの退団の報せは、大西洋を越えてロンドンの演劇界にも届いていた。ストラスフォード劇団の名俳優、“テリュース・グレアム”という名前は、この街でも静かな熱を帯びて囁かれていた。「もし彼がロンドンに来るなら、ぜひ我が劇団へ」そんな声が、水面下でいくつも上がっていた。特に、ストラスフォード劇団と旧知の劇団主宰たちは、テリィ本人の意志を確かめる前から、紹介状や招待の手紙を準備していた。だが、テリィはすぐには動かなかった。ロンドンでの新生活。慣れない街の空気、特に子どもたちの学校や妻
数週間後の午後、テリィは書斎で資料を読みながら、窓の外の庭をちらりと見た。キャンディが花壇にしゃがみ込み、咲きかけのバラをじっと見つめているのが見えた。どこかおかしい。なぜなら、その指先は動かず、ただ茫然と花を見つめているだけだったからだ。胸がざわつく。太陽のような彼女が、今は影のように静かだった。テリィは書類を置き、窓に手をかけた。「……キャンディ?」声はガラスに吸い込まれ、届かない。彼女はゆっくり立ち上がると、庭の端へ歩き始めた。その背中の小ささに、テリィの胸にじわりと冷たい
じつはこの数ヶ月、タウンハウスの裏側では、小さな波紋が何度も広がっていた。ニューヨークで長く自分の手で暮らしてきたキャンディは、ロンドンに来てもつい、洗濯物を庭に干したり、子どもたちの靴を玄関で磨いたり、キッチンで皿洗いを手伝おうと台所に入ったりしてしまう。当人に悪気などない。むしろ、働く人々への敬意と、「一緒に暮らしているのだから、私にもできることを」という思いからくる自然な行動だった。しかし、古参のメイド長ベネットは、何度も胸に手を当てていた。料理人ハドソンも、眉間に皺を寄せることが増
ニューヨークの午後は、白いカーテン越しにやわらかな光が差し込み、家の中にほのかにパンの匂いが漂っていた。キッチンでは、キャンディとマーサが夕食前の下ごしらえをしている。といっても、まな板の上にはまだ野菜が数個。包丁を持ったまま、彼女はそっと手を止めた。なぜなら、リビングのほうから、「好きな料理」についての、ほっこりした声が聞こえてきたからだ。オリヴァーが、椅子に座って足を揺らしながら言う。「ぼくはね、ママの“ミートボールスープ”がだーいすき!」“ミートボールスープ”。キャンディが忙
グランチェスター家の子どもたちが通う聖スティーブンズプレップスクールでは、新入生の母親たちを招いての「親睦ティー」が催される。名目は“教育環境の向上のため”だが、実際には、社交界の婦人たちが、互いの家柄と力量を見極めるための静かな戦場だった。キャンディは招待状を見たとき、ほんの少しだけ迷った。上流階級の習慣にも会話にも、まだ十分慣れてはいない。けれど、息子たちがこの国で育つ以上、母として避けられない場だと思い、参加の返事を出した。◇そして当日。10月のロンドンは薄雲に覆われ、街灯でさえ
九月の別の日。うっすらした霧の向こうで、ロンドンの空はやさしい光を帯びていた。テリィとキャンディ、そして子どもたちの家族四人がタウンハウスから馬車で向かった先に、聖スティーブンズプレップスクールの黒い鉄の校門が見えてくる。門の上の金文字が、秋の風を受けてふわりと揺れた。聖スティーブンズプレップスクールは、古い修道院を思わせる赤レンガの校舎と、ガラス張りの音楽棟が並ぶ新設の名門校だった。教育方針は、ラテン語や古典文学を重んじる一方で、科学・美術・音楽にも力を入れる「古典×現代」の融合型。校
数日前、父のタウンハウス。晩餐の間に入る直前、テリィは一度足を止め、父へ向き直った。煤の匂いがわずかに染みついた廊下に、二人の声が静かに響く。「父上……ひとつ聞きたいことがあります。」公爵は歩みを止め、細い眉をわずかに上げた。「なんだ、テリュース。」テリィは一瞬ためらい、しかしまっすぐに言った。「僕たちのタウンハウスのことです。……本来なら、私自身の稼ぎで用意すべきものでした」キャンディが少し驚いたように彼を見る。テリィは続けた。「子どもたちのためにイギリスへ戻ると決めたのは私で
ニューヨークに着いて2日目の夕暮れのペントハウスに、静かに街のざわめきが降りてくる。大きな窓から差し込む橙の光は、キッチンに立つキャンディの後ろ姿を、柔らかく照らしていた。テリィはソファに腰を下ろし、手には開いたままの台本。だが、実際には一行も読めていない。視線はどうしても、キッチンの彼女に吸い寄せられたままだった。白いエプロンを結び、髪を後ろで束ね、首筋の後れ毛には色香を感じる。思わずテリィの喉が鳴る。そんなテリィのことなどつゆ知らず、キャンディは“トントントン”とリズム良く、慣
夜のロンドン。霧はもう晴れ、窓の外にはオレンジ色の街灯が滲んでいた。公爵家のタウンハウスは静まり返り、暖炉の火だけが廊下に柔らかな光を落としている。あの静かな朝から、半日ほどが過ぎた。エリザベスが心の内を打ち明けたあのあと、キャンディはそっと彼女の手を握り、穏やかに言った。「エリザベスさん。あなたの気持ちは、きっとジョージさんに伝えたほうがいいわ。どんな形でも、言葉にして伝えなければ、誤解だけが積もってしまうの。」エリザベスは目を伏せ、少し震える声で答えた。「……怖いの。彼に“もう疲
翌朝のロンドンは、霧の薄い穏やかな陽射しに包まれていた。グランチェスター家のタウンハウスの庭では、オリヴァーとオスカーが芝の上を駆け回り、遠くで執事が笑いながら見守っている。キャンディはその姿を窓辺から眺めていた。湯気の立つ紅茶のカップを両手で包み、胸の奥に昨日の晩餐の余韻を思い返していた。家族の笑い声、公爵の穏やかな表情。そして、あの夜、ふと見せたエリザベスの影のある微笑。ノックの音がした。「お邪魔してもよろしいかしら?」柔らかな声。ドアの向こうには、淡いラベンダー色のドレスを
九月のロンドンの夜。霧は薄く、街灯の光が金の粒のように瞬いていた。グランチェスター家のタウンハウスでは、晩餐のベルが静かに鳴り響く。長いテーブルには白いクロスが掛けられ、磨かれた銀器と燭台が整然と並び、天井近くの装飾彫刻を淡く照らしている。テリュースとキャンディ、子どもたちのオリヴァーとオスカー、そして公爵とジョージ夫妻、久しぶりに家族が一堂に会する夜だった。「まあ……こんなに賑やかな食卓は久しぶりですわね」ジョージの妻・エリザベスが微笑みながら言った。その声には少しの緊張と、同時
午前8時。とある春の朝。ストラスフォード劇場近くの公園。前回の惨敗から数年後。ケビンとマイケルは黙々とストレッチをしていた。「今日こそ……ついていってみせる」「うん……死ぬ気で……!」そこへ、ランニングウェア姿のテリィが現れた。黒のスポーツジャケットに、軽量シューズ。まるで雑誌のモデルのようにスタイリッシュ。「準備できてるのか?」「お、おう……!」「やるしかない……!」そこへ、「おはよう、みんな!」軽やかで明るい声が飛んできた。キャンディだ。白のジョガーにベージュの
海の色が、夏の青から秋の灰へと変わっていた。大西洋を渡る客船〈マウレタニア号〉は、午前の光のなかでサウサンプトン港へと静かに入港した。船上デッキに立つテリィは、潮風に揺れる帽子を押さえながら、遠くにのびる港の風景を見つめていた。「……イギリスの匂いだ。」その低い声に、隣で手をつないでいたキャンディが微笑んだ。足元ではオリヴァーとオスカーが興奮気味に波止場を覗き込んでいる。ニューヨークから七日間の航海。ようやく辿り着いたのは、かつて少年時代を過ごした国、そして、家族として新たに踏み出
朝の光が、カーテンの隙間から細い糸のように差し込み、その淡い明るさが、そっとまぶたの裏側を撫でた。意識の底に浮かび上がってきたのは、柔らかい布団の温もり、そして、自分の腰にまわされた、しっかりとした腕の重みだった。(……あ。私……テリィの腕の中で……)はっとした瞬間、昨夜のすべてが、濃密な熱を帯びながら一気に胸の奥へ流れ込んでくる。重なった呼吸。深く求め合った口づけ。ベッドへ倒れ込んだときの体温。耳元で揺れた低い声。触れられた場所がどこも熱を持って蘇る。(うわ……思い出すだけで
冬の夜気が窓を揺らす中、アパートの部屋は小さく温かった。ストーブの灯りがゆらゆらと揺れ、壁に影を映す。キャンディは湯上がりで頬がまだ赤く、ハードな仕事で疲れがにじんでいるようだった。「……もう眠っちゃいそう」ベッドに座り込んだ彼女の声は、どこか甘くかすれていた。テリィは台本を置き、その表情に自然と足が動いた。「髪、濡れたままだろ。風邪ひく」タオルを取り、そっと髪を包む。指先が触れるたび、キャンディの肩がわずかに揺れた。(……かわいい)そう思った瞬間、胸の奥に熱が灯る。タオル
《11月28日は、名木田先生のお誕生日です。先生への敬意を込めて、このお話を書きました。》夜更けのペントハウス。結婚して、まだ日も浅い。だけど、この時間の流れは、どれほど味わっても胸の奥がいっぱいになる。キャンディは、隣に眠るテリィの横顔をそっと覗き込んだ。長いまつげ。呼吸の静かなリズム。胸の上下のゆるやかな動き。灯りに照らされたその横顔は、まるで夢の中の人のように見えた。(……本当に、私…)声にならない呟きが、唇の奥でほどける。本当に、このひとと結婚したんだ。このひと
その夜、アパートの屋上に出ると、ニューヨークの街の灯りが星のように瞬いていた。「寒っ……!」コートの襟を立てながら、キャンディが身震いする。「だから言っただろ。上は冷えるって」「でも、夜景を一緒に見たかったの」テリィは肩をすくめ、持ってきたブランケットを彼女の肩にそっとかけた。「ほら」そのまま、自分のほうへ引き寄せる。ふたりで一枚の布にくるまりながら、夜空と街を見下ろした。「ねえ、テリィ」「なに」「今日、舞台に立ってるあなたを見ていて、すごく嬉しかったの」「……そうか」
秋の夜明け前の病棟は、静寂という名の緊張で満たされていた。壁にかけられた時計の針が、深夜三時をゆっくりと指している。キャンディはその前で体温表を持ちながら、一度だけ深呼吸した。(……大丈夫。わたしはできる。絶対に)入職してから半年が過ぎ、夜の勤務を勉強する日がとうとうやってきた。もちろん、新人看護婦が看護行為を自立してできることはまだ少ないが、患者の体位変換、オムツ交換など、担えることはたくさんあった。そのひとつひとつが命に関わることを、キャンディは理解していた。先輩看護婦のミリー
ふたりはまだ若い。結婚なんて、ずっと遠くの未来のことだと思っていた。けれど、ニューヨークの小さなアパートで始まった暮らしは、いつの間にか“夫婦みたいな時間”を、少しずつふたりに覚えさせていった。その夜、雨が降っていた。窓ガラスに打ちつける雨音が、リズムを刻むように絶え間なく続いている。初夏とはいえ、部屋の隅にはじんわりと冷気がたまっていた。「なんだか、寒いな」テリィがベッドに腰を下ろしながら肩をすくめる。「ね、今夜ちょっと冷えるわね」キャンディは毛布を広げながら、ふうっと息を吐いた
新人看護婦として、覚えなければならないことがたくさんあるキャンディの一日は、目が回るほど忙しい。一方、テリィも、稽古場と劇場を行き来する日々。ブロードウェイの舞台に立つためには、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで台本と向き合わなければならない。それでも、小さな部屋のテーブルを挟んで向かい合う時間だけは、互いにできるだけ手放さないようにしていた。ある日。キャンディは同じ病棟の男子医師から声をかけられる。「ホワイトさん、今度病棟で勉強会があるんだけど、一緒に発表するのはどう?」その様子
「卒業したら、ニューヨークで働く」キャンディがそう宣言した瞬間、テリィの胸に初めて未来がはっきりと形を持った。それ以降、ふたりの手紙のやり取りは、今まで以上に深くなった。キャンディは就職先として、ニューヨーク総合病院から内定の連絡があったとテリィに手紙で告げた。(とうとう、本当に来るんだ)キャンディを迎えるため、テリィはそれまでの狭いアパートを出た。だが、スザナも知るアパートにキャンディと住むわけにいかないというのが一番の理由だった。新しい部屋は、陽当たりが良く、キッチンも広い。
冬の光がやわらかく差し込む病室。テリィは、ロミオとジュリエット本番を迎えても、一向に病室に現れなかった。そして今日。病室に寄ったイアンが、はっきりとした声で言った。「……テリュースは、恋人をニューヨークに呼んでるんだ」その言葉は、スザナの胸を真っ二つに裂いた。「嘘よ……嘘。そんなの信じないわ……!」掠れた声で叫ぶが、涙は止められなかった。イアンはただ静かに寄り添い、肩に毛布を掛ける。翌日。イアンは心の準備を重ねてから、テリィとキャンディを伴って病室へ入った。テリィは真っ直ぐにス
一方スザナのほうは。病室には、毎日のように花が届けられていた。だがその送り主は、テリィではない。“稽古が忙しい”そう聞かされたスザナは、寂しさをごまかすように窓の外を見つめる日が増えた。(……どうして来てくれないの?あの日、私が庇ったのに)胸がじんと痛んだ。そんな時。「スザナ、入るぞ」病室の扉がそっと開き、イアンが顔を出した。イアンが病室に入ってくると空気が少しだけ温かくなる。「今日のジュリエットの代役、まあまあ悪くなかった。でも、やっぱりお前じゃないとな」椅子に腰を下
(事故から数週間後)脇役だが、テリィにとっては重要な“舞台”。そしてその裏で、彼はひとつの準備を進めていた。キャンディを、舞台に招待したのだ。しかも片道切符で。再会の想いを胸に秘めて、彼は演技に没頭しようとしていた。だが周囲の空気は、以前とは違っていた。稽古が終わると同時に、イアンが無言でテリィを見つめていることに気づいた。(……なんだ?)何日も続いていた嫌な視線。だが今日のイアンの表情は、いつも以上に険しい。「テリュース」ぽつりと名を呼ばれる。「……少し話がある」その声
照明落下事故から、三日。真冬のニューヨークは、ビル風が肌を刺すように冷たかった。消毒液の匂いが強い病室。白いカーテンの向こう、スザナはギプスで固定された両足を不自然に持ち上げられながら横たわっていた。テリィが入ると、彼女はパッと明るい表情を見せる。「来てくれたのね」声は弱々しいが、どこか期待に満ちている。「見舞いに来るのは仲間として当然だから」淡々と言葉を返すと、スザナの母がすぐに口を挟んだ。「テリュースさん。娘がどれだけあなたを気にしていたか……わかってる?」テリィは眉をひそ