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息子が長期入院になった時。よりも遡って病気が分かった時に、もっともっと調べておけばよかったと言う保険。当時、仕事と子供の闘病の両立、上の子の迎えやら習い事やらでキャパオーバー。そんな事考える余裕が全く無かったし、旦那も気が利かないし、言われた事はしっかり出来るが疎いタイプだし、病院のソーシャルワーカーも一言も触れないので、ガッサリ私の脳味噌から抜け落ちていて、貯金が見事に飛んで行きましたw多分その時に入っていたら数百万は保険がおりていたハズと私の様に後悔して欲しく無いので
2年前の自分が書いたもの。5年半前に息子の病気が分かって、その時自分がどうすれば良いか考えた事がまとめてあった。病気が分かった当時。あの頃は、目の前に出来る事が沢山あって、何となくまだ希望に満ち溢れていた時期でもあったかな。この中に書いてある、"手放す勇気"これは本当に正解だったと思う‼︎今思えば、それに加えて、"全てを想定内にする"と言う事も、自分を支えた要因だったと思う。普通子供が何の支障も無く産まれたら、生死の概念なんて全く考えに入っていなくて、生きているのが当
今回は自粛の話。少し長いのです。自分でも嫌になるくらいに強烈な記憶。息子の長い入院生活が終わった時の事。骨髄移植明けの退院から2年近く。自宅で免疫の弱い息子と過ごす先の見えない軟禁生活が始まった。その期間中は本当に暗くて長いトンネルの様だった。そんな表現はそこら辺の小説に出て来る、どん底の例えばなしだと思っていたけど、違った。本当にこう言う事なんだと、初めて実感が湧いた。私の自分自身の人生に対する情熱が無くなり、そして、恐ろしく性格が悪くなった。世の中の全ての人が羨まし
いつも一人で寝ている息子が、おやすみーって言って数分後私達の寝室に来ました。「全然寝れない!ゆめのこと思い出して悲しくなった」と急に泣き出しました。たぶん今日テレビに映る娘のかかりつけの病院を見たからかな?普段は、周りの人を笑わせるのが大好きで、ゆめのこともゆめはいつもこうだったよねって話したり普通に見えたけど、悲しいよね。息子がいつも笑わせてくれるから、私達親もずっと落ち込まずに過ごせている。そんな息子が涙するのを見ると、やっぱり息子にこんな思いをさせてしまって申し訳なさが。まだ小
本当に急にゆめの最期の日を思い出す。それが今月は今日でした。朝ごはん作りながら号泣。子供たちは違う部屋にいたからよかった。あの時私の呼びかけに起き上がろうとしたゆめ。私がもっと、一緒に帰ろうって話しかけ続けていたら、もっと生きていてくれたんじゃないかとか、もっと抱っこしてあげてたらとか今でも思う。あの時みんなゆめに話しかけてくれてたけど、起き上がろうとしたのは私の呼びかけにだけ。助けてって言ってたのかな。もっとずっと一緒にいたかったよ。
2月25日、6回目の月命日でした。その日の朝、夢を見ました。ゆめと2人でいて、私がゆめが生きていた時と同じように「ゆめ好き〜」ってギュッと抱きしめたら「ママも好き〜」ってギュッとしてくれたんです。ゆめの声そのままに。生きてた時とまったく同じように。嬉しくて嬉しくて泣きそうになった目覚めでした。叶うのならこのやり取りを実際にずっとやっていたい。ゆめが生きている時、この時が一番大好きな時でした。この時のゆめがかわいくてかわいくてきっとこの夢は私の後悔から見た夢だと思う。ゆめの最期に大
皆様、、、大丈夫、落ち着いてください‼︎と伝えたくなるこの頃の状況。免疫低い息子との生活を何年も送っているので、世の中の方々に今回のコロナの件で、ウイルス気にしながら生きるしんどさを、すこーーーしは理解してもらえるかな?と思ったりしてます。息子は胸からCVのチューブが直接が出ていて、そこから採血したり点滴したりするので、清潔に保つため毎日ガーゼを使う。ガーゼは使い回し出来ないから、本当無くて困ってるのはマスクよりガーゼです‼︎まぁ私は花粉症なのでマスクは毎年年明けに1箱確
なにから書いたらいいかわからない。3回目の月命日、7歳の誕生日。また次女がゆめとそっくりなことをやり始めたこと。ゆめが亡くなってから、こうしてスマホをいじっていると、画面スクロールしていないのに、勝手に下までスクロールされたり、逆に最初の画面に戻されたり、触れてないのにってことが何度かあって、勝手にゆめのいたずらだと思っています生前もよく私のスマホで自分の写真見たり、動画見たり、YouTube見たり、自撮りしたりしてたカメラ画像見ると目から上だけが写ってる写真があったり、ドアップ変顔の
寝る前に子供達と布団でゴロゴロしてる時に、息子が言った。「いつもならこの真ん中にゆめがいたのにな〜」そうなんです。ゆめはいつも真ん中だった。妹が生まれて、兄と寝てたこともあったけど、遊んでる時ご飯食べてる時、我が家の中心はゆめでした。自然といつも真ん中にいたゆめ。末っ子が中心になる家がほとんどだと思うけど、我が家はゆめが中心にいた。なんかごめん次女。笑そんないつも真ん中にいたゆめの姿が見えなくなって、ぽっかり空いてしまった我が家の中心。これから先ずっと埋まることはない。きっとこ
娘の通夜の時に、息子の学校の先生も何人か来てくれました。そのうちの1人の先生は去年の息子の担任の先生。そして、パパが小学生の時の担任の先生でもあります。とても良い先生で、息子の誕生日には手書きで息子の良いところを褒めてくれるような内容の誕生日カードをくれました。パパも小学生の時にもらったメッセージを大切にとってあります。担任クラスの一人一人に書いてくれるようです。一人一人しっかり見てくれる先生です。その先生が通夜の時に、息子に本を持ってきてくれました。あとで読んでねと。それがこの
ゆめが亡くなってから空を見上げることが増えました。朝カーテンを開けて見る、玄関から出て見る、外出中に見上げる。毎日変わる空、その中でも雲ひとつない青空。その時は思わずパシャり。なんとなくゆめと1番繋がれる瞬間な気がして。何度か空を撮っていると、光の線?太陽の光が綺麗にサーっと入ってるのがよく撮れて、気になって調べてみたら、天使の梯子って言うらしい。たまーに見られる雲と雲の隙間から光が射して、今にも天使が降りてきそうなアレ。👼☁️なにも考えないでパシャりして、よく写るのはゆめからのな
ゆめには妹がいます。今一歳三ヶ月です。ゆめが亡くなった時一歳になったばかりでした。お姉ちゃんのこと覚えてないかな…。一歳になったばかりだったのに、みんなみんなゆめにお線香あげてくれるから、おりん鳴らした後に手を合わせるなんてことすぐに出来るようになった。お線香持ってろうそくに向けて、火をつけようとする。もちろん届かないんだけど、危ないからすぐろうそくの火は消すし、手の届かないところになるべく離してる。普通いろんなこと出来るようになって嬉しいのに、こればっかりはなんだか切ない。そんな
次女の百日の写真を撮りに行った時に、ゆめもドレスを着ました。大好きなピンクのドレス😘3歳の時は私が選んだドレスをよくわからないまま着てたけど、この時はもう6歳。髪の毛もかわいくして、ピンクのかわいいドレス着て嬉しそうに、カメラを向けるとはにかむゆめは、ちっちゃくてもお姉さんに見えた。私はその時、もう娘の余命宣告を受けていたので、どうしても着せたいドレスがありました。真っ白のドレス。諦めたわけじゃない、大人になって今度は本当の真っ白なウェディングドレスを着た娘が見たい夢と願いを込めて。
買い物している時に目に入った新しいショッピングカート。なんて言っていいかわからないけど、買い物カゴ置く場所に、一人でおすわり出来るようになった子が座る部分と、その前の部分にお姉ちゃんやお兄ちゃんが立って乗れる部分が一つのカートになってる物。これ、娘が元気な時にあったら便利だったな〜って。ゆめが元気な時は(でも長時間歩くのは無理)少しなら歩くか、次女をベビーカーに乗せ、A型の状態で足乗せるところ?にゆめを立たせてた時もあった。でもバランス崩すの怖いし、つかまってるのもきっと体力使うし、どう
娘が大好きだったコーヒー牛乳!最後のほうは「ママ〜コーヒー」ってばっかり言ってたあんまり飲み過ぎてもよくないから少しずつだったけど。入院中もいきなり飲みたいって言って、そのたび自動販売機まで行った思い出。病院の自動販売機に、カフェインレスのがあって、よく買ってた!というわけで、前から目をつけてたコレ。やっと購入出来ました。ネットで頼もうと思ってて、日にちが経っちゃったのだけど…この前病院のすぐ近くのお店に寄ったらあった!絶対気づかなそうなところに!見つけたのはパパ!なんとなくふ
今日は2回目の月命日です。朝花の水を取り替えていて、仏壇へ行くとお義父さんが線香をあげてくれるところでした。月命日だもんなってつぶやいて、私はうん。しか言えませんでした。もう2回目なんだって思うのと、人から言われると改めて、あっ、ゆめの月命日かって思う変な感情と。まだ自分の娘のことって感覚がなくなる時が…。その結果がうん。なんかいつも以上に人と話すのが下手になってる!でも、私はとても嬉しかった。2回目だから、覚えていて当たり前といえば当たり前なんだけど、覚えていてくれるってこんなに
病院…ここへ行くのは本当に覚悟がいりました。生まれてから何度も何度も通った病院。最期を迎えた病院。8月25日、あの日苦しそうなゆめを抱っこして向かった病院への道。あの日すごくすごく遠く感じた道のり。でも行かなきゃ。2時間弱、あまり考えないように、思い出さないように無心で車に乗る。この道は私たち家族にとって、辛い道。何台も何台も走る車の中でこんな気持ちで走らせてるのは私達だけなのかとさえ思えてしまう。生きてた時もこの道は辛かった。辛かったけど、ゆめがいないまま走るこの道は本当に
先日、ゆめが通っていた支援学校へ、お礼と荷物を取りに行きました。久しぶりに行った学校。いつも、ここへ来るときは、助手席にはゆめがいた。学校まで片道30分の道のりを周りの景色を見て話したり、カクカクなりながら眠気と戦っていたり。帰りはその日にあったことをたくさん話してくれた。嬉しかったな〜私も。もっともっと行かせてあげたかった。登校すると、いつも玄関で待っていてくれる先生。毎回そこでゆめを預けて、行ってらっしゃいと別れる。決まって、「あとで迎え来てね〜、靴のとこいるから〜」って言うゆ
今日は息子の小学校の学芸会です。ということは…もちろん子供達がいっぱいいます。小学生はもちろん、その兄弟達も。なにより、ゆめと同じ一年生がいる。学校の行事は本当は行きたくない。たくさんの子供達を見ると余計に、こんなにたくさん子供達がいるのに、どうしてうちの子だったのだろうって。病気がわかってからずっと思ってきた。ゆめがいなくなった今、その思いが強くなった。ゆめが生まれた意味、生きてた意味、それを思うとそんなこと思うのは間違ってるんだけど、やっぱり私はこれからのゆめも大人になってい
ゆめが亡くなる数日前、ある夢を見ました。私は占いは信じないけど、夢占いはわりと当たるかもなって思っていました。入院付き添いが続いた時、朝起きた時に、見た夢を調べてみると、だいたいがストレスが溜まっているとか、疲れているので休息をとか、抜け出せない状況とかまさにそうだわって言うような結果で。ちょっとだけ信じていた。ゆめが亡くなる数日前の夢もいつものように、気になった夢を検索、その結果が幸せの絶頂。その時の私は娘の看病に疲れきって、なんで娘がこんなことにならなくちゃいけなくて、なんでゆめも私
ゆめが亡くなってから、もうひと月が経ちました。前の日には1ヶ月前は声も聞けてて、動いてるゆめを見てそれが普通だったなって思って、泣いて。あぁー、ここ数日毎日泣いてる。やっぱりゆめがいないの悲しいよ。25日みんなで、ゆめが好きだった物を買って食べました。主に長男が。笑ゆめも一緒に食べたかな?毎月25日はゆめが好きだった物をみんなで食べるつもりです。でも、普段もゆめが好きだったやつーって買ってるけどね、25日はそれがいっぱい。息子もきっといろんな感情が出てる毎日でしょうが、笑って過ご
いつもこんなブログを読んでいただいてありがとうございます。まだ四十九日も終わっていない、受け入れてるようで全然受け入れられてない心境のブログになってしまっていますが、出来たら今後は娘を亡くして、家族がどんな日常を過ごしていくのか、娘が生きていた間いろんなことを宣告されながらも、家族でどう過ごしてきたのか。娘の闘病生活。そんな中でも出来ていたこと書いていきたい。娘が亡くなってから、まだ一月も経っていないのに、すごく昔のことのような、夢のようななんだかわからない感覚に襲われる時があり、あんな
息子の病気が分かってから、仕事がグズグズになった。元々仕事人間で本当に働くのが大好きなのだ。息子の長期入院が始まったのは2年半程前に遡る。2月の頭にインフルエンザに感染した後から始まった。その年が明ける前にも体調をちょくちょく崩し、入院が多くなったので正社員で働いていた会社を辞めた。それから別の会社でリモートで出来る仕事をさせてもらいながら、闘病生活を続けた。1年経って骨髄の移植が決まっていよいよ仕事が出来なくなった。そこで仕事を続ける選択もあったはず。だけど私は負けたのだ。母
今日長男を病院へ連れて行った時のこと。ゆめも何度も通った病院。その病院は心臓だけを見てもらってたから、入院してた病院よりは行ってないけど、それでもやっぱり行くのがつらい。田舎の病院だから、知ってる人ばかり。行きたくないけど、これからも何度も行くであろう病院。今日は皮膚科だけど、来月には次女の予防接種があるから、小児科に行く。ちょっとしんどい。皮膚科へ行ったら、長男と次女は歳が離れているからか、先生に移る可能性あるけど、間にもきょうだいいる?って聞かれた。待ってる間に知り合いにあっ
実家に遊びに行ったら、ゆめがおもちゃの部屋に行く時、必ずじじが座ってるソファーの前を通っておもちゃのところに行くんだけど、初七日の前日じじが座ってたら、ふわっと前を通ったようにお線香の匂いがしたらしい。やっぱりゆめはいろんな所に行ってたんだね。最後のほうは体調も悪くて実家に行ってもあまりおもちゃで遊べなかったり、実家に行くことすら難しくなってたから…。自分でじじの家に遊びに行けたんだね。本当に自由にいろんな所に行けるようになったんだなと。離れて会えなくてさみしいけど、せめて天国では自由
ゆめが私の頭の中にいる。普段生活していると、なにかをしている時ふと、ゆめのことが頭をよぎる。でも今日は朝からずっとゆめのことばかり。朝起きて、ゆめがいつもいたソファーを見てゆめがいない。って思って隣の部屋の片付けをしていて、なんかリビングのソファーにゆめが座ってる気がして、まだ終わらないの?ってこっち見てる気がして見ても、いない。朝お水とごはんを持っていくのも、いつもの茶碗を持って、このごはんなんでゆめは食べないんだろうって思って。ママお風呂掃除した?って声も聞こえないまま、お風呂の
5歳になる息子の、まさかの、闘病生活の始まり、、、。一体なにが起きているのか分からず、でも大変な事が起きているのだと、覚悟した一件でもあった1日。それまでは本当に普通に、毎日楽しく面白くやっていたのに。なんとも言えない、灰色の感情が湧いてきたのを覚えている、、、。
命が消えて行きました。日本国内で数名しかおらず、海外の家族とたくさんのやり取りをしながら過ごしていた中で、ようやく知り合えた国内のご家族。同じ病気の子供を持つ親の気持ちはみんな複雑です。同じ様な症状もありつつ、個人差もありつつ。そこに人種も国もありません。相談しても答えが出ない事がたくさんあります。治療法が確立されていないので、手探りしながら対処療法を続ける日々が続きます。私の息子の病気が分かってから4年半が経ちます。その中で知り合った子供が、順番に、並んでいるかの様に人
子供達が寝てるので、続き。めめの病気がわかってからそれはもーー検索魔になりました。元々検索魔だったであろうところにさらに。笑今の時代ちょっと調べれば出てくるんですよねー。薬の名前入れればどんなのかわかるし、この病気がどんなかも、どんな予後なのかも。良くも悪くもわかってしまうのですよね。しかーし、めめの病気の情報が少なー!こんなにも情報で溢れてるのに、なんで!はい、出た、またなんで。いや、ほんとになんでなんでなんですよそれだけ稀なことなんだけど、いやー調べた調べた。旦那に調べるの
息子と一日中家にいます。もう何ヶ月も。入院したり、退院したり。離れる時間が全くありません。もう、本当に煮詰まっていて、ずっとイライラしています。療育には前例がないと断られました。保育園は定員が空きません。幼稚園は歩けない入れないと言われました。もう、正常に考える力が湧かないこの頃です。何度も何度も主人にも相談しても何も変わらない。のらりくらり。民間のサービス使うにも、主人の給与では難しいの一点張り。自分の時間は夜中だけ。眠い。このまま、私の目が覚めなきゃ良いのになん