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1970年11月三島由紀夫自決直前、親友のドナルド・キーン氏(DonaldKeene日本文学研究者、2019年96歳没)宛に、正に遺書とも言うべき手紙を書いていた。この手紙は三島が直接キーン氏宛に郵送したのではなく、三島の自刃後に、瑤子夫人から直接手渡されたのだ。此の手紙には11月とあり日付は書いて無かった。『前略、小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました(中略)小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました』末尾には『この夏下
河路由佳歌集『オレンジ月夜』を読んで昨日、河路由佳歌集『オレンジ月夜』(港の人、2024・5)をいただいて、さっそく読み始めたのだが、まずは奇妙な装丁だなと思った。オレンジというタイトルなのに外側にはオレンジの配色はない。カバーか帯かわからない紙がかけられていて、その「帯カバー」の上の方が欠けており、銀色か灰色かわからない色をした月の形がその帯カバーからのぞいているという装丁になっている。本を開くと見返しの紙がオレンジ色である。全体にかわいいというのか、そこはかとなくユーモアのあ
【作品解説:「Amazon」より引用】Amazon.co.jp:正岡子規(新潮文庫):ドナルド・キーン:本Amazon.co.jp:正岡子規(新潮文庫):ドナルド・キーン:本www.amazon.co.jpドナルド・キーン生誕100年、正岡子規没後120年の今年読みたい「決定的評伝」西洋文明との出会いという衝撃により伝統文化が危機に瀕した明治日本。そんななか雑誌ホトトギスを舞台に、「写生」という新たな手法を創出、俳句と短歌に革命をもたらした子規。国民的文芸の域にまで高ら
2008年に文化勲章を受章したドナルド・キーン(DonaldLawrenceKeene、1922-2019年)は、米国生まれの日本文学研究家、コロンビア大学名誉教授、彼は真珠湾攻撃から間もない1942年、カリフォルニア大学バークレー校の海軍語学校に志願、その後は海軍情報士官としてハワイの海軍翻訳局に赴任した。【紀尾井町の福田家で対談中の二人、1964年】三島由紀夫とは1954年に知り合って以来親交を深めた。ドナルド・キーンの日本語名「怒鳴門
おはようございます。今日は休み。ああ、起きる時間もゆっくりと、、と思いましたが買い出ししてない!急いで買い物行ってこないと、ですね~その後は撮り溜めたドラマの録画も視ないとね。そして、、、昼寝も!あ、百日紅の剪定も!ってやることいっぱいじゃあないか(笑)そんな今朝のお知らせ振り返り投稿は5年前。日本文学者ドナルド・キーン氏が亡くなった時の記事ですね。東日本大震災が起きて、外国の人たちがこぞって放射能汚染の日本から出て行った時、キーンさんは、敢えて日本に骨を埋めると日本国籍を
2月24日が命日・忌日の有名人・著名人1810年78歳没(?)ヘンリー・キャヴェンディッシュさん化学者水素の発見キャヴェンディッシュの実験1812年36歳没(?)エティエンヌ・ルイ・マリュスさん物理学者、数学者マリュスの法則を発見1815年49歳没(?)ロバート・フルトンさん発明家潜水艦であるノーティラスを設計1856年63歳没(?)ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーさん数学者ロバチェフスキー幾何学1923年85歳没(?)エドワー
1970年8月31日、三島由紀夫は羽田空港国際線ロビーに居た、澁澤龍彦夫妻(仏文学者で小説家。渋沢栄一の遠縁)が欧州旅行に出発するのを見送りに来たのだ。三島が空港に見送りに出向くのは非常に稀な事だ。【三島由紀夫と澁澤龍彦の交流は深かく長く自刃まで続いた】【遺作となった“高丘親王航海記”は文藝春秋社から1987年発刊された】三島の遺作、豊饒の海(四部作)は1970年11月25日自刃当日
人を褒めると福がくる「日本の美徳」という素敵な本と出会った。瀬戸内寂聴さんとドナルド・キーンさんの対談だ。お二人とも、対談の当時96歳。まだ現役で仕事もやっておられるのは驚くべきことだし、とてもカッコイイ。書くのは楽しいから全く苦痛にはなりません。とサラリとおっしゃる瀬戸内先生。キーンさんの日課は、朝8時に起きて午前中は調べ物と言語学。午後は息子さんと一緒に買い物に行き帰ってから少し仕事をする。夜は音楽を聴いたりお芝居を見たりという一日だそうだ。
1967年に、三島由紀夫が42歳を目前に(1925年1月14日生まれ)、読売新聞正月版に『年頭の迷い』というエッセイを書いている。【三島由紀夫は剣道5段錬士であり居合道も2段だ】”私も40になったら、せめて地球に爪痕を残すだけの仕事をしたいと思って、一昨年から四巻物の大長編に取り掛かったが<中略>この長編の完成は早く共5年後の筈であるが、その時は私も47歳になっており、此れを完成した後は最早華々し
1954年11月、歌舞伎座で三島歌舞伎の『鰯売恋曳網』が上演されていたが、その折中央公論社の嶋中会長が米国の文芸評論家ドナルド・キーン氏(2019年2月逝去)に三島由紀夫を初めて紹介した。【三島由紀夫とドナルド・キーン対談於:福田家虎ノ門1964年6月18日】そして1956年にキーン氏が三島の近代能楽集の内の戯曲『班女』の翻訳をした事が切っ掛けとなり、三島の自決まで交流が生涯続いた。1998年5月25日初版の中央公論社『三島由紀夫未発表書簡ド
(「鹿火屋」2023年11月号)義仲の寝覚めの山か月かなし芭蕉(よしなかのねざめのやまかつきかなし)芥川龍之介の『芭蕉雑記』という文章に、僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。という一文がある。芭蕉は弟子(惟然)に、俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり。(俳句なども人生の道草のようなもので面倒なものだ。)と語ったそうだ。しかし、一方、別の弟子(土芳)には「作句の心
田原の町を歩きました。田原市博物館で、田原市制20周年・田原市博物館開館30年・渡辺崋山生誕230年記念。『ドナルド・キーンと渡辺崋山崋山の叡智にふれて』展。見ごたえのある特別展でした。12月3日(日)まで。で、目も頭も疲れて。『池ノ原会館』お茶席で。ゆったりとした時間を。町の散策。パン屋さんを見つけると、心が騒いで。『長栄軒』。写真を撮ることの許可を得て。ただ、お昼を食べたばかりでもあり。翌日、旧東海道の金谷宿を歩いた時に、SL広場で。で、田原です。古くから
明治37年の御製です。天地もうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。「この広大な天地をも感動させるほどの、歌の言葉にこめる人の心のまことの道を、深く究めたいものである」至誠、天に通ず。明治天皇ほどの偉大な一霊四魂をお持ちであれば、祈りは神々に通ずるものと思います。私利私欲では浄心から離れてゆきますが、天皇の大御心は日々途切れることがありませんでしした。無私の祈りこそ、まことの道、惟神の道な
実家の隣人(?家だけ)、ドナルド・キーンさんが新聞記事になっていたので、貼っておく。キーンさんのことはひじょうに尊敬しています。ドナルドキーンさんが、太平洋戦争中のハワイで尋問した捕虜と戦後も交流を続けていたという記事を書きました。DonaldKeeneandJapanesePOWKeptWarmExchangesduringPacificWarandEvenafterWorldWarII,LettersRecentlyFoundShowht
明治36年の御製です。をさめしる八島の国の外までも静かなる世をわがいのるかな明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。「自分が統治するこの大八島の国はいうまでもないことだが、そのほかの国々までも、穏やかで平和な世であることを祈ってやまないことだ。」この御製も日露戦争の前年に詠まれたものです。いつの世も、国際社会に拘わらずに一国だけの平和を追求するのは不可能です。我が国の平和は、他の国々の平和と共にあります。世界を俯瞰する明治天皇の智慧
以前当ブログでも触れたが昭和43年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した際に、文学界では、どうして三島由紀夫ではなかったのか、との疑問の声が上った。【川端のノーベル賞受賞祝いに駆け付けた三島由紀夫】スウェーデンのノーベル賞委員会では早い時期から文学賞候補者として三島由紀夫と川端康成の2人を挙げていた。しかし委員会の中に日本文学の専門家が居なかった為、当時の日本ペンクラブ大会に出席したスウェーデンの選考委員(文学者)が最終選考することになった。その文学者は、ドナル
日本語情報士官、通称ボルダーボーイズ。🍀お、グルー大使。ジョセフ・グルー-Wikipediaja.m.wikipedia.org開戦しない様に、結構努力してくれたそうですね。開戦当時、日本語が堪能なアメリカ人は、アメリカ国内に50人しかいなかった。🍀オーテス・ケーリ、ドナルド・キーンも入隊した。オーテス・ケーリ-Wikipediaja.m.wikipedia.orgドナルド・キーン-Wikipediaja.m.wikipedia.org1年で日本語を覚える事が任務
この本は、今年2023年2月24日、四年目の黄犬忌に開催された平野啓一郎さんの講演会「キーンさんの思い出」を聞きに行った会場で購入したのでした。昨年(2022年)12月に亡くなった母が「どこかで見つけたら、買って来て」と言っていたのが「ドナルド・キーンの東京下町日記」でした。何とか見つけたものの母がこの本を読むことはありませんでしたが、私にとっては思い出深い本となりました。この本を読むまで、キーンさんの生い立ちなどは知らず。後は亡くなられてから出版された「ドナルド・キーンのオペラへようこそ!」
三島由紀夫は静岡県下田をサンクチュアリ(聖地)と呼んで、毎年夏には家族と共に夏休を楽しむ事にしていた、そして下田市内の東急ホテルを定宿としていた。『この夏下田へ来て下さった時は、実にうれしく思ひました。小生にとっての最後の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、楽しい時を過ごしました』と、自決の昭和45年11月、三島由紀夫は、深交のあるドナルド・キーン氏(DonaldKeene令和3年96歳没)宛に、正に遺書とも言うべき手紙を書いていた、しかも文中に”最後の夏
(東京都江東区深川)上品な言葉を使ったって志の低いものは低い。翁(※芭蕉のこと)は「わが俳諧は草(そう)なり」といわれた。一茶さんのもまさにそれで、軽みの中に何かがある。世俗は卑語(ひご)を使えば軽みだと思っているが、これは軽みではなく浮き調子というもの、また一茶さんのは、目にしたものを即座にいい出したようですが、普通の人がそれをやったら、軽みにならず、安みになってしまう。ー『ひねくれ一茶』(著・田辺聖子)—今日はまいった…。スマホをネットで買い替えたが、データだの、アプリ
私のPC(MacBookPro)はどうやら液晶が壊れたようで、今修理中である。これは古いPCで書いている。先日、仕事で新倉山浅間神社の忠霊塔に登ったら、展望台の後ろに明治天皇の銅像が立っていた。イタリア人たちが説明を求めたので、大まかな説明をしたが、この人がどういう人であったかについてもっと知りたく思い、昔、ドナルド・キーンさん(実家のご近所さんでもある)の新書を買ってあったことを思い出した。読み直してメモる。第1章一万ページの公式記録:『明治天皇紀』全13巻という公式記録があ
三島由紀夫は昭和41年8月、ドナルド・キーンと2人で京都・奈良の旅行をしていることに就いて以前このブログに書いた。【在りし日の三島由紀夫とドナルド・キーン】三島の最後の作品、「豊饒の海」四部作の第二巻「奔馬」は昭和42年2月から43年8月に月刊新潮に掲載されたが、この作品の為の所謂取材旅行だ、三島の取材旅行の拘りは良く知られるところだ。この時は京都東山蹴上の”都ホテル”に宿泊し、古事記に登場する日本最古の大神神社(おおみわ)を訪れ、巫女の『杉の
ゴールデンウィークはどこも混んでいる・・・とはいえ、家にひきこもっているのもつまらない。ということで、夫とどこか近郊でそれほど混んでいなさそうな穴場スポットに行くことにしましたそこでひらめいたのが、バンコク子ども図書館帰国者仲間で出している会報で、仲間が訪問したことを書いてくれていた、北区中央図書館(公式サイトはこちら)です。友人の紹介によると、この図書館は、「読書に浸るアートな図書館」の第4位(「NIKKEIプラス12022年9月24日)だそうですし、自分でも調べ
【23年5月2日】ゴールデンウイーク中日。個人的には、毎日が日曜日ではあるけれど、快晴のもと、来客中の人と出かけることにした。実は、これで連日外出が続くこと三日で、家籠りが基本の生活としては珍しいことだった。車を走らせて、新緑の某寺院へ出かける。吟行で出かけたこともあるところで、地方の寺としては、なかなか寺域も広くて、立派なところであった。山域全体の雰囲気も良く、立派な塔は、山の中腹、壮大な石組みの上に建てられたもので、まるで城郭の天守閣を思わせるような立派なもので、最上部まで登ることができて
谷中を抜けて日暮里駅へ。山手線に乗って田端へ。田端文士村記念館https://kitabunka.or.jp/tabata/へ。かって芥川龍之介をはじめとした文士たちが、たくさん住んでいたことから、田端文士村などと言われていたらしい。田端に住んでいた文士などを紹介している施設。内部は撮影禁止でした。のらくろの作者田河水泡なんかも展示ありました。特別展はドナルド・キーンだったよ。今度、近くに芥川龍之介記念館ができるそうです。帰りにマンホールカードもらった。のらくろだ。23
3月31日、田端にある「田端文士村記念館」に行ってきました!楽しかったです。パートⅢです。パンフレット編「田端文士村記念館」のパンフレット!「田河水泡」記念の『のらくろマンホール』が、何処かに在りそうです!「田端に住んだ文士芸術家たち」です!結構、」多士済々ですね。「展示案内・催事案内等」「田端散策マップ」赤い点が、文士芸術家たちの住居です!拡大してみてください。「田端、飛鳥山、旧古河庭園」「ドナルド・キーン生誕百周年」のパンフレットです
3月31日、田端にある「田端文士村記念館」に行ってきました!楽しかったです。JRの田端駅を降りると、すぐ目の前にこんな風景が!「田端文士村記念館」です!どんな所なのでしょうか?企画展「田端画かき村の住人たち」が開催されてました!「ドナルド・キーン」さんの特集も!こんなポスターも!入口を入ると正面に「田端文士芸術家村」のパネル展示が!ズームアップ!左側には、芥川龍之介と室生犀星が!正面右手の展示室の前にも、室生犀星と芥川龍之介がお出迎え!
3月10日のNHK総合で「アナザーストーリー」“東日本大震災踏みとどまった外国人たち”という番組があった。歌手のシンディ・ローパー。文学者のドナルド・キーン。釜石シーウェイブスの外国人選手たち。あの日、多くの外国人が不安を抱き出国しようと空港に殺到した中日本にとどまり、日本と向き合った外国人たちがいた…この番組を見て私はハッとした。なぜ今まで彼女のことを思い出さなかったのだろう。彼女こそ本当に「ありがとう」と言うべき人なのに。それ
以前にも少し触れた話題だが、三島由紀夫の研究者としても知られていた文学者、故ドナルド・キーン(2019年96歳没)は1956年に近代能楽集『班女』の翻訳を通じて知り合って以来、二人は交流を深めて行った。キーンは1941年12月、日米開戦に伴い米海軍日本語学校に入学、正式に日本語教育を受け、情報士官として海軍勤務し、太平洋戦線では通訳官を務めた。【ドナルド・キーンと懇談する三島由紀夫】三島は、自決の1970年11月に正に遺書とも言うべき手紙をキーン宛に書いていた、
きょうはドナルド・キーン先生の命日です。ドナルド・キーン氏は4年前のきょう午前6時21分、東京でお亡くなりになりました。96歳。きょうは、東京で黄犬忌が行われ、作家の平野啓一郎さんによる講演会「キーンさんの思い出」が開かれます。軽井沢高原文庫は昨年7月16日から10月10日まで、「生誕100年ドナルド・キーン展―軽井沢と日本語の美―」を開催させていただきました。展覧会終了後、すでに4か月余りが経過しましたが、私は展覧会会期中に果たせなかったことを、急がずに一つひとつ、行っています。