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八戸要塞(通称):小峠トーチカ出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村。国道340号線(登り街道)は是川地区と天狗沢地区の間を通る。陸軍は是川も天狗沢を重要な防御陣地として考えていたようで、コンクリート製トーチカや掩体などが多
「丘は血に染まった前編」原題:HILLSAREFORHEROES(1)ヘンリー少尉、サンダース軍曹達はある丘を前進していたが、丘の上2か所に強力な機関銃のトーチカがあり、一斉射撃をくらい、後退中軍曹が足を負傷した。丘の下にあるトーチカに避難した。第1段としてケーリーが見通しがききにくい方から1人で行ったがすぐに見つかって駄目だった。第2段として大砲の援護は受けられないので迫撃砲で援護してもらい、カービー、チェスター、モーガン、アインシュタインと機関銃隊で斜面に機関銃を据えて、右
八戸要塞(通称):島守地区③待避壕?出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村島守地区、県道138号線「鷹の巣展望台」の一帯には、塹壕とトーチカ、火薬庫などが現存している。とはいえ、この138号線の道路工事と開墾などで、多くの遺
八戸要塞(通称):島守地区①監視哨?(トーチカ)出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村島守地区、県道138号線「鷹の巣展望台」の一帯には、塹壕とトーチカ、火薬庫などが現存している。とはいえ、この138号線の道路工事と開墾など
まずは隠居するなぁんで、引っ越しして、車を買い替えて、行ってみたかったとこへ出掛けるなぁ呉、佐世保、舞鶴、大湊、横須賀とぐるっと軍港巡りとか海軍の航空隊があったとことか昔、四国に婆さんが住んでたとこ(最後に行ったの50年前だわ)が、今どぉなってるか⁉️みてみたり北海道にトーチカ観に行ったり元気なうちに隠居してぇ~~
『北海道旅6日目納沙布岬へ』半年前の記事を今頃書いているダメ人間ですが、今回は根室から納沙布岬に再訪します!何せ前日が嵐でしたので・・・まずは明治公園に・・・この公園に建つ3基の…ameblo.jpこの記事の続きです!さぁいよいよ根室から離れます!ちょっと寄りたいところがあったんですが・・・道路工事などで寄れませんでした!屯田兵関係の施設跡や、旧日本軍火薬庫(現役)等々・・・仕方無いので道道142号を使って南西方向に!国道44号を使うのが一番早そうで
[沖縄戦]海軍魚雷部隊射堡指揮所(板良敷トーチカ)沖縄県与那原町字板良敷1509「トーチカ」として説明されているが、これは形状や立地などから「射堡指揮所」であろう(陸上型魚雷発射場の指揮所のこと)。後背地を第三紀泥岩(クチャ)の丘陵、前面にはなだらかな畑地帯。昭和19年11月〜翌年1月、ここに海軍馬天射堡基地が構築された。海岸線までの距離は直線距離にして約300m程の地に基地が構築された。東へ約100メートルの場所に海軍魚雷格納庫壕があった。魚雷格納庫壕は幅・高さとも
[沖縄戦]与座第24師団陣地壕①トーチカ(監視哨)糸満市字与座出典:沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(南部)、P16より抜粋・加工第24師団は昭和14年10月に満州のハルビンで編成された国境警備隊から始まる。昭和19年7月、師団主力は第32軍隷下に移り沖縄本島に上陸。第9師団が台湾への転出が決定したため、島尻郡西部の防衛任務を継承、12月に司令部を与座へと移駐した。第24師団の一般的にトーチカと呼ばれるコレは与座岳北西の嶺にある。これは形状や構成からトーチカではなく「監視哨」ではないか
2023年-令和5年4月16日宿出発、ハートロックへの往復ツアー、入山者数カウント自己申告制度の説明、太平洋戦争中に掘られた防空壕、わらび谷通過、ちひろ岩=ハートロックへ、戦争中の一升瓶、左右貼り合わせ式、水確保用、ネコ捕獲カゴの説明、捕獲したネコは東京で人慣れさせ保護ネコとして、第2の猫生を送ります。同行メンバーの方が自作の山頂パウチッコ、豆のな方がいらっしゃいます、衝立山298m、戦争中のトーチカ、もう直ぐ頂上、稜線へ出ると南からの強風、雨は持ちましたが霧で視界が不良、
走水低砲台跡の南側、観音崎砲台群。南門砲台跡のすぐ南側、駐車場のハズレには、こんな物が。↓無機質なコンクリートの箱状の建造物。実はコレ、トーチカ…機関銃陣地だった物。東京湾に侵入した敵が、もし観音崎に上陸して来たら…という想定で造られたようだ。鉄格子で閉ざされ、中には入れない。↓正面(海側)に周ってみる。↓おそらく、こちらが銃眼。↓何の説明も無く、放置されている。銃眼にも鉄格子が嵌められているが、中を覗いてみる。奥の出入口には、階段が設置されている。↓ここも
[南大東島守備隊]陸軍本部壕(山下洞)沖縄県南大東村新東島の北東部、東は長幕断崖の内側が迫っているが、その山麓(標高約10メートル)に縦穴状のドリーネ(落込穴)があり、大東島守備隊(歩兵第36連隊)の本部はここの自然洞穴(鍾乳洞)を利用している。出典:沖縄の戦争遺跡、P.296より抜粋・加工『大東島戦時日誌』によれば、在所集落の西外れの具志堅洞の自然洞穴(鍾乳洞)を利用していたが、同年4月8日には「軍旗」を島の新東地区の通称・山下洞に移動させ、ここを核に一帯を秋葉
[南大東島守備隊]陸軍本部壕(具志堅洞)沖縄県南大東村池之沢陸軍本部壕は、現在及び戦時も島の中心地であった在所集落の西外れ、標高は15メートル前後の平坦地(サトウキビ畑と貯水池)にあり、ドリーネ地形に東西方向に広がる自然洞穴(鍾乳洞)を利用している。出典:沖縄の戦争遺跡、P.295より抜粋・加工図①本壕跡がいつから利用されていたかは明確な資料はないが、『大東諸島戦時日誌』によれば「昭和20年2月17日より警備中隊、棲息壕・戦車壕構築などの作業に従事」と書か
[南大東島守備隊]亀池港北東の水際陣地沖縄県南大東村南現在の亀井港の東、海岸沿いにある防御陣地。備砲は1式機動47ミリ速射砲(対戦車砲)。すぐ近くに2基の対空13ミリ機関砲陣地があった(探すのを忘れた)。厳ついぞ!砲身が納められる切れ込みもある砲口から中をのぞいてみる右側に窪地がありここが砲側庫だろう。出入口を探してみたが、アダンの藪で無理そう。砲口から入ってみた(・∀・)出入口付近はやはりアダンの藪だった(。・ω・。)
[南大東島守備隊]塩屋海岸の水際陣地沖縄県南大東村池之沢塩屋海岸の「塩屋プール」の真上にトーチカが2基?あり、周辺には多くの塹壕がある。トーチカ①海面からの高さは10メートルサンゴ礁石灰岩(古大東石灰岩)に幅2.5m×長さ3mの切れ込みをつくったトーチカ。戦時中は銃眼の上のコンクリートの形状から屋根はあったと思われる。備砲は25ミリ機関砲とされる。屋根が落ちて瓦礫などで砲室が埋まってしまったようだ。上から砲室を見る銃眼の先、切
[南大東島守備隊]海軍棒と水際陣地沖縄県南大東村旧東海軍棒とは明治25年(1882年)、沖大東島(ラサ島)に日本海軍の海防艦「海門」を派遣した際、那覇から立ち寄った南大東島で測量用に建てた棒のこと。軍艦から7名が上陸して調査、この棒には「大日本帝國海軍」と書かれ、日本固有の領土であることを示す。戦時中に喪失したため、棒を復元している。沖縄県は海軍省に南方探検を目的とした軍艦派遣を要請のがきっかけ。明治18年(1885年)、内務省の命令を受けた沖縄県令(西村捨三氏)が大東島を
[北大東島守備隊]見晴海岸の水際陣地沖縄県北大東村中野北大東島の北港の北東の見晴海岸(本田中隊の担当地区)。ここに3ヶ所の水際陣地がある。みつけられたのは1ヶ所(T_T)*ススキの藪に埋もれている出入口これでも剪定したのよおおおおお!室内に2基の銃眼があり、北と東方面の上陸する敵に向かって射撃するような構造。重機関銃をおいたと思われる銃座では外からみてみますか!脱出(・ω・)ノ向かって左側の
2月16日今日は前回にチャレンジで大雨のため散策路が寸断され、あとわずかな所で断念した蓬莱根海岸に行きます!まずは近くの川で小魚がピシャピシャしてたので気になっていた所へガサりに行くと、母島では駆除され居なくなったと聞いていたグッピーが生き延びてました少し大きめなボラの幼魚みたいなのが気になって掬おうとしたのですが駄目…しかも乗っていた石が転がり川に落ちてしまうし最悪だわ💦💦靴とズボンを替えてフルーツロードで青パパイアを採り郵便局でパパイアを出してから蓬莱根に向かいました。こ
「雷鳴の一夜」原題:THEPILLBOX少尉、軍曹達は激しい砲撃を受け撤退中、少尉が重症のけが人と逃げ遅れトーチカに避難した。雷雨の夜に帰還しようとしたら、ドイツ兵3人が入って来たので捕虜にした。1人は英語が話せた。その後近くでトラックがスリップしていたが脱出後、ドイツ兵が2人入って来たので少尉が射殺したが少尉も手を負傷した。その後ドイツ兵1名が手りゅう弾を持って脅して来たが出口で爆死した。衝撃で少尉の拳銃が離れ、負傷兵が拳銃を持ってドイツ兵を撃とうとしたが倒れ、その時1人のドイツ兵が
1944年半ばにマリアナ諸島を抑えた敵は速攻で飛行場整備を行い、11月24日、B29による東京初空襲が実行されました。サイパン奪回を断念した我軍は硫黄島を中継基地として、サイパン航空基地への強襲を行います。日本軍機の爆撃が何度かあり、その都度B29が被害にあってたので敵は「こりゃマズイ!」と思ったんでしょう。当時マッカーサーはフィリピンを完全制圧した後、台湾への侵攻を主張していましたが硫黄島攻略
[陸軍第73師団](本土決戦)城下トーチカ愛知県豊橋市城下町太平洋戦争の戦況が著しく悪化した1944年(昭和19年)夏以降、連合軍による本土上陸作戦に備えて、予想される地域に本土決戦用の防御陣地を構築した。静岡県は浜名湖西岸から愛知県の渥美半島伊良湖岬にかけての遠州灘も、本土上陸作戦が予想されていた場所だった。1944年(昭和19年)7月に新設された日本陸軍第13方面軍第73師団によって、豊橋市一帯には多くの防御陣地がつくられた。具体的には、海岸沿いの丘陵地帯には水
南九州市頴娃町青戸にある戦争遺跡を撮る『トーチカ』青戸(まのひ)飛行場跡まのひ飛行場は青戸・加地佐間の通称『加地佐原がちゃばい』の約200㌶の土地に建設されましたが未完成のまま終戦を迎えました後ろは広大な茶畑。頴娃町は茶どころです撮影してる手前側は真っ直ぐの道路で当時は滑走路だったらしい
首里城とあとは、嘉数高台公園に行きました。嘉数の戦闘についての案内板アメリカ軍を向かい撃ったトーチカ跡京都の塔普天間基地オスプレイが見えました。陣地壕弾痕の塀嘉数高台公園一望【銘文引用】米軍は1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下しました。嘉数を中心とした戦線で、待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘を始めます。戦闘の末に、日本軍は撤退し戦線は浦添うらそえ、西原、首里そして南部方面へと移りました。嘉数住民はテラガマ、チヂフチャーガマなどの洞窟に避
[陸軍第73師団](本土決戦)蔵王山陣地愛知県田原市田原大沢115-86(第1駐車場&展望台)日本陸軍は昭和19年7月、第3師団を再編成して第73師団(怒師団)を編成。浜名湖〜渥美半島地域の防衛を目的とし、本土決戦用の防御陣地の構築を行っている。出典:伊藤厚史「愛知・名古屋の戦争遺跡」p.101第73師団が昭和20年2月に新設された第13方面軍に編入(師団司令部は名古屋から豊橋に移転)。防衛担当区域を浜名湖〜豊橋南方区域に縮小。最終的な複廓陣地(主抵抗地帯)を豊橋市大岩町の北
毎年沖縄北部山原へ桜見行くのですが、今年はガソリン代節約+ロングドライブが、難儀なんで、宜野湾市へ行きました。満開を過ぎたようでした。しかし見れて良かったです。ここも、初めて行きました。SNSで情報GET。便利な時代ですね。#桜見#花見#寒緋桜#宜野湾嘉数高台公園#宜野湾市EveryyeartothemountainsinnorthernOkinawaI'mgoingtoseecherryblossoms,Savemoneyon
2022-06-14~168時出発で帯広へ(*^O^*)とうちゃ~くレンタカーを借りたらおっひるぅ~前回食べ損なった『ぶた丼』とん田さんでいただきます正面入口は改装中でした入口のメニューやっぱりこれかな『ロース・バラ盛り合わせ』追いダレもかけ放題お肉は十勝産ぶた丼巡りの旅っていうのもいいなぁ~という気持ちにさせてもらえる一杯お腹が満たされたところで移動はるに
首里城南のトーチカ(換気口?監視哨?)沖縄本島、那覇市首里真和志町1丁目(県営首里城公園地下駐射場近く)一般的にトーチカ、と言われているが、牛島貞満「第32軍司令部壕その保存・公開・活用を考える」によれば、どうやら第32軍第5砲兵司令部の換気口らしい。「沖縄県が調査を行い、結論を得ている」と断言している。ん?トーチカ?換気口?どちらも違う気がする。首里大地南側の縁にあり、南が開けていて展望が良い。構造物は大半が地中に埋まってしまっているので、よくわか
うちのやつの職場の後輩が退職して島を離れるので最後に戦跡を案内してほしいと依頼がありました頼まれると断れないタチなのでお仕事をお休みにして行ってきましたまだ行ったことのないところへ行きたいというリクエストまずは眺めの良いところ空気がとても澄んでいて50Km先のケータ島がよく見えましたそして大砲めぐり陸式の機関砲トーチカに配備された艦載砲そのほかいろいろな場所を半日ほどかけて案内しました途中で偶然会ったうちのやつの同僚さんたちも合流したりしてな
弁ヶ岳のトーチカ沖縄本島、那覇市首里鳥堀町4丁目(弁ヶ岳公園)一般的に「弁ヶ岳のトーチカ」と呼ばれるが、これはトーチカの構造ではではなく何らかの耐弾施設。向かって右側が出入り口、左側に1室あるのみ。何回か訪れているが、出入口はいつも水没している(。・ω・。)第32軍航空情報隊(球18822)電波警戒隊の記録によると、昭和19年8月頃より建設中の対空監視用の要地用電波警戒機の送信所(または受信所)=通信所のようだ。第32軍早期警戒電波隊の島村隊は弁ヶ岳で
大城のトーチカ沖縄本島、北中城村字大城225付近中城湾(中頭地域)を見下ろす丘陵(大城グスク)の頂部にある機銃陣地。チブガー付近に車を止めて給水タンクに向かって歩く2分くらい石垣を通り過ぎると頂部頂部からみる中城湾左の茂みを入ると大城グスクがある大城グスク大城グスクの周辺は、石灰岩の岩場だらけで、明らかに陣地壕!と思われる掘削を散見する。*銃眼のために岩を掘り込んだだけの陣地壕裏にまわると補強?で石垣を利用している(積んでいる