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身バレ防止のため、時系列等調整してあります。義姉の親が自己破産したのは以前の記事に書いている。古い家屋で資産価値がないので、生活保護の申請をしたあともそこに住んでいると思っていたのだが。ある人から、義姉が毎日、日中、働いていないのに車で出掛けているのは以前から聞いており。なんかコイツのことだからやってるんだろうな。と想像はしていたのだが。盗聴機の内容から見えてきたのが、月に10万、親にお金を持って行っていること。親と頻回に会っているような会話。片道三時間くらいかかる実家にそんなに
葉がモサモサ生えすぎて、何度見ても、これが何枚目の葉か、なんて数える気が起きない、というか、分からなくなってきます。トリ頭なので。。。父に聞けば、6枚目からは、とか11枚目からは、とかという御指南を受けるのですが、何度聞いてもこのトリ頭には無理のようです。遠いけど、畑を見に来てくれないかなー。軽く計算して、移動時間片道4時間、畑を見るの5分ってとこか。来てくれないなー。来てほしいなー。
トマト、大きく育っています。大きいんですが、実があまりついていないんです。これは、脇芽かきが甘いのかな??もっとしなくちゃダメなタイプ??というか、父曰く、きゅうりと同じで6枚目以降は脇芽を残し、孫がうんたらくんたら・・・。うんたらくんたらのところがもう分かりません。私のトリ頭では理解ができないようで・・。いかんいかん、自分を落としてはいけない。理解するよう努めてみましょう。トマトもたくさん収穫したいんですもの。肥料をあげればいいのかな。トマトは水も肥料もあ
7回めのAIH(人工授精)も失敗に終わり、もうさすがに腹を決めねば!と思い思い立ったらすぐ行動!と受診に行きました。医師👨⚕️にも「生理3日以内に来てくれればもうすぐ始められますから」って言われてた。で、イザ行ったら👨⚕️「はい、で、同意書持って来ましたか?」どういしょ………だだだだ出したと思ってた(꒪⌓꒪)🐫「出したものだと思ってました…」実は体外受精の説明を受けたのは5月のこと。さっさとステップアップ、と思ってたんだけど意外にも漢方がよく効いてきたからこれは
今日は何というか、インスタの手作り雑貨に癒されたー。最初のブログに書いたこと忘れてしまっていて、そうだ、日記がわりにだった。三歩で忘れるトリ頭。
八十一章信頼できる言葉は飾り気がない。飾った言葉には誠がない。本物の知者は知識の多さにこだわらない。博識にこだわる人は、本物の知者にはなれない。うまく生きている人は多くを所有せず、たくさん持っている人はうまく生きられていない。聖人は私財を蓄えない。いつでも気前よく人のために尽くすから、いよいよ恩恵に恵まれる。何でも気前よく人に与えるから、ますます豊かになる。このように、天の道を実践すれば、いいことずくめで損害は一切ない。そして聖人の道は、何をしても争いというものがない。信言不美、美言
八十章理想の国家像についてお尋ねか。さよう、国土は小さく、国民は少ないのがいいな。千人分の道具でも使い切れないくらいの。民は命を大事にしていて、遠くへは出かけない。車や船といった乗り物があっても、乗るほどの用事もない。鎧や武器があっても、使う時がない。合図のためには、結縄を復活させて使っている。地産地消に徹して、土地の食事に満足し、自分たちの服装を美しいとみなし、土地の風習を楽しみ、自分の家でくつろぐ。隣りの国から見通しがよく、犬や鶏の鳴き声が聞こえるほど近いにもかかわらず、民衆は老いて死
七十九章大きな怨みを抱く者どうしを、何とか和解させたとしても、後々必ずわだかまりが残る。それで最善と言えるだろうか。そこで聖人は、債権手形の半分を持ちながらも、相手に怨みを残すような督促をしない。このように、徳のある人は手形での支払いを承認し、徳の無いものは徴税のようにその場で現金をもぎ取って行く。さて、天道にえこひいきはないはずだが、常に最善を尽くそうとする人の方に道=タオのエネルギーは流れ込む。和大怨、必有余怨。焉可以為善。是以聖人執左契、而不以責於人。故有徳司契、無徳司徹。夫天
七十八章天下に水ほど柔らかく弱いものはないが、堅く強いものを攻めるのに、水を上回るものはない。水には、何ものもそれにとって代わることの出来ない性質があるからだ。水が剛堅なものに勝ち、しなやかなものが強力なものを打ち負かすことは、天下に知らぬものはない。しかし、それを実行できる人もいないようだ。聖人のことばがある。「甘んじて国の恥辱を受けとめる人を社稷の主といい、国の不幸不祥事を引き受ける人を天下の王という」正しいことばは反対の意味に聞こえるものだ。天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能先
七十七章天の道、自然法則は、弓を張るようなものだ。高くなっているところを押え、低い部分を引き絞る。力が余れば減らし、足らなければ補う。このように、天の道は余っているところから減らして、足らないところに補う。ところが人のやり方は、足らないところから取りあげ、余っているところへ差し出す。誰か十分に持ち、それを皆に分かち与えることのできるものはいないだろうか。ただ、道に従った生き方をするものだけにそれが可能だろう。それで聖人は仕事をしても所有はしない、成功してもそこに居続けない。このように、自己
七十六章人が生きているうちは柔らかくしなやかだが、死ぬと硬直して固まってしまう。草木などの万物も、生命が通っていれば柔らかく瑞々しいが、死ぬと枯れて干からびる。故に「堅くて強いのは死の仲間。柔らかくてしなやかなのが生の仲間」という。武器が堅すぎるのはかえって勝つことができず、木が強ばると折れやすくなる。強大なものが下になり、柔弱なものが上になるのだ。人之生也柔弱、其死也剛韌堅強。万物草木之生也柔脆。其死也枯槁。故曰、堅強死之徒也。柔弱生之徒也。兵強則不勝、木強則共。強大居下、柔弱居上
七十五章人々が飢えるのは、税金が高すぎるからだ。それで飢える。国民が統治できないのは、施策を用いすぎるからだ。それで統治できない。民衆が死を軽視するのは、生きる事に価値を見出しすぎているからだ。それで死が軽んじられる。ただ何もせずに生きているだけのものは、生きることを重要視しすぎるものより賢いと言える。人之飢也、以其取食税之多也。是以飢。百姓之不治也、以其上之有以為也。是以不治。民之軽死也、以其求生之厚也。是以軽死。夫唯無以生為者、是賢貴生。※パンがなければ、お菓子を食べればい
七十四章もし民衆が死を恐れなければ、死刑で威して服従させることは出来ない。もし民衆が死を恐れるなら、変事を為す奴は捕えて殺せばいい。さて、誰にそれをさせるのか。もし民衆が常に必ず死を恐れるならば、それは死刑を担当する役人が常駐しているのである。死刑役人に代わって死刑を行うのは、職人に代わって木を切るようなものだ。職人に代わって切ろうとすると、かなりの確率で手を怪我してしまうだろう。若民恒且不畏死、奈何以殺懼之也。若民恒且畏死、而為奇者、吾将得而殺之。夫孰敢矣。若民恒且必畏死、則恒有司
七十三章勇気があって果敢に行動する者は殺され、勇気がありつつ慎重な者は生き残る。この両者のうち、一方は利益を得て、一方は損害を被っている。天がなぜ前者を嫌うのか、その理由を知る人はいない。天の道に従えば、戦わずして勝つことができ、何も言わなくても答えが得られる。よばなくても来てくれるし、ゆったり構えていながらうまく段取りができる。広大な天の網の目は粗いけれども、何一つとり洩らすことがないのだ。勇於敢則殺、勇於不敢則活。此両者、或利或害。天之所悪、孰知其故。天之道、不戦而善勝。不言而善
七十二章民衆が脅威に対する警戒をなくすと、さらに大きな脅威がやってくる。その居場所に安住しすぎてはいけないが、今の生活を嫌うこともない。ただ嫌わずにおれば、圧迫を受けることもない。そこで聖人は、自らを知りながら自己顕示することなく、自分の身体を大事にしながら、自己を権威づけしようとはしないのだ。外を飾る方向性を捨て、内面の充実を取るのだ。民之不畏威、則大威将至矣。毋狎其所居。毋厭其所生。夫唯弗厭、是以不厭。是以聖人自知而不自見也。自愛而不自貴也。故去彼而取此。※お腹を満たす重要
七十一章自分が何も知らないことを分かっている人は、最もよい。知らないということに気づいていないのを病という。聖人が病でないのは、それが病だと認識できているからだ。分かっているから病に陥らない。知不知、尚矣。不知不知、病矣。是以聖人之不病也、以其病病也、是以不病。※ただのアホとはどう違うのか?それが疑問だ。
七十章私の言うことは、とても明快だと思わないか。それにすばらしく実行しやすい。しかるに、それを分かってくれる者がなく、実行する者もいないとはどういう訳だ。私のことばには主君のような重みがあり、行うことは深い根源につながっているのに。そこをご理解いただけてないから、私のことも分かってもらえないのだ。まあ、知る人が希だからこそ、私は貴重な人間だと言えるのかもしれない。聖人は、ボロを着ていながら宝玉を懐に隠し持っているものだ。吾言甚易知也。甚易行也。而人莫之能知也。莫之能行也。言有君、事有
六十九章兵法の極意に「あえて主導権を取らず受けに回る。自らは一寸も進まず、一尺退いておく」というのがある。これを行かない進軍、まくらない腕まくり、持たない武器、戦わない戦闘という。敵を軽視するほどまずいことはない。敵を軽視すると、お宝を失ったも同然だ。ゆえに、事を構えて対峙した場合、哀しみの心を持つ方が勝つのである。用兵有言曰、吾不敢為主而為客。不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂。執無兵、扔無敵。禍莫大於無敵、無敵近亡吾宝矣。故抗兵相若、則哀者勝矣。※主導権取れず…。
六十八章優れた戦士は武術を用いない。戦いに強い男は怒らない。敵に勝つ者は格闘しない。うまく人を使う者はへりくだる。これを争わない徳の力という。これこそ「人使いのコツ」であり、「天の助けを得る方法」というものだ。古人の伝えた極意である。善為士者不武、善戦者不怒。善勝敵者弗与。善用人者為之下。是謂不争之徳。是謂用人。是謂配天。古之極也。※天の助けを得る方法その一。
六十七章天下の人は、みな私の偉大さを、とてもそんなふうには見えない、と思っている。とてもそんなふうには見えないからこそ、偉大なのに。もしふつうの賢者だったら、とっくに先細りしているだろう。私には三つの宝がある。一つめは「慈しみ」二つめは「倹約」三つめは「あえて人の先頭に立たないこと」である。慈しみの心があるから、勇敢でいられるのだ。倹約するから、いざという時気前よくなれる。あえて人の先頭に立たないから、事を成し遂げるリーダーとも成れる。仮に、慈しみを捨てて勇敢であろうとし、倹約をやめて気前
六十六章大江大海があらゆる谷川の王でいられるのは、その下流にあるからである。それがあらゆる谷川の王たるゆえんだ。このように、聖人は民衆の上に立たねばならないとき、必ずへりくだった言辞を用いる。民衆の先頭に立つときには、必ず自分個人のことは後回しにする。だから、人々は彼が前にいても目障りに感じず、上にいても重く感じない。天下挙って上にいてほしいと願い、嫌われることなどないのは、彼が絶対に争わないからではないか。故に天下の誰一人、彼と争うものなどいないのだ。江海所以能為百谷王者、以其善下
六十五章道を実践してきた古人は、民衆を開明しようとはしなかった。むしろアホになることを勧めてきた。民衆を治めることが難しくなるのは、彼らが知恵を持つからである。故に知恵を絞って国を治めようとする輩は、国賊である。知恵に依らずに国を治めるのが、徳治というものだ。常にその両方を理解しておくことが、統治者の規範となる。その規範を知ることで、包み込む不思議な力が生まれる。その包容力は、深遠で遠大なものだ。常識と反するように見えるかもしれないが、それこそ道にピッタリ沿っているのである。古之為道
六十四章安定しているものは持ちやすい。まだ兆しも現れていなければ、対応しやすい。固まらないうちなら、判断しやすい。微細なものなら、散らしやすい。まだ何もないうちに事を起こし、まだ混乱しないうちに調整するのがよい。一抱えの木も小さな芽から育つ。九層の楼台も、土を固めるところから。百仭の登山も足元から始まる。やろうとすると失敗し、執着すると失ってしまう。そこで聖人はあるがままに何もしない。それだから失敗しない。執着しないから、失うこともない。ありがちなのは、それが完成する間際にぶち壊しになるこ
六十三章ありのままでいて、何もしない。無味の中に味を見出し、小さいものを大きいと、少ないものを多いとみなす。怨みに報復するのではなく、徳を持って受け入れる。難しいことはみやすいところに分け、大きなものは細分化して取り組む。世の中の難事は、常にみやすいところから始まり、大事は細かな点を発端にする。そこで聖人はいつも大きなことをしようとしない。それでいて、大きなことを成し遂げる。ヘイヘイと、安請け合いする奴は信用できない。すべて簡単だと侮っていると、必ず手の施しようもないほど難しくなる。だから
六十二章道=タオのエネルギーは、万物に注ぎ込まれている。道に通じた人がそれを保有しているだけでなく、道に縁がない人もそれに守られている。美辞麗句は街中売るほど満ちているし、ご立派なお仕事をされる人もたくさんいる。道に縁のない人といえども、道に捨てられるいわれはない。天子が即位するとき、補佐として三卿を設置する。その時璧玉を四頭立て馬車の先に献上するよりも、居ながらにしてこの真理をお伝えする方が勝っていると思う。古人が道を貴んできた理由は何か。「求めれば道の働きによって得られる。罪があっても
六十一章大国は幅の広い河の下流に喩えられる。下流は天下の女性性を体現しており、天下の要衝を占める。女性性は静まっていることによって男性性に勝る。静的であることで、下手に出ることができるのだ。だから大国は小国にへりくだり、そうして小国を併合する。小国は大国にの下手に出ると、大国にぱっくり飲み込まれる。一方は下手に出て相手を併合し、他方はへりくだって相手に飲み込まれる。大国は多くの人民を養おうとしているにすぎず、小国は大国に飲み込まれたからには、そこで地位を得て力を尽くしたいと思っているに過ぎ
六十章大国を治めるには、小魚を煮るように、あまり手を加えないのがよい。無為の道に従って天下のことに対処するならば、土地の鬼神も祟りを為さないだろう。鬼神がたたらないというよりも、その霊力が人を傷つけないのだ。霊力が人を傷つけないだけでなく、聖人も鬼神を傷つけることがない。その両者が互いに傷つけあわないから、お互いに受け入れ合うことができるのだ。治大邦、若亨小鮮。以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神也。其神不傷人也。非其神不傷人也。聖人亦弗傷也。夫両不相傷、故徳交帰焉。※飲めばわかるさ。
五十九章人を統治し天下に奉仕するには、努力を惜しむのがよい。万事省エネにしていれば、早く道に従うことができる。早く道に従うことを、重ねて徳を積む、という。徳を積み重ねれば、克てない相手がいなくなる。克てない相手がいなくなれば、限界を突破できる。無限の力を得れば、国を保つことができよう。国を保全する母(つまり力を入れないこと)によって、幾久しく保たれることになる。これを深く根差し、根元の幹を堅くするという。これが永久に生き永らえる道である。治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以早服。早服是謂重
五十八章政治がぼんやりと適当であれば、民衆は純朴でいられる。政治が明確さを打ち出すと、民衆は貧困で不満をかこつようになる。禍には福が寄り添っており、福には禍が伏在している。その行きつく先を見極めることは出来ない。そもそも絶対的に正しいということはない。正しいとされるものも、条件が変われば怪しくなり、善もまたその相貌を変える。人がそのような状況に迷い始めて、もうかなり久しい。そこで、方正ではあっても人を裁かず、廉直であっても人を傷つけず、正直であっても行き過ぎず、知恵の光を放っても人を惑わさ
五十七章正しい方法で国を治め、奇抜な方法で軍隊を動かす、とか。これに、何もしないで天下を救う、と付け加えよう。どうしてそう言えるのか。そもそも、天下に法令禁令が多すぎると、民衆はいよいよ困窮する。民間に便利なものが出回ると、国家はますます混乱する。人が知恵をつけすぎると、厄介事が絶えなくなり、法令が整備されると、盗賊がやたらと増える。そこで聖人ならこう言うだろう。「私が何もしなければ、民衆は自然と教化される。私が静まっておれば、民衆は自ずから正しくなる。私が事業を起こさなければ、民衆は自ず