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⚠️ショッキングな写真あり。ご注意ください。カンボジアの負の歴史を学ぶためにこちらへ。トゥールスレン虐殺博物館·4.6★(9456)·博物館រាជធានី,សង្កាត់បឹងកេងកង៣ខណ្ឌចំការមន,St113,PhnomPenh12304カンボジアmaps.google.comトゥールスレンジェノサイドミュージアム。ここは元高校だったところだそうです。カンボジアでは1975〜79年の間に170〜200万人もの人々が虐殺されました。ここの
プノンペンに戻った翌日は、行こうと思っていたけど勇気がなくて一人で行けなかったトゥール・スレン虐殺博物館とキリング・フィールド(チュンエク大量虐殺センター)へ。1975年~1979年に起きたカンボジア大虐殺では約170万人(当時のカンボジアの総人口の21%)もの人々の命が失われたとされています。トゥール・スレン(ToulSleng・別称S-21)はクメール・ルージュ(ポルポト派)に拷問を受けた約200か所にわたる収容所網の極秘センター。農民、技術者、僧
「新しい空の旅へ」毎週、様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JETSTREAM』。今週は、作家・小川哲書き下ろしの旅の物語を、5日間に渡ってお送りします。今夜は、第1夜。舞台は、東南アジアの国、カンボジアの首都プノンペン。彼は、東京で会社員をしていた26歳の時、ある理由からカンボジア・プノンペンへと旅をし、しばらく滞在した。そして後に、会社を辞め、カンボジアへ移住する計画を立てる。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜僕は今、夜のバンコクにいる。羽田からプノンペンへ向
2019・12・24キリングフィールドを後にし、次はトゥール・スレン博物館へ移動します。ここは4棟の建物からなる元高校の校舎を利用した当時「S21(SecurityOffice21)」と呼ばれた「トゥール・スレン刑務所」です。1975年4月から1979年1月まで3年8ヶ月に及んだポルポト政権下では全土で無謀な社会主義改革が強行されました。それを妨害した反革命分子はスパイとみなされ家族とともに次々に捕らえられ、ここで激しく拷問
英雄ネズミの驚きの仕事https://news.livedoor.com/article/detail/20315990/『カンボジアの地雷撤去に貢献したとして英国の動物団体から金メダルを授与されたアフリカオニネズミの「マガワ」が6月末で引退することになった。所属するベルギーの団体が3日、発表した。活動開始から5年を迎え、年老いて動きが遅くなったためだという。カンボジアでは1970年代の内戦期以降に最大600万個の地雷が仕掛けられたとされる。同国ではベルギーの市民団体A
ミャンマーで軍事クーデターが発生した。一昨年カンボジアのトゥールスレン虐殺博物館に行き、その残虐さを見た自分としては同じようにならないか心配だし、早く平和な国になって欲しいと思う。明日は3.11。東日本大地震からちょうど10年が経つ。テレビなどでは、あの日を忘れない。風化させてはいけないとの論調が増えている。しかし、なぜ風化させてはいけないのか?。被災された人に寄り添うのはいい事だろうけど、何か少しわからない部分もある。戦争を風化させてはいけないと言うのはわかる。2度とあのような悲惨な戦争を
カンボジアへの家族旅行初日。スケジュールの都合で、朝の4:00に家を出発。6:20チャンギ空港発の飛行機でカンボジアのプノンペンへ向かい、7:20には到着。朝が早かったので、めちゃくちゃテンションが低い💦カンボジアの観光ビザは、到着した空港(プノンペンかシェムリアップのどちかのみ)で取得も可能ですが、我が家は時間のロスを避けるために、事前にシンガポールにあるカンボジア大使館でピザを取得しておきました。初日は1日中、現地の日本語が喋れるガイドさんにガイドをお願いしてい
1975年4月17日。アメリカの後押しを受けていたカンボジアのロン・ノル政権が崩壊。ポル・ポトが率いるクメール・ルージュが首都プノンペンに入り、ここに民主カンプチアが成立しました。1979年1月7日。ベトナム政府の後押しを受けた反ポル・ポト勢力が、ベトナム軍と共に民主カンプチア政権をプノンペンから追い出し、カンプチア人民共和国が成立。しかしカンボジアでは、アメリカ、中国といった大国に翻弄されて、同共和国が成立して以降も、しばらく内戦が続いていました。1975年4月17日から1979年
おはようございます私は、カンボジアに1年8ヶ月住んでいますが未だ行けない場所があります。それは、キリングフィールドトゥールスレン刑務所この2つです。これは、カンボジア最悪な負の遺産ポルポト大虐殺の歴史を知れる場所です。上の写真にもありますが、実際に17段の棚に人骨がギッシリありそれぞれ頭には分析シールが貼られオノで殺された人毒で殺された人などに分けられています。あまりにも大量に殺されたのですがなんせ、カンボジアは貧乏なので弾やナイフを使えませんでした。多くの人
①【カンボジア】お土産はコレ!!②【カンボジア】お土産はコレ(2)!!③【カンボジア】光と闇④【カンボジア】終わりは始まり⑤【カンボジア】終わりは始まり(2)トゥールスレンでたくさんの拷問を強いられまた目隠しでトラックで運ばれること2時間。つれて行かれた先は…当時は周りは畑や中国人墓地があったところ。彼らにとって、それは天国なのか、それとも地獄なのか…その何とも表現出来ない場所は、キリング・フィールドと呼ばれています。運ばれてきた彼らは、小さな木
①【カンボジア】お土産はコレ!!②【カンボジア】お土産はコレ(2)!!③【カンボジア】光と闇④【カンボジア】終わりは始まりクメール・ルージュに支配されたさ3年と8ヶ月と20日の間は、オンカー(組織)に対してのみ敬愛する事を許され、自由恋愛も自由結婚も禁止。トゥールスレンに収容された人たちは、電気ショック⚡やむち打ち、逆さに吊るされたり、糞便の壺⚱️に頭を入れられたり、爪を剥がされたり、小指を折られたり、散々な拷問を受け『お前はCIAなんだろ?白状しろ!』と嘘の供
①【カンボジア】お土産はコレ!!②【カンボジア】お土産はコレ(2)!!カンボジアを語るには『まずその歴史から!』と前記事で書きました。まだ、まとまっていないけど、このまま行っちゃいましょう✨美しいプルメリアの花が咲くこの場所は、トゥールスレン虐殺博物館と呼ばれています。トゥールスレンとは別称S-21と言われ、クメール・ルージュに拷問を受けた収容所のうち、『極秘』の収容所でした。……急に、拷問、収容所、クメールルージュと前記事までの可愛いカンボジア土産💕から
プノンペンで迎えた初めての朝。本日はホテルで無料で借りた自転車に乗り、朝8時ごろからプノンペンを駆け巡った。まず最初に向かったのは、オリンピックスタジアム。主にサッカーカンボジア代表がホームスタジアムとして利用しているそうだ。しかし、今回は閉まっており、中に入ることはできなかった。次に向かったのは、オリンピックマーケット。ここでは膨大な量の布が売られており、誰が買い物をするのだろうと疑問に思った。でも、自分でアパレル関係の仕事をするようになった
こんにちは。カンボジア渡航のブログも今日で最終回いつもながら取り留めのない駄文、散文ではありましたが自分の備忘録としてまとめるのが目的なので読みづらくともお付き合いいただいた方、ありがとうございました。今週もバタバタですが楽しんでまいります。どSな飼い犬嶋本です。カンボジア視察の最終日はカンボジアの悲しく、壮絶な歴史に触れてきました。※記事内の写真には心臓に悪いものもありますので、閲覧注意願います。私が生まれた1977年頃というのはカンボジアはポルポト派の大虐殺真っ只中未だに新し
※【カンボジア旅行記②】の続きになります。ランチを終えて、再びプノンペンの街を歩きます。通常9月というのはカンボジアでは雨季の真っ只中なので、突然のスコールに備えて折り畳み傘とレインコートは持ち歩いていたのですが、そんなもの全く必要ないよというような天気になりました。トンレサップ川に面した、いわゆるリバーサイド・エリアを歩きます。現地では「シソワット・キー」と呼ばれるエリアになるそうです。クルーズ船があるようです。面白そうですね♪こちらがそのクルー
こんにちは。今日はトゥールスレン博物館とキリングフィールドに行きました!クメールルージュが1975年から1979年までに行った大量虐殺の歴史を学んできました。多くの人骨が埋葬されている場所を、音声ガイドを聴きながら歩くと、当時の景色が頭に浮かんできます。博物館では当時に拷問されていた絵や道具などが多く展示され、かなり衝撃を受けました。観光中ゲリラ豪雨に2回も遭遇してしまって、帰りのバスではみんな疲れ果てていました。明日は移動日です。イオンによるので楽しみです!3年ワークショップ
こんばんは。泳ぎにいけないので、スクワット100回を代わりにしているRinです。(一度にではないですよ!1日トータルね!)さて。1日1ポチ、お願いいたします_(._.)_プノンペン2日目です。初日に1日チャーターを約束したトゥクトゥク運転手さんが、時間通り8時半に迎えにきてくれました。プノンペン、ヘルメット着用率が高いです。お行儀良いのですよね、みなさん。アジア的な風景も見ながら、郊外へとトゥクトゥクは進みます。最初の目的地、キリングフィールドです。キリングフィールド
カンボジアの首都プノンペンにある仏教の寺院(ワットプノンペン)1373年建立。なんですが、日本は室町幕府の時代です。スゴイ。。寺院の中は、涅槃像があったり、仏教説話を描いた絵画があったりして、親しみやすかったです。近くにある、セントラルマーケット。陳列の仕方が雑!(笑)そして、ポルポト派による歴史の爪痕。トゥールスレン虐殺博物館へ行きました。目を背けたくなるけれど、忘れてはいけない歴史。館内を見終わったあと、しばし呆然としながら、この木陰でレクイエムを聞いていました。。全て、同
プノンペン観光。この旅いち暑い気がします。道産子の私はこんなに強い日差しを浴びたのはきっと人生ではじめてです旅に出る前にお友だちに日傘を持っていくと言ったらいやいやいらないだろうと言われたけれど必要でしたオハナプノンペンホテル近くの金ぴかのお寺をのぞいてからトゥール・スレン虐殺博物館を見学してきました。WikipediaよりS21は、クメール・ルージ
2018年12月30日(日)ランチの後はトゥール・スレン博物館へ悲しい歴史当時の写真や頭蓋骨がありました。ガイドさんが写真許可セントラル・マーケットの前にクラタ・ペッパーに私達のリクエストで寄って頂きました。お土産にペッパーを購入セントラル・マーケットへ行って、ホテルへ日帰り観光終了。運転手さんもガイドさんもすごくいい人で楽しく過ごせました。ありがとうございましたホテルに戻ってからフットマッサージへフットマッサージ60分10$。気持ち良かった夕飯は北朝鮮レストラン
2018年12月20日から25日まで、仕事でカンボジアに行っていました。なぜカンボジアか…。ここ数年、国立国際医療研究センターや日本産科婦人科学会、日本臨床細胞学会が、子宮がん検診の導入支援などをカンボジアに対し行ってきました。その中で、病理医がいないと、検診後の診断、治療がままならないということで、病理医の育成が急務になりました。そこで、病理医育成のコースが立ちあがりました。一期生が3年の養成課程を終え、二期生を募集しているとのことです。国立国際医療研究センターフェースブ
サバーイ!サバーイ!(ノリノリだぜ〜)こんにちは。6日目、7日目は予備日として開けてありました。そのため、スズキと街散策へと繰り出します。んー、やっぱりプノンペンは人が多い前半のシェムリアップは観光地なので、建造物とか数百年前の物とか、ほほーって感じの物が多いんですが、プノンペンは、経済って感じで、交通量もハンパないし、カンボジア国民の活気で溢れている場所です。とりあえず、ホテル近くのマーケットに魚類スズキを案内しました。んー、クサイなんか、カンボジアって、場所によって凄い生臭い
マンゴーの木が茂るトゥール・スレン博物館の続きです。《閲覧注意》残虐な拷問の絵があります美しいテラスのもと拷問施設、観光客がたくさんいます。ポル・ポト政権は1975年4月15日から1979年1月7日までの3年8ヶ月で自国民大虐殺を行い、当時人口800万人ほどのカンボジアにて300万人が亡くなったとされています(人数には諸説あるようですがキリングフィールド博物館では300万とあります)。この拷問施設S21に連れて来られた20000人中、生還者12人が確認されておりその中の7人の写真です。
こんばんは〜そして大変お久しぶりの投稿となりますAimalでございます死んだのかまたはどうせブログやめたんだろと思われたそこのあなた生きてますそしてブログ続けます笑さて随分と遡るのでどこまで行ったかと言いますと前回はアンコールワット遺跡群の中でもアンコール・トムをはじめその他の見所についてレポートしました世界遺産であるアンコールワット遺跡群を案内してくれたトゥクトゥクのドライバーYONさんにお別れを告げて僕らの旅を続けよう↑ドライバーのYON
こんばんは。派遣1日目を担当する、1回生の一瀬優菜です。2/28の夕方に関西国際空港を出発し、3/1の朝やっとの思いでプノンペンへ到着しました。空港からホテルまでは、トゥクトゥクという5、6人乗れるバイクタクシーのようなものを利用しました🛵☀️プノンペンは、曇りがかった晴れで、少し蒸し暑く、長袖は暑かったです💧(トゥクトゥクにて)ホテルに着いた私たちはマーケットを散策しました🚶♂️🚶♀️🍃ホテル近くに大きなマーケットがあり、この短時間では回りきれなかったです。品物の豊富さと
気付けばこのブログを書くまで1ヶ月以上経ってしまった。私の中で受け入れられなくて、、知れば知るほど受け入れられないカンボジアの暗い過去。文書にはおこす事ができないこの感情。複雑な感情とは少し違う。ここは1975年までは高校だった。1975年からの約4年間は《S21》と呼ばれ、約2万人が強制収容され拷問や虐殺が行われた。4年後生きてここから出られたのは7人と言われている。2万人の7人。。今はトゥールスレン博物館とよばれ観光客などが多く訪れる場所になっている。1975年からの
本日はポル・ポト時代の負の遺産トゥールスレン博物館へ歴史の勉学のため訪れます朝食に屋台でチャーハンなんか薄味やなトゥールスレン博物館ポル・ポト政権時に尋問、拷問をするための施設これらの建物は元々は学校だったようだ10ヵ国くらいのオーディオガイドがあり日本語もあるので便利だ入ってすぐの所にあるこちらの墓石は確か最後に殺された14名の方のだとオーディオガイド言ってたような…ちゃんと聞いとかんかいな!建物内部ここで拷問を受けていたのか…一部屋づつ畳1畳くらいに仕切られ
キリングフィールドを後にした僕たちは次にトゥールスレンへ向かったトゥールスレン強制収容所かつては学校だったがポルポト政権になってから強制収容所として使用されていた約2万人が収容されて生き残ったのは7人のみこのベットに監禁し足枷をつけていた*実際の写真かなり無残な姿になっている姿が記録されていますこちらは独房一畳もない場所で監禁されていましたトイレなどは壁にある隙間から用をた