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『調書』石原吉郎の詩集の表紙に珈琲を飛ばしてしまったこれは痛い痛いなあらためてマアンについてきみのあれはよかった再現性が有るものなら尚良いが一度きりなのでわからない心でなく体にも深いところがあり刺さるという事実を知る待てよあれは心だったのかもしれない調書のような詩を書こうデリダの声がして少しずつ時間をずらせと助言してはお前が言うなとハイデッガーあぁマアン次は図書館に行こう個体の崩壊と溶解の本の在処をちゃんと教えてあげるあぁマアン年上はよかった?
自分は、以前から「分析哲学」”という言い方・呼び方?”に何となく”違和感を感じて?”いて、それで「境界性哲学」などと”ほざいていた”ワケではありました…。前回でも少し触れましたが、最近になって所謂(ドゥルーズ等の云う)「反復」は、ウィトゲンシュタイン的には「ゲーム(言語ゲーム)」に該当するのでは…と思うようになりました。そこで早速ネットで調べてみると、「ウィトゲンシュタインと反復の思想清野正義東京大学大学院教育学研究科―」というPDFを見つけました。かなり前に購入した、「ウィトゲンシュタイ
【ジャック・デリダの"脱構築"】(デ・コン_デストラクション&コンストラクション、シヴァ神的?)既成のアンチノミーに揺さぶりをかけ、打ち捨てられていた可能性を復権させる.これは【ナーガルジュナの"八不中道"】と通じているようにおもう不生不滅不常不断不一不異不来不出【Cogitoergosum我思う、故に我在り】も、思いがidentityを分解→べつの所でワタシをrebirthし、そこから見える全くちがった新しい景色・世界を再構築する、みたいにとらえたら仏教チッ
前回は、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」の”おさらい”のようになってしまいましたが、今回は”新たなフェーズ”に突入したいと思います。ざっくり言ってしまうと、「物事は表裏一体である」という様な考え方です…。既存の西洋的考え方では、方向性として「(何でもかんでも)バラバラにする、分離させてしまう」傾向にあります。当ブログの「非決済型社会(配給型社会)」とは、「バラバラにさせない、分離分割させない(社会)」という意味でもあるのです…。「表裏一体」で思い起こさせるのが、「シニフィ
比較する上で二項対立という二つの相反する事象に優劣をつけて良い方を選択する方法があるらしいフランスの哲学者のジャック・デリダはその二項対立に疑問を抱いた人らしい善と悪とか女性と男性とか専門用語ではパロールとエクリチュールなどパロールは要は当人との会話から直接具体的に得られる事エクリチュールは要は本など間接的に本や文章で得られる事ネット情報なども直接会話するのではないので、エクリチュールらしい善と悪は常識的には善が正しく優位パロールは矛盾
哲学の現代思想についての入門書から紹介。現代思想入門(講談社現代新書)Amazon(アマゾン)本書は、現代思想の代表的な三人、デリダ、ドゥルーズ、フーコーを取り上げている。左からデリダ、ドゥルーズ、フーコー重要なテーマとして二項対立の脱構築を挙げている。・二項対立〜対立、矛盾する二つの項目のこと。内外、男女、主体客体、西洋非西洋、自然人工など。・脱構築〜二項対立にとらわれないのこと。つまり、善悪や+―(どっちが良いか悪いか)をいったん保留にすることが重要。ということで
トレンドランキング9:19時点1デルマソトガケ6,371件のポスト2オーギュストロダン7,138件のポスト3ブリーダーズカップクラシック493件のポスト4ジャスパークローネ1,744件のポスト5イカの足29件のポスト6赤津くん762件のポスト7多重下請け21件のポスト8第55回全日本大学駅伝154件のポスト9おシャフ476件のポスト10報道陣も困惑34件のポスト11取締役協会22件のポスト12ディープ産駒645件のポスト1
おそらくは昨年の秋ころからほぼほぼ1年間に渡ってとてたまに気に入って喰しておる所謂一つの「まぜすば」がありまする。最近折に触れて,この「まぜすば」の味わいの「肝は何か」ということについてちらちら考えておりました。この「まぜすば」には,2種類の異なる部位〜青か部分と白か部分〜の長ねぎ(根深)と玉ねぎの微塵切り(いずれも生状態)が入っておることは明らかでした。実を申しますと,普段の喰生活に於いて生の玉ねぎを喰することは先ず間違いなくありませぬ。何故ならば,胃の構造が生の玉ねぎを消化す
今回のタイトルは、やや大袈裟ですが、改めて「ウィトゲンシュタイン哲学」を考えてみたいと思います。無論、自分は”ウィトゲンシュタイン”を語れる程では無いことを十分承知の上でです…。一般的には、「ウィトゲンシュタインの哲学」というと”難解そうだ”とか”取っつきにくい”というイメージがありますが、意外にも自分にとっては”ドンピシャ(ドハマり)”といった感じでした…。当ブログの主旨である、「配給型社会(非決済型社会)」の理論的根拠に使える…、と思ったからです…。つまり、「(ウィトゲンシュタインの)言語
仲正昌樹さんの『ポストモダンの左旋回』(作品社、2017年)を読了しました。2000年前後に書かれた論考9編をまとめた旧版に、その後執筆された5編を加えた「増補改訂版」です。マルクスから語り始め、柄谷行人と浅田彰、デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、リチャード・ローティなどのポスト・モダンの思想家とその政治思想を分析。14の章はそれぞれ独立しているので、自分が読みたい章だけを読めばいい(実際私も、第4章のほとんどと第5章は飛ばしました)。圧巻だったのは、柄谷行人の『マルクス/その可能性の中心
9月12日。晴れ。阪神のマジックが4になった。それはさておき、『存在論的、郵便的』はようやく第四章にまで漕ぎ着けた。いや、漕ぎ着けたと言うよりも、最初の命題へもどってきてしまったと言う方が正確だろうか。なんとなく先のページをパラパラとめくってみると、変な図がいっぱい書いてあるのが見えてゾッとした。デリダが用いた諸隠喩を理論化することによって編み出した「郵便的脱構築」という概念を用いて、デリダが「なぜ」奇妙なテクストを書くことになったのかを紐解いてゆく。ざっとまとめてみた。たぶんこれでい
2013/2/24今日の朝日新聞の書評で、柄谷行人の肩書が「哲学者」になっているのを見て、驚いた。柄谷は若い頃から、『マルクス、その可能性の中心』など、哲学的な著作を何冊も発表している。それでも彼は、自ら「批評家」と名乗り、どこかでそのことを正当化するような一節も書いていた。ジル・ドゥルーズを巡るシンポジウムで、財津理(ざいつおさむ、『差異と反復』の訳者)さんからカント解釈のデタラメさをさんざん指摘され、その後『批評空間』(←柄谷自身が浅田彰と共に編集した雑誌)掲載時には、財津さん
ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』について、赤ペンでチェックした箇所をザッと再読しました。分からない箇所は再読してもやはり分かりませんが、私自身の備忘録もかねて、印象に残ったことを書いておきます。・哲学を「概念の創造」と定義する以上、「哲学の死」を語るのはナンセンスである。(邦訳・単行本、16ページ)・「思考されなければならないもの」であると同時に「思考されえないもの」でもある「内在平面そのもの」。デリダの言う「一般的テクスト」との類似点・相違点は何か。(87)・われわれは哲学書につ
もはやわたしが否定神学の系譜に属するアントロポゾーフであることが誰の眼にもわたしだけには明らかになった。妻の眼にもようやく明らかになりつつあるのだが、彼女は否定神学という概念をよく(たぶんぜーんぜん)知らない。ひょっとするとわたしは、ナーガールジュナかマイスター・エックハルトの生まれ変わりなのかもしれない(だがそうは断言しない。だが~(゚Д゚))。だがだがddddaaaadoga(ドガEdgarDegas)エロ動画♡っぽ~~んすっぽんfrenchpornoトレビア~~ン
凡人ツァラトゥストラのドッペルゲンガーが凡人ツァラトゥストラと全くおんなじヨーな悟りを(どんちゃんパーティーを)開いたとしたら果たしてこのわたくし凡人ツァラトゥストラはそのドッペルゲンガーに激しく嫉妬することになるのか。と、わたしはわたし自信自身を執拗に追求したのである。***それがデカイのはわたしや貴女のせいではない。あれ(これ)がチーサイのも貴女やわたしのせいではない。断じてナイ。彼や彼女のせい性でも断じてない。っんんんっそれが一体いったいが
8月4日。晴れ。『存在論的、郵便的』p.141まとめデリダによる政治的実践の条件とは、自己同一性を切り崩す「幽霊の声」(不可能なもの)に耳をかたむけ、ともに語ること。
📩◾️『よみがえれ哲学』(竹田青嗣・西研/NHKブックス)②🔹哲学は原理の学《西:哲学は、「誰もが洞察し納得しうるような理路(考え方の道筋)」をつくり出そうとするゲームであり、そこでの諸命題や理論はすべて、一人ひとりが自分で論の道筋を洞察し納得することによってのみ支えられる。そういうものですね。実際には、全員がすべて納得するような考え方はそう簡単には成り立たないとしても、理念としては、誰もがきちんと考えれば、「なるほどそうだ」と思えるものを目指そうとする。これが哲学というゲ
・デリダの倫理「一種の混血ヨーロッパ人」を自認するデリダは、みずからの内部に、ヨーロッパ性と非ヨーロッパ性を認めるが、彼は、これを彼個人の問題であると同時にヨーロッパの問題でもあるとする。彼によれば、ヨーロッパの文化的自己同一性のなかにも、他者への開けが認められる。いや、そもそも自分に自己同一性(アイデンティティ)を与えようとする動きが生じるのは、自分がすでに他者と関係してしまっているからこそである。ヨーロッパの文化的自己同一性は、たえず他者から自分を切り離し、同時に他者を排除しようとする
詳しくは、リブログ記事について読んでみてください。既にご覧になっている方は、改めて「資本主義について」、「共産主義について」、「中央集権国家について」、「宗教と精神分析について」、有効な解決策を、少なくとも僕が見付けていないことを痛感するのである。ドゥルーズ=ガタリ、フーコー、デリダ、リオタールらの出した問題は未解決のままであるし、答えのない問いが哲学といえば哲学であるが・・・・・・。
午前デイケア。このあと内科。昨日の夜から、井筒俊彦『意味の深みへ』を読み始めた。この本にはデリダが井筒俊彦に応答したとされる小論文も収められている。ぼくはデリダにも触れたことがないので、どんな内容か楽しみだ。昔読んだ木村敏の論文集にデリダとかソシュールの名前が出てきた覚えはあるけれども、実際に彼らの本を手に取って読もうと思ったことはなかった。この今読んでいる『意味の深みへ』は面白そうだ。ユングの話も出てきた。ここで人間疎外というのは、先ず人間が自然(母なる大地)との内密な本来的
・デリダの真理だが、そうすると、理性の他者の場合、真理はどうなってしまうのだろうか。理性/言語と事象が一致しないならば、真理はまったく不可能になってしまうのではなかろうか。これはじつにやっかいな問題である。デリダはニーチェ解釈をつうじて真理を考察しているが、ここでは、それを敷衍してみよう。かつては、事象そのものと理性が一体化していた。つまり真理だけが存在している状態だった。ヘーゲルの感性的確信のような状態である。あるいは解釈の地平がただひとつしかない状態である。だがそこに理性の他者が
フランスがアフリカの旧植民地を収奪している。フランス国内でも知られていることだが、この新植民地主義についてフーコーは正面から議論はしていない。デリダも小著「赦すこと」で、ヴィシー政権下でのユダヤ人への犯罪行為に因んで、赦しは乞われなければできない、根源的な悪には赦しはない、赦しに時効はない、といった論点で微に入り細に入り議論を重ねる。そこで取り上げられるのは、もっぱらナチスによる虐殺である。他では、村山首相が日本がアジア諸国で残虐な行為を重ねたことへの謝罪をしたことにも言及している。し
高橋幸宏さんに続き、覚悟していたとはいえ、坂本龍一‘教授’も逝ってしまった。坂本龍一+村上龍‘EV.cafe’で、哲学を知った僕には、坂本龍一教授はもちろん、浅田彰も柄谷行人も掛け捨てる?梯子に過ぎず、〈必要に迫られて〉ドゥルーズ、フーコー、デリダらを読むようになったから、坂本龍一教授はあくまでも音楽家としてしか知らない〈はずである〉。https://youtu.be/5nlIt3tDmgYTheEndofAsia/PublicPressure/YellowMagicOrch
・脱構築フーコーとレヴィナスに対する批判が示すように、デリダの基本的スタンスは、(理性の他者に代表されるような)事象と概念/言語とのズレである。このスタンスは、事象と意味とのズレ、事象と認識とのズレなどとして拡張されてゆく。だが、注意せねばならない。事象は言語によってしか語りえない。だから、事象と言語のズレということさえ、ほんとうは言えない。〈言語の外部に、それとはズレた事象がある〉と主張するのも、やはり言語である以上、その事象はすでに言語に屈服していることになる。だが、その屈服には
科研費によるシンポジウムで日仏哲学会の共催。質疑の一部のみ備忘録。文責はブログ主(主な発言主のみ記載)。ガタリの強度概念:→ガタリは感性的なものとしている。つまり、色合いや感情など。観念は不明。(山森先生)フランス現代思想におけるイェルムスレウ:→ラカンがソシュールやヤコブソンから思考したアンチとして、新たな参照枠になった。イェルムスレウ言語学の限界から、デリダは「原エクリチュール」、ガタリは「強度」を見出した。D&Gの「器官なき身体」もそうかも
・レヴィナス批判レヴィナスは、他者を問い、倫理学(あるいは道徳)を第一哲学だとした。他者は、ギリシア以来の西洋哲学では考えられてこなかった。他者は非ギリシア的であり、おそらくはユダヤ的である。だがしかし、レヴィナスは他者をやはり哲学の概念によって、つまりギリシア的ロゴスによってしか語れない。たしかに、彼は、ギリシア的ロゴスを「光の暴力」(見ることの暴力)として捉え、それに抗して他者を救出する。「全体性」を拒否して、「無限」を対置する。だが、「無限」とは「限定されないもの」であり、「限
池田湖・ダンケンコーヒー私:デリダは書くということ(行為)にも言及していますが、紹介してもらえますか?chatGPT:デリダは「書くこと」という行為を、単なるコミュニケーションの手段ではなく、思考のプロセスにおいても重要な役割を果たすものとして捉えています。彼によれば、書くことは言葉を使って考えを表現するだけでなく、新たな考えを生み出し、世界を再構築するという、非常に創造的な行為でもあるのです。デリダはまた、「言葉」自体も、固定された意味を持つ単なる記号ではなく、無限に連鎖する意味
池田湖・ダンケンコーヒー第一回からの続き4.河合雅司(かわいまさし)京都大学の准教授であり、哲学を専門とする研究者です。彼は、フランスの哲学者デリダやレヴィ=ストロースの考え方に影響を受け、哲学の分野でポスト構造主義的なアプローチを展開しています。彼の著書『地図を解体する』では、記号や言語の解釈における困難私:日本の東浩紀は構造主義に影響を受けていますか?chatGPT:東浩紀氏は、フランスの哲学者フーコーの考え方に影響を受けたと公言しており、その思想的背景から見ると、構造主義
レヴィストロース(1908-2009、フランス)は、人類学者として世界の神話を収集し、人種を越えて存在する神話の構造があると分析したため、現代思想としての構造主義の担い手とされる。それに対して、世の中の事をすべて一定のパターンに落とし込んで解釈することに反発し、物事の差異こそが大事だと主張したジャックデリダ(1930-2004、フランス)はポスト構造主義の哲学者とされている。自分は物事の本質は何かとか、これは俯瞰してみるとどういう事だと考える傾向がある。複雑なものを説明する法則を
哲学研究者である著者は、ある被害の当事者であり、この本はそこを原点にせざるを得なかった彼女の、壮絶な思考の記録である。もちろん哲学論文ではなくエッセイなのだが、あちこちにとても大事な問題が提起されている。たとえば「当事者とは?」「支援者とは?」「研究者の立場とは?」「赦しとは?」、さらに「研究者として訪れた水俣のこと」など、どれも簡単に説明がしきれないものばかりである。そもそも私がこの本を読もうと思ったのは、ある日たまたまチャンネルをあわせたEテレ『こころの時代』という番組で、