ブログ記事51件
Tヘルスケアです。今回は古代都市テーベでした。エジプトのピラミッドはリアルで見たい建築物です。
スカラベは神の虫幼虫と卵の形生命の護符=☥アンク緑色のサソリセルキス女神巳の象形文字巳の象形文字は緑色のさそり座から復元できました太陽がさそり座から昇ると夏至の夜明けです夏至は元日のことでここから大洪水がやってきました穀物神オシリスのトレードマークのXは五穀の五の象形文字です洪水に流されてしまわないように五穀Xはサソリの胎内に避難した光景ですやがて洪水がおわる秋には
2023年3月26日今日のワード『ルクソール神殿』昨日、お風呂に入って湯船に浸かっている時に「ルクソール」と入って来た。何だろ?と思っていたが、いつの間にか忘れていて、髪の毛を洗っている時にまた「ルクソール」と入って来た。あれ?そういえば、さっきも来てたな、忘れんとこ。と思っていたものの、なんやかんやしてたら、すっかり忘れてて。子供とテレビの話しをしてたら、3度目の「ルクソール」が来たので、あー、すっかり忘れてた!ごめん、ごめ~んってな事で、すぐ検索しました。すると、「ルクソ
エジプト南部ルクソールにある、ルクソール神殿は、カルナク神殿から南へ約2.5㎞、ナイル川の流れに沿って建てられてある。この壮大な両神殿は数多くの連続した段階を経て造営されており、それは、第18王朝初期のファラオたちに始まって、第19王朝ラメセス2世とそれ以降の統治者たちによる大がかりな増築によって頂点に達するものだった。カルナク神殿の中の、頭が雄羊、胴体と足がライオンのスフィンクスさん達にご挨拶して、約2.5㎞南のルクソール神殿に行こう!!今度は人頭スフィンクス参道だぁ!!
WaldaWorldEgypt-ValleyoftheKings,ThebesPhotographbyFrancisFrith,1857ThisoldphotographmakestheValleyoftheKingslookdesolatewhencomparedtomoderndaypictures.Photo…t.meエジプトテーベ王家の谷フランシス・フリス撮影、1857年この古い
ファイアーエムブレム紋章の謎(SFC)ではテーベの塔に来ましたとさ。今晩和、私です。ホント、第1部も終わりが見えている状態ですね。ただ、第2部の事を思いますと、使用キャラの面に迷いがありますので、早く終わって良い物かどうか、ほんのり考えてしまうとこです。んで、この、テーベですが、陰険ジジイことガーネフが居ます。しかし、自分で大司祭とか言ってしまうあたりは格好悪く感じますね。画像に出ている敵の勇者とかガーネフ(本体)横の分身は、攻撃範囲に入っていかなければ近
当校の大人の生徒さん達には看護師の方々がいます。医療現場で結核のことをテーベ―と呼んでいるそうです。英語ではTBティービィーでtuberculosisの短縮形です。あえてカタカナ表記をすると、「トュバキュローシス」と読みます。日本語での呼び方とずいぶん違いますね。にほんブログ村
【エジプトの歴史-113新王国時代-18】昨日までは新王国時代の概要を見ていきましたが今日からはそれぞれの王朝を見ていきたいと思います。エジプト第18王朝(エジプトだい18おうちょう、紀元前1570年頃-紀元前1293年頃)は、新王国時代最初の古代エジプト王朝です。政権としては第2中間期のテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)政権である第17王朝と完全に連続した政権ですが、エジプト統一を成し遂げたイアフメス1世以降は第18王朝とするのが慣例となっています。エジプトの再統
【エジプトの歴史-91第2中間期-25】初期の第17王朝の支配者達は第15王朝の権威に対して正面から挑戦することは避けており、諸侯の1つとしてこれの覇権を承認していました。これを証明するのが『アポフィスとセケンエンラーの争い』と呼ばれる後代のテキストです。これによれば第15王朝のアポフィス(アペピ)王が第17王朝に使者を送り、テーベの神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すようにという要求を出してきました。およそ単なる言いがかりとしか考えられないこの要求に対し、第
【エジプトの歴史-83第2中間期-17】第17王朝との戦いやがてテーベの第17王朝が力をつけてくると、彼らは異民族支配の打破を大義名分として第15王朝を攻撃しました。第15王朝と第17王朝の戦いは長期間に渡りましたが、初期の戦いの様子は詳らかではありません。と言うのも初期の戦いに関する記録が数世紀後に書かれた説話しかなく、しかもこの説話が断片的にしか今日に伝わらないためです。第19王朝時代に記録された説話の1つ『アポフィスとセケンエンラーの争い』によれば、第17王朝が戦いを開始したの
【エジプトの歴史-73第2中間期-7】歴代王第13王朝の歴代王と即位順は完全には復元されていません。マネトはこの王朝はディオスポリス(テーベ)の60人の王からなるとしていますが、個々の王については何も触れていません。また、トリノ王名表には少なくとも36人の王が記録されています。明らかに第13王朝の王達の平均在位期間は数年程度でしたが、彼らの多くは考古学的な記念物を残しているため、それらの出土地域の分布から王権が及んでいた範囲が概ね推定されています。また、彼等の系譜を復元する上で手が
【エジプトの歴史-58エジプト中王国-8】『ネフェルティの予言』は理想化された過去の時代である古王国時代の第4王朝を舞台にして神官ネフェルティがスネフェル王に予言を聞かせるという形式の文書です。この文書によればネフェルティはスネフェル王の求めに応じて、全土が混乱と掠奪に晒されることや下エジプト(ナイル川デルタ地方)へのアジア人の侵入のあることを語りました。そしてその混乱状態を救済する者として、アメンエムハト1世が登場するとし、しかもそれを数百年以上前に予言されていたこととすることで信頼性
【エジプトの歴史-56エジプト中王国-6】歴代王第11王朝の王名に多用されたメンチュヘテプ(メンチュ神は満足せり)の構成要素であるメンチュは、テーベで崇拝された軍神であり、当時の政治的な雰囲気を今に伝えます。第11王朝時代の王達はアンテフ1世時代からセヘルタウィ(両国に平和をもたらす者)などのホルス名を用いましたが、メンチュヘテプ2より前の王にとってこれは願望を映し出した以上のものではありませんでした。初期の王達はホルス名をセレクの中に記し、カルトゥーシュの中には誕生名のみ
今日はクルーズでの観光最終日。午前中テーベ、ナイル川西岸、午後はカルナック神殿を見学です。なぜそんなに強行軍かと言うと、テーベの観光は本当は火曜日だったのに、月曜の飛行機が遅れて乗船が火曜になり、観光に間に合わなかったからです。7:00に下船して、まずテーベ、ナイル西岸に行って来ました。ここが王家の谷かぁ〜もっと深く荒々しい谷を想像していました。まぁ現代は道路が整備されているからでしょう、当時は山の奥深い、分かりにくい秘密の場所だったのでしょうね。クルーズのメンバーがほとんど帰ってしまっ
ReisenachTheben(TheAvalonProject,KarinLeitner&JaronChamarel)テーベへの旅-カリン・ライトナー(オーストリアのフルート奏者)&ジャロン・シャマレル
あの大英博物館から。ミイラの方々が6名、その他、棺や副葬品など合計約250点。やはりミイラの方々6名のCTスキャンの映像が見どころです。スキャン画像は緻密でした。病気がわかるのはすごいですね!剥がさなくてもここまでわかるのは博物館にとってもミイラご本人にとってもとてもありがたいのではないでしょうか。でも、2名は不明とのことでした。答え合わせできなかったのは残念。🐄🐄🐄ツタンカーメンの黄金のマスク、レプリカですので、写真撮影可。本物は写
【古代都市テーベとその墓地遺跡】テーベは現在のルクソール。そこに残る古代遺跡群を随分多くのページを割いてお伝えしてきましたが今日はそのまとめです。私自身もすべての遺跡を周れていないルクソールの全貌はきっと数回訪れた程度ではとても周りきれるものではないと思います。紀元前3200年から人が住んでいたといわれるテーベ。テーベは上エジプトの中部、ナイル川デルタから約800キロメートル南に位置し、ナイル川に沿って広がっていました。大部分はナイル川の大湾曲部に沿ったナイル渓谷(英語版)の沖積
【マルカタMalkata古代エジプト最大の宮殿】エジプトのルクソールのナイル西岸にある遺跡。「アトンの壮麗」「歓喜の宮」と呼ばれた第18王朝アメンホテプ3世の宮殿址があります。1888年以来の断続的発掘で謁見殿,南宮殿,北宮殿,王宮殿,中央宮殿,召使の住居などが明らかになりました。泥煉瓦造で,謁見室や寝室にはアマルナ様式の壁画が描かれていました。出土遺物の中心は美しいマルカタブルーの彩文陶器で宮殿址の南東には王が妃ティイのために造った広大な池の跡があり,その排土が細長い丘を形
【ディル・エル・メディナDeirel-Medina職人や労働者の住居跡】Deirel-Medina(エジプトアラビア語:ديرالمدينة)、またはDayral-Madīnahは、王家の谷で18〜20王朝の墓に取り組んだ職人が住んでいた、古代エジプトの労働者の村です。王墓の建造のための職人や労働者が暮らしていた村の跡です。ディル・エル・メディナは、トトメス1世の時代に建設され、「真実の場所(タ・セト・マァート)」と呼ばれていたらしいです。ラムセス朝時代には、約400人の人口があった
【セティ1世葬祭殿戦士であり芸術を愛したファラオの葬祭殿】エジプトの世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」の構成資産のひとつである「セティ1世の葬祭殿」は、ナイル川西岸にあります。古代エジプト新王国時代のセティ1世が建設を開始しましたが、生前には完成せず、息子であるラムセス2世が完成させました。葬祭殿内部には、2つの列柱室と7つの至聖所があります。一般的に至聖所はひとつですが、セティ1世葬祭殿には7つあり、大変珍しい構造となっています。至聖所は、右からホルス神、イシス女神、オシ
【貴族の墓極彩色の壁画が残る素晴らしい墓地群】現在のルクソール、古代の都テーベにある遺跡を数多く紹介してきまたが、その中のハイライトである王家の谷、そして王妃の谷まではご存知でも今日ご紹介する貴族の谷をご存知の方は少ないかもしれません。エジプトの世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」のナイル川西岸、ハトシェプスト女王葬祭殿とラムセウムの間にある山の斜面に、いくつもの穴が開いているのが見えます。それらは、古代エジプトの高官や神官、職人の長官などの墓であり、「貴族の墓」と呼ばれています
王妃の谷(ValleyoftheQueens)は、エジプト、テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸にある岩山の谷にある岩窟墓群です。ファラオが王家の谷に埋葬されているのに対して、主にファラオの妻が埋葬されています。古代、Ta-Set-Neferuの名前で知られていたが、これは「ファラオの子息の場所」の意味で、多くの王子、王女も王妃と共に埋葬されていたためです。エジプト第18王朝、第19王朝、第20王朝の王妃が埋葬されています。最も有名な墓は、第19王朝のファラオラムセス2世の正
ムトは、エジプト神話の女神である。テーベの守護神で夫のアメンがエジプト全土の主神、「神々の王」になると「国家の母」とされました。ムトは、ヒエログリフでは、「禿鷹」で表され、このヒエログリフの読みは、また「母」も意味します。元々、テーベ(カルナック)の地方神であったと考えらていましたが、アメンの妻とされ、またコンスの母となりテーベ三柱神を構成します。エジプト神話では、複数の神々が習合して一つになることがありました。この時、親子関係が変化することなく引き継がれる場合がありエジプト
モンチュは、古代エジプトの神。名前の意味は、「隼」ではないかと言われています。力強い腕持つもの、テーベ九柱神の長です。その姿は、隼の頭に太陽円盤と2枚の羽飾りを着けた姿で描かれています。「戦いの守護者」とされ、冥界を進むラーの乗る太陽の船を悪霊から戦って守ると考えられています。元は、地方神だったがテーベがエジプトの首都になると地位が高まったと考えられ主にテーベで信仰された神様です。特にエジプト第11王朝では、熱心に信仰されました。第11王朝には、メンチュホテプを名乗る
今日は、アレクサンドロス大王を主人公にしたフィクションの名作FirefromHeavenについて書きたいと思います英国の作家メアリー・ルノーさん(MaryRenault,1905-1983)1969年の作品ですルノーさんはオックスフォード大学で英文学を学び、更に同地のラドクリフ病院で看護学を学び看護士として働きながら、執筆活動を始め、作家として成功後、南アフリカに移住古代ギリシアの歴史小説を中心とした執筆を始めますアレクサンドロス大王の少
僕達がハトシェプスト女王葬祭殿を訪れた2ヶ月後、この谷で悲劇が起きた。テロは実に無慈悲だ、何の罪もない観光客を卑怯にも、下の写真の崖の上から機関銃で、62名を殺戮したのだった。日本人のハネムーン客9名と同行した添乗員の10名がなくならた。布石は既に僕たちが滞在中にもあった。このシリーズの最後でもう一度、この事件の顛末を書くつもりです。ただ、ここでブログを終えるわけにはいかないので、ルクソール観光を続けます。王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿以外にも、ナイル川西側に歴史の痕跡が多数あるのだ。
僕は長年ツアコンをやってましたので、いろんな国々に行かせていただきました。BARをやってる今としては、何ともありがたかったなーと感慨に耽る今日この頃です。さて、そんなツアコン時代にエジプトにも何度も行かせていただきました✈️その時の不思議な感覚に陥った時のお話をさせていただきます。場所はルクソールのカルナック神殿🏛古代エジプトにあって最大の神殿です。ここには大きな石の柱が並ぶ大列柱のエリアがあるのですが、その中を散策中にふと奇妙な感覚に陥りました。カルナック神殿といえば常に大勢の世
こんにちは!プレヌスツアージャパンです。先日、女性ファラオのお話をしましたが本日は「最後の偉大な王」と呼ばれた男性ファラオのお話をしようと思っております彼の名前はラムセス3世!”エジプト帝国のファラオ”として大々的な軍事行動と建築事業を行った最後のファラオということから「最後の偉大な王」と呼ばれるようになったそうです。当時エーゲ海から小アジアで暗躍し、各国に大打撃を加えていた「海の民」と呼ばれる海賊集団を撃退したこと、お隣リビアとも二度にわたって戦いを行いその両