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「オーバー・ザ・トップ」(1987)スタローンが腕相撲に挑む父子モノ映画をAmazonプライムビデオで観ました。監督はメナハム・ゴーラン。予告編はコチラ。ニューヨークにある陸軍幼年学校の寮生活を終えたマイケル。そこに父だと名乗る男が迎えに来ます。10年前に母親と別れたリンカーン・ホーク(シルヴェスター・スタローン)で、病床の母親クリスティーナ(スーザン・ブレイクリー)が父子の絆を取り戻させようとして提案した模様。ずっと音信不通で突然現れた父に不信感しかないマイケルは、強引に
1月12日金曜日〜その5P461には、テリー・ファンク選手の名前が出る。(写真)コレクションより、テリー・ファンクのスナップ。サイン入り。
表紙はWWE女子世界王者イヨ・スカイ。巻頭はノア9月17日後楽園ホール大会ウィル・オスプレイ対丸藤正道!こういうピュアなオスプレイが凄い好き!!拳王コラム征矢学が日向小陽と結婚!2人のローション相撲対決をYouTubeで流せとか言って「ホント最低ですね」とか言われてる…サイコ・クラウンとは?そっかブラス・デ・プラタjrなのか。スタン・ハンセンインタビュー故テリー・ファンクについて「テキサスの化石になれ!」について「誰だ!そんな酷い事を言ったのは!」(笑)。ロン・
先月亡くなられたテリー・ファンクさん。追悼の増刊号が発売されたので、購入しました。主な構成は日本プロレスでの来日初期NWA王者時代ブッチャーとの抗争一度目の引退まで復帰後のWWF参戦ハードコア路線となっています。小学生から中学生の頃は、好きなプロレスラーで、1977年の世界オープンタッグ選手権のブッチャーのフォーク攻撃に耐えてからの左の拳打ちに感動したことは今でも忘れることはありません。後に明かされることになるが、テリーとブッチャーが事前に打合せしていたとのこと。いきなり
イヨ・スカイ=紫雷イオ!?アメリカに渡ってリングネームが変わったことまでは知ってましたが、世界最大のプロレス団体の女子王者になってるとは驚いた。昨日は杜の都でタッちゃん初の10勝目を上げ3連勝の我らが埼玉西武ライオンズ。そして、スタン・ハンセンのテリー・ファンク追悼インタビューやイヨ・スカイのインタビュー…そして、墓前にアントニオ猪木のブロンズ像が完成したと伝える、週刊プロレスは絶賛発売中!!
誰もが羨む幸せな家庭十分すぎるほどの富と名声そしてプロレス史に残る伝説そのすべてを手に入れてもなおボロボロの体を飛行機の座席に乗せてアメリカと日本をかけめぐり血みどろになって戦い続けたテリー・ファンクそんな荒馬の生きざまこそまさに「フォーエバー」そのものだったテリーの心がプロレスを求めプロレスファンの心がテリーを求めたテリーとプロレスファンが共有した至福の時間は人類の歴史に「永遠」に刻まれるFOREVERTERRYFUNK
ここらでブレイク、最近気になった記事です。気になった記事という事で、同意賛同したりそれを読者にも求めたりするものではありません。夏の甲子園優勝慶応高の実態は「お金持ちの野球エリート」特待生制度がなく、「3年間300万円超」の“高額学費”で進学を諦める有望選手もhttps://news.yahoo.co.jp/articles/f605f95f55ee4dcd90e1b5bbb3898d97971703c5「私立行きたい」言えた高校無償化、生徒ら期待課題もhttps:/
24日(先週木曜日)、プロレスラーのテリー・ファンクが死去されました。(享年79歳)「テキサスブロンコ」テリー・ファンクさん死去79歳「テキサスブロンコ」の異名で日本でも絶大な人気を誇ったプロレスラーのテリー・ファンクさんが亡くなったことが分かりました。79歳でした。テリー・ファンクさんは1970年代に兄のドリー・ファンク・ジュニアさんとのタッグチーム「ザ・ファンクス」で日本マットを席巻しました。必殺技のスピニングトーホールドでジャイアント馬場さんやアブドーラ・ザ・ブッチャ…news
プロレスラーの『テリー・ファンク』が亡くなったんですね🇺🇸世代では無いのですが、プロレスにハマってた時期があったので、昔の試合映像とかも結構見てました。↑ブッチャー&シーク組との死闘は凄まじいものです。『テリーマン』のモデルともなった選手心より御冥福をお祈りします。今朝は武庫川に行って『武庫川スポーツクラブ』の走集会。9時半練習開始でも暑いです(汗)第4土曜日恒例ですが、来月は同クラブのトラック記録会と日程が被る事もあり、9月は第5土曜の30日開催だそうです🍂今日のメニューは1km
テリー・ファンクは、「外人レスラー」=ヒールという枠を打ち破り、ベビーフェイスとして絶大な人気を誇りました(「テリーマン」というキャラクターが誕生したほど)。最も印象に残っているのは、やはりこちらの対戦(閲覧注意)。MyBrotherTerryFunkwasallinwithlifeandLovedprowrestlingandhisfans-TerryhasbeenBlessedwith2beautifulloving
テリー・ファンクが死去…享年79【週刊プロレス】|BBMスポーツ|ベースボール・マガジン社24日、WWEが公式ホームページでテリー・ファンクさんが亡くなったことを発表した。享年79。テリーは1944年6月30日、アメリカ・インディアナ州ハモンドでドリー・ファンク・シニアの次男として誕生。本名テレンス・ファンク。1965年12月9...www.bbm-japan.comテキサス・ブロンコと呼ばれたテリー・ファンクが亡くなった。正直、寂しさを覚えた。子供の頃『全日本プロレ
興味のない方には申し訳ありませんが、プロレスの話です。23日にテリー・ファンクが亡くなりました。(享年79才)テリー・ファンクといえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの死闘が有名です。試合では犬猿の仲みたいでしたが、アブドーラ・ザ・ブッチャーがフェイスブックにコメントをしていました。「彼のレガシーはいつまでも生き続ける」と・・・・BGMにはマイケル・ジャクソンの「GoneTooSoon」(あまりにも早く去った)を使っていました。この曲はマイケルがエイズと戦った少年の為に作った作
1970年代に、来日外国人プロレスラー兄弟として、一世を風靡したのは、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟によるタッグチーム「ザ・ファンクス」。そのファンク兄弟の弟である「テキサスブロンコ」の異名を採るテリー・ファンクが、79歳の生涯を閉じました。日本プロレス時代に来日し、やがて全日本プロレスで、御大さんこと故ジャイアント馬場の協力者として、全日本プロレスを盛り上げ、更にジャンボ鶴田、スタンハンセン、大仁田厚らといったレスラー達を鍛え上げて、プロレス界に送り出した功労者で
昭和45(1970)年7月、ザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr&テリー・ファンク)が兄弟として初めてインターナショナル・タッグ選手権に挑戦(8月4日、東京体育館)することを告げる新聞広告。対戦相手は8月1日の熊本大会で行われる同タイトルマッチ(ジャイアント馬場、アントニオ猪木vsブルート・バーナード、ムース・ショーラック)の結果を待ってのことだが、当日は大方の予想通り、BI砲との対戦になっている。この試合は8月7日(金曜)に日本テレビにて中継されているが、当日テレビ欄には、ま
昨晩、いきなり訃報を目にした。正直、テリー・ファンクの試合は好きではなかった。ただ、人気絶頂期の入場シーンは、今では考えられないくらいのファンの熱狂ぶりで、強烈な記憶として残っている。そもそも、全日本プロレス自体を面白いと感じなかった自分が、テリーのオーバーアクションに熱狂するファンに違和感を持っていたのは内緒の話…って、全然内緒じゃないし(笑)。結局、テリーの試合を観戦した事は無かったかも知れない。晩年、平成維新軍絡みで観たんだっけか?駄目だ、全然思い出せない。自
色んな時代を生き抜いて来た人だから、みんなそれぞれ思い出のテリーが居るんだよな!朝からテリー・ファンクの訃報。最後の来日は10年前の2013年10月、全日本プロレス@両国国技館。かつてのシーク&ブッチャーとの対決は70年代全日本プロレスの目玉カードでした。男女ともに熱狂させ、親衛隊が華を添え、文字通りのスーパースター列伝でした。御冥福をお祈りいたします🥲#RIPTerryFunkpic.twitter.com/GuVsE6m8Gq—taco(@70sNostalgia)2023年8
23日(日本時間24日)、プロレスラーのテリー・ファンクさん(79)が亡くなった。テリー・ファンク(以下、テリー)が日本でブレイクしたのは、1977年12月に開催された世界オープンタッグ選手権(後の世界最強タッグ決定リーグ戦)。アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組との決勝戦でブッチャーのフォーク攻撃で右腕をズタズタに切り裂かれながらも、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共に勝利を挙げて優勝。一躍、ザ・ファンクスの名がプロレス界で大ブレイクした。テリーは日本ではベビーフェイス、アメリカではヒー
私が買ったプロレス雑誌第1号。別冊ゴング1970年8月号ファンク兄弟来襲展望号2023年8月24日テリー・ファンクの訃報が伝えられる。初めてプロレス雑誌を買った日から、○○年……
プロレスラーのテリー・ファンクさんが亡くなられたことを知りました。リングを離れると優しい表情なのです。WWEのXにて、「【訃報】WWE殿堂者テリー・ファンク氏が79歳でご逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします」単行本『もっと熱く!テリー・ファンク』川野辺修(著)東京スポーツ新聞社出版部外国人選手は、“ヒール”と呼ばれる悪役になる事が多かったですが、昭和時代の外国人レスラーにおいて、絶大な人気を誇ったプ
テキサスブロンコ・テリー・ファンク氏逝去。1970年代NWA世界ヘビー級王者として来日したテリー。後に同じく元NWA王者のドリー・ファンク・ジュニアとタッグを組み人気爆発。自分は兄ドリー派だったが、クラスでも抜群の人気があり、休み時間は「スピニング・トー・ホールド」合戦。ファンクスVSブッチャー&シークの対戦は放送コードギリギリ。土曜日夕方友人宅で大騒ぎしながら観たものだ。竹田和夫の「スピニング・トー・ホールド」は今聞いても上がる。引退表明
昨日の朝にネットで流れたテリー・ファンクの訃報。兄のドリーが4年前のブッチャー引退興行に来日したり、昨年のアントニオ猪木さんの訃報にメッセージを寄せていたが、テリーの姿は出て来なかったので、体調悪くて兄より早く亡くなるのではと思っていたが、案の定になってしまいました。彼の初来日は、1970年の日本プロレス。全日本プロレスの初期の来日までは、日本人対外国人の路線で悪役扱いだったが、反則をしない試合で、徐々にベビーフェイス人気が高まり、ブッチャー、シークとの戦いでその人気がさらに増幅。1979
「パラダイス・アレイ」(1978)テリー・ファンク追悼ということで、スタローンとの共演作を久々に観ました。監督・脚本はシルヴェスター・スタローン。予告編はコチラ。1946年のNYヘルズ・キッチンという貧しい地区が舞台。スタローン自らが歌う主題歌に乗せて、自身が全力疾走する映像で映画は始まります。イタリア系アメリカ人のレニー(アーマンド・アサンテ)、コスモ(シルヴェスター・スタローン)、ヴィクター(リー・カナリート)はビンボーだけど、いつも仲良しの三兄弟。ある夜、(スタローン
今月24日、テリー・ファンクが亡くなったとWWEが発表した。あのテリーが…(以下、画像はお借りしました。)昭和のプロレスファンにとって、テリー・ファンクの存在は決して忘れる事はできないよね。あの頃、自分の通ってた学校では、新日本プロレスだったら、猪木と藤波、全日本プロレスだったら、圧倒的にテリーが大人気だったな。ちなみにオレはお兄さんのドリー派だったけど…(苦笑)遠い記憶を辿ると、、、馬場さんの全日本プロレスを初めて観戦したのは、70年代に品川プリンスホテルでメインイベントが、
今日から夏休み土日も含めて6日間だけだけどね。初日の今日は、、、、、朝から役所行って、その後実家行って終了。つまらない休みだ父が亡くなって7カ月経つけどまだ相続関連が片付いていないので、その辺りの手続きを。多分これでもう全部終わったと思うけど、だいぶ経ってから予期せぬものが出てくるというのもよく聞くし。。。。。。大した資産がなくても相続って色々と面倒ね。ドトールでアイスコーヒー飲んで休憩したりしたけど、入れた直後のアイスコーヒーはかなり濃くて美味しい氷が溶けてくると普
テキサスブロンコテリーファンクが亡くなりました(泣)。Theファンクスとして、兄のドリーファンクjrとの名兄弟タッグでも大活躍。沢山のプロレスファンを熱狂させてくれました。また、アニメキン肉マンの登場人物の1人、テリーマンのモデルになってる事でも有名です。心よりご冥福をお祈りします。ではでは(^^)/。
“テキサスブロンコ”、“テキサスの荒馬”と呼ばれ日米で絶大な人気を誇ったプロレスラー、テリー・ファンクさんが死去しました。79歳でした。24日、世界最大のプロレス団体「WWE」が公式ホームページなどで発表しました。WWEは「WWE殿堂入り選手のテリー・ファンクが79歳で亡くなったことを知り、悲しんでいます。その粘り強さ、心で世界中のファンや仲間たちから尊敬されているテリーは、四角いリングの中にこれまで足を踏み入れた中で最もタフな男の一人として記憶されるだろう」と追悼しました。テリーは19
1970年代~80年代初頭に活躍し、特に日本で大人気だったプロレスラーテリー・ファンクが亡くなりました。享年79歳でした。入場曲の「スピニング・トーホールド」ドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄ドリー・ファンク・ジュニアと共に『ザ・ファンクス』として兄弟タッグでも活躍し、顔も良くて(良いのか?)、ファイトスタイルも感情移入したくなる真っ直ぐなもので、特に日本では、特に女子からは絶大な人気で、男くさい70~80年代のリングで
テリー、お疲れ様でした。そして数々の感動ありがとうございましたご冥福をお祈りいたします
最近、重大発表で物議を醸した週刊プロレスの創刊号に初代タイガーマスクと共に表紙を飾りましたね。テリー・ファンクといえば兄と組んだファンクスのイメージがあり、ブッチャー&シーク組との血の抗争と共にブロディ&スヌーカ組の最強タッグ決定リーグ戦が思い浮かびます。私がプロレスを見出した頃はすでにテリーは引退(1回目)する事を決めており、あまり強いイメージを持つ事が出来ませんでした。引退試合の時も同じ日に行われたジャンボ鶴田がブルーザー・ブロディに勝ち、インターヘビー級のベルト奪取の試合の方が記憶に残
遂にこの日が来てしまった・・・体調が悪い、認知症を患わっているなどの情報は入ってきていたので覚悟はしていたが、それにしても・・・思えば、私が最も熱狂したプロレスラーはテリー・ファンクだった。小学校低学年時にアントニオ猪木の一連の死闘を観たことがプロレスにはまるきっかけだったものの、1977年12月の「世界オープンタッグ選手権」における、テリー&ドリー・ファンク・ジュニアのザ・ファンクスと、“史上最凶悪コンビ”ザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーの抗争は、私に次元の違う興奮を