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Dalida-JeSuisMaladeダリダ(フランスの国民的歌手)-ジュ・スイ・マラッド(私は病気です)Dalida-JeSuisMaladeダリダ(フランスの国民的歌手)-ジュ・スイ・マラッド(私は病気です)Dalida-JeSuisMaladeダリダ(フランスの国民的歌手)-ジュ・スイ・マラッド(私は病気です)ダリダの代表曲「JeSuisMalade(ジュ・スイ・マラッド)」は、「私は病気です」という意味です。恋愛の苦しみから心身が
(1250)「甘いささやき」ダリダ&アラン・ドロンこんばんはあさかぜです。今夜の懐かしの洋楽ベストソング!は「甘いささやき」あのパローレパローレで知られてますね日本では中村晃子さんと細川俊之さんのコラボで有名ですが今日は本家本元のダリダ&アラン・ドロンの紹介ですこの後に彼女は自殺してしまいます。アラン・ドロン(1935年11月8日ー2024年8月18日)はフランスの映画俳優彼も亡くなってしまいましたね1960年
ショッキングなタイトルですが私のことではありません。国際的な人気歌手ダリダの話です。彼女はある時期のフランスを代表する歌手。大人気で不動の地位を築いていて申し分のない美人でスタイルがよくて歌が上手くて・・・でも自殺したんです。54歳。そのニュースが流れたときフランスじゅうがひっくり返りました。誰もが仰天したんです。あのダリダが・・・なんであのダリダが・・・自殺?私もほんとに驚きました。数年前ですけどそのダリダの映画が公開されました。
Dalida-LoveInPortofinoダリダ(フランスの国民的歌手)-ラブ・イン・ポルトフィーノ(ポルトフィーノの恋)「LoveInPortofino」は、イタリアの港町ポルトフィーノを舞台にした恋愛を描く名曲、およびそれを収録したアンドレア・ボチェッリの音楽作品です。1958年にフレッド・ブスカリョーネが発表した楽曲が有名で、ボチェッリが2013年にリリースした同名のアルバム・映像作品は、美しい景色と共に楽しめる傑作です。詳細な情報楽曲の由来:1958年、レオ
5月3日が命日・忌日の有名人・著名人678年(天武天皇7年4月7日)薨去(病)十市皇女さま天武天皇の第一皇女、大友皇子の正妃762年(上元2年4月5日)76歳崩御(?)玄宗陛下唐の第6代皇帝1207年(承元元年4月5日)59歳薨去(?)九条兼実さま公卿1338年(延元3年/建武5年4月13日)14歳薨去(?)恒良親王殿下後醍醐天皇の皇子1481年49歳没(病死あるいは毒殺)メフメト2世さんオスマン帝国第7代スルタンコンスタンティノープルを攻略1616
◇前書きダリダの伝記映画。主演はスヴェヴァ・アルヴィティ(SvevaAlviti)。イタリア人。本作は2017年初めフランスで公開され、2018年5月に日本公開となった。見に行こうかとも思ったが一度見ただけでは分からないのでパス。DVDを待った。2018年末にDVD発売。最初のころは、ヨーロッパや中東で公開されたが「日本では公開されるのか?」と心配した。その後アメリカなどでも公開された。アジアで早かったのは台湾。言語はフランス語で英語版はないようである。中東で多く公開されたのは、ダリダがカ
ラヴ・イン・ポルトフィーノLoveinPortofinoダリダDalidaポルトフィーノと言えば、今では日本人もイタリア旅行で訪れる有名な観光地だが、この歌がリリースされた当時は外国人にはほとんど知られていなかった。イタリア人歌手・俳優のフレッド・ブスカリオーネが1958年に歌い、翌年、ダリダがいち早くフランス語でカヴァーした。ダリダがこのイタリアの楽曲を選んだのは、彼女の持つ地中海風のイメージにぴったりだったからである。彼女は、主にフランス語で歌い、有名なサビは英語で歌った
ラヴァンドゥーでランデヴーRendez-vousauLavandouダリダDalidaこの美しいワルツ曲は、映画音楽でも外国曲でもなく、1958年にダリダのために作られた。ポール・モーリアが作曲し、アンドレ・パスカルが作詞した。ラヴァンドゥーは、南仏にあるリゾート地で、12の砂浜のビーチがあり、当時多くのヴァカンス客が訪れていた。CesoirlameretlecielSesontdonnérendez-vousPourfaireunmonde
Lavieenrose(バラ色の人生)は、もちろんエディット・ピアフの代表曲であるが、歌詞のほんわかした内容に対して歌の方は結構とがった感じがしてしまう。ピアフの声のせいもあるが...それが、ダリダが歌うと、本当に優雅なゴージャスな感じになるから不思議だ。このダリダ・ヴァージョンは、彼女の兄のオルランドがプロデュースしたカヴァー・アルバム"Coupdechapeauaupassé"に入っていて、多分にショービジネス(ミュージックホールでのリサイタル)を意識してアレン
ベサメ・ムーチョBésameMuchoダリダDalidaこの歌は、メキシコの作曲家コンスエロ・ベラスケスが1940年に制作した、世界的に有名なスペイン語のラテン・バラードだ。「もっとキスして」という意味の情熱的な歌詞で、今夜が最後の夜であるかのように愛を乞う内容が特徴だ。その謂わばスタンダードと言える曲をどうして1976年になってダリダがフランス語カヴァーしたのだろうか?2つの理由がある。1970年代半は、ディスコ全盛期だった。ダリダはそのディスコスタイルを取り入れ
サリュ・サローSalutSalaudダリダDalidaこのシャンソンは、「灰色の途(Jesuismalade)」(1973年)と同じく、セルジュ・ラマが作詞し、アリス・ドナが作曲した1975年の作品だ。1975年末にリリースされたアルバム"J'attendrai"に収録されている。1960年代は、流行歌手らしい華やかな楽曲を歌うことが多く、また外国曲のカヴァーも多かったが、1970年代に入り、ダリダはもっと大人のアーティスティックな作品を歌いたいと思うようになった。
ゾルバのダンスLadansedeZorbaダリダDalidaこのシャンソンは、メロディと言い、リズムと言い、ダリダのレパートリーの中では一風変わった楽曲となっている。というのも、このメロディは、フランス語タイトルが"ZorbaleGrec"というギリシャ映画の主題曲(インストゥルメンタル)だった。それにフランス語歌詞を付けて、「ゾルバのダンス」としてダリダが歌った。ギリシャ民族舞踊組曲「シルタキ」がもとになっているので、リズムはゆっくりと始まり、徐々に速くなる。踊り
世界的なレコード売上枚数で見れば、ダリダは1億4,000万枚以上を売り上げたので、バルバラは遠く及ばない(1千万枚程度)。しかるに、日本において特にシャンソン愛好家の間ではバルバラの方が一種の聖域に近い特別な存在で、根強く愛されている。どうしてそうなっているのか?日本のシャンソン界では、歌は「語り」であり「文学」であるという捉え方が強くある。バルバラはシンガーソングライターであり、自身の孤独や過去のトラウマを詩的な言葉で綴った。その内省的でストイックなスタイルが、言葉の機微重み
時の流れにAvecletempsダリダDalidaこのシャンソンは、1970年にレオ・フェレが自ら作詞、作曲し、歌った。フェレは、2番目の妻マドレーヌとの別れによって深い悲しみに沈み、その時期にこの曲を作った。これは、愛の幻滅と、年月が経つにつれて感情が薄れていくことを痛切に実感する歌詞となっている。ダリダは、オリジナルがリリースされた翌年(1971年)にこのシャンソンをカバーした。彼女は、この楽曲を女性的な感性で解釈し、彼女の存在自身に内在する悲劇性・演劇性を付け加えることに
先週の今頃、ニール・セダカの訃報に接したのを機に、彼の全盛期の頃の曲を振り返ってる中で、個人的にはそれ以降の時代の方がやはり親しみを持てるナンバーが多いことに改めて気付かされた。これは当然、生まれた時期の影響が大きいためだが、それでも自分が生まれるちょっと前辺りの曲は結構好みのものが揃ってるのも事実。よくビートルズ以前・以後で音楽の変化を語られるケースがあるが、ビートルズが現役だった頃の、前時代的なポップス系と次世代的なロック系が混在している時が、文字通り混沌としていて、僕には一番面白く感じ
ミスタンゲットが言ったようにCommedisaitMistinguettダリダDalidaこのシャンソンは、ミスタンゲットがレヴューで歌っていた"C'estvrai"(1933年)のリメイクである。メロディはそのままに、新しく歌詞をピエール・ドラノエとパスカル・セヴランが共作でユーモアに溢れた歌詞を書き、トニー・ラロが1970年後半のディスコ調ポップスを取り入れてアレンジした。ダリダは、当時、「私は、このフランス的なレヴューショーの伝統を受け継いでいる。」と観客に語ってい
ある恋の物語L'histoired'unamourダリダDalida「ある恋の物語」は、所謂ラテン・ミュージックだ。作曲は、カルロス・エレータ・アルマラン(CarlosEletaAlmarán)というパナマ人で、1955年に発表された。歌詞もアルマランが書いた。自身の妻を亡くした悲しみを歌った曲という説と、兄弟の妻の死を悼んで書かれたという説がある。翌年、リベルタ・ラマルケ主演による同名のメキシコ映画の挿入歌となった。ダリダ以外にも、トリオ・ロス・パンチョスを始め、世界中
潮風のマリーJ’attendraiダリダDalidaこの歌は、1938年にリナ・ケティが歌った「待ちましょう」をダリダが1975年に現代風のアレンジでリバイバルしたものだ。当時は、世界的にディスコ・ミュージックが大流行しており、ダリダのこの曲は、フランスでは「ヨーロッパ初のディスコ・ヒット」と呼ばれている。レコード会社は日本で発売するにあたり、原曲の「しっとりと待つ」という、どちらかという演歌のようなイメージよりも「軽快で爽やかなダンスミュージック」として日本人に届けたいと考
ラ・メゾン・ダムールLaMaisond'Amourレオノール・ブーランジェLéonoreBoulangerフランス人シンガー、LéonoreBoulangerによるプロジェクト"LaMaisond'Amour"は、ペルシャ古典音楽と現代のフランス前衛フォークが見事に融合した作品(アルバム)だ。単なるペルシャ風ではなく、かなり本格的なアプローチをとっている。ブーランジェは、パリで演劇やジャズ・インプロヴィゼーションを学ぶ傍ら、ペルシャ音楽を専門的に学んでいた。こ
花の時代LetempsdesfleursダリダDalidaこのシャンソンのオリジナルは、1920年代のロシアの歌「長い道を(Дорогойдлинною)」のフランス語カヴァーで、ダリダが1968年に歌った。ダリダが歌う直前に(同じ1968年に)ポール・マッカートニーのプロデュースでウェールズ出身のフォーク歌手メリー・ホプキンが歌った"ThoseWeretheDays"(邦題:悲しき天使)が世界的にヒットしていた。フランス語歌詞は、エディ・マルネが書いた。ロ
独りは嫌だからPournepasvivreseulダリダDalidaこのシャンソンは1972年の作品で、ダリダは当時イエイエ(フレンチポップ)からの脱却を図り、ドラマチックな大人の歌を志向しているところだった。そこで、二人の才能ある作家と出逢った。セバスチャン・アモローゾ(SébastienAmoroso)は、誰もが抱くような独身者の孤独について歌詞を書いたが、それが聴いた人にはまるでダリダの心境を描いたように思われた。彼女は、単に歌うだけでなく歌詞を体現してしまっ
私を踊らせてLaissez-moidanserダリダDalida1979年にリリースされたダリダのこの曲は、当時流行のアメリカのディスコ・シーンから持ち込まれたと勘違いされる方もおられるかもしれないが、それには理由(わけ)がある。オリジナルは、イタリアのシンガーソングライター、TotoCutugno(トト・クトゥーニョ)が書いた少しセンチなミディアム・テンポのバラードだった。それをディスコ調にするために、PierreDelanoë(ピエール・ドラノエ)がフランス語歌詞
金井克子他人の関係金井克子の1973年のヒット曲「他人の関係」は、あの独特の振り付けとクールなビジュアルで、日本の歌謡史におけるエポックメイキングとも言える。この楽曲は、日本の歌謡曲が演歌的な叙情性から脱却し、ビジュアルとリズムで魅せるポップスへと進化する大きな分岐点だったと言っても決して過言ではないと思う。そして、金井克子の当時のビジュアルやパフォーマンスにおいて、ダリダ(Dalida)の影響があったと私は思っている。ダリダの長身で彫りの深い顔立ち、そして長い手足が特徴は、金井
夜は女の匂いFemmeestlanuitダリダDalida1970年代中盤になってダリダは、単なる流行歌手であることに飽き足らず、新たなる自分の見せ方を模索しているところだった。リサイタルでは、ショーガールを一つのコンセプトとしてリサイタルをアメリカン・レヴューのように演出することを企画していた。そうした時期に、JeffBarnel(ジェフ・バルネル)が彼女の作曲家としてプロジェクトに参加した。さらに、そこへ世界を席巻するディスコ・ブームがフランスにも到来した。ダリ
ルイのためにPourtoiLouisダリダDalidaこのシャンソンは、米国の俳優・歌手TonyAnthonyが歌った"Forthefirsttime"のフランス語カヴァーで1960年にダリダが歌った。題名からしてルイ・アームストロングへのオマージュかと思ってしまうが、実は、ルイという彼へのラブソングの形式となっている。彼は、私にルイ・アームストロングをはじめとして、ニューオリンズ、ニューヨークのハーレムやブロードウェイの話をしてくれた。そして、私は憧
《お知らせ》27日(金)すなっく神様スペシャルセッションをしますよtarot.nekohttps://www.instagram.com/tarot.neco?igsh=MW9iNWhlb2RuNWM3aw==~GROWSTONEOHMOYA~千葉県袖ヶ浦市神納4135-440438(62)2207〜CafeMA:AM〜08010423939✉お問い合わせ先ohmoya39@yahoo.co.jp◆母家・石のコンシェルジュMayumi◆https:
1990年代後半から、度々ニュース・ソースが「ダリダの邸宅が売りに出されている」とアナウンスすることがある。それって本当なのか?1987年にダリダが亡くなった後で、ダリダの邸宅が売りに出されたのは事実だが、余りに大きくて広かったので、幾つかのアパルトマンに区分けされて、何人かの区分オーナーが共同で所有することになった。それで、時々、そのオーナーの一人が自分の所有区分を売りに出すことが発生するようになった。不動産の買い替えやオーナーの死亡など様々な理由によるのだが、何せあのダリダ
それぞれのテーブルTablesséparéesダリダDalidaアナザー・ストーリーダリダの「それぞれのテーブル」は、日本でもよく歌われているが、その歌へのオマージュが日本で存在することはあまり知られていない。松任谷由実が沢田研二のために書いた「静かなまぼろしQuietIllusion」(1989年)がそれだ。まんまなところが逆に素晴らしい。フランソワーズ・アルディをモチーフにした「私のフランソワーズ」があったりして、ユーミンがシャンソン好きだというのは、ど
昨年後半、それに年明けに観たフランス映画「ファンファーレ!」と「サムシング・エキストラ!」。(最近のフランス映画の邦題は、必ずといっていいほど英語。)どちらもフランスでは大ヒット。でも、日本では、あまり話題にはならなかった。この2作とも、今のフランス映画らしい佳作だった。格差など社会問題を扱いながらも、決して深刻にならずに、コメディでコーティングした佳作。今のフランス人が求める娯楽映画のかたち。この2本に共通しているのは、社会問題を含有したコメディというだけでなく、あるアー
男の人生Unevied’hommeダリダDalidaこのシャンソンは、1973年にハンガリーのポップスにジャンマリ・べリア(Jean-MarieBériat)がフランス語歌詞を書き、ダリダが歌った。1960年代からのイエイエ(フレンチ・ポップス)ブームが去り、ダリダは深みのあるメランコリーで達観したような大人の歌を求めていた。歌詞では、それまでの性的対象や人形のような自分の存在から解放されたいという心の叫びが書かれている。Jeveuxvivreune