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ずっと不思議なことがあります。それは、真理との邂逅や、生死を超えることについて知っている人が、なぜ「いま」求めないのだろうということです。「そんな世界があることを知らない」という話ではありません。他力信心という世界があることを知っている。生死を超えるということを知っている。死の恐怖を超えて生きる人がいることも知っている。それでも、「いつか聞いてみよう」「もう少し勉強してから」「時間ができたら」「そのうち」となる。なぜなのでしょうか。「知っている」と「自分自身の問題と
日本の哲学や西洋心理学の研究者の中には、宗教を、文化、習俗、象徴、社会制度、あるいは心理的機能として捉える人がいます。宗教をさまざまな角度から研究することには、もちろん意味があります。しかし、そこで気になることがあります。研究者自身は、宗教が扱っている根本問題を、自分自身の問題として問うているのでしょうか。たとえば、「私は死んだら、どうなるのか」「死の恐怖を、本当に解決することはできるのか」「真理との邂逅とは、どういうことなのか」こうした問いを、自分自身の生死に関わる問題として、
朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』の内容から、ふと、某真宗系宗教団体のこれからについて考えました。私は、その団体の会長が他界した後、組織がどのような方向に進んでいくのかを、いま、黙って見ています。その会長は、既存の宗教団体では今生を救われる教えが説かれていないという、極端なストーリーを描いてきました。自分自身がかつて所属していた古巣の団体についても否定していました。そのうえで、長らく与党と連立してきた政党の支持母体を思わせる組織をつくり、献金や人集めによって大きな建物を建て、人
いまここではない人を待つ気は、毛頭ありません。「いつか他力信心を賜りたい」「そのうち聞けばいい」そういう未来を前提にしている人を、私は相手にしません。いま、ここで聞きたい人だけが聞けばいい。いまここではない人は、私ではなく、待っていてくれる人から聞けばいいのです。他力信心を、いつか賜るものとして先送りするのではありません。「いつか」ではなく、いまここで、自分の生死の問題として聞く。私は、いまここで他力信心を聞きたい人に、話す用意があります。
ある真宗系宗教団体に長期間所属していました。その中では、献金や人集めが常時、行われていました。そこで見てきたこと、経験したことが、大きな反面教師になっています。現在、自著を読んでくださった方を対象に、一度だけ、一時間程度のお話会をしているのも、その経験と無関係ではありません。他力信心を求める人たちを集めて、団体を立ち上げることはしません。「先生」が私で、「生徒」をお相手とする関係にもしたくありません。先に他力信心を賜った私が、お話会の参加者と向き合う。ただ、それだけです。
人と人との関係を、「自分が勝つか、相手が勝つか」「自分が上か、相手が上か」という勝ち負けでしか考えられない人がいます。相手より優位に立つこと。相手の間違いを指摘して、自分の正しさを証明すること。負けないこと。相手に勝つこと。そうしたことが、人生そのものの価値になっているのです。そのような世界観の中では、この世で当たり前だと考えられていることとはまったく異なる、他力信心の世界があることを認めるのは難しいでしょう。他力信心は、相手に勝って自分が救われる世界ではありません。自
本に書かれている他力の信心について、「これは本当にあることなのだろうか」「本当に、こういう信心を賜ることがあるのだろうか」そう思われた方に、実際に著者である私に逢って、直接話を聞いていただきたいからです。本を読んで、分からないことや疑問に思うことがあれば、直接聞いていただきます。時間内で、他力信心について聞きたいことを聞き、自分が納得できるまで尋ねていただく。私は、その方が抱えている疑問に対して、私にできる限りお答えします。私にできるのは、ここまでです。話を聞いて、「自分も他力
物心ついて以来、私は、真理と出合いたい。迷った境涯を抜けたい。二度と死なない身になりたい。もしそれを体験できたなら、同じようになりたい人たちに話したい。そう願いながら生きてきました。真理との邂逅を果たしてから現在まで、足かけ18年。私はこのことを実践してきました。私は、いつも「いまここ」で救われたかったのです。でも、自分が他力信心を賜る前、これを直接、私に話してくれる人には出合えませんでした。多くの人は、煩悩のことを問題にします。もちろん、煩悩から出る言動によって苦しむこ
足掛け18年、自著を上梓する前から現在に至るまで、他力信心を求める方々とご縁を重ねてきました。メールや電話などでお問い合わせをいただいた方だけでなく、実際に京都まで来られ、対面でお話しした方も数多くいらっしゃいます。はじめの頃は、一人の方と何度も繰り返しお話しすることもありました。しかし、何度もお話ししたその方も、その後、ほかの方の話を聞かれるようになりました。この経験から、私は、対面でのお話を何度も繰り返すのではなく、一度のご縁を大切にして、その一度で、その方自身がいま何を求めているの
他力信心を賜ると、人格者になると考える人があるかもしれません。しかし、他力信心を賜ることと、世間的な意味で立派な人、人格者になることとは全く違います。他力信心とは、自分の人格を立派にすることではありません。生死の問題を前にしたとき、自力ではどうにも間に合わない、屍のような自分の姿を知らされることです。世間では、努力すれば報われることがあります。努力によって能力を高めたり、人間関係をよくしたり、生活を整えたりすることもできます。しかし、生死の問題は、それとは正反対です。自力で頑張
9月になり、5月から8月までのジムのお試し期間も終わりました。8月の最後の方に参加したレッスンで、水中ダンベルの時間に流れていたのが「やさしさに包まれたなら」、ズンバで流れていたのが「真夏の果実」でした。インストラクターも参加者の多くも歌詞を口ずさみながら、身体を動かしていました。みんなで歌いながら運動する、楽しいひと時でした。そのときは、何も考えずに、ただ楽しく歌いながら身体を動かして過ごしました。レッスンが終わってから、ふと、そのとき聞いた歌詞と、以前、私自身が作詞作曲して
「AIと信心の沙汰をして、他力の信心を賜った」という人がいます。今回は、これについて書きます。AIとの対話によって、自分の疑問が整理され、阿弥陀如来の本願について深く考えるようになることはあります。しかし、それをそのまま「AIとの信心の沙汰によって、他力の信心を賜った」とすることには、慎重である必要があります。AIは死にません。死ぬいのちを生きている人間のように、死の恐怖を感じることもありません。「死ぬのが怖い。何とかこの恐怖を解決したい。しかし、自分の力ではどうにもならない
「人からどう見られているか」が常に気になる人間の境涯自分はどう思われているだろう。嫌われていないだろうか。認めてもらえているだろうか。あの人より自分はどうなのだろう。けれど、少し立ち止まって現実を見れば分かります。道ですれ違った人のことを、私たちはいつまでも覚えていません。みな、自分のことで精一杯です。仕事のこと、家族のこと、今日の予定、自分の悩み、自分のこれから。他人の人生を四六時中考えている人など、ほとんどいません。それなのに、自分だけは他人からずっと見られている
他力信心をお伝えするご縁の後には、少し考えさせられることがあります。私の話を、そこで終わらせないでほしいのです。これまで信心の沙汰のご縁によって他力信心を賜った人たちは、一緒に求めている有縁の人たちに、自分がそのとき聞いたことを、自分の言葉で話し始めました。誰かに頼まれたからでもありません。美味しいものを食べたから、「これ、おいしかったよ」と人に教えるようなものでもありません。無常は迅速です。だから、聞いたことを「そのうち」ではなく、できるだけ早く伝えようとされたのです。そうし
迷った人間から太鼓判を押してもらっても、その太鼓判が永遠に続く保証はありません。昨日まで「好きだ」と言っていた人が、明日は違うことを言うかもしれない。人の気持ちはコロコロ変わる可能性があります。たとえ何十年も変わらずに「好きだ」と言い続けてもらえたとしても、その人が死んだら終わりです。それを人生の確かな拠り所にはできません。他力信心を賜った人は、真理の中にあります。真理は、その存在に気づくことで、常に確認しなければならないものではなくなります。真理は、常に共にあるものへと変わるの
これまでお話会、信心の沙汰をしてきて、ときどき考えさせられることがありました。お話会を終えたあと、「有難うございました」という言葉もないか、それより先に、「一つ誤解があります」と、自分の言ったことについて説明や訂正をされることがあります。もちろん、自分の事情を伝えたい気持ちは分かります。しかし、私が大切にしているのは、自分の言い分を分かってもらうことではなく、真理の前に自分自身が向き合うことです。信心の沙汰は、質問をして答えを得る場でも、相手を論破する場でもありません。聴聞ホッピングや
浄土真宗の法座で、他力信心の話の中で、「自力は間に合わない」「阿弥陀仏におまかせする」「ただで救われる」という言葉を聞くことがあります。しかし、私は不思議に思うことがあります。ただ、話を聞いただけで、それで満足できるのだろうか。なぜ、その話が自分自身の問題にならないのだろうか。その違いは、生死に対する切迫感の有無にあるのではないでしょうか。「いま死んだら、自分はどうなるのか」「この迷った世界の中で、これからも生きていくのか」「こんな迷った世界で、一秒たりとも生きていたくない
お話会をしていると、ときどき不可解な参加者の態度に遭遇します。話を聞きに来たはずなのに、途中から話し手を評価する側に回るのです。「○○先生はこう言っていました」「それは知っています」「それなら、こういうことですよね」と、自分の知識や有名人の言葉を持ち出して、自分の方が分かっているように振る舞う。話し手がまだ話している途中なのに、「分かりました」と言って、話を終わらせようとすることもあります。私は、こうした姿を見て、なぜ自力は、他力から逃げながら、あれほど威張るのだろうと
これまで18年ほど、信心の沙汰を重ねてまいりました。信心の沙汰に来られる方は、みな受け心を整えておられます。自らの疑情と真摯に向き合い、自分自身の問題として話を聞くために来られます。自分の力では疑情を晴らすことができないことを知らされ(信知)、他力に救われたとき、自ずと「有難うございました」という言葉になります。これは、単に話の内容を頭で理解したという意味ではありません。自力の無功を知り、他力に救われたことへの全存在的な応答です。ところが、お話会では、稀に違った受け心で来られる方が
宗教には、人間の苦しみや生死の問題に向き合い、そこからの救いを示してきた歴史があります。しかし、その救いをどのように人へ届けるのかという問題は、もっと真剣に考えられてよいのではないでしょうか。多くの宗教では、教典や教義を読み、話を聞き、言葉の意味を理解することが重要になります。ところが、ここには大きな壁があります。外国人には、まず言語の壁があります。子どもには、抽象的な概念を理解することの難しさがあります。文字を読むことができない人もいます。そして、いま死を目前にしている人には
聴聞ホッピング、AI壁打ち、タナトフォビア(死の恐怖)。一見すると別々の問題に見えるこれらの行動には、いつまでも「終わらない」「きりがない」という共通の構造が存在します。どれほど話を聴きに行っても、AIに問い続けても、情報を調べ尽くしても探求が終わらないのはなぜでしょうか。そこには共通して、最後まで「求めている自分」という主体が消えていないという問題が隠れています。1.「求めている自分」に満足してしまう構造法座や講演会を巡る「聴聞ホッピング」、AIに何度も質問を投げかける「AI壁打ち」
真理はいまここしかありません。選ぶのでも、選ばれるのでもありません。探すのでもありません。この境地に至るには、真理を徹底して抽象化することが必要です。少しでも真理を具体的な何かにして握りしめていたら、この境地には至れません。真理を具体化すれば、「これが真理だ」「これを選べばいい」「これを信じればいい」となります。そこには必ず、選ぶ側と選ばれる側が生まれます。そして、真理を探し続けることになります。しかし、真理には、色も形も香りも何もありません。ここに、私が博士
お話会を開催するにあたり、自著の通読、おひとり一度限り、一時間までといったいくつかの条件をお願いしています。そのため、私の投稿を見て「少しハードルが高いな」と感じられている方もいらっしゃるかもしれません。ともすれば、少し勝手な条件に思われてしまうのではないかという懸念もありました。それでも、この条件をご理解いただいたうえで「お話会に参加したい」と申し出てくださる方がいらっしゃいます。本当に有難く、不思議で、嬉しいことです。自著は、他力の信心を賜った視点から書いています。一度読ん
お話会の前に、私はいくつかのことを確認しています。そもそも本当に生死の問題で救われたのか。どのように救われたいのか。そして何より、いまここで救われたいのか。「一度、話を聞いてみたい」という表現で申し込まれる方もいます。しかし、お話会は一度きりです。二度目はありません。また、一度、一時間という限られた時間の中で直接話を聞いても、必ず救われるということではありません。そもそも、ただ先に他力信心を賜っただけの私は善知識でもなく、ましてや仏でもありません。相性が合わ
今生で、臨終を待つことなく他力信心を賜ることができました。それは、私一人の力でたどり着いたものではありません。産んでくれた親はもちろん、祖母、妹、弟、大学までの教師、学友、仕事仲間、そして、これまで関わってくださった某真宗系宗教団体の人たち。その一人ひとりが、陰に陽に私の人生に関わってくださいました。信心を賜って以降に通った大学院の関係者や、お取次ぎをさせていただいた方々、所属寺をはじめとした僧侶の皆さまからも、真理を味わうための多くのヒントをいただきました。すべてがご縁だった楽しかっ
私は、他力の信心を賜る以前から、どうしても理解できないことがあります。それは、人間同士の中で優位に立ちたい、相手より上になりたい、人から褒められたいという気持ちです。もちろん、人間ですから、誰かに「よくやったね」「ありがとう」と言われれば嬉しいことはあります。仕事を認められたり、自分がしたことを評価されたりすることも、決して不自然なことではありません。けれども、それが自分の存在価値を支えるものになることが、私にはよく分かりません。私は、信心を賜る以前から、「人間の中で自分がどの位置
最近、人と話していて、どうしても話が通じないと感じることがあります。単に知識が違うからではありません。言葉の意味を理解できないからでもありません。もっと根本のところで、物事を見ている範囲そのものが違うのです。私が最近、特に感じているのは、「人間同士の間のことでしか比べることができない人は、真理というような、もっと大きなことが見えにくい」ということです。ここでいう「器が小さい」というのは、その人に人間としての価値がないという意味ではありません。その人が世界を認識する範囲、物事を見る
私たちは、自分が思っている以上に、自分のことを心にかけてくれる人がいるとすれば、それは親かもしれません。親はわが子を案じ、何とか幸せになってほしいと願います。一方、恋人や夫婦であっても、人間同士の関係にはさまざまな事情や限界があります。価値観の違い、環境の変化、すれ違いによって別々の道を歩むこともあります。そのため、離婚という選択に至ったとしても、そこにはそれぞれの事情があったのだろうと受け止めることができます。しかし、真理のはたらきは人間の愛情とはまったく異なります。阿弥陀仏の本願は、私が
17年前、イラストを使ったワークショップを作ったときに大きな発見がありました。長い文章や言葉で説明するよりも、イメージで感じてもらうほうが、すっと心に届き、スムーズに「他力」の感覚をつかんでいただけたのです。言葉を追うとどうしても頭で考えてしまいがちですが、直感的な表現なら理屈抜きでダイレクトに伝わります。昨年の韓国でのゲームジャムを経て、この思いはさらに広がりました。イラストに音や動きを加えたり、VRやゲームで「その空間に入り込んで体験する」形にできたら、きっとさらに面白くなるはず
死後はあるのか、ないのか死の恐怖について語るとき、多くの人は、「死後の世界はあるのか」「死んだら無になるのか」という問題を思い浮かべます。けれども、死の恐怖の核心は、単に死後があるか、ないかということではありません。死後、自分がどうなるのかが分からない。そして、さらに深いところでは、分からない後生を、自分の力では決着できない。そこに死の恐怖があります。「死後は無である」と断言する人もいます。「死後も何かが続く」と信じる人もいます。しかし、どちらであっても、生きている今の自