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「タナトフォビア」=タヒ(4)恐怖症について皆さんは自分や大切な人が亡くなることを想像してとても恐ろしくなってしまうことはありませんか?多くの人はあると思います。タヒを恐れることは、動物として生きている以上、当たり前の本能だと思います。今こうして私が2025年に存在していますが、何千年もの間、私の先祖もこうした恐怖を抱えていたのでしょうね。まぁ、タヒ=怖い、っていうのは、子供の頃から知っているようなことであって。そんな中でも、皆、分かってるけどどうにか人生を生きていますよね。
実際、千里も道のりがあるわけではありません。述べてきたように、ほんとうのほんとうは救われるのは「ただいま」であるはずですから。しかし、現実的には、なかなか救われない方々もおられます。でも、この死の解決への道が誰もが初めは「疑い」から始まる、ということは言えます。世の中ほんとうにたくさんの宗教がありますが、「疑い」から入る宗教というのは、ぼくも他に聞いたことがありません。どこぞの宗教も「信じる者は救われる」と、いうではありませんか。ただ、求道のうちで
わたくし、とんでもない誤報をこのブログで伝えてしまいました。亡くなったのは●ではなく、犬でした。黒丸にしたのは、覚えている方は思い出してください。さすがに一度死んだことにした人のことをもう一度書けません。よく解らない文章ですね、いろいろと推察をお願いいたします。さて、愛犬が亡くなりました。ぼくにとっては遠くに住んでいた犬だったので、実感はほとんどありません。でも、たまーに帰省して、会えた時はすんごくかわいくてとってもかわいがってあげまし
結局、善は何一つできないわたしたち。ということは今まで再三述べてきました。そもそも、善はできないのだから、善をして死から助かる、ということはあり得ない、ということも申し上げてきました。じゃあ、悪に向かって悪をし放題でもいいのか、というとそれも違います。あくまで人間社会における、善や悪といったものは存在します。悪をし放題では、社会がつぶれてしまいます。こういった善悪を、相対善や相対悪と呼ぶことにしましょう。人間社会(娑婆)での善悪は、あく
タナトフォビアの皆さん、念仏を称(とな)えてみましょう。念仏とは、主には「南無阿弥陀仏」のことを指します。読み方はいろいろあり、お好みのものをどうぞ。・なむあみだぶつ・なもあみだぶつ・なんまんだぶつ・なんまんだぶ・なんまんだ・なまんだ←お忙しい方におススメ・なまんだぶつ・なまんだぶ…なんでもいいんです、中にはサンスクリット語で・ナーモ・アミターバと、あえて称える方もおられます。ここで、あらかたの反
さて、親鸞会に入会したはいいものの(?)ぼくはいろんな点において会内で違和感を覚えるのでした。独特の不自然さ。たとえば、新入生勧誘(巷では新歓、と書くのが普通ですが親鸞会内では新「勧」という字を使いました)のときの導入的ご法話(といっても、新入生にはご法話とは言いません。東洋哲学を学ぶ会、などのダミーサークル名を使って勉強講座として知的好奇心を煽るような形で成されていました)で、講師の方(院生と名乗った専任講師)が大して面白くもないギャグめいたことを時折
煩悩と本能。発音が似ていますね。アクセントは違いますが。仏法的に考えると、この2つはどうも連関しているようです。わたしは、「ある意味で」死の恐さを乗り越えた、と言っています。それはあくまで「ある意味で」なのです。たとえば、不注意で道路で車とギリギリすれ違ったとします。そんな時、わたしはヒヤリとします。ああ、怖かった、と感じます。このように、「本能では」死をやはり、恐れています。もし、本能による死の恐れが無かったらどうなるで
阿弥陀仏?それもいろんな仏のうちの一つでしょ?それがなんで真理と呼べるの?と思われる方々、多いと思います。また、ホトケかなんか知らないけれど、それだけが真理などと、よくも言えたもんだ。と、のっけから仏、仏法を否定する人も(ここまで読んできても)居るかもしれません。また、多いのは相対論的に「ああ、あなたは仏や阿弥陀仏といった存在を真理と思うのね」と思う人も、もちろんおられることでしょう。そういう方なら今回の記事は必見です。答えは割
今日の言葉、難しいですねえ。「定言命法?なんじゃそりゃ」という方がほとんどだと思います。カント哲学の言葉ですが、わたしも細に穿って語れるほど詳しいわけではありません。ですので、極力平たい言葉でご説明していくのでご安心して読み進めてください。要するに、本当の善はありうるのかという話です。定言命法とその対の言葉である「仮言命法」についてまず、お話します。これらは、ある行為をする際の「基準」のようなものです。まず、仮言命法=「もし~し
煩悩、って皆さん聞いたことありますよね、たぶん。除夜の鐘で108回鳴らす、あれです。なぜ108なのかと言えば、人間には108の煩悩が有って、鳴らすのはそれを消すため、らしいです。108の煩悩は、もちろん仏教の説です。ぼくは108の煩悩すべてを把握しているわけではありません。というかこの煩悩というものは、非常に複雑に絡まっており、その絡まりを足していくと84,000の煩悩がある、という説もあります。すごいですね。ところで、ここで人
はい、ちょっと今日は問題発言かもしれません。今回ぼくが述べることは、ぼくの所属する仏法グループ(サンガ、といいます)でも意見の割れるところかもしれません。しかし浄土真宗においてとても重要なところでもあると思いますのでよおく考えて読んでみてくださいませ。まず、浄土真宗はその信徒に信仰を「強いる」ことはありません。「信仰を強いる」とは、たとえばこれこれこういう教義を信じないとあなたは救われませんよ、とかそういったことは無いということです。そ
親鸞会体験の続きを書いていこうと思います。どんなんだったかお忘れの方はテーマ「わたしの経歴」を遡ってみてください。前回はこちら↓『わたしの経歴⑩親鸞会に入会するまで一②』①からだいぶ空けてしまいました。こちらが入会するまでその①です⇓『わたしの経歴⑨親鸞会に入会するまで一①』ぼくがなぜ親鸞会に傾倒していったか。それは…ameblo.jp親鸞会を前にして、まず、宗教的雰囲気がどうしても肌に合わない。たとえば、仏壇の存在。そして、それに向かって手
初めまして。塩さんと申します。今回は私自身が持つ“ある恐怖症”についてお話したいと思います。人生で初めてのブログ執筆なので、少々拙いところがあるかもしれませんが。最後までお付き合い頂けると嬉しいです。早速本題ですが皆さんは『タナトフォビア』という恐怖症をご存知でしょうか?日本語では『死恐怖症』と訳され、その名の通り「死」を過剰に恐れてしまう人に当てはまる恐怖症です。「死ぬのが怖いなんて当たり前じゃない?」と思う方もいれば、「死んだら“怖い”という感情もなくなるのに、なぜ恐れるの?」と思
どうも、またまた空けてしまいました。今度は半年近くも!ご無沙汰していてなんですが、今日は本の紹介をさせてください。浦出美緒さんという方の、対話本です。『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった』(SB新書)浦出さんという方は典型的・正統的なタナトフォビアで、医師、宗教社会学者、神経科学者、哲学者、作家、の5人と対話しています。対話を通して何かタナトフォビアの解決の糸口になるものはないか、と模索されているように思えます。宗教や哲学や科
こんにちは!!先日、「死恐怖症」=「タナトフォビア」について、本を書かれた、浦出美緒さんにお話を伺うことができました。「死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。/浦出美緒さん・著」死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。(SB新書)Amazon(アマゾン)そもそもは、Xで『DEATHフェス』という、一見、ハードめなタイトルのイベントを目にしたことがきっかけで、最終的に、美緒さんのインタビューまで
「死ぬのが怖い」そう感じることは、もしかしたら誰にでもあることかもしれません。でも、僕の場合は、それが日常生活に支障をきたすほどの、強烈な恐怖なんです。ずっと、自分のこの感情はただの不安障害だと思っていました。でも、自分のことを不安障害だと思えば思うほど、様々なことに不安を感じてしまう悪循環に陥っていたんです。そんな時、「タナトフォビア」という言葉を知りました。その内容はとてもシンプルで、日常生活に耐え難い苦痛を与えるレベルで死に恐怖を持つ症状のこと。まさに、僕の抱えている感情そのものでし
皆さん、とてもお久しぶりです。いろいろありましたが、再びブログを書き始めます。まずは、わたしのお同行(仏法を聴いている知人・友人のこと)の割と最近始められた、YouTubeをご紹介させていただきます。「東野たま」さんという方です。⇓-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。www.youtube.com⇑とても頼れるアニキ(年下
今日は、仏教において無常と並んで最重要の概念、「罪悪」についてです。多くの宗教に、罪悪の概念はあると思います。たとえば、キリスト教。生まれた時から「原罪」という罪を誰しも抱えているとされています。その源泉は、人類の祖先?であるアダムとイブが神との約束を破った(リンゴを齧った)からだそうな。真宗徒のわたしからすると呆気にとられてしまうのですが、こういう教えもあるのだなあと。仏教では、諸派で共通して、罪悪とは「自分がタネとなって」生み出さ
祇園精舎の鐘の音諸行無常の響きありという有名な名言があります。ここで、諸行無常とはどんな意味でしょうか?はい、タイトルにもある通り、すべてのものは崩れ去る、ということです。単に「無常」ということの方が多いですね。仏教の根本概念の1つです。すべては崩れ去る、持続しない、流れていく。このことは、日本の美学にも深く根差していると言えます。桜が散る情景などは、その典型でしょう。しかし、この儚さの情感の美だけを指すのではありません。
①からだいぶ空けてしまいました。こちらが入会するまでその①です⇓『わたしの経歴⑨親鸞会に入会するまで一①』ぼくがなぜ親鸞会に傾倒していったか。それは「死の解決」ができると聞いたから、だと、言いました。あれだけ関心ない、いや、毛嫌いしていた宗教に近づく、という…ameblo.jpとにかくうさんくさかった会長の講演会、ぼくは半分怒りを持って、残りは悲しさを持って泣きながら会場を後に帰途に就いたのでした。会を知らせてくれた恋していた彼女にも何も告げずに出てい
アペイロフォビアという言葉をご存知でしょうか?ある意味、タナトフォビアと対極にあるような、それでいて実は両者は密なつながりがあるようにも思われる、恐怖症です。これは、無限・永遠恐怖症のことです。いつまでたっても、死を何度乗り越えても、「私」は持続し、ずっとずっと終わりが無いことに対する心的恐怖症状です。また、無限に続く(かもしれない)宇宙への恐怖症でもありますね。これまた、タナトフォビアと同じくらいに厄介な病状です。タナトフォビアが、死を終
自分こそが、自分だけが「正しい」、あるいは自分たちこそが、自分たちだけが「正しい」と思い込んでいる人たちってときどきいますよね。そういう人たちは、ある種の頼もしさを感じさせはするものの一方で非常に危険な方々だと切に思います。なぜならそういう人たちが居るから正義や正論(ぼくはこの言葉が大嫌いなのですが)という概念が生まれ、そしてそれを他人にも敷衍(ふえん)しようとし、したがわない者には鉄槌を下そうとするからです。政治、そして宗教の世界
だいぶ長いことブログと離れていました。お待たせしていた皆さん(なんているのか?)、すみませんでした。さて、表題にあるように、今日はかの有名人の言葉の引用からです。そう、救われるのはいつか。それはつまるところ「今」なのです。もし、今救われなければどうなるでしょうか。救われない間に死んでしまったら、どうでしょう。死んでから(死後になって)救われるのは、浄土真宗の教えではありえません。何より、「生前」のうちから自分は救われたんだ、という境涯に立ちたく
ここ数日は過ごしやすい気候になってきました10月旅に出たいとツアーのパンフレットを取り寄せたり、図書館で本を借りたりと過ごしていました航空会社のキャンペーンも自分の行きたい旅先はクーポンがなくがっかり😞したり行きたい旅先を調べていると夢中になり、気がついたら外は真っ黒晩ご飯の時間になっててびっくり🫢する日が続きブログも書けませんでした昨日は夏の間伸びに伸びた髪の毛をカット💇♀️して来ました酷暑の間はアップにしてたので長くても平気でした10cmほど切ったん
皆さんは、妙好人という人々が過去に多く居たことをご存じでしょうか。主に江戸時代~明治時代に存在した人たちです。(それより以前、鎌倉時代~室町時代にもいたかもしれませんが、記録は残っていません)阿弥陀仏の言わんとすることを「聴いて」、死の恐怖(死んだらどうなるか判らないという恐怖)を克服した人たちです。死んだらどうなるのか。無?地獄?天国?極楽?それ以外のところ?それを知り、解決した人たちが近世の世にかなりの数居たのです。死の解決をした、その人たちは、どれ
今まで、文脈の流れ上、「無上仏」と表記してきましたが、浄土真宗において無上仏は阿弥陀仏(阿弥陀如来)です。仏教の原初語である、梵語(サンスクリット語)で、アミターバ、アミターユスのアミタから取ったものです。アミターバ=無量光アミターユス=無量寿アミターバは、光明が無量であること、アミターユスは、寿命が無量であることを指します。光明・寿命とは何ぞや?ということですが、寿命はそのままの意味で取っていいです。つまり、いのちが
ぼくがなぜ親鸞会に傾倒していったか。それは「死の解決」ができると聞いたから、だと、言いました。あれだけ関心ない、いや、毛嫌いしていた宗教に近づく、ということはぼくには完全に予想外でした。というか始めは宗教とは明言されてなかったのですが。毛嫌いしているものも関心のあるうちだと、よく言われますがそういうことだったのでしょう。ここで話を聴いていけば「信心決定(しんじんけつじょう)※」できるよ、まずは合宿に参加してみよう、そうすればどういうことか解るよ
先日は弘法大師空海の概要をざっと眺めてみました。まあ、浄土真宗と浄土宗(時宗も…かな?)以外は日本仏教は基本的に修行がひどく厳しいところばかりです。浄土宗も、本来は必要では無かった「修行」をやってきています。大雑把過ぎて申し訳ございませんが、前回、日本を代表する名僧として、空海・道元・親鸞を挙げさせていただきました。基本、仏教の僧であれば誰でも念頭に「死の解決」が(本来は)あるはずです。だから、日本仏教13宗と言われますが、その13宗のうちの
前回のわたしの経歴シリーズ⑦ではぼくが親鸞会に触れ、身構えつつもかなりの興味を抱いたことをお話しました。とはいえ、ぼくのもともとの宗教的関心は「ほぼゼロ」でした。どんなに宗教が死の解決をしてくれるといっても、疑いの眼差しでしかそれらを見ることができなかったでしょう。しかし、初めて親鸞会の集い(名目は「古典哲学を学ぶ会」)に参加したぼくは、そのロジックに見事にずんずん入り込んでしまっていたのです。「そんなの、あんたが単純だからそうなったんでしょ」と
日本には古代から近代まで有名な僧がたくさん居ました。その中でも特に有名な宗派を開いた(伝えた)僧を列挙すると、律宗:鑑真天台宗:最澄真言宗:空海浄土宗:法然浄土真宗:親鸞曹洞宗:道元臨済宗:栄西時宗:一遍日蓮宗:日蓮辺りが、教科書にも出てくるレベルの有名僧でしょうか。この中で、特に日本で知られ有力な名僧を挙げるとすると、空海・道元・親鸞になるのでは?と個人的に思います。確かに、鑑真はたいへんな努力家だし