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というわけで、前回の記事とバランスを取る意味でも、こちらを補足とさせて頂きます、、前回のような文章を目にすると、時に、計画を立てるべきではない、考えるべきではない、積極的に行動すべきではない、選択すべきではない、コントロールすべきではない、、すべてはあるがままにお任せすればいいなどとして、今ここからどこか手を引いた消極性をよすがとする自我もそれなりにいるわけですが、、そうした場合には、こちらの文章が功を奏するかもしれませんので参考までに、、ある意味では選択はでき
寅年ついでに、、笑「想像上の虎と向き合う」(ジョーン・トリフソン)非二元的な探求と瞑想型の問いは、実践的なものです。観念的なものでも抽象的なものでもありません。直接的で経験的です。気を紛らわしてくれそうな何かを信じて苦しみを覆い隠そうとする代わりに、このやり方では、自由、不安、幸福を妨げているように見えるもの、恐ろしく、不快で、我慢しがたいように見えるものを直に実際に調べます。自分を追いかけてくる虎はただの幻影だと信じるのと、実際に振り返って自分の目で見て虎がいるかどう
というわけで、繁忙期を終えて、、ゆるり久々にブログでもと思いつつ、、さて、この夏に扱っているとある高校生の英語の教材にこんなお話が載っていたのでほほー!と思い、シェア、、ある小さな女の子は、いつも窓の外を眺め谷を越えて向こう側に見える綺麗で大きな家に憧れていたのだそう、、日が昇ると向こうのその家はキラキラと輝き黄金の光を放っているように見えた、、いつしか大きくなったらあの家に住みたいと思うようにもなっていた、、そして月日は経ち、一人で出かけ
お久しぶりの今ここより、私の好きな本より、、強迫的で利己的で機能不全の思考による催眠にかかっていると、そのときに感じるのは、窮屈で縮こまり、身動きがとれないこわばった感覚です。分離を感じます。私たちを自由にする発見とは、哲学でも信条でもありません。それは、<ここ・今>という開かれたありかたの中で、想像上の問題が消えることです。今この瞬間にただあるという単純さにくつろぐことができたとき、何かが開きます。より大きな知性と調和します。もっと正確に言えば、自分はこれとは別のも
つかめないもの(覚醒ブックス)Amazon(アマゾン)1,250円自我は自分を波だと思い込んでいる。流氷のように孤立しているようにも見えるかもしれない。本当は無限の海そのものだったなんてね。
最初に生まれてきたとき、そこには開かれて気づきながら今にあるということだけがあり、その瞬間の出来事が分離なく起こっています。人生のこうした段階では、私たちに名前はなく、年齢はなく、性別はなく、国籍はなく、階層はなく、目的はなく、欠点はなく、ストーリーはありません。こうしたことすべてを、私たちはあとから身につけ、自分のことを体の内側に閉じ込められながら分離して存在している個人として、この世界の中へ生まれてきたこの世界とは別の誰かとして、「外」にある世界を眺めながらその世界の「
こうでなければならない、、こうであってはいけない、、こうしなければならない、、こうしてはならない、、こうならなければならない、、こうなってはならない、、私たちが苦しむとき、往々にして、、これら観念的な「枠」が厳しさを増しているように思います、、けれども、この構造に気づくことができれば私たち一人一人が苦しさを感じているときには、、こうした観念を無意識に握りしめている自我が「(本当は存在しない)枠」内に物事を収めようとして右往左往、四苦八苦し
というわけで今日は、こちらから、、目覚めたとき、それによって手に入るものは何もありませんし、どこかに辿り着くわけでもありません。それでも、目覚めるか目覚めないかということには、天国と地獄ほどの違いがあります。逆説的なことに、境界のない絶対は天国と地獄の両方を含んでいるという認識が目覚めなのです。地獄を避けて天国だけを経験したいという願望こそが、実は地獄の一側面であり、一種の催眠であり、あるいは欺瞞の言葉だったことがわかります。下のない上はなく、晴れた日が永久に続くこ
先日、昨年一世を風靡したとあるゴルファーがインタビューを受けているニュース番組を見ていたところ、、昨年に比べ思うようにいかない結果や成績不振について、、去年はもっとこうだったとか、あの人はこうだろうとか、、あれこれと思考を巡らせている様相を見つつ、、単純に、「考えすぎてるなー」と思ったものです、、としたところで、今日もこのコラボです、、「私は何をすべきか?」という問いよりもたぶん役に立つのは、「私は何をしているのか?」という問いです。何を「すべき」かを
暑い日の最中にあって、往々にして私たちは、この暑さができることなら早くその場を去って、穏やかで安らいだ涼やかな日常が実現されることを願うものですが、、としたところで、、今日も今日とてティーチャーを召喚します、、生には、苦しみから抜け出そうとする自然な(否応のない)働きがあります。実用的な側面から見れば、この働きは機能的で役に立つものです。実際には、すべての努力が実を結ぶわけではありません。けれども注意深く観察してみれば、人間の苦しみの大部分は、苦しみから脱しなけ
仕事の方の繁忙期もようやくひと「山」越えたかと思えば、、辺りはいつ振りかの猛暑の「山」を迎えている今日この頃です、、人生、山あり谷ありいろいろです、、としたろころで、、懐かしの文章が不意に思い出されたものです、、瞑想を始めたり、非二元の本を読んだり、ただ単により注意深く見てみたりすると、「こっち」と「あっち」の間には実際は境界がないこと、すべては分けることのできない全体であること、そして「自分」はいないことを発見します。どんな経験にも
釈迦は、「自分の教えは、筏のようなものだと思うようにしなさい」と弟子たちに話したとされています、、即ち、、川を渡り終えたら、役割を終えたそのときには、、迷わず、それを「降りる」よう、あるいは、「捨てる」よう、、暗示していたのでしょう、、スピリチュアルの探求において、「師」の存在というのはある時点においては必要な側面は多分にあるものです、、山登りに例えられるように、正しい「導き」があれば、誤った道や方向へ迷い込んだりという状況は極力避けられるかもしれず、頂
というわけで、季節がら、、年の初め私たちは、往々にして、、自分にとっての「良いこと」を神社などにお願いしに行きます、、当然、「悪いこと」が起きてほしいと願う人はいないのは当たり前ですが、、笑一般的に言うところの、「良いこと」というのが、、もし、「都合の良いこと」ばかりを望んでいるとしたら、そうした幻想は早いうちに手放してしまった方が良いでしょう、、自分にとって世界、社会、周囲は、、自分を常に「良い気分」に満たしてくれるであろう出来事や
私たちの「不自由」は、自我的恐れ、あるいは、欠乏感を埋めようとして、今在るままを受け入れられず、今まさにいるこの場所を離れて、それらを満たそうとか、埋めようとする収縮した動き、奔走や努力といったエネルギーによるところがほとんどです、、もちろん、そうした自我を介さない内発的な衝動というエネルギーによって、自然な流れの中で起こる動きとは微妙ですが、大きく異なるものであるとも言えます、、ティーチャー、ジョーンさんの言葉を借りるなら、、恐れではなく愛からやって来
ふと、その昔に出くわしたある質問を思い出しました、、質問者が言うことには、、「今ここ」がよく分からない、、例えば、自宅で、愛らしい赤ん坊を抱いているときの「今ここ」と、会社で、上司に叱られているときの「今ここ」が同じようには思えない、、とのこと、、さて、まずこの質問の前提にある誤解を明らかにしておく必要があります、、この質問は、「今ここ」は「自分(個人)にとって都合の良い」何かで、、楽しさや安楽さ、平和で穏やかさを常に感じて
ぼくはもう一度やりなおしたいと思った。目の前にあるものに静かなまなざしを向けることを。セカイは輝きを失ったかに見えたぼくがいま現実に生きているこの世界は色褪せてしまったかのように見えた光りかがやく色彩かな未来予想図とは裏腹に、、ぼくは未来に恋をした僕のしあわせはそこ(未来)にあるかのように思えたそして僕は僕自身が生きているこの世界に目を向けた曇りガラスをとおして僕は気づかぬふりをしていたがほんとうに見てはいなかった
さて、小学校3年生の教科書にこの詩が載っていることを最近知ったものです、、初めてこれを目の当たりにした瞬間、、しばし度肝を抜かれつつフリーズした後、、無言のいいね!を連打しまくりでしたが、、笑笑こちらは、まど・みちおさんという詩人の方が書かれた作品のようですが、、宮沢賢治さん、金子みすずさんらと並び、ハリーお気に入りの詩人さんとなりました、、図書館で詩集をチェケラ予定です!さて、こちらの詩の最後の箇所は、ジョーン・トリフソンさんの著書の最後の
少し前のスピリチュアルであれば、「不快」だったり、「良い気分ではない状態」についてはとにかく忌み嫌われ、それらを打ち消してくれそうな出来事や状況へと努めて奔走したり、「良い気分」に常にフォーカスすることを奨励するような教えが叫ばれるといったこともそれなりに見かけられたものですが、、結局のところこうした探求が生み出すのは、、さらなる「不快さ」であって、躍起になって「快」や「良い気分」を求めることは即ち、、力の限りを尽くして、「あ
今月はやたらと、鈴木俊隆禅師が登場しますが、、ま、それもあるがままということで、、ある日、一人の修行者と禅師が禅堂(坐禅の修行をする場所)に二人だけでいるとき、、修行者は、ずっと気になっていた、「少し傾いた掛け軸」を静かにまっすぐに直し自らの座布団に戻ったと言います、、すると、しばらしくして禅師がその掛け軸のところまで来るや、元のように、「少し傾いた状態」に戻し、禅堂を後にしたとのことでした、、おそらくその際の修行者の顔は(→)、、ってな
というわけで、夏休みが明け、にわかにAO入試などの準備を始める生徒も見かけられるようになり、秋冬に向けて新たな流れがスタートしたようです、、そんな中、とある生徒の様子を見るにつけ、、やたらと、落ちる!落ちる!どうしよう!どうしよう!!と、目に見えない不安に(意識が)苛まれる様相を観るや、、って、これを目の当たりにしたのが、仮にも、あの臨在禅師であったならば、胸ぐらをつかんで思いっきりビンタでもくらわされてただろうとほのかに思いつつも、、
ジョーン・トリフソンさんの本の冒頭、かつて、鈴木俊隆禅師の流れを組む禅の指導者であったらしい、ト二・パッカーという人の言葉が載っています、、※実際ジョーンさんも、この方を師事した時代もあったようです、、今この瞬間にどんな状態が起こりつつあるとしても、ただそのままにしておけるでしょうか?そこから離れずに。そして、その状態が自分に与えてくれないもの、与えてくれそうにないもの、例えば活力、興奮、感動、喜び、幸福といったものですが、そういうものを与えてくれる何か
今ここに在ること、今ここに出会うこと、それを徹底的に体系化したものを「禅」と言います、、本来的に私たちは、「今ここに在る」以外で在ることは不可能であるのですが、、様々な外界の影響、、ここ数日来で言えば、、猛烈な暑さ、、そうした、個人の「都合」に反する形で起こる、相対的な様々な出来事や状況に対して、「抵抗」するというエネルギーによって、「今ここに在る」にもかかわらず、「今とは違った何か」や「どこか」を思い描きつつ、、程度の差こそあ
さて、猛烈な暑さにかこつけて、、ここぞとばかりに、またもや求道レッスン、、当然ながら、ここまで暑い日常に際しては、自我的な「抵抗」が事あるごとに働くものです、、暑い暑いと言って顔をしかめ、「この暑さでない」ことを望み、「この暑さが緩和された」状況を思い描き、体感が涼しさと共に安堵する快適な状況を場合によっては「引き寄せたい」などと考えたりするかもしれません、、実際のところ、これらすべての様相、、「今ここで起きていること」が、
さて、一般的な自我からすれば、「不快」な出来事や状況が起きるや、すぐさま、防衛反応の大義名分よろしく、そうした「対象」を避けたり、そこから逃れようとするなど、様々な「抵抗」を見せるのが常です、、日々お伝えしているように、これ自体は、私たちの生命維持を可能にする必要にして欠かせない機能であるわけですが、求道の在り様においては、無自覚にそうした反応に流されることといった「無意識」の時代はいずれ、「意識的」な時代へと少しずつ移行するということも当然ながら起
多少の「ストレス」というのは、作物の育成には好転的に作用するということもあります、、水を制限して栽培した果物が、甘い果実を実らせるように、、というわけで、私たちの日常に際して気を付けなければならないことは、、まったくストレスのないあらゆることが自由に展開し、思い通りになる「天国」のような世界が永遠に続くようなことを決して望んだりはしないということです、、自我にとっての、「天国」を望む様相は、、結局のところ、背後にある「恐れ」に無自覚のまま
何をしようか、どうしたらいいのか、なんやかんや、、様々に揺らめく混沌や、混乱、迷いの様相が現れているような際には、、その瞬間にあれこれ振動する、行為にしろ、思考感覚にしろ、そういった様々な「動き」から手を引いて、最初から居たその場所にただ止まり、何もしないで居られるかどうか、あるいは、そうした体感(在る)に戻れるかどうか試してみると良いでしょう、、この体感は、それまで、「どこか」にあるとされていた目的地や解決策、、自分をきっと満足さ
あーなったらどうしよう、、こうなったらどうしよう、、様々な感情的、思考的な葛藤の中で混乱や焦燥に暮れていることに気づいたとき、、そうした空回りの中にハマった形で位置が定まらず、、あちらでもこちらでもない、どちらに行けばいいのかとどこへともなく「振動」している様子を見逃さず、その様子を見守りながらもくつろがせる過程で、、それら、恐れや心配や不安といったものの根源に静かに入っていけるかどうか試してみると良いでしょう、、気づき(アウェアネス)の光
不意に思い出された、ある禅の逸話、、ある師匠の死後、弟子のひとりが、僧院にて講演をしていたときのこと、、反対派の一人の僧が、あまりに大勢の人がその場に集まっていることに嫉妬し、その場で勢いよく立ち上がるやこう言ったそう、、ひとつ質問があります!私共の師は、これまでにも多くの奇跡を成し遂げ得てきました、、実際に私が目撃したところでは、、大雨の日、氾濫した川の一方の岸で筆を取って字を書いたところ、その文字が、向こう岸で半紙を広げていた弟子の
何か、プレッシャーを感じていたり、日常のある場面で緊張して「収縮」した感覚を抱くようなときというのは、、何もプレッシャーのようなものを感じていない、安心できて安楽した状態と比べてみたとき、、体感的には確かに「不快」で、できることなら、そうした状況や状態を脱し、自分にとって、不快さや危険の及ばない、「今ここにはない」状態へと移行したいと、自我はすぐさま「抵抗」を模索します、、さて、ここで見ておかなければならない事実は、、「収縮」や「緊張
これは、言葉に説明するのはなかなか微妙な話にもなるのですが、、不意の発露(衝動)といった形で、憧れだったり興味だったり、何かやってみたいことや、実現したい物事が不意に沸き起こるというの自体は自然さの現れであるとも言える一方で、、一般的に、、「願い」といったものを観念の中で固定化し、それにしがみつくあまり、今ここで目の前にしている明らかなリアリティがとるに足らないものに思えたり、「願い」に辿り着くまでは、あるいは、「願い」を実現するまでは自