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2020年9月27日記事2023年9月30日再掲・・・とあるように、秋の気配を感じたら、聴きたくなってくるシャンソン。でもねえ、昨夜は「あ?残暑になった?」と思ったけど、今夜はまた暑いです・・・↑わんこさん、あくびだがね。ナイスショット☆で、シャンソンの中では熱い美???グレコ様を再掲させて頂きます。今回のちょっとだけ追加☆女神の枯れ葉1927年2月7日~2020年9月23日享年94歳シ
2月7日がお誕生日の有名人・著名人574年生(622年49歳薨御)聖徳太子(厩戸皇子、厩戸王)飛鳥時代の皇族、政治家父親:用明天皇1478年生(1535年57歳没)トマス・モアさん思想家『ユートピア』1812年生(1870年満58歳没)チャールズ・ディケンズさん小説家『オリバー・ツイスト』1889年生(1976年87歳没)ハリー・ナイキストさん物理学者ナイキスト周波数(サンプリング集波数の1/2)1906年生(1995年満89歳没)浜村純さん俳
ジャン・コクトーが1950年に脚本を書き監督した『オルフェ(Orphée)』は、ギリシア神話のオルペウス伝説を基にした映像作品になります。有名な詩人ジャン・マレー(役名:オルフェ)が、カフェ・デ・ポエットを訪れます。そこに、マリア・カザレス(役名:王女)と彼女が支援する詩人エドゥアール・デルミ(役名:セジェスト)が到着します。酩酊したエドゥアール・デルミの乱闘を警察が拘留しようとした時、逃走したエドゥアール・デルミは、2台のバイクに轢かれてしまいます。マリア・カザレスは病院に搬送する
ジュリエット・グレコと言えば、あの腕や手の動きが特徴的です。歌っている時のあのジェスチャー無しでは、グレコのシャンソンと言えないくらいです。ジュリエットが最初に手の動きを試しにやったのは、少女の頃で、バラの花があの細い茎からどうやって大きな花をさかせるのだろうと、手で模倣してみたことからだそうです。そして、1949年にパリ右岸のキャバレー「屋根の上の牛」でデビューした時に、緊張と不安で腹痛になり、それを和らげるために両腕を後ろに回した後で前に伸ばす仕草をしたところ、鳥が羽根を広げ
ジュリエット・グレコがビートルズに影響を与えたと言ったら、鼻で笑う人がいるかもしれません。でも、ポール・マッカートニーは、2007年のインタビューで明かしているのです。何を語ったのでしょうか?ビートルズの1965年のアルバムに「ラバー・ソウル」があります。その収録曲に"Michelle"があり、フランス語の歌詞が出て来ることで有名です。ポールによれば、この曲は、パリ左岸のカルチャーに影響を受け、Michelleはジュリエット・グレコをイメージして書いたのだそうです。当時
ジュリエット・グレコは、公演開始のカウントダウンが始まると、不安になって歌詞を読み返したりするのですが、心配で心が凍り付くというのが毎回のことでした。それでも時は過ぎ、とうとう楽屋のドアがノックされて、「出番ですよ。」と言われ、舞台裏に向かうのですが、身体は硬直したままで、自分ではどうしたらよいかわからなくなったと自叙伝で述懐しています。越路吹雪も同じような状況になったそうです。お腹が痛いとか、声が出ないとか、いろんなことをわめき出して、ステージに出るのが怖くて仕方無かったと言います
ジュリエット・グレコは、駆け出しの頃、舞台衣装にかけるお金がありませんでした。デビュー直後に、サンジェルマン・デ・プレにあったキャバレー"LaRoseRouge"のオーナー・NicoPapatakisからオーディションをしたいと声がかかり合格したのですが、出演するための衣装を持っていませんでした。そこで、オーナーのNicoが気を利かして、ピエール・バルマンのセールに連れて行ってくれました。当時はカラフルな服が多く、買いたいものがなかなか見つかりません。最終的にジュリエット
先週始まった朝ドラ「ブギウギ」で梅丸少女歌劇団は、映画の合間に歌や踊りを披露しており、単独公演を目指しているとのことでした。実は、ジャック・ブレルも同じようなことをやっていて、ジュリエット・グレコの自伝の中にそのシーンが出て来ます。ピガールにあるleGaumantPalaceという有名な映画館でのことでした。当時のパリの映画館は、映画と映画の幕間に、スクリーンの前で歌手が出演するという演出があり、彼は、足かけ台に片足を乗せて3曲唄ったのだそうです。そして、唄い終わると、その台を
今日は「秋分の日」ですね。少しは秋らしくなって来ました。去年まで『「秋分の日」に聴きたい曲」』というタイトルでブログを書いてました。『「秋分の日」に聴きたい曲(2021年)』『「秋分の日」に聴きたい曲(2022年)』今回は「秋分の日」に聴きたい曲ですが、「枯葉」に焦点を絞ってみました。フランス語では"Lesfeuillesmortes"で英語では"AutumnLeaves"ですね。イヴ・モンタンが有名ですが、最初はヒットしませんでした。「Lesfeuill
暑い、暑いと思っているうちに、9月も半ばになりました。今日の佐世保、朝から激しい雨が降っています。彼岸花もちらほら咲き始めて、来週はもうお彼岸になります。学校は合唱コンクールのシーズンでもあります。今回は合唱コンクールのお話を書きます。最近は小さいころから、ユーチューブを見て、キーボードの練習をする子供が増えてきましたが、今年の5月にピアノを習いに来た、中学一年のE君もそんな一人でした。E君は楽譜が全然読めませんでしたが、色々な曲を演奏してくれました。早速、好きな曲の(ア
ドロンが引退したり、なんとなく以前に比べておフランスの映画や歌が入ってこないように感じているのは、ミーだけかな。注)私の写真ではありません。念のためwという事で秋+シャソン少々ベタかもしれないけど。今回の曲は"枯葉""枯葉"は、私がAltoSaxで最初に取り組んだ曲でもあります。冬になってもピーヒャラやってましたwwwJulietteGrecoでお聞きください。LesFeuillesmortes
少し前にジュリエット・グレコのルーティンについて書きましたが、今回は、楽屋に置くものについてです。日本が大好きだった彼女は、最初に来日した時に買った大きなハンカチを楽屋に飾っていました。日本んモチーフ(絵柄)を見ると心が休まると伝記に書いています。そして、熊のぬいぐるみです。第二次世界大戦の直後にドイツのドレスデンでコンサートがあり、ジュリエット・グレコは歌いました。ドレスデンと言えば、爆撃を受けて市内中心部はほぼ灰燼に帰していたのですが、図書館だけが焼け残っていて、そこが会場と
ジュリエット・グレコによれば、彼女にとってリサイタルは開演日の数日前から始まっていたのだそうです。彼女にとって、ライヴは恋愛における大事なデートのようなもので、準備に怠りは無かったようです。それは、現在では、ルーティンと呼ばれることが多いです。それは旅行の荷造り(鞄の中身を入れる作業)のようなものだと彼女は比喩しています。お化粧道具の一つ一つが全て揃っているか、小瓶に入った化粧水や香水などが少なくなっていないか、必要なもので忘れものは無いか、など点検を厳重にします。同じよう
ジュリエット・グレコは、何ものからも縛られない歌手でした。彼女の歌のタイトルの"Jesuiscommejesuis"(私は私よ)を地で行く人でした。そんな彼女を唯一コントロールしていた人がいます。それは、ピアニストであり、ご主人のGérardJouannest(ジェラール・ジュアネスト)でした。コンセルヴァトワールの首席だった彼は、一流のピアニストで、歌手に合わせる弾き方は一切しませんでした。ジュリエットは、どんどん自由に歌おうと試みるのですが、妥協をしらないピ
1980年代、ジュリエット・グレコは、海外では大変な人気者でした。ベルリンでも、日本でも、カナダ、米国でも満員の観客が詰めかけていました。ところが、本国フランスでは、流行から取り残され、すっかり彼女は昔のモニュメントのような扱いになっていました。会場を見渡すと空席が目立つようになり、時には半分くらいしか入っていないこともありました。でも、ジュリエットは落胆しませんでした。自分を聴きに来てくれる観客がある限り、自分の持てる全てを舞台で披露し続けたのでした。それは、質の高いシャンソンを維
ジュリエット・グレコは、歌手としてエージェントとは契約しませんでした。映画でも制作会社に長期契約を持ち掛けられましたが、断っています。そして、私生活でも、恋愛相手と対等の立場を保ち、金銭面でも精神面でも頼りにすることはありませんでした。それだけでは、ありませんでした。1957年、ロンドンで映画のロケをしていた或る日、ホテルに帰って来て、煙草を切らしていることに気付きました。そのホテル(ホテル・サヴォイ)の馴染みのコンシェルジュは、煙草のストックを持っているのですが、その日はお休みで
バルバラのブリュッセルでのステージ・デビュー当時が悲惨だったことは以前に書きました。ジュリエット・グレコも、そのデビュー当時は大変だったようです。自伝によれば、以下のように書いてあります。Iln'estpasfaciledeconquérirlepublic.Àmesdébuts,lesgensm'observentavecréticence.Dansleuresprit,jenesuisqu'unbrindef
フランスの結婚式は日本とは少し異なり、Mariagecivil(マリアージュ・シヴィル)市民婚とMariagereligieux(マリアージュ・ルリジュー)教会式があります。では、市民婚をあげたシャントゥーズ(アンテルプレット)と言えば、誰でしょう?それは、ジュリエット・グレコ(JulietteGreco)でした。自叙伝には、以下のように書かれています。Riennenousréunit,maisjeletrouvebeau,toutsimplemen
ジュリエット・グレコ(JulietteGreco)の自叙伝によれば、ジャック・ブレル(JacquesBrel)は、レコードよりもステージが大事だと考えていたようです。彼がどういう風に発言していたかというと...ジュリエット・グレコは、こう書いています。JacquesBreladit:《Ledisqueestunsous-produitdelachanson.》Jepensequ'ilvoulaitnousfairecomprendreq
ジュリエット・グレコ(JulietteGreco)とセルジュ・ゲンズブール(SergeGainsbourg)。彼らの初対面での印象は、お互いどういう感じだったのでっしょうか?まずは、ジュリエット・グレコから...Lapremièrefoisquejelevoisc'estdansunecaveverslePalais-Royal,en1958.IlestseulementaupianoetMichèleArnaudchante,
ジュリエット・グレコ(JulietteGreco)自身で作詞したシャンソンについて書いたところ、或る方からFleurd'orangeというシャンソンも彼女が作詞している話をいただきました。そして、その歌についての疑問も伺いました。その疑問とは?まずは、ジュリエット・グレコのその歌、Fleurd'orange(オレンジの花)1975年をお聴きください。この歌、どうこかで聞いたことがあるような気がしませんか?上記の「或る方」によれば、「みかんの咲く丘」に似ているとの
アンテルプレット(interprète)のジュリエット・グレコ(JulietteGreco)が彼女自身で作詞したシャンソンがあるというのが、前回の話でした。では、どんな歌詞を書いていたのでしょうか?ジュリエット・グレコが自ら作詞した作品に、Lemaldutempsがあります。歌詞の一部を引用すると...AmourimpossibleJenepeuxpasteraconterJevaist'emporterdansmonîleTe
フランス語には、アンテルプレット(interprète)という言葉があって、シャンソンで使われる場合、自分ではない別の人が作詞・作曲された歌を解釈して自分独自の表現方法でレコーディングしたり、観客の前で披露する人を言います。ジュリエット・グレコ(JulietteGreco)は、その代表的な人なのですが、実は、彼女自身で作詞したシャンソンがあります!アンテルプレット(interprète)は名詞ですが、元になる動詞は、interpréterで、一般的には「翻訳する」という意味で使わ
ジャック・ブレル(JacquesBrel)には「相棒」とも言うべきピアニストがいたことは、日本ではあまり知られていません。彼の名は、ジェラール・ジュアネスト(GérardJouannest)と言います。ジェラール・ジュアネストとジャック・ブレルの出逢いは、LesTroisBaudets(レ・トロワ・ボーデ)というジャック・カネッティがやっていたキャバレーに出演した時でした。そこには、当時駆け出しの才能あるミュージシャンが集まっていました。ジャックが歌とギター、ジェラールがピ
ジュリエット・グレコ(JulietteGreco)とジャック・ブレル(JacquesBrel)が深い友情で結ばれていたことは、よく知られています。彼女の彼に対する第一印象は、どんなものだったのでしょうか?ジュリエット・グレコは、自叙伝で以下のように書いています。(出典:JulietteGréco"Jesuisfaitecommeça"Flammarion)Jacquesestarrivé,jel'aiaperçuàcontrejour
BonjourTristesse-FrankNagai(JazzSinger)悲しみよこんにちは-フランク永井(ジャズ・シンガー)フランソワーズ・サガン原作の「悲しみよこんにちは」の映画の主題歌BonjourTristesse(1957)悲しみよこんにちは(1957)-ジュリエット・グレコジュリエット・グレコ(1927年2月7日-2020年9月23日)さんは、フランス出身のシャンソン歌手、女優。約70年のキャリアを誇る、同国を代表する歌手の一人。世界的にも最高
前回に続き、セルジュ・ゲンズブール(SergeGainsbourg)がジュリエット・グレコに贈ったLaJavanaise(ラ・ジャヴァネーズ)について書きたいと思います。セルジュ・ゲンズブールがジュリエット・グレコの家で過ごしたあの夜のことを、ジュリエット・グレコは、自叙伝で何と書いているのでしょうか?(出典:JulietteGréco"Jesuisfaitecommeça"Flammarion)Nousoussommesrevus,nousso
今回は、セルジュ・ゲンズブール(SergeGainsbourg)のLaJavanaise(ラ・ジャヴァネーズ)について書きます。この歌ができたエピソードは、フランス語版wikipediaによれば、以下のように書かれています。«Unsoird'étéde1962,JulietteGrécoetGainsbourgontpassélasoiréeàécouterdesdisquesetàboireduchampagnedans
2016いつものtakeshi2393さんの、2018年のブログで知った楽曲。イブラヒム・マーロフは、レバノン出身で現在はパリで活躍する、"微分音トランペット"を操るミュージシャン。ブログにあった、ジュリエット・グレコとの共演を…*微分音トランペット:半音階のさらに半音階の音が出せるように改造されたもの。「LaJavanaise(Liveàl’Olympia,2014)」IbrahimMaalouf&JulietteGréco「ラ・ジャヴァネーズ」は、セルジュ・ゲンズブ
ジュリエット・グレコは、自伝の中で、ジャック・ブレルに初めて逢った時のことを書いています。ピガールにあるleGaumantPalaceという有名な映画館で偶然見つけたのだそうです。ジュリエットの第一印象は、背が高くて、美男子だったのだそうです。それは、ジャック・ブレル自身が自分に対して思っていたことと、世間一般が思っていたこととは、真逆でした。「彼は、作詞の能力に傑出したものがあるが、美男子ではない。」という評価だったのです。当時の映画館は、映画と映画の幕間に、スクリーン