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マーブルカデナさびれたショッピングセンター私は大好き💕ですの中の食堂でブランチみんなでアバサー汁を食べようと^_^つまりはハリセンボンですなさばくのが面倒で美味いけど家では調理しないのだとか。少し骨が気になりましたが、美味かった〜フグ🐡といえばフグ?かな^_^本日、平和学習の日チビチリガマは2度目シムクガマ何故、この2つのガマを訪れたのか?読者の皆様、調べてみてください。1つのガマでは悲劇が起こり他方のガマでは全員が命拾い話せば長くなりますのでこの辺で。帰
先週末、沖縄・糸満市役所のご担当からメールをいただきました2月に沖縄南部を訪れた際、道に迷って目指した戦跡に辿り着けなかったので、その行き方を問い合わせたんですね。メールにはルートを書き入れた地図が添付されていて、丁寧な説明が加えられていました特攻に関わってきた私にとってその終焉の地である沖縄は特別な場所でもありますメールの文面からはあの戦争の歴史を風化させまい、あの歴史を知ってもらいたい、そんな気持ちが伝わってくるんですよね何年前だったかな、初めて読谷村を訪
こんにちはマザーレイクの調べの夕凪めぐみです前回の『沖縄*祈りを開く旅』のつづきでございます!平和記念公園を後にし、いざ久高島へ(どるふぃん・れいんぼーさんご提供のお写真)久高島も変わり、今ではトゥクトゥクをお借りて島を巡ることが出来るんです!!これが、快適で運転も最高に楽しいいつもはザビッサビッの自転車を必死に乗りこなしていましたが笑(塩害ですぐ錆びるのです)しかしながら、ここで大きなハプニング到来なんと予約していたトゥクトゥク
読谷村を巡ったのは武尅隊先発隊9名の足跡を追うこと、そして彼の突入日、突入時間に突入場所で手を合わせるためでした。途中、読谷村でいくつかの場所に足を踏み入れる都度、さまざま感じるものがあります。「民間人の犠牲」過去記事で読谷村のチビチリガマ」をご紹介しましたが『【戦場】〜沖縄・チビチリガマ』「戦争を知らない人が勇ましいことを言うのだ」元特攻隊員や旧陸軍の方から何度も何度もこの言葉を聞かされました。国を守る、防衛を語るこれはもちろん大切なことだ…ameblo.jp
チビチリガマとシムクガマ、沖縄戦の二つのガマが教えてくれる国際人権と平和の重要性沖縄戦の悲劇と平和の願いを伝える場所として、チビチリガマとシムクガマは多くの人々に訪れられています。しかし、この二つのガマには、戦争と国際人権に関する重要な教訓が隠されています。それは、人間の命の尊厳と自由を守るためには、言語や文化の違いを乗り越えて、相互に理解し、対話することが必要だということです。チビチリガマ:集団自決で83人の犠牲者チビチリガマは、浅い谷の底にあり、川が流れ込んでいるガマです。米
沖縄(10)役場脇の直線道路かつての沖縄北飛行場滑走路の名残...掩体壕を離れて、車で役場のまわりを走らせてみる。役場の横の直線道路はかつての滑走路の跡、そこから嘉手納基地に戻る途中に、あの久得橋がある。隊長たちが最後の夜を過ごし、そして隊長があの訓示を述べた場所。橋から少し下った川沿いの畑の脇には、鉄血勤皇隊として動員された、県立農林高校の学生が身を寄せた壕が残っている。下流に少し行った先には、川にかかっていた鉄道の跡も…。米軍が読谷村から上陸した目的は中飛
沖縄(9)義烈空挺隊玉砕之地碑ただただ、合掌...旅の締めくくりは読谷村役場だった。掩体壕があると聞いていた。そして役場近くの畑に、あの義烈空挺隊の慰霊碑も。昭和20年5月24日のこの場所...(沖縄公文書館所蔵写真から)役場の受付で掩体壕の場所を聞くと、受付の女性はすぐさま小さな紙を取り出して場所を説明し、その紙を持たせてくれた。先ほどの電話でのガマの説明とは雲泥の差だったけれど、まあそれはいい。歩いて五分、掩体壕にたどり着いた。もともとここ
沖縄(8)シムクガマには村民約1,000人が避難した。4月1日に上陸した米軍はその日のうちにこの場所に迫ってきたけれど、避難者の中にいたハワイ帰りの二人の説得で全員が助かったとされる。入り口には説得にあたった二人を讃える記念碑が置かれている。その先に進むことはできたけれど…すでに入り口にたどり着くまでの雰囲気に腰が引けてたし、暗闇の中を進む勇気はなかった。ハブも出るしね。チビチリガマへ向かう道...チビチリガマで悲劇が起きたのは翌2日。こちらに避難していたのは1
沖縄(7)シムクガマ入口ガマの中に佇む「救命洞窟之碑」翌朝、僕はシムクガマとチビチリガマ、二つのガマを目指した。上陸した米軍から身を守るため読谷村の住民が避難した場所だ。沖縄で集団自決といえばすぐひめゆりの塔の名が挙がるし、観光客もそれを目指して沖縄南部に向かう。でもチビチリガマとシムクガマは読谷村というマイナーな地域に加えて、その事件の凄惨さから観光客がツアーで訪れるにふさわしい場所ではない。特にチビチリガマは未だに遺品や遺骨が残って遺族会が立ち入りを禁止して
6月25日(日)夜9時から放映されたNHK総合番組「NHKスペシャル戦いそして死んでいく沖縄戦・米兵の肉声が新発掘」この番組で、読谷村の「クーニー山壕」で集団自決があたったことを初めて知った。読谷村での集団自決については「チビチリガマ」には何度か訪れたことがあった。一方、ガマに逃げ込んだが自決せずに生き残ったガマも読谷村にはある。シムクガマである。生死を分けた二つのガマについてはこのサイトに詳しい「生きるも死ぬも紙一重」明暗分けた二つのガマ沖縄・読谷村|【
新松戸交通事故•腰痛治療センターポプラはりきゅう整骨院ホームページhttps://popula2761.jimdo.com/【gooブログ】ポプラはりきゅう整骨院オフィシャルブログ(裏)今日は沖縄の慰霊の日。個人的に、旅する時にはその土地の歴史を深く知りたい。それは明るい歴史だけでなく暗い歴史も含めて。正直、沖縄の戦跡や慰霊碑に明るい歴史は一切無いです見ててメチャメチャ気分沈みます唯一明るいのは、英語が話せる人がいたおかげで
本来の訪問時系列は11月9日(水)第32軍司令部壕跡、前田高地、嘉数高台、泊城公園→チビチリガマ→名護(宿泊)11月10日(木)特記事項無し/北部グルッと11月11日(金)名護→義列空挺隊(掩体壕)→読谷補助飛行場跡→シムクガマ・・・南城市という流れなのですが、チビチリガマとシムクガマの関連性が高いので、読谷村で1つのブログに致します。そこに、義列空挺隊(掩体壕)も加えます。2022年11月9日(水)この順で巡って、美浜アメリカンビレッジはとんでもねぇ~観
絵本「へいわのつくりかた」よりにげることも選択肢に入れる逃げることは悪いことではない。原因を考えたりあなたの考えを伝えたり、話し合ったり、協力したりしてどうしてもうまくいかないときは、それをやめて他に進めばよい。逃げ道があることを、あなたは忘れてはならない。住民を恐怖から解放した兄弟の存在ここで例にあげるのは亡くなった人たちに申し訳ない気もするが、チビチリガマとシムクガマのについて聞いた話を思い出す。おなじ軍国教育を受けた地区の人びとが、わずか800mへだてただけのチビチリガ
来ていただいて、ありがとうございます。今日の文字は20日の日曜美術館は「丸木位里・利『沖縄戦の図』戦争を描いてここまで来た佐喜眞美術館」司会の小野正嗣さんが沖縄の「佐喜眞美術館」を訪ねます。そこに展示されているのは「原爆の図」、「南京大虐殺の図」と戦争の悲惨さを描いてきた丸木位里・利夫妻が最後に描いた87914点の壮大な連作「沖縄戦の図」圧倒され胸が押しつぶされそうなその絵に小野さんは「観なくてはならい」と。第二次世界大戦で日本で一番大変
6月20日(日)朝9:00~の日曜美術館は、6月23日の沖縄慰霊の日を前に、「沖縄戦の図」でした。私はお名前ぐらいしか存じませんでしたが、原爆の絵などで有名な丸木夫妻の沖縄の美術館に収蔵されている一連の作品です。「丸木位里・俊『沖縄戦の図』戦争を描いてここまで来た・佐喜眞美術館」-日曜美術館「原爆の図」の丸木位里・俊が最後に描いた地上戦。14点の壮大な連作「沖縄戦の図」はいかに書かれたのか。壮絶な沖縄戦で生き残った人々との共同制作。その貴重な映像記録が残され
読谷村にある、チビチリガマ、シムクガマに行きました。よく比較される二つのガマで、近くにあるガマであるのにもかかわらず、チビチリガマでは集団自決が起こり、シムクガマではハワイから帰った留学生が英語を話せたおかげで千人近くの住民が生き残ることができました。ひめゆりの塔を見学した後ということもあり、沖縄戦の時系列がだいたい理解できました。中部にいた人たちは、米軍上陸後すぐに捕虜になったり殺されたりしましたが、ひめゆりの人たちを始め、南部に逃げた人たちは
沖縄の読谷村には、「チビチリガマ」と「シムクガマ」と言う、2つのガマ(自然壕)がある。先日、観光で訪れた鍾乳洞のようなもの。先日、訪れた「ぬちしぬじガマ」は、300人の住民が避難して、1人も命を落とすことなく助かった場所。同様に、読谷村にある2つのガマは、互いの距離が800m程度と近いのに、避難した人たち命運は大きく分かれた。「チビチリガマ」には、約140人の住民が避難したが、米軍が来るのを恐れて、83名が集団自決で亡くなった。その約6
朝日新聞・2020年6月23日朝刊昼休みにお弁当を食べながら追悼式を見ていました。玉城デニー知事の言葉に続いて地元の高校生が自ら書いた平和の詩を読み上げる。それらに比べるとその次に流された安倍首相のビデオメッセージのなんと軽いことか。恐らく記者会見の時と同じように他の誰かに書かせた文章を棒読みしているだけなんだろうね。そこからは戦没者に対する哀悼も、沖縄の人々に寄り添う気持ちも、全く感じられません。あいつの顔なんぞマジマジと見たくないから話だけは聞きながらお弁当を食べ進めていたけど、チラッと
2019年9月1日(日)生死を分けたのは…2019年7月13日(土)に沖縄南部にあるアブチラガマに行ったのですが(記事はこちら)、沖縄中部にある読谷村のガマにも行きたいと思っておりました。昨日、同僚とガマに詳しい方と訪問したので記録に残したいと思います。◆2019年8月31日(土)チビチリガマとシムクガマアブチラガマは病院壕として有名ですが、読谷村にある2つのガマは病院壕ではなく住民の避難壕でした。1つ目はチビチリガマです。ここにたどり着くまで、特に目立っ
続いて沖縄県糸満市字伊敷ウッカーガマ(糸洲の壕)へ壕の前には慰霊碑が2基並んでいるこちらは左側の鎮魂之碑右側には『鎮魂の碑』が建立されていて沖縄戦で亡くなられた方のご遺族が建立された慰霊碑だそう。入り口は封鎖されていて中に入ることが出来ないため、碑の前とフェンスギリギリの壕前にて手を合わせた名城集落、糸洲集落、那覇、浦添などの住民、さらに第二四師団山第二野戦病院がこの壕へ。その野戦病院に配属されていたのがふじ学徒隊(積徳高等女学校の生徒たち)。そして長野、富山、石川出身の
沖縄は人生で1度だけ。大人になってから「平和研修」で行きました。研修だったので水族館やビーチで遊ぶことはなくただひたすら慰霊碑や洞窟や資料館を回る....全部で15箇所くらい行ったでしょうか。実際に行ってみると戦争の悲惨さを実感します。本当に、いくら正義があっても戦争なんてやってはいけない、そう思います。人を殺すことを正当化してはいけない。中でも一番印象に残っているのはチビチリガマとシムクガマです。(詳しくは→☆)***読谷村HPよりhttp://www.yomi
昨日は天候がマシになったのでお出かけしてきました(๑>◡<๑)沖縄に来たらせめて沖縄らしい事しないと。そんな訳で沖縄戦の悲劇、読谷村のチビチリガマを訪れました(*´ω`*)ちなみにガマっていうのは天然の洞窟のことね。沖縄には今もまだ沢山のガマがあるらしいよ。チビチリガマの惨劇って知ってる方は知ってると思いますが、沖縄戦当時のこの洞窟内で凄まじい惨劇が起きたのです。上陸して来た米軍に捕らえられるのを恐れ、肉親同士が殺し合う集団自決があったんです。まだ洞窟内には遺骨がたくさんある状態で
沖縄スタディーキャンプ1日目に引き続き2日目のリポをお送りしまーす*\(^o^)/*2日目は1日目に泊まらせていただいたまーみなーさんのオーナー会沢さんに1日案内していただきました!!①残波岬まーみなーさんのある読谷村にある岬残波岬へやってきました!↑波がすごい迫力です!!🌊↑みんなで近くにあった像、泰期さんと同じポーズ!泰期さんとは、琉球から中国に渡った使者で、海の向こう中国を向いて建てられている像らしい!②チビチリガマチビチリガマは「集団自決」という悲劇が起こってしまった