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縁結びで有名な神社で、おみくじをひいた。大吉だった。隣には、高校3年間、想い続けていた初恋の彼がいる。…………当時、想いを告げることはできなかった。顔を見ると、胸が詰まって、話すことさえできなかった。…………その彼と、40年ぶりに会い、今こうして並んでおみくじをひいている。この神社を目的としたわけではない。ドライブ中、たまたま道を間違えて、ここにたどり着いた。私たちの他には、誰もいない。夏の日差しを遮る木々に囲まれた、静かで心地よい空間だった。日に焼けた
ぬくもりは、罪ですか最終章ぬくもりは、罪ですか雨だった。また、あの日と同じような雨。文乃は傘を差しながら、商店街をゆっくり歩いていた。濡れたアスファルトに、街灯の光が滲んでいる。水たまりを避けながら歩く自分の姿が、どこか頼りなく見えた。店までは、もうすぐだった。『リラクゼーション月の灯』柔らかな灯りが、雨の向こうにぼんやり見える。文乃は足を止めた。「……だめよね」小さく呟く。こんなふうに通い続けたら、きっと、もっと気持ちが大きくな
ぬくもりは、罪ですか第4章欲しかったのは、たぶん雨だった。昼過ぎから降り始めた雨は、夕方になっても止まなかった。文乃は傘を閉じ、店の前でコートの袖を軽く払った。濡れた商店街は静かだった。雨の日は嫌いではない。昔からそうだった。看護師をしていた頃も、雨の日の夜勤は少し好きだった。外の世界が静かになって、病院の灯りだけが浮かび上がる感じがしたから。でも最近は、雨の日になると少しだけ寂しくなる。隣に、話しかける相手がいないことを思い出すからだ。
ぬくもりは、罪ですか第3章こんな気持ち、みっともない気づけば、月に一度だったはずの施術が、二週間に一度になっていた。「身体、だいぶ変わってきましたね」施術後、牧野が鏡を見ながら言った。「姿勢が綺麗になってます」「そうですか?」「最初より、呼吸も深いです」文乃は鏡の中の自分を見た。確かに、以前より顔色がいい。肩の位置も違う。頬が少しすっきりして、疲れた印象が薄くなっていた。スーパーで、店員に「お元気そうですね」と言われた時は、思わず戸惑ったほ
ぬくもりは、罪ですか第2章名前を呼ばれるだけであの日以来、文乃は少しだけ眠れるようになっていた。夜中に何度も目を覚ますことはある。それでも以前のように、朝まで天井を見つめ続ける夜は減った。肩も軽い。不思議なのは、それ以上に“気持ち”が軽かったことだった。朝、カーテンを開ける。湯を沸かす。洗濯機を回す。何も変わらない生活。なのに、身体の奥に小さな余白ができた気がしていた。その理由を、文乃は考えないようにしていた。ただ、気づけばまた商店
ぬくもりは、罪ですか第1章ただ、肩が重かっただけ夜中の二時を過ぎても、赤池文乃は眠れなかった。照明を落とした部屋には、冷蔵庫の低い音だけが響いている。仰向けになるたび、肩の奥がじんわり痛んだ。昔から肩こりはあった。看護師だった頃は、もっと酷かった気もする。夜勤。急変。ナースコール。あの頃は、眠れなくても働けた。でも今は違う。眠れない夜は、そのまま孤独の形になる。文乃はため息をつき、ゆっくり起き上がった。テーブルの上には、飲みかけ
桜が散るころに最終話明日も、たぶん桜は、ほとんど終わっていた。公園の並木道は、薄桃色ではなく、やわらかな緑色に変わり始めている。葉桜。風が吹くたび、若い葉が揺れて、春の終わりを静かに知らせていた。和枝は、少しだけ足をゆっくりにする。桜が終われば、この朝の習慣も終わるのだろうか。そんなことを、ここ数日ずっと考えていた。最初は、ただ偶然会っただけだった。名前も知らない人。でも、毎朝顔を合わせ、少し話して、一緒に桜を見るようになった。それだけのことが、
桜が散るころに第5話散り始めるころ桜は、満開を少し過ぎていた。朝の公園には、淡い花びらが風に乗って舞っている。地面にも、薄桃色が少しずつ積もり始めていた。和枝は歩きながら、小さく息を吐く。「早いなぁ……」咲いたと思ったら、もう散り始めている。毎年そうなのに、今年は特に早く感じた。それだけ、この春を気にして見ていたのかもしれない。桜並木の先に、いつもの後ろ姿が見えた。グレーのコート。古いカメラ。少し猫背気味の立ち姿。デジタルカメラ5K動画
桜が散るころに第4話雨の日のベンチ朝から雨だった。窓を打つ細かな雨音で、和枝は目を覚ました。天気予報では、昼過ぎまで降ると言っていた気がする。「今日は誰もいないだろうな……」カーテンを開けながら、小さく呟く。もちろん、“誰も”の中には、あの人も含まれていた。こんな雨の日に、わざわざ桜を見に来る人なんていない。そう思うのに。和枝は、少しだけ期待している自分に気づいてしまう。洗面台の鏡に映る顔は、少し眠そうで、少しだけ落ち着かない。「何やってるんだろ、私」
桜が散るころに第3話名前を知らないまま桜は、ようやく咲き始めていた。満開にはまだ遠い。けれど枝先には、ぽつり、ぽつりと薄桃色が混じり始め、公園の空気そのものが少し柔らかく見えた。和枝は歩きながら、自然とあの人を探していた。探している、と気づくと少し恥ずかしい。でも最近、朝の公園へ来る理由は、半分くらい、あの人だった。――いた。桜の下。今日も古いカメラを構えている。和枝は、なぜだか少し安心する。「おはようございます」男性が先に気づいて、静かに会釈
桜が散るころに第2話おはようございます、だけ和枝は、自分でも少し不思議だった。いつもより十五分早く家を出る理由なんて、本当はない。介護施設の朝礼は八時半。公園へ寄らなくても十分間に合う。なのに最近は、自然と早く目が覚めてしまう。今朝も、湯気の立つインスタントコーヒーを飲みながら時計を見て、「あ、そろそろ」と思ってしまった。誰に急かされるわけでもないのに。外へ出ると、春先の空気はまだ少し冷たい。吐く息が白くなるほどではないが、マフラーを外すには早い季節だっ
【新刊発売のお知らせ】『触れる仕事――心まで触れてしまった二人』AmazonKindleにて発売しました。昼は主婦、夜は出張マッサージ師。ある日、予約票に記された近所の男性との出会いから、静かに動き始める心。派手な恋愛ではありません。けれど、誰かに必要とされたい気持ち、孤独、ぬくもり。そんな大人の想いを描いた作品です。ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。著者:学舟触れる仕事https://www.amazon.co.jp/
桜が散るころに第1話桜は、まだ咲かない三月の終わりだというのに、朝の空気はまだ冷たかった。和枝はマフラーを少しだけ引き上げ、公園の入口をゆっくり歩いた。出勤前、この公園を通るようになったのは、いつからだっただろう。母が亡くなって、半年。最初のころは、まっすぐ家へ帰るのがつらかった。介護職の仕事を終え、スーパーで一人分の惣菜を買い、誰もいない部屋でテレビをつける。見てもいない番組の音だけが流れて、気づけばソファで眠っている。そんな毎日だった。母の介護は長か
『髪を切った帰り道』最終話髪を切った帰り道春の風が、街の匂いを少しだけ変えていた。美容室を出ると、和枝は小さく息を吐いた。髪が軽い。首元を撫でる風が、前よりやわらかく感じる。「ありがとうございました」店を出る直前、拓真がいつものように笑って言った。「次も、楽しみにしてます」その言葉に、和枝も自然に笑い返していた。「こちらこそ」以前なら、そんなふうに言えなかった気がする。美容室は、ただ“老けた自分”を確認する場所だった。鏡を見るたび、失っていくものばかり数えてい
『髪を切った帰り道』第4話白髪のままで「お母さん、最近なんか変わった?」昼食のあと、娘の美咲が不意にそう言った。和枝は湯のみを持ったまま、少し目を瞬かせる。「そう?」「うん。なんか……前より明るいっていうか」美咲はそう言いながら、和枝の髪を見る。「その髪型、似合ってるよ」和枝は照れ隠しのように笑った。「白髪のおばあちゃんよ」「でも前より好きかも。無理してない感じで」その言葉が、なぜか胸に残った。無理してない。以前の自分は、“ちゃんとしている人”でいようとしていた気が
『髪を切った帰り道』第3話「似合いますよ、の続き」「次回のご予約、どうされますか?」レジの前でそう聞かれた時、和枝は一瞬だけ迷った。以前なら、「また気が向いたら」と曖昧に笑って終わっていた。けれどその日、和枝は自分でも驚くほど自然に言った。「……じゃあ、一か月半くらい後で」言ってしまってから、少しだけ恥ずかしくなる。次を楽しみにしているみたいで。店を出たあとも、和枝はどこか落ち着かなかった。美容室へ行く予定ができただけなのに、手帳のその日付を、何度も見返してしまう。
【新刊Kindle出版しました】『ぬくもりは、罪ですか』――六十五歳、まだ女でいてもいいですか著者:学舟六十五歳。夫を亡くし、一人で生きてきた女性。肩こりと不眠をきっかけに訪れた小さなサロンで、彼女は気づきます。欲しかったのは、若さでも恋愛でもなく、「安心して弱くなれる場所」だったことに。名前を呼ばれるだけで嬉しい。優しい言葉に救われる。そんな自分に戸惑いながらも、少しずつ変わっていく赤池文乃。これは恋なのか。それとも――
『髪を切った帰り道』第2話鏡の中の知らない人美容室を出ると、空は薄い夕暮れ色になっていた。昼間より少しだけ風が冷たい。和枝は肩にバッグを掛け直し、駅へ向かってゆっくり歩き出した。髪が軽い。ただそれだけのことなのに、歩くたび、首元に風が通る感覚が違っていた。信号待ちで立ち止まる。目の前のショーウインドウに、人影が映った。知らない女性が立っている、と思った。少し細くなった首筋。短く整えられた白髪。薄いグレーのカーディガン。疲れてはいる。年齢も隠せない。けれど
『髪を切った帰り道』――62歳、もう終わったと思っていた“女性の時間”が、静かに動き出す。第1話染めなくなった髪雨が降りそうな空だった。和枝は駅前の横断歩道で立ち止まり、小さく息を吐いた。ガラス張りの美容室の前を通るたび、入ろうか、やめようか迷う。三か月ぶりだった。以前なら、白髪が少しでも目立てば落ち着かなかったのに、最近はもう、鏡を見る回数そのものが減っていた。――誰に見せるわけでもないし。RevlonSuperLustrousLipstickLoveTha
『眠れる夜が、また来る』最終話眠れる夜五月の風は、どこか優しい。窓を開けると、街に柔らかな夜の空気が流れ込んできた。明美は静かにカーテンを揺らしながら、しばらく夜空を見上げていた。最近、不思議なくらい眠れる日が増えていた。もちろん、完全に不眠が消えたわけではない。夜中に目を覚ます日もある。孤独が胸へ戻ってくる夜もある。でも以前のように、暗闇へ沈んでいく感覚はなくなっていた。胸の奥に、小さな灯りが残っている。そんな感じだった。あの日から、もう一週間ほどが過ぎていた。健一
『眠れる夜が、また来る』第六話さよならも言えずに春の終わりが近づいていた。街にも、少しずつ柔らかな風が流れ始めている。桜はもう散りかけていた。歩道の端に残った花びらが、風に吹かれて静かに転がっていく。明美は、その花びらをぼんやり見つめながら歩いていた。気づけば、店へ行かなくなって三週間が過ぎていた。たった三週間。けれど明美には、ずいぶん長く感じられた。夜になると、今でも思い出す。[DEVENTORZ]レインコート自転車使い捨てではないレインコートリュック対
『眠れる夜が、また来る』第五話行けなくなった店あの雨の夜から、明美は店へ行けなくなった。予約しようとして、スマートフォンを閉じる。店の前まで行きかけて、引き返す。そんな日が続いていた。理由は、自分でも分かっていた。怖かったのだ。もう以前のようには戻れないことが。“ただのお客様”ではいられないことが。あの夜、健一の手に触れた瞬間。自分の中で、何かが変わってしまった。それを認めるのが怖かった。朝。洗面所の鏡の前に立つ。最近、鏡を見る回数が増えていた。頬のラインが少し
『眠れる夜が、また来る』第四話雨の夜夜の雨は、不思議だ。昼間なら鬱陶しく感じる雨音も、夜になると、どこか孤独を隠してくれる。その夜、明美は眠れずにいた。時計は十一時を過ぎている。窓の外では、春の雨が静かに降り続いていた。最近は少し眠れる夜も増えていた。けれど今日は違った。昼間、施術を受けた時のことを、何度も思い出してしまう。健一の手。呼吸を合わせる声。「お誕生日、おめでとうございます」その言葉が、まだ胸の奥に残っていた。明美は布団の中で小さくため息をつく。六十三歳
『眠れる夜が、また来る』第三話誕生日の言葉その朝、明美はカレンダーを見て、小さく笑った。「ああ、今日だったわね」誕生日。六十三歳になった。昔は、誕生日が近づくと少し浮き立つ気持ちがあった。夫がいた頃は、ケーキを買って帰ってきてくれた。「また一つ綺麗になるな」冗談みたいに笑いながら。その言葉に照れながらも、心のどこかで嬉しかった。でも今は、特別な日でもなんでもない。子どもたちも独立し、それぞれの生活がある。悪いわけではない。ただ、誰かの毎日の中心から、静かに降りていっ
『眠れる夜が、また来る』第二話身体が思い出していくそれから明美は、週に一度、その店へ通うようになった。最初は、本当に眠るためだった。夜になると胸の奥がざわつき、時計の音ばかりが気になってしまう。けれど施術を受けた日は、不思議と身体が軽かった。ぐっすり眠れるわけではない。それでも以前のような、暗い穴の中に沈んでいく感覚が少し和らいでいた。だから明美は、自分に言い聞かせていた。これは治療みたいなもの。眠るため。身体を整えるため。ただ、それだけ――。「こんにちは、明美さん」
『眠れる夜が、また来る』第一話眠れない夜長野の夜は静かだ。静かすぎて、眠れない夜には、その静けさが胸に沁みる。井上明美は、薄暗い寝室の天井を見つめながら、小さく息を吐いた。時計を見る。午前二時十七分。また今日も眠れていない。夫を亡くして、七年。最初の頃は、悲しみで眠れなかった。そのうち、悲しみなのか孤独なのか、自分でも分からなくなった。ただ夜になると、胸の奥にぽっかりと穴が開いたようになり、眠りだけが遠ざかっていく。病院にも通った。薬も飲んだ。けれど、眠りは浅くな
近所の奥さんを、呼んでしまった夜最終話「呼ばなくてもいい日」それから、何度か由美は家に来た。けれど――もう、最初の頃のように“施術のためだけの時間”ではなかった。整える時間は、少しずつ短くなり、代わりに話す時間が増えていった。最近のこと。若い頃のこと。家族のこと。ひとりでいる夜の長さのこと。触れられなくても、互いのことが少しずつ分かるようになっていった。そして、ある夜。いつものように施術が終わる。「今日は、もう大丈夫ですね」由美がそう言って、そっと手を離した。
近所の奥さんを、呼んでしまった夜第11話「それでも呼ぶ夜」電話の前で、正雄は長く動けずにいた。昨夜から、何度この受話器を見つめただろう。かければ、会える。けれど――その先に進めば、もう“ただの客”ではいられない気がした。半月前のように、何も知らない顔では会えない。自分の気持ちを知ってしまった。彼女も、それに気づいている。だからこそ――この一本には意味がある。「……それでも」小さくつぶやく。会いたかった。理由を並べても、言い訳を重ねても、結局そこに戻る。正雄は
近所の奥さんを、呼んでしまった夜第10話「境界線のゆらぎ」半月が過ぎた。そのあいだ――正雄は、一度も電話をかけなかった。かけられなかった、というほうが正しいかもしれない。あの日、由美に言われた言葉。「無理に理由を作らなくても、いいんですよ」その一言が、胸の奥に残り続けていた。分かってしまったからだ。自分の気持ちも。彼女が、それに気づいていることも。だからこそ――前のようには動けなくなった。会いたい。その気持ちは消えない。むしろ、会えない時間が長くなるほど強くなる。そ
近所の奥さんを、呼んでしまった夜第9話「頼む理由が変わるとき」テーブルの上に置かれたチラシを、正雄は何度目か分からないほど見つめていた。もう、電話番号など覚えている。紙を見る必要もない。それでも――目の前に置いてしまうのは、“理由があるふり”をしたいからかもしれなかった。腰は、痛くない。肩も、問題ない。身体は、むしろ調子がいい。それは自分が一番分かっている。「……困ったな」小さく笑う。困っているのは身体ではない。もっと別のところだ。あの人に会いたい。ただ