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静岡県伊豆市の宿泊施設さまに設置ホテルくん酒自販機15セレ導入シダックス中伊豆ワイナリーヒルズさま中伊豆ワイナリーヒルズ静岡県中伊豆にあるワイナリーを中心とした複合観光施設です。シャトーやブドウ畑、ワイン蔵、乗馬施設などのワイナリーエリアと、源泉100%の温泉を完備したホテルエリアに分かれております。ぜひ、伊豆山麓の中でのリゾートライフをお楽しみください。nakaizuwinery.comカラオケで有名なシダックスさまが経営する宿泊施設です。シダックス野球部は社会
今夜はなんだか疲れていたけど、布団に入って読み始めた『砂まみれの名将』(加藤弘士)。結句、イッキ読みした。なぜ、ノムさんがシダックス時代を「いちばん楽しかった」と述懐したか?理由は本書の最終盤で明らかになる。そういうことだったのか……。深く納得した。そして、この本を読んでよかった、と心底思った。落合の「山井交代」事件はあまりに有名だが、ノムさんにもそれに似た「森福交代」事件があったことを僕は初めて知った。「愛がないと人は育たない」ノムさんが遺した箴言。このフレーズだけを切り取って
先日、野村克也偲ぶ会に行ってきました。雲ひとつない冬の神宮の空。天国からノムさんがよく見えるように天気の神様が粋な計らいをしてくれたのでしょう一般献花では多くのファンが駆けつけていました。中には南海ホークスのユニフォームを着た人も。15分くらい並んで球場内に入場。ホームベース付近に祭壇が作られていました。遺影は最後の打席となったスワローズメモリアルゲームでの写真。あれからまだ2年半しか経っていません。あの日最後に挨拶で当時最下位だったヤクルト小川監督に対して「何をやってるんじゃ
信濃町駅前の歩道橋より黄金の銀杏に散ってしまった銀杏さて・・・西の甲子園球場、そして東の明治神宮外苑野球場12/11(土)「野村監督を偲ぶ会」が神宮球場にて、かって野村監督が在籍したヤクルト、楽天、阪神、ソフトバンク、西武、ロッテのプロ野球6球団が共同発起人となり執り行われました(新型コロナウイルスの影響もあり延びていたんですね)午前は関係者のみで、午後からは一般にも公開されました仙台楽天生命パーク、福岡PayPayドームなどでも献花台が設置されたそうです
全国でシダックス野球部OBが指導者として活躍しています!今年のドラフト会議では、津野監督の桜美林大学からドラフト1位、坂田監督の立正大学からドラフト2位と育成3位の選手が輩出されました。また昨年のドラフト会議では、米澤監督の関東第一高校からドラフト1位、吉井コーチの日本文理大学からドラフト5位、萩原助監督の桐蔭横浜大学から社会人野球を経由してドラフト2位の選手が輩出されています。これからもシダックス戦士の指導者を注目して下さい!私もシダックス戦士として、ガンバリマス!!
『アメリカのベースボールと日本の野球の違い』日本とアメリカでは「野球場の違い」がある。日本では球場、アメリカではボールパークと呼ばれる野球場。日本の球場は、内野が全面土というのが通常だが、アメリカのボールパークは、内野に天然芝があるのが通常である。最近では、日本の球場も内野に天然芝がある球場が増えてきたが、当時はほとんどなかった。また、アメリカにはドーム球場や人工芝の球場は日本と比べると少ない。人工芝の球場は故障をしやすいと考えられており、天然芝の球場が多いため、天然芝を育て易
「アメリカ独立リーグまでの野球人生」の最後に、私の16年間の野球人生を簡単に振り返ってみたいと思う。まず丈夫な体に生んでもらった母親、野球を教えてくれた父親、野球を続けさせてもらった両親に感謝。そして、宮井勝成監督、畑俊二監督をはじめ、お世話になった恩師、先輩、チームメイト、後輩には心から感謝したい。私の野球人生のスタートであった少年野球の広ワールドジュニアで、下半身強化を中心にご指導いただいた天国にいらっしゃる故・金澤秀彦会長にも感謝したい。少年野球・広ワールドジュニア時
シダックス野球部を退部する決意をした1997年8月中旬のスポーツ新聞に、「シアトル・マリナーズトライアウト参加者募集」という小さな記事を見つけた。マリナーズの秋季キャンプが行われるアメリカ・アリゾナ州ピオリアにおいてのトライアウト、しかもキャンプが行われている期間のトライアウト。私は、この記事を見て感奮した。大学時代に経験したアメリカ遠征を機にメジャーリーグが好きになり、その後活躍した野茂英雄投手にも憧れていた。(アリゾナ州ピオリアのマリナーズキャンプ施設)そんな
社会人野球のシダックスを辞めて、広島に戻る直前の97年8月下旬、中央大学硬式野球部の宮井勝成総監督にご挨拶の電話をした。監督から「今から吉祥寺で食事をしよう」と誘っていただいた。監督行きつけの吉祥寺にある中華料理店だった。もちろん監督と2人で食事をするのは初めての事で、急いでスーツに着替えて、調布のシダックス野球部寮からバスで吉祥寺駅に向かったことを今でもはっきりと覚えている。食事中は色んなお話しをしていただいた。今でもはっきりと覚えている事は、「今まで野球をやってきたこ
社会人野球のシダックス時代、本当に色んな経験をさせていただいた。キューバキャンプに始まり、キューバの野球、キューバナショナルチームとの対戦、社会人野球日本選手権大会出場、都市対抗野球大会出場、そして生活をかけた熾烈な戦い・・・。入社当初はかなり期待されていたが、右肘を痛めたせいでそれに応えることができず、都市対抗では予選に登板しただけで本選の登板は無かった。右肘の故障が完治せず、リハビリが続いた2年間だった。(写真は96年6月、都市対抗東京都予選)今では考えら
(1997年、都市対抗公式パンフレットより、マウンドに駆け寄っているのが私)(1997年、毎日新聞より、手前でご飯を食べているのが私)
都市対抗終了後しばらくの間、練習がオフになった。肘を故障し、都市対抗前くらいから退部を意識し始めていた私は、この期間にシダックスを退職することを決意した。退部の理由はたくさんあった。肘の故障、予選での不甲斐ない投球、練習方法、人間関係、実家のスポーツ店の事など、ここでは正直書ききれない。よく可愛がっていただいた高橋コーチ、大須賀コーチ、萩原さん、吉井さん、入江さん、庄堂さんにでさえも「父の体調が悪い」と嘘をついた。シダックスでは戦力外通告をされる前に退部するのは珍しい事だった。
迎えた都市対抗準々決勝は、優勝候補の日本生命が相手だった。全日本のエース・杉浦正則投手、ドラフトの目玉・福留孝介選手(現カブス)が中心で、投打のバランスが非常にとれた素晴らしいチームであった。そして日本生命の先発はエース・杉浦投手、シダックスは補強選手の先発で試合が始まった。初回に3失点、2回には満塁本塁打を浴びるなど6失点。注目の福留選手はノーヒットに抑えたが、3本の本塁打を浴びるなど大量にリードされていた。シダックスはウルティアと補強選手の岡村選手がホームランを放つなど、日本生命を
(第68回都市対抗野球大会公式パンフレットより、ベンチ奥で歩いているのが私)
1997年、第68回都市対抗野球大会。私にとっては念願の都市対抗野球大会出場だった。都市対抗には補強選手という制度があり、予選で敗れたチームから5人の選手を補強できるというもので、シダックスは投手3人、野手2人を補強した。2次予選で満塁本塁打を浴び、信頼をなくした私にこの補強投手の影響がないわけがなく、結局私の登板はなかった。何はともあれシダックス2度目の都市対抗野球大会出場。前回出場は初戦敗退なので初勝利を目指してチーム一丸となっていた。(写真は97年7月、都市対抗初戦の
1997年7月、ホテルニューオータニで、「シダックス野球部を励ます会」が行われ、監督、コーチ陣、選手全員が出席した。多数の野球関係者に出席していただいた中で元西鉄・豊田泰光氏、当時ヤクルト・スワローズの監督だった野村克也氏、野村沙知代夫人らも出席。会の途中で選手全員が壇上に上がり一人ひとりが紹介された後、ペナントレース真っ最中の野村監督からスピーチをいただいた。これにはほとんどの選手が感激した。その方がいずれそのシダックスの監督をするとは・・・。(写真は97年7月、シダック
7月初旬、東京ドームで同じく東京都代表のプリンスホテルと壮行試合を行った。(写真は97年7月、東京ドームでの都市対抗出場壮行試合の試合後)この試合、プリンスホテルの4番で中大の先輩・佐藤友昭選手がライトの看板に当る大アーチを放った。それを目の当たりにして、度肝を抜かれるとはこの事かと感じた。私はこの試合1イニングだけ登板し無安打無失点。憧れであった東京ドームのマウンドを経験した。(写真は97年7月、東京ドームにて)
都市対抗出場を決めた翌日から5日間は練習がオフであった。練習再開となった翌週からは激励会、壮行会などが続いた。調布市長に都市対抗出場を報告する調布市報告会、補強選手が合流し補強選手歓迎会、および祝勝会、そして調布市のホールで行われた都市対抗出場激励会に参加した。(写真は97年7月、調布市の激励会・壮行会にて、壇上右側で調布市の旗を持つ私)この会は壮行会も兼ねており、調布の市民の方も大勢参加していた。立食パーティーで市民の方とも色んなお話をし
表彰式を終えた私たちは、神宮球場から新宿にバスで移動し、都市対抗出場祝勝会に出席した。(写真は97年6月、都市対抗出場祝勝会)選手全員が壇上に上り、私はスピーチで2次予選初戦のコールド負けを演出しそうになった事を話し、東京ドームでは仮を返したいと宣言した。祝勝会ではチームメイトとビールで乾杯して労をねぎらった。念願だった都市対抗出場を決めた私たちの顔からは笑顔が絶えなかった。寮に戻ってからはキューバ選手が大騒ぎ、私も東京都で優勝したという嬉しさから興奮状態でその晩はな
場所を神宮球場に移しての2次予選準決勝、JR東日本には12-4で快勝。そして迎えた決勝戦・東京都第一代表決定戦の相手は前年都市対抗予選で敗れたプリンスホテル。相手の先発は同級生・小林幹英投手。シダックスはエース・萩原さんが先発した。3点リードされた3回、新人・坂田の本塁打を口火に一挙6得点、前年完投負けをしていた小林投手を3回途中でノックアウトした。萩原さんは粘りの投球をしていたが、6回にピンチを迎えて、吉井さんに交代。同点に追いつかれたが、その後は持ち前のパフォーマンス全快で
97年6月、シダックス3年ぶりの東京ドーム出場を懸けての都市対抗予選が始まった。1次予選の初戦・さくら銀行戦は7-1で快勝。そして、2次予選進出決定戦の相手・日本IBMは、強豪・鷺宮製作所を破って、勝ち上がってきており勢いに乗っていた。しかし、シダックスのキャプテン・田中さんが3打席連続本塁打を放つなど打線が爆発、先発・萩原さんの後を受け、私は8回からリリーフで登板。2イニングを無失点に抑えて試合を締めた。この勝利は、前年1次予選敗退であったシダックスにとって、2年ぶりの2
都市対抗東京都予選を約1ヵ月後に控えた頃、地獄のような練習がスタートした。竹内コーチの提案で、この時期に走り込み中心の追い込み練習をしておけば、ちょうど予選の頃に力が発揮できるということだった。チーム全員で短いダッシュ100本くらいは走った。みんなそれぞれ気合を入れ、声を掛け合いながら、叫びながらのやけ走りだった。私も涙目で走った事を覚えている。しかしチームのみんなが、前年の都市対抗予選敗退と日本選手権初戦敗退の悔しさを持っていたので耐える事ができた。私も長いリハビリ生活を終
1997年3月初旬から5月下旬までは肘の治療をした。高橋善正コーチに紹介していただいた治療院に通い続けて投げられる日を目指した。(写真は97年3月、シダックス韮山キャンプにて)シダックスが出場した社会人野球高砂大会と東北大会には帯同せず居残りで東京にいた。(写真は97年5月、関東村グランドにて打撃練習)その頃、この年に来日するキューバ3選手が来日した。投手のH・ボスメニエル、内野手のE・ゴディネス、そして来日2年目のE・ウルティアだった。(写真は97年5月、ボ
1997年1月下旬、シダックス野球部が毎年出場している調布市民駅伝大会に、私は第3区の走者として出場した。結果は散々だったが・・・。そんなシダックス1997年のシーズンは、2年間コーチを務めたアルフォンソ・ウルキオラ氏が監督に就任。元巨人の高橋良昌(善正)氏が投手コーチ、元法政大監督・元たくぎん監督であった竹内昭文氏と大須賀健氏がそれぞれコーチに就任した。また2年間続いたキューバキャンプが廃止され、有望な新人選手が9名も入社してきた。(写真は97年3月、韮山キャンプ激励
シダックスの投手陣には、吉井憲治さんと萩原康さんという尊敬できる素晴らしい先輩がいた。野手でも田中善則さん、斉藤一也さん、入江崇宏さん、庄堂成紀さんなど素晴らしい先輩方々がいた。そんな先輩から色んなアドバイスをいただいた。社会人野球1年目、肘痛に悩まされ気持ちが先走ってしまい、力みから肘が下がり、投球フォームを崩した。先輩からのアドバイスはほとんどが「楽に投げろ」、「テイクバックで力を抜け」、「リリース時だけ力を入れるように」といった、私の悪い癖である力みを指摘していただいた。
シダックス初出場の社会人野球日本選手権大会の初戦、相手は北海道代表の室蘭シャークスだった。前身は強豪・新日鉄室蘭である。相手投手のリズムの良い投球に、シダックス打線はチャンスを作りながら得点できなかった。先発のデラトーレは完璧な投球内容で完投したが、スコアは0-1のサヨナラ負け。その瞬間はチーム全員が唖然とした。まさかだった。その一言・・・・チームに驕りがあったのかもしれない。前年の覇者・三菱自動車川崎を破っての出場、優勝を狙えるチームだっただけに、この初戦敗退は相当なショックで
96年10月、日本選手権初戦の相手と日程が決まり、新宿三井ビルにて選手権出場壮行会があった。そして、開会式の前日、私たちは新幹線で神戸に向かった。明石市の宿舎では吉井さん、萩原さんと同部屋で夜はシャドーピッチングをした。グリーンスタジアム神戸で行われた第23回社会人野球日本選手権大会の開会式は、私にとって人生初の全国大会の舞台であり感激するものがあった。(写真は96年、社会人野球日本選手権大会開会式)開会式では各地区の予選を突破してきた出場26チームの顔ぶれ、注目選手、マスコ
96年9月下旬、シダックスが出場した社会人野球日本選手権関東代表決定戦が、埼玉県の大宮市営球場と大宮県営球場で行われた。その初戦、三菱重工横浜戦では入江さんとウルティアのホームランなど打線が爆発し、7回コールド勝ち。続く関東代表決定戦は前年の日本選手権優勝チームである三菱自動車川崎が相手だった。萩原さんが先発し、田中善さんが2本塁打5打点の活躍、最後はデラトーレが締めて8-4で快勝。シダックス創部以来、初の社会人野球日本選手権大会出場を決めた。(写真は96年、社会人野球日本選
8月下旬、萩原さんと東京ドームで都市対抗野球大会を観戦した。初めて見た都市対抗は、とにかく両チームの応援合戦、会社を挙げての声援が凄くて、ドーム内が異様な雰囲気になっていた。野球選手にとっては最高の舞台である東京ドームが沸いていて、こんな場所で投げられたら幸せだろうなと感じた。来年はここで活躍している自分を想像して、このドームの歓声を忘れず練習していこうと考えていた。試合を観戦中、スタンドでは中国地区代表・NTT中国の選手も観戦に来ており、何人かの選手と久しぶりに顔を合わせて色ん