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サンフランシスコ条約発言後に消えた報道官支那共産党幹部と不倫・失踪後に胎児ごと人体標本にされたと問題になった女子アナ面子が命より大事な支那人は、面子を潰されたら生きていてはいけません。実際には習近平に失脚させられた者たちは飯がうまい収容所に入れられているらしい(自分や家族が失脚した時に酷い扱いを受けないように)から、共産党王朝が崩壊し、習がいなくなったら、みんなゾロゾロ出てきたりして。
これ、中国の学校の歴史で、曲解した歴史を学んでいるので、マジで発言している可能性がある。中国で、Wiki見られない(嘘のWikiが出てくる)と言う事もある。
-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be侵略独裁国の支那(自称中華の国、チャイナ)の野蛮で愚かな発言を笑い倒した日本のSNSの「大喜利」-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.b
サンフランシスコ条約は無効だというんだよね。それ以外に、領土を確定した条約はないんだよね。エジプトのカイロ宣言・ポツダム宣言をもとにしてるなら、あれは条約じゃないし、ただの戦争の理由付けですよね。しかもそこには、今の中国=中華人民共和国は参加していない。むしろ入ってたのは、中華民国=台湾政府ですわ。ーーーーーーーーーーーーーー中国、サンフランシスコ条約は「不法かつ無効」首相批判に乗じ主張12/3(水)19:00https://news.yahoo.co.jp/articles
爆「中国が、サンフランシスコ平和条約」を「違法かつ無効」と宣言どうしよう(゚Д゚)満州も台湾も日本に戻って来たhttps://t.co/IXBa1Kk8eapic.twitter.com/btWEcXBKiS—「翁」おきな長寿や知恵の象徴(@nH1vdMHaKWe73h8)2025年12月2日サンフランシスコ講和条約を中国が“違法,無効”とすると→日本は領土を返していない状態に戻り→台湾・満州・南シナ海の法的根拠が全部宙に浮く→一番損するのは中国日本を攻
面白いことになってきました。中国政府は、サンフランシスコ条約を認めていないそうです。と言うことは、少なくても日本国と中国と関係のある台湾の統治権放棄は、取り敢えず白紙撤回されることとなり、日本国の管理下となります。更に、満州国も同様になるのでは?・・・でも台湾との関係は、話し合いで、なんとでもなりそうですが、中国本土に関しては、赤色人民化されていますから、帰属は日本の国益にそぐわないかも知れません。現在の中国政府は、サンフランシスコ条約の存在やその内容を知る幹部は居ないのでしょう。下記、シ
台湾は一つの中国として併合されるのか?歴史を捏造する中国の実態!(-PR-この記事にはプロモーションが含まれます)中国が、再び高市総理の発言を批判し始めました。中国は歴史を捏造し、嘘をつき続けているため、日本側が正しい歴史を述べても、認めることは出来ないのです。11月26日の党首討論会で、高市総理は立憲民主党の野田党首の質問に答え、「日本の台湾への基本姿勢は変わらない」とし「サンフランシスコ条約」について述べました。日本は台湾の法的地位を認定する立場にない理由は「サンフラ
「台湾は中国の一部なのか?」──この問いは、現代の国際政治において最もデリケートで、かつ答えが一つではない問題です。中国政府、台湾政府、国際社会、そして台湾に住む人々、それぞれの立場によって答えが異なるのが実情です。本記事では、歴史的背景、国際法、国際政治、台湾人のアイデンティティという4つの観点から、台湾が中国の一部かどうかを徹底的に分析します。一つの中国原則とは?中国の主張中国(中華人民共和国)は、「一つの中国原則」という立場をとっています。これは以下のような主張を含みます
日本の領有権範囲については、太平洋戦争・第二次世界大戦終結におけるポツダム宣言受諾とサンフランシスコ条約で一度完全にリセットされたためそこを起点に考えるべきなのですが、その状況下でどうして「日本古来の領土」という感情論のほうが絶対的に正しいと思えるのが不思議なのであります🤔
👇3/13沖縄タイムス記事より
1.日本の「西側諸国」への転換:起源と顕在化第二次世界大戦後、日本はGHQ(連合国軍総司令部)による占領政策を通じて、徹底した民主化と非軍事化が進められました。特にサンフランシスコ講和条約(1951年)で正式に主権を回復しましたが、日米安全保障条約の締結により、アメリカの軍事的保護の下に置かれました。その後の経済発展と冷戦構造の中で、日本は事実上「西側諸国」の一員として位置づけられました。これが顕著に表れたのがプラザ合意(1985年)です。合意により急激な円高が進行し、日本の輸出依存経済は
1945年東京「戦時国際法」では軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民間人等の攻撃禁止)を真っ先に挙げています。「東京大空襲」は第二次世界大戦のさなかとはいえ、東京の都市部を標的とした無差別攻撃によって、市民に大きな被害を与えるという戦争犯罪であった。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数という広島原爆(9万人~16.6万人死亡)や長崎原爆(7万4千人死亡)に匹敵する規模の民間人の大量殺戮でした。その「東京大
すでに発表した1部(西村ヨネ)、2部(スイス編)に続いて、第3部はフランスである。フランスは熱烈なフランスファンも多く、戦後間もなくから渡仏の動きがある。そして1948年と書くのが最初の様だ。その理由は後ほど説明する。チェルビ菊枝幼少のころからパリにあこがれたチェルビ(加藤)菊枝は、戦時中もパリに留まり、終戦後初のフランスからの個人の引き揚げ者であると同時に、最初の渡仏者であった。1947年年3月28日、まだフランスにいた菊枝はマルセイユでフランス郵船シャンポリオン号に乗り、ベト
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パート1に続き、1951年9月8日に日本がサンフランシスコ条約を締結し、国際社会に復帰する前に欧州に向かった日本人について述べる。パート2はスイスである。スイスは中立国であったから、1945年8月の日本敗戦後も、翌年1月に欧州の中立国に残る邦人に対して、マッカーサー元帥の名前で引き揚げ指令が出されるまで、日本人の行動は大きな制限を受けなかった。朝日の笠信太郎はジャーナリストの資格を保持することが出来た。そういう国ゆえか、新たな受け入れの間口も広かったようだ。スイスの公文書館に「日本
-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.beえ?このおじさん誰ですか?ただ者ではないです。日本は独立国ではないと。はっきり。操られてるんだよね。目覚めの時。拡散して欲しい。
<序>1945年8月の日本の敗戦で、欧米の在留邦人は原則、全員が日本に引き揚げた。そして1951年9月8日、日本は米国など48カ国とサンフランシスコ条約を締結して、戦争状態を終結させることが出来た。同時に海外には再び日本の大使館が設置されこれ以降、海外渡航が再び可能になったといえる。もちろん厳しい外貨の持ち出し制限などは残る。ではパスポート取得の第1号は誰か?日本が国際舞台に復帰した1951年、現行の旅券法が制定され、日本に旅券の発給権が回復した。そうして戦後のパスポート第1号は、サンフラ
6/23は、沖縄戦の慰霊の日でしたので、最近知った、三重県の予科練跡地に行ってきました。予科練とは、14才~18才くらいの少年たちの海軍飛行訓練学校ですね。中学生くらいの少年たちが、この訓練生からのちに、特攻隊となっていったのです。よく知られる、神風特別特攻隊などです。昭和初期から、15年間も、戦争が生活の中心になっていたことも、初めて知りました。今はこの場所は資料館となっていて、遺品の数々が保管されていました。三重県の香良洲町と言う土地は、当時、香良洲町の1/3の敷地が予科練の敷
チェックインを済ませお部屋へ案内される〜ロビーラウンジの隣のお部屋はサンフランシスコ条約に使われたお部屋と説明される建物を出ると敷地内の道路を挟んで隣の建物に向かう〜(この画は翌朝撮影したので雨景色です。。。)隣の建物入り口〜奥にある2つの入り口の右側花鹿の1104のお部屋が今回のお部屋でしたではではお部屋に続く〜
ドタバタから始まった、アメリカ広布の第一歩…!このブログの一番最初のタイトルは、「何事も始めが肝心だ」でした。戸田先生の夢の実現の為に繰り出す世界平和の第一歩。池田先生も学会の本部も、それまでの弘教活動の経験を活かし、また現地からの情報を得ながら、用意周到に計画が進められたと思います。未知の旅だからこそより一層、いろいろな事を事前に調べ、そして現地と連絡を取り、万端の準備をして臨まれたに違いありません。最初の世界広布の旅は、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、トロン
もう70年以上東京の郊外・小平市に住んでいます。こちらに引っ越してきた当時は家もまばらで、畑地がどこまでも広がって西に見える山裾まで達しているようでした。小平に来てすぐのことです。家から少し北に歩いたところに、市(当時は町)の中央を貫く青梅街道があります。ある日その西の方からガラガラ、ゴーゴーというものすごい音が聞こえ始め、次第に近づいてくるのです。その音は何時まで経っても消えることはなく、子供心に恐ろしいと思ったようですが、母親に連れられその音を「見に」青梅街道まで行きました。音の
幻の日本独立と今も続く支配構造〜前編〜|山岡鉄秀▼9月30日(土)オンラインセミナーはこちらhttps://cgs2.teachable.com/p/seminar-20230930▼山岡鉄秀氏の新刊はこちらhttps://www.amazon.co.jp/dp/4802401574▼最新情報はコチラ▼☆参政党のYOUTUBEチャンネル☆https://www...youtu.be幻の日本独立と今も続く支配構造〜前編〜|山岡鉄秀参考
戦後日本は、「(GHQ時代からの)在日米軍の法的地位は変えず、軍事面での占領体制がそのまま継続した『半分主権国家』として国際社会に復帰した国」と理解するのが正しいようです。なぜ、このような形での国際社会への復帰となったのか。GHQ解体(1952年)時の状況として、1951年9月8日に調印、1952年(昭和27年)4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約(注)での日本の主権回復とともにGHQは活動を終了し、解体された。同時に、日本は英国や米国などとの2か国間協定を結
(前回記事)現代史(4)日本人の人権はコウモリ以下2023-04-10https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12797130692.html(今回記事)2018/06/08著憲法第九条改正の前に以下の説を論議する必要がある。日本は、国際法上日本は独立国とされていない。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約で各国との署名した文には、『日本国(Japan)の主権、又は独立の承認』とは一言も書かれていない。書かれているのは『日本(
5月1日といえば、労働者の祭典〝メーデー〟(↓)が行われる日。日本では1920(大正9)年から開催されています。そして(↑)で少し触れましたが、今からちょうど70年前に起きてしまったのが、血のメーデー事件1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ条約発効と同時にGHQによる占領が解除され、日本は独立国として再出発。その3日後・5月1日午前10時20分頃、第23回中央メーデーは人民広場(現・皇居前広場)で開催されました。正午過ぎに閉会し、参加者は予定通り北部・東部・南
“宇宙(そら)”の和音♪通信/2月7日☆今日は何の日?【北方領土の日】1981(昭和56)年、日本政府が北方領土の返還運動の推進と、国民の関心と理解を深めることを目的に閣議決定にて制定。北方領土は現在ロシア連邦が実効支配している国後島・択捉島・歯舞諸島・色丹島の4島を指します。伊豆の下田で調印された「日本国魯西亜国通好条約」は、「日魯通好条約」「下田条約」とも呼ばれ、当時の日本では「日魯和親条約」と表記し、北方領土が日本の領土として認められていました。江戸時代から日本は北方領土の
竹島日本領英豪も認識サンフランシスコ条約時公文書で判明https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/102089竹島日本領英豪も認識サンフランシスコ条約時公文書で判明|山陰中央新報デジタル戦後、日本の独立と領土が決まった「サンフランシスコ平和条約」で、米国に加えて英国とオーストラリアも竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島(トクト))を日本領と認識していたことが両国の公文書などで明らかに…www.sanin-chuo.co.jp2021/1
昨日、サンフランシスコ平和条約と旧日米安保条約が1951年9月8日に締結されてから70年を迎えた。両条約によって日本は独立国になったが、それは、あくまで形式的な独立であって、実質的には米国の従属国としての地位に置かれた。あれから70年の時を経たが、日米関係の根本は変わっていない。この二つの条約は、カイロ宣言(43年)などが明確にしていた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を無にし、日本占領の目的を達成すれば占領軍は直ちに撤収するとしていたポツダム宣言(45年)に背き、米軍駐留の継続を認める
↑↑↑ピーター・ポール&マリーも歌っておりますが、作詞・作曲:ジョン・デンバー。ベトナム戦争に行きたくないという歌でございます。当時、大学生は兵役の免除があったようですが、ブルーカラーはそうはゆかず、兵役カードを公然と焼く反戦デモもございました。そりゃ、そうよね~~~。映画「イエスタディ」で観ました。アイスホッケーの選手のエリートが、やんちゃして退学になってカナダに逃げたんだけれど、ベトナム送りになって、それをクレア・ピンパールがずっと待っているっていう青春映画。