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リリウオカラニが書いているように、ルナリロ王の死後王位についたカラーカウアは、カメハメハ家ではない自らの新王家を確立するべく様々な事業を行いました。そのことは、カメハメハ家の一員であるバーニスにとって、内心かなり複雑なことだったのではないでしょうか。仲良しのルース王女を外すようなやり方もパウアヒには納得できなかったでしょう。また、質素倹約を美徳とするビショップ夫妻とはかけ離れたカラーカウアのやり方も受け入れがたいものだったようです。カメハメハ・スクール資料
訳注:④バーニス・パウアヒの遺言バーニスの自筆の遺言書は40ページにも上るもので、現在までハワイ州公文書として保管されています。この遺言書の中の、遺産分与についてまとめたものが、カメハメハスクールのホームページに掲載されています。それを読むと、まず遺言書が公式に作成されたのは、1883年10月31日。本人が亡くなるちょうど一年前のことでルース王女が亡くなった半年後でした。ルース・ケエリコーラニ王女から莫大な財産のほとんどを相続したバーニスがこの時点で遺言
訳注:③ケオーウア・ハレルース王女のホノルルの屋敷は、かつてカ’アコプアと呼ばれたヘイアウのあった場所に建っていました。1873年10月、この屋敷が火災で焼失。前年にカメハメハ五世が亡くなっており、姉であるルース王女はただ一人の親族として王家の遺産を相続していました。これによってルース王女は大変な資産家となっていたのですが、火事によってカメハメハ王家の祖先伝来の貴重な品々、例えば羽のカヒリやマント、美しいタパ布やマットなど多くのものも失われたそうです。
訳注:②ルース王女PrincessRuthLukaKeanolaniKauanahoahoaKeʻelikōlani(1826-1883)ホノルル生まれ。母親はカメハメハ大王の孫の一人、カラニパウアヒ。カメハメハ二世の五人の王妃の一人となるが、カメハメハ二世が亡くなった後はカウアイ島知事となったカハライ’ア・ルアヌ’ウの妻となる。(カハライ’アもまた、カメハメハ大王の孫。)この結婚は長く続かず、パウアヒは彼と別れ、オアフ島知事ケクーアナオ’アと結婚。
ルース王女が亡くなった日付について。本書では「1884年春」と書かれていますがカメハメハスクールのウェブサイトその他各種資料では、ケオーウア・ハレの完成とその直後のルース王女の逝去は「1883年」となっています。リリウオカラニの記憶違いか、誤植か?いずれにせよ正しくは「1883年春」のこととでした。この年、1883年は(も?)リリウオカラニと王家にとって年明けから様々な出来事がありました。1月9日、リリウオカラニの夫ドミニスの愛人が、息子ジョン・アイモクを出
第17章ルース王女とパウアヒ・ビショップ夫人PRINCESSRUTHANDMRS.BERNICEPAUAHIBISHOP1884年の春(訳注:①)、エマ・ストリートにルース王女(訳注:②)の瀟洒な邸宅(訳注:③)が完成した。その落成を祝う大掛かりな祝宴が行われ、続いてその晩は豪華な舞踏会も開催された。ハワイ生まれ外国生まれに関わらずホノルルでも最高にすばらしい人々が皆こぞって出席した。だがこの祝宴の後、王女は急病に倒れた。健康が少しでも回復すればとの期待から