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1930年代、40年代の白黒映画が好きで観ていてふと気がつくことがあります。それは、現代では無くてはならない存在のティッシュペーパーがその時代にはなかったということです。その他にも、映画には必ずと言っていいほど登場するであろう囲炉裏の存在です。現代では囲炉裏を見かけることはほとんどなくなってしまいました。囲炉裏の存在はその時代の映画を観ていると、人を温めるだけではなく、食事から人との団欒から打ち合わせなど、あらゆる人とのコミュニケーションの場面で度々登場します。そしてティッシュペーパ
直感や閃きの源泉はどこから来るのだろうか?直感の精度を上げるには、直感を信じて行動に移す習慣づけを重ねなくては、直感の精度は上がってこないように、体感の精度を上げるにも体感で感じることを信じて行動に移す習慣づけを重ねなくては、体感の精度は上がってこない。例えば朝起きて天気予報をネットやテレビやラジオなどで確認をして、今日は傘が必要かどうかを調べるけれど、普段から体感で天気予報を予測して行動を習慣づけることを心がけるようにする。すると徐々に天気によって気持ちが左右されることがなくなって行
スカイツリーがオープンして10周年を迎えています。今、東京スカイツリー開業10周年記念、特別ライティング点灯イベントが開催されていて、連日のようにオリジナルイルミネーションが点灯されています(詳しく⇒https://www.tokyo-skytree.jp/event/info/revival2022)東京スカイツリー®開業10周年記念特別ライティングリバイバル点灯|イベント|東京スカイツリーTOKYOSKYTREE高さ634m、世界一高いタワー「東京スカイ
夫婦で思いやりについて話が及んで、気がつけばお互い険悪なムードになったその日の午後、以前から予約をしていたお寺での法話を聞きに行くと、その法話が偶然に思いやりを大切にといった内容だったことに驚いた。しかし話が始まって早々に、妻が寝始めたのにはもっと驚いた。それを見て、養老孟司さんが以前言っていた言葉を思い出した。いいお経ほど眠くなると。30分の法話が終わり妻から一言。さっきどんな話だったか私に説明してと言われた時は、またまた驚いた。今日のタイトル「美点凝視」ですが、相手の長所や
見た目、見た目、見た目、人は見た目に影響を受けやすい種族なのかも知れません。一般的な動物は人間ほど見た目に影響を受けないといったら語弊があるのかもしれませんが、人間ほど見た目に重きを置いていないように感じます。見た目以外に臭いや音や肌感覚、即ち体感で感じる感覚をバランス良く使って判断しているように感じます。それに比べて人間は目に見えるものに重きを置き過ぎて生きているのかもしれません。普段から嗅覚、聴覚、触覚といった感覚を意識して、視覚に重きを置かないで生きて行けたら、もっと幸せに進ん
メジャーリーグの試合を視聴していると、日本のプロ野球ではあり得ないような凡ミスを時々見ることがある。高校野球でもしないようなミスを何十億もの年俸を貰っていながら、まさかという状況になっていたりする。しかし不思議なことに高校野球のようにそのミスが致命的になってしまうような状況にはなりにくいように感じる。なぜなのか?それはまさか理論ではないだろうかと思う。人はミスをするものという前提で物事に向き合っているからではないだろうか?以前、メジャーリーグの試合の放送は完全なリアルタイムではなく、
もうそろそろ雪解けの兆しが見え始めたようだと思い、たまたま通りがかった神社のおみくじ箱に手を入れ、おもむろに一枚のおみくじを引き抜いてみた。そのおみくじには吉の文字が。その内容は今体感で感じる心模様と同じ思いの雪解けの兆しと書いてあるではないか。その時、瞬間的に思ったことは、おみくじというのは、今感じている体感とおみくじ、即ち神様の思いとの一致度を確かめるものなのではないかと。体感で感じる感覚と神様の思いとの一致度が高ければ高いほど運気が良く、その逆が運気が弱いという捉え方が、お
良薬口に苦しとある。セロリ食(栄養不要論)も下駄を履くことも、布団で寝ずに硬い床で寝ることも、私にとっての良薬口に苦しと言ったところだろうか。効果のある薬は苦味や痛みを伴うとするならば、その苦痛こそが効果の源であると言えるだろう。薬の内容成分が効果の源泉ではなく、ただ単にストレス、即ち苦痛があるから効果と変わるのではないだろうか?風邪を引いたときにウイルスの仕業と思う反面、あの辛い風邪症状にこそ回復そのもので、むしろウイルスがそのきっかけを与えたに過ぎないのではないだろうか?そ
足の指を解放することの重要性に気がつきました。最近では運動靴を履くのを躊躇ってしまうほどにまでなってしまいました。なぜなら運動靴は足の指を固定させてしまうからです。足先の動きを制限させてしまうのは運動靴に限ったことではありませんが、足先を自由に動かせなくさせることは、発想力が低下してしまうのに繋がってしまうのではないかと感じるからです。それは潜在能力を発揮させないことにも繋がる感じがしています。即ち、足の指が手の指のように自由に動く状態を維持できれば、子供のような発想力や想像力や好
下駄は運動靴より疲れやすいというイメージは、誰しも持っているイメージだろう。確かに夏祭り、花火大会などでたまに下駄を履いた程度では、疲れやすいとか痛いとか滑るといった思いを経験するのは確かなのかもしれない。しかし、下駄を日常的に履いていると、不思議と運動靴より楽に歩けることに気がつく(私自身の感覚です)。それは当然で、昔は運動靴などなかった時代は常に下駄や草履などで、重いものを担いだり、長距離を歩いたり、山道をかけ登ったりしていた訳で、日本に運動靴が一般的に普及したのは僅か数十年の歴
思考や言語をフル活用し、人の目を気にしながら上手に長いものに巻かれて生きて行く時代から、これからは味覚以外の感覚を大切にし、触覚や聴覚や嗅覚などで感じた情報を頼りに生きる文化への移行が始まって行くのかもしれません。どういうことかと言えば、人間は人と接点を持てば持つほど、より成長できると思われてきた一方で、実は全く逆で、どんどんと魅力に欠ける人物へと進んでしまうのではなかろうか?例えば、本当に楽しい状況の時は、人は幸福とか考えないとか、本当に充実している時は、人はお金のことも考えないように
先日、山形県の出羽三山で有名な羽黒山、月山、湯殿山の旅に行って参りました。それぞれ過去、現在、未来と、生まれ変わりの山として昔から信仰の対象となっています。その生まれ変わりという名の通り、その山々がとても険しくそれぞれの場所に辿り着くのに大変苦労しました。しかし、とても大切な経験をさせて頂いたと感じています。さて本題ですが、根拠はないけど、この国に下駄の文化が再復活できれば、この国はもっといい国になると思う。なぜかと聞かれれば、それは下駄を2,3週間ほど続けて履けば言っている意味が全て
日本では古くから「奥ゆかしさ」を兼ね備えたことを美徳とされた。現代の「控えめ」や「あざとい」のどれとも異なり、また「動作を大げさにし気づかせる」わけでもなく、深い心遣いが感じられ、品位があり心がひかれる様子。もっと歩み寄りたいまたは近づきたいと言う欲求を起こさせ、人を動かすほどまでに惹きつける配慮がある様などを昔から「奥ゆかしい」と説明した。もともと日本の素晴らしさとは何なんだろうか?どこに日本らしさがあるのだろうか?それは権力や力や地位やお金を持っているから立派な人として扱うの
どこまで行っても自我を持たないことへの拘り。自我を持つということは、自分を苦しめてしまう原因になってしまうだけではなく、人生を楽しめなくさせてしまう存在になると思っています。要するに自我を持つことは自惚れと言われても仕方のないことと思っています。自惚れは、なければない方がいいことは誰もが知っている。なぜなら冷静さを失いやすく、感情を抑えられなくなるからではないだろうか。自我を持ち、自我を主張し、自我を信じることは自惚れになり、それらは流れを遮断し、思い込みによって思考を停止させ、か
人は拘りを持つ人を否定しがちである一方で、拘りたくても拘れない者も多くいるのではないだろうか?どういうことかと言えば、拘りを否定する人ほど、実は拘りがないことへの劣等感のようなものを抱いているのではないだろうか?拘りがないことは、言ってみればどちらにも振り子が振れにくいということでもあるからだろう。どちらにも振り子が振れないということは、感動も拘りが強い人に比べ薄くなってしまわないだろうか?感動が起こりにくいということは、日常の些細なことにも、喜びと感じたり幸せと感じれなくなってしま
旅行先の名もない古いお寺に行った際に、人が誰もおらず、お寺のお賽銭箱の側で仰向けに寝転がりながら空を眺めていたら、贅沢だなぁ~、っと思わず声に出していました。子供の頃はよくお寺や神社で遊んでいた頃を思い出します。緑が多く、虫や鳥が鳴き、敷地が広く見通しも風通しもいい、そして人が訪れない静かな場所、最高の贅沢だなって思えた瞬間でした。そんなことがあって、贅沢だなぁ~っと感じる環境ってどんなだろうと考えていました。今贅沢と感じるのは、人があまりいない空いているという環境ではないだろうか
今年に入って一日2時間のウォーキングを心がけ、足腰の健全さが健康へ及ぼす影響について調べています。ウォーキングの際のシューズにも拘り、最近では足袋や下駄にチャレンジをしてみて気がついたことがいくつかあったので、書いてみようと思います。特に下駄を履きだして顕著に思うことは、下駄は前のめりで、すなわち体重軸を前にしてしまうと、上手に歩けないことに気がつきます。下駄を履くときは体重軸は常に地面と垂直に保つことが求められます。前のめりで歩くと滑りやすく、指先に力が入ってしまい、長時間の歩行
体が元気すぎるというのも問題だ。何が問題だと言えば、元気なのに自由を愛するからだろう。色々なことに縛られるのが嫌いで、執着を削ぐことに生き甲斐を感じて生きて来たからです。要するに時間とエネルギーをもて遊んでしまっているような罪悪感が半端ない。鴨長明の方丈記にも書かれているように、自由に誰にも縛られない生き方の末の終末期になって彼は、文章の最後に弱音を吐露している。全くもって理解できるこの自身の状況に何か重荷を背負いたくなったからなのか、はたまた責任を負いたくなったからかは定かで
今までの人生を振り返った時にいつもこういった瞬間に遭遇する。諦めたと言っても実際には諦めていないのですが、その時その瞬間は確かに諦めたと自覚するのです。もうこれ以上は進めないとはっきりと自覚するのです。その時の心境を説明すると夕暮れ時の黄昏時(たそがれどき)に似ている感じがします。今どちらに向かって歩いているのか、今どこにいるのか、目の錯覚で方向感が分からなくなった状態で、今まで目印にして歩いていたものが突然消えてしまったような現象で、でもしばらくすると、今まであった場所とは違う場
ロッキングチェアに揺られながら夜空を眺めていると、なんだか懐かしい気持ちにさせられる。赤ん坊の頃の記憶がそうさせるのかはさだかではないけど、人はゆらゆらとした規則正しい動きにはどこか安心感を覚えやすいのかも知れませんね。今の僕にとって考え事をしたい時やリラックスしたい時など様々な場面でロッキングチェアが活躍する。そのゆらゆらとした感覚は決してチェアだけではなく、人にだって代用が効く。代用と言えば人が物扱いのように聞こえてしまうけど、自分が心地いいと感じれる人は、一生でそれほど多く出く
自分の体にとって適正体重を知ることは大切なこと。皆さんは自分の適正体重をご存じでしょうか。適正体重は世間一般的な計算方法で導き出すのではなく、自分の感覚でベストと思われる体重として考えてください。例えば、ソプラノ歌手がいますが、ソプラノ歌手は太った方が多いのをご存じかと思いますが、それは、声を出す際に適正体重を追求して行けば、自然とそういった方向に進みやすいという自然発生によるものですが、もちろん声帯が一番響きやすい体重は個々に違って当然ですが、自分自身が何キロが今の生活に最適か
もしかしたら精神を病んで(鬱などの症状だけではなく感情の起伏の激しさ怒りやイライラなども含め精神全般の平常ではいられない乱れも含みます)しまう人ほど、生きる意味や意義を大切にして生きてしまっているのではないだろうか。商売は人に尽くせば商売が成り立つのに対して、幸せに生きるためには、自然を敬い続ければ成立する。全ての仕事は人のためにするもので、自然を敬う行為とは真逆の性質となるが故に、別で自然を敬う行為なり、破壊しない行動や生活、自然を守る活動などをしなくては、人は、気持ちのバランスを
人には良い部分と悪い部分の両面をバランスよく持ち合わせているもの。だから良い部分を大切にして、それがあるからこれがあるといった具合にポジティブにとらえる方が人生は上手くいく。自分が相手に対してそれがあるから幸せに感じているのであれば、それを大切にして、それを維持するためにはこれが必要と思う。良い部分と悪い部分は常に天秤のような繋がりがあって、バランスを保つためにはもう片方が必要なのだと考える。だから、悪い方だけ取り除こうとすれば、バランスが崩れてしまって、トラブルの元となる。万が
幸せに大義名分は必要なのだろうか?人は達観すればするほど真実が見えにくくなってしまうものではないだろうか。今現在の養老孟子さんが何を幸せと感じているのだろうか?あの方も私と同様に幸せに生きている一人なのかもしれない。それは、幸せには規模や慕われる数や量は関係なく感受性の問題だと感じるからです。今の養老さんはお金に困ってもいない、地位も名誉も存在し、人から慕われ、昆虫というしっかりとしたぶれない軸を持ち、自然を愛し安らかな場所と時間を確保でき、自分の思いも書籍として発信し、しがらみ
今日は朝から初夏の陽気だそうだと朝のラジオで言ってたなぁ~。この時期私は花屋に行くのが恒例だ。なぜなら、冬の寒さで弱って見映えが悪くなった植物が安売りされているからだ。まるでペット屋の犬を眺める子供のような眼差しで僕は植物を眺めている。昨日、いい花屋を見つけて今日は週始めから気分がいい。少し弱って見えるだけ、少し見た目が悪く見えるだけ、それだけの理由で値段が半値以下になったりする。私からしたら、見た目なんて関係ない、むしろそれを生き生きと喜びに満ちた姿に変えるのがたまらなく嬉しい。
始めに以下の説明にあたって言っておきたいことは、私が思う幸せとは「生きていることを毎日感謝ができ、生きることが奇跡だと思えている心の状態」を、私が感じる究極の幸せ感と思っています。幸せの価値観はそれぞれにあっていいのだけど、私自身はそれが究極であり根源であると勝手に思っています。それを踏まえて以下の内容に触れて頂ければ嬉しく思います。徳を積むことの「徳」とは人に尽くすことで積めるものではなく、自然を守り命を大切に生きることで徳は積めるものと感じています。なぜなら、人のためになるな
ある芸能ニュースでこんなことが書いてありました。ある俳優が昔に、大先輩の俳優さんに言われた言葉を今も大切にポケットにしまっているという言葉が紹介されていました。その言葉とは、先輩に「どうだ?ドラマの反響は?」と聞かれてこう答えたそうです。「写真撮ってと言われる。指をさされる」と言うと、その先輩俳優はこう応えられたとのこと。「それはお前が頑張った証拠なんだ。だけどな、お前のことを100人が好きなら、大嫌いな人はその倍以上いると思え」と言われたそうです。その時はなんて意地悪なことを言う先
例えば、お部屋に飾った植物の水やりが努力と思うのであれば、その植物は育てない方がいい。好きだから植物をお部屋に置いているのであれば、お水をやることは努力にはならず、楽しみとなるだろう。その人のためにとか、何かのためにやろうとするから、それが努力となって、やがて苦痛になって行くのだと思う。雨を降らせるのは、別に人間のためでも植物のためでもなく、ただ雨を降らせたい気分になったから降らせている訳で、人に喜ばれたいからとか褒められたいからというエゴではないから、いつでもどんな時でも雨を降らせ
昔から孝行したい時分には親はなしということわざがありますが、親の有り難さがわかる年頃には、親はこの世にはいない。これは親が生きているうちに孝行せよという戒めの言葉ですが、なぜそのようなことになりやすいかといえば、大切な人を亡くすことで人は、今立っている場所がワープするかのような変化を起こすのではないかと思います。立っている場所がワンランク、いやツーランク上の場所にワープすることで、親に対する見え方が変わるのではないかと思っています。それによって親の有り難さに気がつけるようになるのだ
私は精神的鬱症状の根底にある原因は、食の乱れが原因していると思っています。乱れというのを詳しく説明すると、体が食生活の改善を求めているシグナルとして、鬱症状があると思っています。鬱症状は結果ではなくシグナルとしての役割があるのではないかと考えます。鬱症状は様々な痛みや苦痛や不安やイライラや無気力など多岐に渡って症状を訴えて来ますが、それは食生活の改善をして欲しいという強いシグナルなのだと思っています。なので、鬱症状というのは、誰にでも起こりうる症状なのだと感じます。それは一日から一