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国明は恭子と二人で始めての海外旅行をしていた。今日博多港からビートルで釜山に着いたばかりだった。初めは高麗の首都だった開京に行きたいところだったが、現在は北朝鮮内にある為に諦めて、日本に向かって元軍が出航したと言われている合浦(がっぽ)、今の馬山市(まさんし)でも観てみようと二人は相談して今、馬山市に近い釜山のロッテホテルにチェックインしたのでした。この夜はホテルのレストランで軽めに夕食を済ませ、最上階のラウンジでカクテルを飲んだのでした。翌日ホテルから釜山西武バスターミナルにタクシーで
国明は轟教授の話が耳に残っていた自分の布団に潜り込み、元寇のど真中に降りることを覚悟して目を閉じた。国命は妻のキヨに朝早く起こされた。「旦那様、今阿曇族の早船が袖の湊に入ったという知らせがきました。これから太宰府政庁に行くそうですよ!」国命は急いで袖の湊に向い、船頭に会って、早船の情報を尋ねた。「はい網首様、百済国に元のクビライ皇帝が戦艦300艘の建造を命令したそうです。その船で日本征伐に向かうとのことです。」「そうか、遂に戦艦を造り始めたか!」時は1274年(文久4年)の1月
一口刺身を食べて杯の酒を飲み干した轟教授は、又口を開いた。「この文永の役の翌年、4月15日に杜世忠(と・せいちゅう)を正使とした元の使い一行が再び日本にやって来た。しかも今度は博多ではなくて、長門の室津に上陸して来たのだよ。一行5名の使者達は太宰府に送られ、さらに鎌倉の幕府に送られて、龍ノ口(たつのくち)で全員処刑されたのだよ。外交使節団を斬ってしまうとは当時としても異常な出来事だったんだ。このことはまだ若き執権北条時宗の断固たる決意があったんだね。更に1279年6月に、周福(しゅう
国命は寝る前に仏壇に備えている翡翠の腕輪を握って床に入った。目が覚めると現世の自宅の自分の寝床だった。携帯が鳴っていた。「お早う!目が覚めましたか?」「どうしたの、こんな朝早くから?」「あら、先輩が明日朝、電話で起こしてくれと言ったじゃありませんか?もう、頼んで置いて忘れたの?二度と起こしてあげないから!」「ああ、忘れていた。ゴメン!」そういえば、今日から新しい場所の発掘作業が始まることを思い出していた。場所は早良区の西新町にある西南学院大学の体育館横にある元寇防累跡の近
マルコ・ポーロNetflix<YouTubeNetflix予告編><先週とはうって変わって暇>先週半ばまでの鬼のような忙しさとは打って変わって、先週末から暇だ。予想していたことではあったが。少しずつ、平均して仕事がくると楽なんだが。地獄のように忙しいかと思うと、何も仕事がない日が続く。少し、来るといいな。<先月の末から少しずつ見ているが、史実とは大分違うぞ>Netflixのマルコ・ポーロだ。何しろ歴史には興味がある。ので、このタイトルにひかれた。暇になったので、
休みをいい事に、お風呂に長めに入ってました入浴した方がいいって分かっているのに、普段はシャワーが多いんですよねみなさんこんにちは三重県津市でエステティックサロンLotusLandを経営している香月ですじっとしているのが苦手なので、何十分とお風呂に浸かったままってのが苦手なんですその反動で、入浴する時は半身浴で読書をするから、返って1時間以上になったりもします本を読んでいたら『〇〇分まで入っていよう!』なんて思わなくっていいから今読んでいるのは大陸にワープしたモンゴル史。帝国を築
現在並行して読んでいる本は・大宝律令ができた701年を題材にした澤田瞳子さんの小説・スイスの哲学者ヒルティの幸福学・出口治明さんの“本物の教養”・モンゴル史が読みたくて杉山正明さんの“クビライの挑戦”その他に順番待ちをしていて開封していないのが4冊。読みたい本と読む時間とが比例せずにいるので、月9と火サスと木10と日曜劇場…みたいな感じで生活のあちらこちらに本が置かれています。みなさまこんばんは三重県津市でエステティックサロンLotusLandを経営している香月です学
歴史が好き。古代から中世、近世、現代まで。日本史も好きだが、西洋史ならローマ時代、中近東ならササーン朝、パルティア、中国史なら宋、元あたりが特に興味がある。最近クビライと元寇に注目し、小説も含めていろいろ本を読んでいる。事実関係の理解も時代とともに認識が変わってきているようだ。日本軍は一騎打ちを仕掛けて集団戦法のモンゴル軍にやられた。モンゴルの弓は小さいがよく飛び、毒矢で日本軍は苦しんだ。文永の役ではモンゴルは1日戦っただけで引き上げた。その理由は不明だが、本気で占領する気はなく、威
昨日いろいろ調べていました。令和2年の今日1月12日に導かれていたと思われた『アビニオン捕囚』と本日令和4年の1月12日の『マルコ・ポーロ』でかぶっているなと感じた事柄が捕囚、奴隷、ということでした。以下はマルコポーロのウィキペディアより引用させていただきました:マルコポーロ死去ベネツィアのカステッロ地区(英語版)にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会。マルコ・ポーロが埋葬されている。写真は再建されたもの。1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がら
『まるこ・ぽーろ』を調べますとマルコポーロのウィキが出てきます。マルコ・ポーロ-Wikipediaこれを読んでみますと、「クビライ」のことが出てきたので以下リブログの通りの体験を思い出すことができました。恥ずかしながら、マルコ・ポーロが東方見聞録の作者だということは知識としてありませんでした。ただ調べてみますとそういったイメージもあったような気もしてきます。この辺りの歴史認識をしっかり持つようにという意味でこれらの言葉が来たのでしょうか。少しずつでも知
出口治明著■『世界史の10人』から見えること世界史とか、ちらっとでもそちら方面に、つまり学校の勉強とかに傾いた話になると、とにかく丸暗記するしかなかったあの暗い勉学の日々がど~んと甦ってくるのは私だけ?だからこの本も(なにしろ結構な厚さがあるし)読まずに返却しようかなと思っていましたが、ふとページを開いてみると、あらら、案外イケるのです、これが!なにがって?1つはスケールの大きさ。例えば、昔「ゲルマン民族の大移動」って言ってたでしょ?今では「諸部族の大移動
マルコ・ポーロは1254年9月15日、ヴェネツィア共和国、現在のクロアチア、コルチュラ島で生を受けた。当時のクロアチアはヴェネツィア共和国に属していたために、マルコはヴェネツィア人と認識された。マルコの家系がコルチュラ島出身だったため、お産のためにマルコの母がヴェネツィアから帰島していた。いわゆる里帰り出産やな(笑)。コルチュラ島には現在でもマルコという名前、ポーロという姓を持つ人が多い。マルコの本家、ポーロ家は、11世紀にコルチュラ島からヴェネツィアに移住し、5つの家族に分かれて生活
国明は轟教授の話が耳に残っていた。自分の布団に潜り込み、元寇のど真ん中に降りることを覚悟して目を閉じた。国命は妻のキヨに朝早く起こされた。「旦那様、今、阿曇族の早船が袖の湊に入ったという知らせが来ました。これから大宰府政庁に行くそうですよ!」国命は急いで袖の湊に向かい、船頭に会って、早船の情報を尋ねた。「はい、網首様、百済国に元のクビライ皇帝が戦艦300隻の建造を命令したそうです。その船で日本征伐に向かうとのことです。」「そうか、遂に戦艦を造り始めたか!」時は1274年(文久4年
一口刺身を食べて杯の酒を飲み干した轟教授は、又、口を開いた。「この文永の役の翌年、4月15日に杜世忠(と・せいちゅう)を正使とした元の使い一行が再び日本にやって来た。しかも今度は博多ではなくて、長門の室津に上陸して来たのだよ。一行5名の使者達は大宰府に送られ、さらに鎌倉の幕府に送られて、龍ノ口(たつのくち)で全員処刑されたのだよ。外交使節団を斬ってしまうとは当時としても異常な出来事だったんだ。このことはまだ若き執権北條時宗の断固たる決意があったんだね。更に1279年6月に、周福(しゅ
せっかくなので最近のU.Sハードコア界で僕が注目してるバンドをもういくつか紹介しましょう前回のKAONASHIのくだりで登場したかなり注目してるバンドのひとつ、LeftBehind↓これまた例に漏れず重量級+ソース焼きそばロン毛の見本市みたいなメンバー構成でleftbehindの名の通り"取り残された"子たちの集まり。名付けて『ペヤング超×3ギガ盛り友の会』。あまり聞かないチャールストン、ウェストバージニア州のバンドです。スカパラには申し訳ないがLeftBehindこそ本物の"ダ
中原を翔る狼覇王クビライAmazonDear小前亮:著「中原を翔る狼覇王クビライ」読了。歴史の授業では、「フビライ」で習った気がするが、現在では「クビライ」が正しいらしい。物語は、クビライが後継者争いを勝ち抜き、南宋を滅ぼし、元朝を建て、その死までが描かれている。盛り上がりも、協調もなく淡々と進むストーリーは、只知識欲だけを満足させてくれた。
こんばんは。突然ですけども。ガーリガーリクガーリガーリクガーリガーリク~~ン🎵滝川クリステルですボールアンドチェインズのギターのコックです♪先日の千葉リンゴ♪ありがとうございました‼️毎月やらさせていただいておりますけども。本当に皆さまの優しさが有難いです‼️万年ビール不足の親方も差し入れでビールもらったりして本当に喜んでおります‼️この場所をもっと楽しくしたいし、色々なミュージシャンの方と絡んでいきたいと思っております‼️よろしくお願いいたします‼️さて。この日の
堂屋の扉をけ破る様に、足で一蹴りのもと開け放つ。外へと一歩踏み出せば、未明の空は未だ黒く。故に、辺り一面の暗闇の儘であった。暗がりを確かめた白娘は、之は好都合とばかりに、我知らず厳しさ浮かべた顔の其の頬を緩めた。あの若き文官。彼奴も“藪の中の荊”か・・・否、彼奴の、あの目は・・・。上衣の裾を揺らめかせ乍ら、手に持つ其れを見る。白の手に在るのは、紐の孔に紫の房飾りある白銅鏡。其の鏡面に映し出された光景を目にした瞬間、白の表情が再び強張りを見せ始める。「
『元史』は、北ベトナムの交趾(こうし)国(陳(ちん)朝(ちょう)大越(だいえつ)国(こく))が国境を犯したため、クビライが日本遠征より交趾国の問題を優先したとしています。しかし、それより大きな問題がクビライを悩ませていました。モンゴル帝国を建国したチンギス(クビライの祖父)には三人の弟がいて、帝国東方部の藩王に封じられていました。これを「東方三王家」といいます。クビライは末弟のアリクブケとの内戦に勝利し、大ハーンの地位を確実なものにしましたが、それは、東方三王家の支持
至元二〇年(1283)五月、クビライは征東行省をふたたび廃止し、日本遠征を中止します。その後も江南の反乱は広まり、現在の南ベトナムで建国されて当時モンゴルの支配下に入っていたチャンパ(占城)でも反乱の火の手が挙がりました。それでもクビライは執拗でした。この間、高麗では引き続き、遠征用の造船を続けていたとみられます。至元二二年(1285)には、みたび征東行省が設置され、着々と日本遠征軍の準備が進められていることが『元史』に記載されています。たとえば遠征軍の食糧を高
鎌倉幕府との連絡調整係である関東申次の任にあたっていた西園寺家の日記によりますと、「この年の秋に異国(蒙古)が襲来する」という風聞がまことしやかに囁かれていました。日本ではかなり正確な情報をえていたのです。この弘安六年正月、比叡山延暦寺の衆徒が日吉大社の神輿を押したてて洛中へ乱入し、いわゆる強訴(ごうそ)に及びました。ところが、京都の治安にあたる幕府の六波羅探題は衆徒らの暴挙を見逃しました。幕府では「武家の緩怠(かんたい)」と批判しつつも、「(三回
日本攻略のための役所(征(せい)東行省(とうこうしょう))をいったん廃止したクビライですが、モンゴルに従属していた高麗国(当時の朝鮮)の国王は、クビライの意向を忖度し、「一五〇艘の船を建造し、(元の)日本征討を助けたい」と上奏します。いま忖度とかきましたが、高麗国王は単にクビライの機嫌を取ろうとしていたわけではありません。当時、日本では高麗が元の日本遠征軍の拠点だという認識を持ち、高麗へ出兵しようとしていました。先制攻撃で出鼻を挫く作戦です。このため、高麗国王が日本の出
鎌倉時代に日本を襲った空前の国難――。世界を蹂躙したモンゴル帝国が文永一一年(1274)と弘安四年(1781)の二回、日本に攻め寄せました。モンゴルの大ハーン(族長)についたクビライ(世祖)は、中国を征服して「元」を建国し、中国の皇帝となったクビライが日本を従わせるべく、遠征軍を派遣しますが、文永の役・弘安の役ともに失敗しました。しかし、二度あることは三度あるという諺どおり。いわゆる元寇は、三回目が用意されていたのです。もしも三回目の蒙古襲来(“第二次弘安の役
1259年。憲宗(モンケ)9年。モンゴルが四川に侵攻した。モンケ自ら親征し南宋領内深くまで攻め入って来たのだ。だが、釣魚城の戦いで、モンケ・ハーンは負傷し戦死したと云う。(一説にはモンケの死は疫病だとも云われている)此の年、遷都に反対した所為から職を解かれ下野した文天祥をクムは訪ねている。長子を持った彼への「祝いの品」を、クムが届けると云う名目での訪問だったのだ。またクムは、此の訪問を前に、予め文氏に宛てた書簡を送っている。其処には、文天祥自身が此れから遭遇するであろう事が記さ
【闇思想諸久】★歴史学No.335✳️東洋6世紀〜15世紀31元10バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現ところがムバーラク・シャーとオルガナのもとに至ると、バラクは両者を押さえてチャガタイ家の当主位を奪ってしまった。一方同じ時期にオゴデイ家の有力者カイドゥは、クビライとアリクブケのカーン位争奪の合間に、一連の混乱やモンケの粛清によってモンゴル高原から追われた王族やその他の勢力を糾合し、勢力を伸長させていた。カイドゥは度重なるクビライからの召還を口実をもうけては逃れていたが、1268
【闇思想諸久】★歴史学No.334✳️東洋6世紀〜15世紀30元9第5代モンゴル帝国皇帝クビライの時代✴︎緩やかな連合へ1264年、クビライがアリクブケを降し単独のモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)となったとき、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになっていた。モンゴル帝国がバトゥのヨーロッパ遠征、フレグの西征のように帝国の全力をあげて遠征を遂行することは不可能になり、帝国の膨張は東アジアを除いて停滞に向かう。クビライは帝国の分裂
何故、あの時・・・瀕死のあの人を一人。あの場所に残してきてしまったのか。何故、あの時・・・キチョルの腕から、無理矢理にでも逃れなかったのか。何故、あの時・・・何故。何故。なぜ・・・。なぜ・・・。何故、今・・・私は・・・此処に一人で・・・。例えようの無い孤独と襲い来る不安。そして、湧き起こる後悔の念に苛まれて独り。カメラバックを腕に抱えた儘、呆然と見上げた空には・・・小さな鳥の群れ。「鳥にすら・・・帰る場所があるのに・・・。」目にした光景を思いついた