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~クチンで戦う日本人選手から考える、30年後の日馬交流~最近、マレーシア・サラワク州クチンのニュースを調べていて、何とも不思議な気持ちになった。私がクチンで暮らしていたのは1995年から1997年。当時、私はKuchingRugbyFootballClub(KRFC)でラグビーをし、1997年にはサラワク州代表としてAgong杯(国王杯)にも出場した。そして同じ頃、クチンではサッカーも非常に盛り上がっていた。それから約30年。今度は日本人のプロサッカー選手が、クチンのユニフォー
アメリカでこんなことが起こっているなんて○クチン信者は露ほども知りません。どんどん種類が増えています。もうなんと言われても金輪際打ってはいけません。聞く耳がなくても絶対に理解してほしい。𝕽𝖆𝔂onInstagram:".《🇺🇸の河野太郎》河野が捕まったら同じ事を言いそうだな‼️アメリカがこんなことになってることをほとんどの日本人が知らない。.2026年7月29日、モレノ上院議員、米上院国土安全保障・政府活動委員会公聴会でファウチに怒りを出し「お前は一体、自分を何様だと思っている
みなさん、スラマッ・パギ(こんにちは)!かつてサラワク州クチンに駐在し、今でも「第二の故郷」として愛してやまない当ブログの管理者です。毎年7月になると、私のSNSタイムラインはクチン時代の友人たちの投稿で一気に華やかになります。そう、サラワクの夏を象徴する最大級のイベント「クチン・フェスティバル(KuchingFestival)」の季節がやってくるからです!特に今年2026年は、1986年のスタートから数えて記念すべき40周年(市制38周年)を迎えるスペシャルイヤー。7月22日から8月1
~日本とマレーシア、そしてアジアラグビーの未来へ~1997年。私はサラワク州代表として、Agong杯(PialaAgong・国王杯)へ出場した。黄色と黒の州代表ジャージを着て、KRFCの仲間たちとクアラルンプールへ向かった。会社員として休暇を取り、COBRARugbyClubのクラブハウスで約一週間共同生活を送り、マレーシア最高峰の大会を戦った。あれから約30年。還暦を迎えた私は、久しぶりにAgong杯のニュースを調べてみた。驚いた。大会は今も続いていた。そして、マレーシ
ドリアンの香りだけは変わらないでほしい1997年にクチンを離れてから、もう30年近い歳月が流れた。この連載を書きながら、改めて感じることがある。それは、私が懐かしく思い出しているのは、高層ビルでも道路でもないということだ。国際会議場でもない。新交通システムでもない。航空会社でもない。私が思い出すのは、もっと身近なものばかりである。市場の喧騒。ホーカーセンターの笑い声。南国の果物の香り。そして、人々の温かさだ。ドリアンの季節クチンで暮らしていた頃、ドリアンの季節になると街
空を飛び、街を走る―未来都市になったクチン1997年にクチンを離れた私が、最近のサラワクのニュースを見て一番驚いたのは、街並みの変化ではない。交通である。30年前、クチンで生活していた頃、移動手段の中心は車だった。もちろん公共バスもあったが、日本のように便利とは言えなかった。クチンという街は、自動車がなければ少々不便な街だったのである。それだけに、現在計画が進む新交通システムや航空政策のニュースを見た時には、思わず「本当にあのクチンの話なのか」と驚いてしまった。1997年のクチ
第二の故郷は国際都市になっていた1997年にクチンを離れてから、気が付けば30年近い歳月が流れた。最近、インターネットでクチンのニュースを目にする機会が増えた。サラワク州の話題を見つけるたびに、つい記事を開いてしまう。そして毎回思う。「クチンは本当に大きくなったなあ。」私が暮らしていた1995年から1997年のクチンは、州都ではあったが、どこかのんびりした地方都市だった。もちろん当時から魅力的な街だった。しかし現在のクチンは、私の記憶にあるクチンとは少し違う顔を見せ始めている。
30年の時を超えて―今も私の「第二の故郷」クチンへ1997年。クチンを離れる日がやってきた。赴任したのは1995年4月。「KRFCがある。」その一言を信じて、ラグビースパイクをスーツケースに入れて日本を飛び立った。わずか3年間だった。しかし、その3年間は、私の人生の中でも特別な時間になった。帰国の日、KRFCの仲間たちは送別会を開いてくれた。そして地元英字紙『SundaySports』には、私の送別記事まで掲載された。そこには、仲間たちに胴上げされる私の写真が載っていた
1997年、スポーツが街を一つにした―KRFC優勝とサラワクFAの熱狂1997年。私にとっても、クチンにとっても、忘れられない一年になった。この年、街はスポーツ一色だった。新聞を開けば、毎日のようにサラワクFAの記事が一面を飾る。「今年こそ優勝できる。」そんな期待が街全体に広がっていた。当時のサラワクFAには、オーストラリア代表経験を持つAlistairEdwards、長身センターバックのDavidEvans、そしてイングランド出身のBillyBoneが所属していた。3
1995年春、ラグビースパイクとともにクチンへ~ボルネオで始まった第二の青春~1995年4月。会社からマレーシア・サラワク州クチンへの赴任を命じられた。当時の私は出張では数回訪問していたものの、「生活」については不安しかなかった。そんな赴任前、会社のラグビー部の先輩から一つだけ教えられたことがある。「クチンには**KRFC(KuchingRugbyFootballClub)**があるぞ。」その一言で、私は迷わずラグビースパイクをスーツケースへ入れた。海外赴任の荷物にスパイク
1.違和感の正体――テレビの向こう側の「戦場」と、山手線の「日常」パンデミックという言葉が世界を覆い尽くしたあの時期、私の視界には常に二つの矛盾した風景が映っていた。テレビ画面の中では、防護服に身を包んだ人々が緊迫した表情で「未曾有の危機」を訴え、恐怖の物語が絶え間なく再生産されていた。しかし、私が利用した山手線の中では、人々は肩を寄せ合い、そこそこ混雑した車両の中で日常を淡々と送っていた。ここに、現代の洗脳のメカニズムが凝縮されている。画面の中の「演出」と、目の前の「現実」。本来で
イベル○クチン肝臓がんの治療にも効果-九州大学の研究イベルメクチン肝臓がんの治療にも効果-九州大学の研究(2015年NHK)近年の研究では、イベルメクチンは、ほぼ全てのがんに有効であることが証明されました。pic.twitter.com/kQghtWEP5G—🎌大和民族連合🎌(@yamatominzoku_R)May31,2026イベルメクチン飲むと肝臓に悪いんじゃない?という人がいたが・・コロナや日本だけ?まだやっているインチキワク
うちの子もみんなやっています。でも裏ではこんなことがあったのですね。そして今も同じシステム最後に案内がありますが7月11日、茨城県鹿嶋市で講演会があります。○クチンというとそれだけで皆さん盲目的にせっしゅされますが本当に真面目に考えてくれているんでしょうか?内部はこんなふう?
2026年のマレーシア国王杯(アゴン杯)が開幕。近年、凄まじい大躍進を遂げているサラワク州のラグビー界に焦点を当て、全国強豪チームへ抜擢された地元選手たちの活躍や、アジア・ラグビー評議会のクチン開催、女子15人制の台頭まで、ボルネオ島で今まさに燃え上がっているラグビーの最新熱気をお届けします。1.アゴン杯2026開幕。いま、ボルネオの地が熱いマレーシア最高峰のラグビー大会、マレーシア国王杯「アゴン杯(AgongCup)2026」が今年も熱い幕を開けました(2026年5月9日〜6月28日)
90年代のサラワク州クチン駐在時代、娘の服を紫色に染めたマンゴスチン。かつての「地元の果物」が、今や世界的なスーパーフードとして注目されています。日本での入手方法や、30年の時を経て進化したマンゴスチンの価値を綴ります。1.紫色の染みが語る、30年前の「クチンの日常」クチンのサトク(Satok)のマーケットを歩けば、山積みにされたドリアンの隣で、対照的にひっそりと、しかし高貴な深い紫色の輝きを放つ果物がありました。マンゴスチンです。1990年代、私がサラワク州に駐在していた頃、マンゴスチ
90年代にマレーシア・サラワク州クチンに駐在していた筆者が、当時のドリアンと現代の高級品種「ムサンキング」の違いを徹底比較。白い果肉の思い出から、最新の物流事情、ラグビー仲間との絆までを綴ります。1.クチンの街に「あの香り」が漂う季節クチンの街に、あの独特の香りが漂い始める季節がやってきました。マレーシア・サラワク州に駐在していた90年代、私たちはこの香りに誘われ、夕闇迫るサトク(Satok)のマーケットや、街角のいたるところに出現するドリアン屋台に吸い寄せられたものです。還暦を迎え、
こんにちはーーか私、サラワク州クチンのビバシティメガモールのコンドに民泊中ですが、このメガモールは中々便利。クチンではメガモールだが、KLだったら中規模のモールです。スーパーマーケットで飲み物も食材も買えるし、ドラッグストアあるし、(特に民泊はシャンプー無いし必須)食事所も、色々ある。韓国料理からKLでも大人気のオリエントコピ(KLより並ばなくて済みそう。)1人では入れないけど、海底撈火锅もある。そして、そして、ラーメン屋さんもあるのです。暖簾には、最強特濃
こんにちはーー😃3年前のマレーシア前政権時のMM2H改悪案時に一気に注目を浴びた、サラワクMM2Hなにせ当時は、50歳以上はデポジット無し、西マレーシアにも住めて、5年更新の10年間。という破格の条件だったけど、今は全く魅力の無い条件になってしまった。いやータイミングってあるんですね。ベストな条件で、VISA取得した私ですが、後2年後の更新をするためにも、年間15日以上の滞在はクリアしなきゃならない。というわけで、6回目のサラワク州クチンにいます。クチンに来た時は
こんにちはーー😃マレーシアに3年以上いるのに、1回も利用した事の無かったレストラン。SushiZanmaiどっかで聞いた事のある店名ですが、日本のすしざんまいとは全く関係ないマレーシアのすしざんまい。この店名じゃなければ、もしかしたら利用していたかもしれないが、絶対パクリじゃん、不味そうじゃん。と思っていたのでした。先日、友人に連れられて、初食事で意外と使えるとなったのです。特に、サバの塩焼きとか、普通に美味しく食べられます。友人オススメのザルうどんは、私は家
4月18日・・とうとう、サラワク州代表選考会の初日を迎えます大会の1か月前までは断食期間中1か月の断食期間中で5キロも体重を落としたあーくん・・スイングの安定性も欠き痩せたせいか、なんだかふらふらしておるなんとか戻せるところまで、がんばったが、不安はぬぐえなかったしか~しそんなことを言い訳にしてはいけないスペインのサッカー選手、19歳のラミンヤマルは断食しながらハットトリックしておったイスラム教徒にとって断食はよい行いなのであるから、これを言
1.ラグビーという名の「タイムマシン」ラグビーというスポーツを長く続けていて、心から「続けていてよかった」と震える瞬間があります。それは、得点を決めた時でも、試合に勝った時でもありません。数十年という時を超えて、かつての仲間やライバルとグラウンドで再会する、あの瞬間です。ラグビー界には、不思議な磁場があります。先日も、大学OBクラブのシニア戦で長野県の菅平へ向かった時のこと。対戦相手のチームの中に、見覚えのある、しかし確信が持てないほどに白髪の混じった顔がありました。試合が終わった後にビ
1.「赤パンツ」が手に入れた世界へのパスポート前回の記事で、還暦を迎えて「赤パンツ」を履くことの誇りと、日本の「惑」ラグビーの奥深さについてお話ししました。しかし、この赤いパンツが意味するものは、単なる年齢の証明だけではありません。それは、世界中のラガーマンと繋がることができる「共通のパスポート」を手に入れたということでもあります。今、私の視線は日本国内を飛び越え、遥か太平洋を越えたカナダの地に注がれています。ターゲットは、2027年5月に開催される「第24回ゴールデンオールディーズ・
4月15日水曜日の朝、ゴルフのレッスンが終わって、11時40分には家を出発サラワク州の州都クチンに移動しましたわが町からクチンに出るのは、エアアジアと新しい航空会社のエアボルネオの二つの航空会社がありますがAIRBORNEO(エアボルネオ)は、小さなプロペラ飛行機でサラワク州の町を各空港停車しながら行きますわが町からクチンに出るのも2回別のサラワク州の空港にストップしてからでないと到着しませんそのうえ、お値段めちゃくちゃ高いサラワク州はマレー
クチンの空にお彼岸の風が吹き抜け、あの呪わしいヘイズが嘘のように晴れ渡った頃。私はようやく、張り詰めていた緊張の糸を少しだけ緩めることができました。当時、私はクチン日本人会の会長という大任を仰せつかっていました。在外公館のないサラワク州において、未曾有の災害とも言えるヘイズからいかにして邦人を守るか。家族を日本へ帰し、独りEvergreenHeightsの10階で空を眺めていた時間は、会長としての重責と、一人の人間としての不安が激しく交錯する日々でもありました。クアラルンプールからの「労い
還暦を迎え、再びクチンの地を踏もうとしている今、私の記憶に鮮烈に蘇るのは、あの「白く閉ざされた1997年」のことです。ドリアンの香りを追いかける穏やかな旅の記憶の裏側には、喉を刺すような煙(ヘイズ)と、家族を送り出した後の静寂、そして一人で立ち向かった「孤立」という名の戦いがありました。家族との別れ、最後の翼インドネシアから押し寄せる煙が、クチンの街をセピア色に染め上げていったあの夏。大気汚染指数が「危険」を指し示す中、私は大きな決断を下しました。帯同していた家族の帰国です。クチン空港が
クチンの街を貫くPending通り。そこにそびえ立つ「CrownTowers」を目にするたび、私は還暦を迎えた今でも、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じます。ここには、私の駐在時代でも特に忘れられない「戦い」の記録が刻まれているからです。それは、このビルがまだ「新築のKTSビル」と呼ばれていた頃の、あの移転にまつわる物語です。予定は未定?熱帯の「新築」物語当時、私たちはこの最新鋭のビルへの移転を心待ちにしていました。ショッピングセンターとオフィスが一体となったこのビルは、当時のクチンでは画
サラワク州の州都クチン。私がこの街に駐在していた1990年代、そこには「ゆったりとした時間」が流れていました。仕事の合間に車を走らせても、窓の外には緑が溢れ、渋滞といえば、たまに牛やのんびりした歩行者が道を横切るのを待つ時間くらいのもの。あの頃のクチンは、まさに「癒やしの街」そのものでした。しかし、還暦を迎え、再びあのドリアンの香りを求めて旅を計画している今、耳に飛び込んできたのは**「クチンの渋滞が激化している」**という意外なニュースです。かつての駐在時代と比較しながら、2026年現在の
人生の節目である還暦を迎え、書斎の整理をしていたら、一枚の古い新聞の切り抜きが出てきた。黄ばんだ紙面に躍るのは、泥だらけのラグビージャージを着た男が、大勢の仲間に胴上げされている写真だ。場所は、マレーシア・クチンの「ソン・キン・ハイ・グラウンド」。そこは、駐在員として過ごした私の「もう一つの故郷」であり、青春の残り火を燃やし尽くした聖地だった。1.ソン・キン・ハイという「戦場」クチンのパドゥガン地区にあるそのグラウンドは、ただの広場ではなかった。サラワク・ラグビーの歴史が染み込んだ、い
人生を六十年歩んできて、ふと「もう一度だけ、あの味を」と願う料理がいくつかある。私にとってその筆頭に挙がるのが、クチンの「ロックロード・シーフード」で食べた、あの熱々のカニグラタンだ。1.記憶の中の「ロックロード」当時の駐在生活において、ロックロード・シーフードへ行くというのは、少し背筋が伸びるような、特別なイベントだった。店に入ると、壁一面に並んだ大きな水槽。そこには威勢の良い魚や海老が泳ぎ、中央のカウンターには色鮮やかな野菜が並んでいる。食材を選び、調理法をスタッフと相談するあの時間
人生の六十路を迎え、身の回りの整理を始めると、不思議と「物」への執着よりも「記憶の味」への渇望が強くなる。クチンでの駐在生活。それは私のキャリアの中でも、最も熱く、最もエネルギッシュだった数年間だ。あの頃の自分を思い出すとき、セットで浮かんでくるのは、夜の帳が下りたクチンの街に浮かび上がる、あの不思議なレストランの光景だ。1.駐車場を上った先に広がる「別世界」クチンのランドマーク、白くて愛らしい「猫の石像」から歩いてすぐ。何の変哲もない、むしろ少し無機質な立体駐車場のビルがある。初めて連