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最後に余談をひとつ。大橋巨泉氏は非常に頭のいいお方だ。一時期、評論家というニュアンスの行き違いか何かであの大川慶次郎さんとつばぜり合いをしていた。ことの顛末は判らないが、それから何年も経って、ある大レースでの折だ。巨泉氏が本命に推したある有力馬を大川さんは無印にしていた。結果は巨泉氏の予想が的中。さりげなく巨泉氏はラジオのマイクに向かって喋る。「大川慶次郎さんの無印も気になりました」。大川さんの無印をレース後に広く知らせたこのひと言には、慇懃さと嘲笑がない交ぜになった下劣さが出ている
ところで、ハイセイコーをハンディキャップホースと蔑んだ巨泉氏が、キタノカチドキを一度もそのように呼ばなかったことは奇妙だ、との思いが私の中にある。この両馬の戦歴にどれほどの相違があっただろうか。皐月賞優勝とダービー3着が全く一緒で、「菊花賞は相手が弱すぎたから勝てた」と巨泉氏が言うキタノカチドキと、希代の名馬からたった4センチの差で2着と敗れたハイセイコー。古馬としての一年間を比較するなら、キタノカチドキを上位とする根拠は全く見当たらない。素人の私でさえ容易に判るこの程度のことを、巨泉氏が
そして、最も深く残ることといったら、第20回有馬記念における大橋巨泉氏が打った予想印というエピソードを私は挙げるのだ。著名人物とはいえ、ひとつのレースに於けるその人の予想を、我が競馬人生最大の思い出と位置付けるのは尋常ではないと、自分ながら大いに首を傾げてしまうのだが…。巨泉氏の予想の立て方として、「一に格、二に調子」、をベースにすることは大体判っている。但し有馬記念のような大きなレースになると、長期休養明けの馬に対しては、たとえ格上でも、やや評価を下げて扱うのが氏の特徴だったよう
仲間内では飛び抜けて穴馬券を幾つも取った私で、馬券のパターンとしてはABCのいわゆる三角買いを好まず、ひとつの枠から3点4点、或いは5点という買い方で頑なに貫いてきた。私の悲劇はここだった。それほどまでに5枠に確信があったのだから総流しをかければ良さそうなものだが、それを潔しとしない価値観が仇になったのだ。この日、銀座場外で購入したあと知人と会っていたため、帰宅後テレフォンサービスで結果を聞くこととなった。あとから思えばドラマチックというか、繋がった瞬間360円という音声が耳に飛
二番目だが、これは思い出したくもない腹立たしい馬券のことだ。1988年つまり昭和63年の12月10日(土)。何らかの事情で中山開催の少なかった年で、この暮れへきてようやく第2回中山の3日目として挙行された日だった。この日、メインに「市川ステークス」という準オープンのレースが組まれており、会社の連中たちは盛んにこのレースを話題にしていたが、私はこれには全く関心がなく、「きょうは何と言っても最終だよ」と公言しながら最終の一本に絞っていた。あの時代、精々一万円が限度額で、この最終レースにだけ金を
(九)30年以上競馬にとっぷり浸かり続けてきたなか、当然ながら様々な思い出がある。悲痛なシーンも蘇る。レース中の事故による予後不良で消えていった馬たち、特に忘れることができないのはタカイホーマというクラシック級の牝馬の事故だ。この馬を最も悲惨な馬と記憶しているファンは少なくないだろう。昭和47年晩秋、のちに「エリザベス女王杯」と名称を変えることになる「ビクトリアカップ」でのこと。3角手前あたりで故障発症したのだが、あれが競走馬の本能なのかタカイホーマは停止しない。続けざまに骨折し、ついに
(八)自信満々にキタノカチドキをこき下ろしてきた大橋巨泉氏。話はようやく昭和50年暮れの有馬記念へと入ってゆく。このレース、ファン投票第一位が、春のあの天皇賞以来となるキタノカチドキだった。タニノチカラはとうに引退してしまい、この年のクラシック戦線に大旋風を巻き起こした菅原泰夫の牡牝の2頭、カブラヤオーとテスコガビーは出走できる状態になく、どうやら話題といえばキタノカチドキとカーネルシンボリのはじめての顔合わせが実現する運びとなりそうなことぐらいだったろうか。だからといって巨泉氏もまさかこれ
これだけG1競走が増えたのに、よせばいいのに、と思える馬が相変わらず日本ダービーに出てくる。もちろんダービーが競馬の最高峰に置かれるレースだということは判るし、愛馬をダービーの桧舞台に立たせたい馬主の心情も充分理解できる。しかし巨泉氏のアローエクスプレス評ではないけれども、皐月賞で勝てなかったマイラーが、ダービーで雪辱を期したとしても返り討ちに遭うに決まっているのだ。そういえばあのアロー、関係者は菊花賞を本気で取りに出かけていって、1番人気で惨敗の憂き目を見た。いかに当時のアローエクス
血が騒ぐという表現がある。タケホープはまさしく長距離の血が騒いで、1マイル半以上のレースになると非常に強く、有馬記念以外のビッグタイトルを総なめにしていった。もしこの馬が有馬記念を何らかの理由で回避するなりで、一度も出走しないまま引退していたら、史上最強のステイヤーと語り継がれたのではないだろうか。あるいは有馬記念が府中のレースだったら勝つシーンも充分考えられた。こうしてみると強豪とはいっても、いや、強豪であればこそ実は出るべきではなかったレースというのがあって、キタノカチドキなども、2
繰り返すが、私はタケホープを決して軽く見ていない。巨泉氏はタケホープを重く扱い、ハイセイコーを軽く見た評論家だ。私がごとき素人でさえ、あの両馬の対戦成績が単に距離の適性に縛られただけのことだと周囲に言っていたのに、氏が全くそうしたスタンスで競馬を見ていなかったと思える点は、今になってさえ不思議で仕方がない。ダービーを勝ち、菊花賞を勝ち、翌春の天皇賞も獲った。シンザンでさえ天皇賞は秋だった。タケホープは確かに偉業を成し遂げた馬だ。過去、われわれファンが名馬と認識してきた馬たち
(七)再び大橋巨泉氏。例の希代の名馬説に執拗にこだわる私だったが、それはしかし、タケホープがそれほどの馬ではあるまいとの反論からきていたわけでは全くない。氏の物言いがハイセイコーファンへの当て付けにしか聞こえなかったからだ。巨人大鵬玉子焼きではないが、好きなものは好きなのであって、その感情表現は、何人たりとも立ち入ることができない性格のものだ。巨泉氏は、ハイセイコーなんか大した馬じゃないんだよ、ということを力説し続けた解説者だったと思う。応援するなら他にもっとイイのがいるじゃないかと言う
天皇賞を迎えるまでのキタノカチドキの戦歴は、13戦11勝、2着1回3着1回と、非の打ち所のない強豪ぶりを見せつけており、大本番でも連から外れることはあるまいとの見方が大勢を占めていた。が、勝てると断言する声は案外少なかった。テスコボーイ産駒が運命的に抱えていると思われる距離への不安からだったのだろうか。ホクトボーイ、インターグシケンと、この産駒から長距離の大レースをこなす馬が出たのはこれよりのちの時代で、結局ダービー馬を出すことができなかった種牡馬なのだが、既に初期の段階から中距離血統
昭和50年4月29日火曜日、第71回天皇賞・春が京都競馬場で開催された。既に触れている通り、キタノカチドキがその競走生涯においてただ一度、相手が悪かったと思われるレースだ。辛口の巨泉氏ではないが、例の菊花賞は相手に恵まれたからこそ勝てたのかも知れないと、この天皇賞をみて感じた。つくづく考えてみればあの菊花賞、ダービーで先着を許したコーネルランサーとインターグッドがいない。セントライト記念を楽勝して一躍淀のダークホースと騒がれはじめたスルガスンプジョウに至っては、距離不向きだとの理由で関
(六)ハイセイコーに辛辣な評価を下し、キタノカチドキにも事ある毎に難癖をつけたのが昭和49年頃の大橋巨泉氏だった。しかし昭和50年に入ると、心なしかトーンダウンしたふうな巨泉氏を感覚していた私だ。件の有馬記念を最後にハイセイコー、タケホープ、ベルワイドらは揃って引退していったが、タニノチカラは残った。昭和50年に入って、まずは63キロを背負いながら京都記念をぶっちぎり勝ち、続くオープンも楽勝して、いよいよキタノカチドキとの、今思えば最初にして最後の対決となるマイラーズカップを迎えよ
よく言われるように、生き残ってゆくことも名馬の条件だというなら、不死鳥のごとく這い上がってきたタニノチカラは名馬だった。気味が悪いほど巨泉氏が誉めそやした逃げ切り圧勝は、見事だったと称えてしかるべきだろう。ところで競馬というのはどういう脚質が一番強いのだろうか。逃げ切ることが真なる強さの証ではないだろうかと私は思っている。この「逃げる」という表現には、卑怯、悪者、小心といったイメージが付きまとうせいか、いずれは捕まってしまうといった予測が万人の根底にあるようだ。近頃の専門紙ではあま
空前という語句にこだわるが、3頭の天皇賞馬の揃い踏みとなった1974年の有馬記念。次の天皇賞を勝つことになるイチフジイサミも空前のメンバーのうちに入れるのか。既述のようにこの馬はステイヤーだった。晩成型の血統であり、クラシックに乗り遅れたとしても仕方ないタイプの馬だったと言える。もっともイチフジイサミは不良馬場の皐月賞で4着、ダービーではタケホープの2着、そして菊花賞でもセントライト記念からの直行で3着と、ハイセイコーと同格に扱える成績を残している。あとは前年の有馬記念をうまく2
それにしてもタニノチカラの圧勝に対して、これぞ競馬、とまで称賛した巨泉氏の胸の内というのが少々解せないのだ。世間は空前のメンバーと騒ぎ立てたが、氏はそこまでの顔触れとは思っていなかったはずだ、と私は推測したが、もしそうだとすれば逆に誉めすぎということになるのではないか。そこでもう一度このときのメンバー構成を私なりに考えてみたい。有馬記念に出ることなくターフを去っていった名馬たちがいる。私が知り得た範囲に限ってもタケシバオー、ワイルドモア、タニノムーティエ、ヒカルイマイ、タイテエム
この有馬記念、競馬評論家としての大橋巨泉氏にとって、多分経験したことのない的外れな結果に終ったのではないだろうか。条件馬が2着に飛び込んできた程度の天皇賞を勝ったにすぎない二流血統の、しかも氏が嫌ったあの極端な鶴っ首走法のタニノチカラが、まさに有無を言わせぬ圧勝劇を演じたからだ。5馬身以上ちぎられた2着にハイセイコー、さらに希代の名馬はあえなく3着と沈んだ。レース後の巨泉氏のコメントは、およそ氏とは思えぬ殊勝なものに聞こえた。「こんな素晴らしい有馬記念ははじめてです。強い馬が強い
(五)次に第19回有馬記念の話に入っていこう。この昭和49年(1974年)の有馬記念は、空前の顔触れと言われた。どんなメンバーが揃ったのか。天皇賞を勝ち上がってしまって手持ち無沙汰になっていた面々、ベルワイド、タニノチカラ、タケホープ。有馬記念連覇を狙うストロングエイト。これより数ヶ月のちに天皇賞を勝つものの、まだこの時点ストレスが溜まっていたはずのイチフジイサミ。クラシック級と期待されながら日の目を見ないホウシュウエイト。巨泉氏を絶望の境地へ追いやった悲運の馬カーネルシンボリ。そ
もっとも当時にあってさえ、タケホープには舞台が限られていた。天皇賞は1回勝ってしまったらおしまいで、ジャパンカップもまだ存在しない。どうにか有馬記念ぐらいしか狙えるレースがなかったのだ。大体日本の競馬システムというのは、大きなところを幾つも取ったり賞金を稼ぎ過ぎたりすると、斤量の関係で締め出されてしまって、否応なしに引退せざるを得なくなる。いわゆるピラミッド型の構造だ。「凡庸な馬たちが底辺に無数にうごめいているのは一向構わないが、秀でた馬は少ないに越したことはない」、とでも言いたげな、外部
AJC杯。ハイセイコーは何とブービー負け、馬脚を露わすとはこのときのためにあったような言葉だが、なにゆえにこのレースだったのか、当時私には理解できなかった。菊花賞だってあわや勝てそうだったじゃないかと言うなら、それは見当違いというものだ。タケホープのような優れたステイヤーさえ一緒でなかったら確かにハイセイコーは乱菊を制しただろう。しかしそれは菊花賞というレース自体が、近代競馬のイメージから外れつつある兆しだったのだ。短距離系の血をひく馬が、2マイルまであとひとハロンというような長いレースで勝ち
東西の別こそあったが、ハクホオショウとタニノチカラは同期でもあり、いずれも完全に本格化した姿で例の天皇賞を迎えていたわけだ。しかし東の雄は右前脚骨折で競走中止、二冠馬の弟が優勝と、文字通り明暗を分ける結末が待っていたことは既に述べた。このあとタニノチカラのほうは正気の沙汰とは思えないハイセイコーブームの中、暮れの有馬記念に名を連ねたが、ハイセイコー共々人気薄の先行馬2頭にまんまと逃げ切られて大波乱を演出してしまっている。ここで再びハイセイコーだ。皐月賞優勝、ダービー3着、菊花賞2着と、
大橋巨泉氏は血統論者だった。それと格重視のスタンスを取っていた解説者だ。『一に格、二に調子』、とは氏の名言だ。競馬に傾倒していったきっかけについて氏は、ある年のあるレースで断然人気の馬が敗れ去ったことで、血の宿命ということが厳然と有るのだということを知ってからだ、と語ったことがある。そういえば昭和45年の日本ダービーの折りにも、「スパニッシュエクスプレスの仔が2400メートルを勝てるワケがないんです」と、ことさら強調していたのを思い出す。あれは関東のアローエクスプレスに対する評価だった。氏にし
(四)話を戻そう。キタノカチドキは生涯で4回負けた。例のダービーでの惜敗。古馬になってまず足慣らしで出てきたオープン競走で軽ハンデ馬に先着を許したとき。この軽ハンデ馬とはラッキーオイチのことで、ユニークな馬名だったので憶えているファンも多いと思うけれども、このラッキーオイチという馬、キタノカチドキに先着した最初の関西馬だというわけで一面記事を飾っている。4回目の負けが、長期休養明けで本調子を欠いていたために惨敗したこの年の暮れの有馬記念だった。この3つは要するに実力負けと言うべきもの
シンザンに関してこんな逸話がある。三冠すべてを勝ったシンザンは、その年の有馬記念には元より出る意思がなく、更に翌年春の天皇賞もなぜか回避した。シンザンが勝った天皇賞は昭和40年秋のほうで、次いで暮れの有馬記念も、信じがたい大外を回っての差し切り勝ちを収めて、つまり五冠馬となって引退していったわけだ。さて、古馬となって最初の天皇賞こそ天下に最強を誇示するこの上ない機会だ、とは既に述べたようにあの時代の価値観だった。ところがシンザンは明確な理由もなしにこれを回避してしまったらしい。シ
ところが、このように相手関係ということを持ち出すと、たとえばカブラヤオーを見ても同様となる。皐月賞もダービーも逃げ切り圧勝の横綱相撲だったが、一緒に走った馬で後々ファンたちの記憶に残っているのはエリモジョージとイシノアラシぐらいで、この両頭にしてもその頃はまだ本格化にほど遠い状態だった。本格化といっても前者は福永洋一マジックで、全身から湯気を立ち上らせながら逃げ切った人気薄の天皇賞制覇が光る程度だったし、イシノアラシもダービー5着、暮れは4歳(現表記3歳)の身で有馬記念を勝つなど一見強い
多くのファンは最強馬としてシンボリルドルフを推すだろう。それは勝ったG1競走の数が図抜けていることからくるのか、前の年の三冠馬ミスターシービーを寄せ付けなかったからか、いずれにせよこの馬を凌駕する戦歴の馬は見当たらない。それでは相手関係はどうだったのだろうか。吉永正人の責任問題にまで発展したミスターシービーのジャパンカップでの敗戦を見るまでもなく、ある程度強力な先行馬がいたら、簡単には後方一気の差し切りなど出来るものではない。だとすればミスターシービーは弱小馬相手の三冠だったの
タニノチカラは3歳(現表記2歳)デビューで、あの最強世代の同期だが、クラシック競走には全く参戦しておらず、およそ2年も経ってから古馬としてカムバックしてきた。生涯24回走って13勝し、終に電光掲示板から漏れる負けは一度もなかった。カブラヤオーは13戦11勝2着1回の戦歴を持つが、11頭立てのどん尻負けというのがあった。ただこれはスタート時にゲートで鼻のあたりを強かぶつけて、脳震盪を起こしたような状態のまま回ってきたためだ。まことに気の毒な負け方というべきで、できれば特例をもって
キタノカチドキは、巨泉氏に指摘されずとも明らかに手薄なメンバーを相手に菊花賞を制している。しかし、相手が弱いとする論法は簡単ではない。この話を正面からやり出すと非常に厄介なものになってしまうのだ。世代別の評価は大変困難だ。歴代最強馬はどれか、おそらく答えは出まい。私はこのテーマについて、ひとつの尺度というものを持つようにしている。強い勝ち方という表現が一般にあり、その印象だけが残ってゆく傾向にあるようだが、私はむしろ大敗しなかったこと、要するに無様(ブザマ)に負けなかったことを評価した
(三)また少しそれるが、三冠馬といえば近年のファンならミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンと簡単に解答できるだろう。ミスターシービーの前となると馬名は知っているけれども実際には見たことがないという人が多いと思う。私もその一人で、昭和39年(1964年)の三冠馬シンザンのレースというのをライヴでは見ていない。このシンザンからミスターシービーまで実に19年を要している。ミスターシービーの次が翌年1984年のシンボリルドルフであり、それから10年後の1994年にナリタブライ