ブログ記事133件
このところの変化は、本当にめまぐるしいものがあります。自分が置かれている環境が、どんどん変化してきたり、人との関係性が、どんどん変わってきている感じがします。氣づいているいないに関わらず、多くの人が同じ様な状況にある様に感じます。これから先、『今まで、そうだったから』『常識的には、こうだから』という尺度で対応していると今まで以上に自分が苦しくなってしまうでしょう。きっとあなたも深いところでは、氣付いているはずです。潜在意識は
あなたの心は、今この瞬間、あなたの身体の中にいるでしょうか?身体と心が、離れ離れになっていませんか?私の好きなヨガの時間に先生は、しばしばこの様に仰います。「今、身体も心もこの空間にいますか?」と心というものは、案外、肉体から離れたところに行ってしまうのです。ヨガをしていても、昨日の事が氣になっていたり、この後のことを氣に掛けている状態であれば、心は、この空間にはいないのだと仰います。『心ここにあらず』という言葉が有る様に心は
昨夜、もう色々な事が誤魔化せなくなりました。人にとってよい人を止めましょう。自分の人生を自分の為に生きましょう。そういった内容のブログをアップしました。ただこれは自分にも当てはまる事なので、「一緒に抜け出しましょう」と言葉に記しました。これをアップして休んだのですが、夜中にパッチリと目が覚めてしまいました。またまた夜中の2時前に・・・・(前回の2時起きはこちら)それでですね、私、やっぱり今のままでは、『嫌だ』という感情
夏至を迎えましたね。何かしらの変化が感じられますか?古い物、古い関係、今までの環境といった物達を精査する時が来ているように感じています。馴れ合いや、嘘や、誤魔化しは、もう表面に曝されてしまって、今までの様になかったことにして、スルーしていくことが出来なくなってきた様です。今、苦しくはありませんか?よい人をやっている(演じている)つもり、それは自分の中で出来ているつもりであって、もう露呈している様に感じます。人にとってだけよい人と
生きていると色々な時があるものです。渦中にいる時は、苦しくて大変で、明日の日さえも、わからないと思う様な時もあるでしょう。その様な時にでも、どうかどうか、希望を捨てないで・・・・。簡単なことを言わないで欲しいと思われるかも知れません。人の氣も知らないでと思われるかも知れません。しかし、生きて行く力を保つためにも、希望の光を見失わないで戴きたいのです。諦めてしまっては、そこから換わっていく力さえ出せなくなってしまいます。希望を手放さなければ、
この度の地震で被害に遭われた方々、また大切な方が被害に遭われた方々、非日常の中にいらっしゃる方々、胸中お察し申し上げます。お一人お一人が、一日も早く日常生活に戻れます様にこういう時にニュースを見て、多くの人が『心配』をしてしまうと『不安』『怖れ』といった感情が、『心配したような現実』を創り出してしまいかねません。人の想念のエネルギーというのは、それほど大きな力をもっているからです。ですから、多くの人が心配というマイナスなエネルギーを集中させるよりも、『必
カルマって、結局のところなんなのでしょう?生まれる時から、カルマを課してきて、生きている間も、カルマを抱えて、それらが解消できなければ、光に還る時にも、カルマを持ち越していく。全ては、自分で選択してきているといわれます。誰一人として、カルマにカルマを上乗せしていくような、そんな生き方をしたいわけではないはずなのに・・・自分が決めたものを乗り越える事が出来ないでいるのです。頭ではキチンと解っているつもりなのにね・・・・、でも、でも、
昨日、この本を目にしました。ほんとうにその通りだと想います。大きな事を成し遂げるとか、偉業を成すとか、立派な功績をあげるとか、人生の中に有ってもよいし、無くてもよいと想うのです。なんの変哲もないと思える様な日々でも、一日一日を生きていくって、とても素晴らしいことで、命が与えられているって、奇跡の様な有難いことだと想うのです。命が与えらえて、この世に生を受けている命は、ただそれだけで貴く、一人一人、誰もが、素晴らしい存在なのです
他人の事は冷静に判断する事が出来るけれど、自分の事となると判断に苦しむことありませんか?するべきか、やめておくべきか行くべきか、行かざるべきかはじめるべきか、止めておくべきか、自分にとって『YES』なのか、『NO』なのか?こういう判断をする際に他人の事だと向いているとか、向いていないというのが冷静に判断出来るし、他人のことだとスパッと見極めることも出来るのに自分のことだと・・・YESなのか、NOなのか、やっぱりYESなのか?なんて、グルグル、
昔から言い伝えられている言葉って、なるほど~と思う事が多いのですが、「案ずるより産むが易し」この言葉も、なるほど~と思います。生きていると常に浮かんでくる考えその中の一つに『心配する』という考えがあります。浮かんでくるものは、浮かんでくるわけですから、感情を隠す必要は全くないのです。浮かんでくる考えを無理やり抑え込んだり、浮かんできていること自体を誤魔化してしまうと、身体の奥底に考えが隠されてしまって、ぐちゃぐちゃ、ドロドロと溜まっていっ
出逢ってくれる人は全て、自分にとってご縁がある人です。魂の成長を促してくれる人であったり、自分の姿を映し出してくれる人であったり、愛、喜び、安らぎ、信頼を与えてくれる人であったり、哀しみ、怒り、憤りを味あわせてくれる人であったりとそれは様々なのですが、自分にとって意味のある人としか出逢う事はありません。相手の事を嫌だと嫌ってしまう原因が、自分の中にも潜んでいたり、自分は我慢している事をやってのけている姿が許せないだけであったり、引っ掛かる原因は人それぞれでしょ
母なる大地、地球。人間のエゴによる開発により切り刻まれ、人間のエゴによって汚染され、人間のエゴによって破壊されていく。それでも全てを受け止めて、受け入れてくれています。これだけやってあげたのだから、という様な恩着せがましいことも言わず、これだけやってあげたのだから、同じように返して欲しいという様な事も言わず、お金の有無も、地位の有無も、年齢も問わず、誰に対しても全く分け隔てなく、また何の見返りも何の要求もせずにただただ全てを受け
今、あなたが居る世界はどの様な世界でしょう。あなたの目の前に広がっている世界、それは心地よい時もあり、時には心地よく思えない時もあり、それは嬉しい時もあり、時には嬉しいと思えない時もあり、この世(三次元)は喜怒哀楽が入り混じった世界といわれてきました。しかし、もうそこは超えてきた感じがします。自分の心がどんなふうに変化したいったとしても、目の前にどのような世界が広がっていたとしても、目に映る景色がどのような状況であったとしても、あなたもそ
人にやさしくされた時自分の小ささを知りましたあなたを疑う心恥じて信じましょう心からという歌詞の歌がありますが、自分の小ささを知る瞬間ってありますよね・・・知っている人に優しくなれる。これは基本だと思うのです。知らない他人にも優しくなれる。これ、出来るようで案外難しくないですか?瞬間、自分を優先させてしまう。瞬間、躊躇する。瞬間、見なかったことにしたくなる。こういうのって、瞬間勝負ではないかな?
このところ色々な事をはじめました。先日ブログにupした瞑想も、その中の一つです。新しい事をはじめるのって、いくつになっても遅くないと私は、想っています。興味や関心がある事はあっても、それにチャレンジするのって勇氣が要りますよね。そこに年齢は関係ないでしょう?だから後回しにしない行動力って素敵だと想います。私は今までは日常の繰り返しから抜けるのが面倒なタイプだったのですが、日常のルーティンから抜け出してみると刺激が沢山ありますよ。慣れる
自分をとりまく世界は、自分の思考で創り出されるといわれます。知識としては、知っているという方も多いと思うのですが、とても漠然としているので『解る様な解らない様な・・』その様な感覚ではないでしょうか?夫や妻に話しても否定されるとか、話を聞いてもらえない、子供は言う事を聞かない、職場のあの人は大変な仕事は、私に押し付けてくる、ママ友、上司、夫、親、義父母、この人の機嫌を損ねたら面倒だから、言う事聞いておいた方が楽、等々、この人に話しても必ず否定される、こ
人生において転機となるタイミングというものがあるものです。あの時を境にして人生が換わった。そう想える様な瞬間は誰にでもやってきます。そして、今、波動的にはそういうタイミングにあります。沢山のサポートの存在達が、貴方を光の指す方向へ誘ってくれています。目の前には希望する未来へ繋がる道が用意されているのです。心の目を澄まして、しっかりと捉えるのです。そして、その道を歩み始めるのです。ただ眺めていても、今いるその環境、現実、は一ミリも変わ
感情を誤魔化す事は容易なことです。無かった事にしてしまう事も、嘘でキレイにコーティングする事も、案外、簡単に出来てしまいます。怒りも、哀しみも、喜びや楽しみと同じ、大切な感情です。ですから、それを誤魔化す必要などないのです。誤魔化したくなるのは、その感情を認められない私が居るから?良い人でいなければならないという思い込みから?瞬間に沸き上がった感情が、今の自分の氣持ちや精神状態を表していると想います。『何故、私はそう想ったのか?』『どう
自分のことは、分かっている様で案外よく分かっていないといわれます。そして、自分が認識している私という人間と真実の私は案外違っているものだともいわれます。自分のことを好きな人も、自分を肯定出来ない人も、自信が持てない人でも、私には悪いところもあるけれど、良いところもちゃんと有って、総合的にみると、『私、悪い人ではない』なんて思いませんか?少なくとも私は、そう思っていました。色々あるけれど、悪人ではないって・・・・。これがね、実は大間違いでした
このところ私は、自分と向きあう事を大切にしています。知識をあれこれ積み重ねても、今の私には使いこなせない様な氣がして溢れている情報を見るよりも、自分の内側と繋がる時間を持つ様にしています。本を読んだりネットを見ていると、知識は増えるのですが、その知識が身になっているか?その知識が活かせているか?なんだか疑問に想ってしまって・・・・・。でも、私も自分と向き合う事を長い間避けて来ました。だって、忘れて無かった事にしておいた方が楽だもの・・・・今までだって目を背けて
子供と一緒に遊んであげる親、キャラ弁を作ってあげる親、送り迎えをしてあげる親、休日には家族で出かけて一日家族で過ごしてあげる親、・・・・一緒に遊んだ思い出も、蓋を開けるのがワクワクする様なキャラ弁も、雨の日や塾やクラブ活動に送り迎えしてもらえるのも、どれもとっても嬉しいことだと思います。ただ、親からみた良い親というイメージと子供からみたイメージは違うかも知れません。大好きな大好きな親がしてくれる事は何でも嬉しい。だけど、大好きな大好きな親なのだから、何も
このところ体のサインを無視して食べる事が続いていたのですが、ついに胃からストップが掛かった感じがしまして、28日の月曜日から半断食をしています。半断食ですので、全く何も口にしないわけではありません。自家製の甘酒や自家製の野菜ジュース等の液体の物は口にしています。昨日は丁度満月だったので、昨日までは続けるつもりだったのですが、今朝もまだ胃が食べ物を欲していない感じがしたので、そのまま続けています。3日も食事をしないでお腹が空かないの?と疑問に思われるかも知れませんが、
今宵は射手座の満月です。ウエサク満月といって、天界と地上界のエネルギーの扉が開き、パワフルなエネルギーが降り注ぐ日だそうです。(詳しくはこちらを)先程、瞑想をしているとこの様なメッセージが届きました。「目の前に障害など存在してはいない」「全ては幻想である」射手座の満月は、「夢と理想」や「自己肯定感」などに対して、足を引っ張っているものの手放しに最適なのだそうです。自分の中にある前に進めない理由。それは、前に進めない理
何もかもが嫌になる時。生きていれば、そういう時もありますよね。こんなに私は一生懸命真面目に生きているのに・・・・あの人が、あの上司が、この社会が、この日本の制度が、あげればキリがないくらいでしょう。怒りたくなるし、泣きたくもなるし、全てを受け止めきれなくもなるでしょう。何だか自分だけが損している様な惨めな氣持ちになって、斜に構えたくなったり、世の中を斜にしか見たく無くなったりしてね。そういう自分に嘘をついて誤魔化す必要はないのです。
「変わりたい」といくら言っても、何も変えないままでは、何も変わってはいきません。今、出来もしない事をアレコレと考えて、今は無理だと諦めるよりも、今、出来る事をやればよいのです。諦めたり、理由をつけて自分を誤魔化す癖を止めましょう。どんな小さな事でもよいので、自分で決めたことをやり遂げることです。ストイックになり過ぎるのは危険ですが、きちんと何かを成し遂げること、それを積み重ねるという生き方をしていると大きな事だって出来る様になります。果てしない遥か先
必要なこと、足りないこと、それは、愛。自分自身に問うのは、常にそこに愛があるかどうか。湧き上がってきた感情、自分がとった行動、そこに善悪を問うのではなく、愛があるかどうかを問うのだ。善悪の判断に意味などない。相手への愛がある感情なのか、相手への愛がある行動なのか、そして、自分自身への愛はあるのか。愛を問うのは自分自身に対してだ。愛を人に問うことは愛ではない。そして、人に問えば問うほどに人を苦しめ自分自身も苦しんで
物事に良い悪いという事はないといわれる。しかし、自分にとって快く思えない事は「悪い事」だと思ってしまう。仮に悪い事だと思う事を「黒色」に例えるとしたら、良い事だと思える事は「白色」だろうか。人生の中には、白も黒も点在している。そして、それらが反転する事もある。良いと思っていた事が、予想外の結果になり「黒色」に換わって見えたり、悪いと思っていた事が、後々には「白色」に換わって見えることだってある。生きている間、これらはきっと反転を繰り返す。それは、自分の意識次
色々な体験をして、感情というものを味わえるのは、肉体があるからだといわれています。ただ時にこの『感情』と『生まれてきた時に決めてきた課題』が絡まって、進むに進めなくなってしまうという何故に?的な事が起ってしまいます。例えば『哀しみ』という感情を克服しようとしてきたのにまたもや哀しみに囚われて身動きが出来なくなったり、『赦す』ということを課題としてきたのにまたもや赦せないという感情が燃え上がってしまったり、課題故にそこに引っ掛かるという、ある意味だからこそ課題なの
命があり今日も生きている。ねえ・・・、生きているのは辛い、苦しい?そこまでいかなくても、日々生きている事を楽しい、嬉しいと感じられるか?と問われて、間髪入れずに「はい」と言える人って、どの位居らっしゃるのでしょうね?私は生きていく事の意味が全く見いだせない時間を長く過ごしました。そんな罰当たりな私にも、命は与えられていて、明日が来て夜になり、また朝がやってきました。命を与えられていたのですから、生きていなければならなかった。ながく暗い闇を見たから、
「危ないから止めておきない」「お腹が弱いから食べ過ぎてはダメよ」「○○○(他の姉弟)と違って、出来が悪い」「そんなことをしたらバチがあたるよ」「何をやらせても不器用なんだから」子供の頃、親や周囲の人から、何度も繰り返し掛けられたこうした言葉は、時として人の潜在意識の中に深く深く刻まれて、ブロックやカルマとなって、その人の行動のブロックをしたり、行動そのものを支配する事があります。頭(顕在意識)は否定して、その言葉を受け入れていなかったとしても、何度も繰り返して聞かさ