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人間の弱さとサルトルの自由「自由に生きたい」多くの人が、一度はそう思ったことがあるのではないでしょうか。好きな仕事をする。好きな場所に住む。誰にも命令されない。自分の人生を自分で決める。私たちは、そんな状態を「自由」と呼びます。しかし、哲学として自由を考え始めると、話はそれほど簡単ではありません。そもそも、人間はどこまで自由なのでしょうか。この問いを徹底的に考えた哲学者の一人が、サルトルです。サルトルは「実存は本質に先立つ」と考えました。例えば、ハサミには「物を切る」
自立とは「誰にも頼らないこと」なのか障害福祉の世界では、「自立」という言葉がとても大切にされています。自立支援。自立生活。自己決定。もちろん、どれも重要な考え方です。しかし私は以前から、この「自立」という言葉に少し違和感を持っています。私たちは、いつの間にか自立を「できるだけ人の手を借りずに生きること」と考えてはいないでしょうか。自分で食べる。自分で移動する。自分で働く。自分で生活する。できることが増えれば「自立に近づいた」と評価される。逆に、人の手を多く借りなければ生
AIは人間の仕事を奪うのかここ数年、AIの進歩には目を見張るものがあります。文章を書く。画像を作る。翻訳をする。プログラムを組む。さらには医療や法律の分野でも、人間を上回るような能力を発揮し始めています。その一方で、「AIに仕事を奪われる」という不安の声も数多く聞かれるようになりました。事務職はなくなる。クリエイターも必要なくなる。教師や医師でさえAIに置き換わるかもしれない。そんな予測も決して珍しくありません。障害福祉の世界でも例外ではありません。支援記録の作成。個
「分かったつもり」が、一番危ない。障害福祉の仕事をしていると、「相手を理解する」という言葉をよく耳にします。利用者を理解する。保護者を理解する。その人らしさを理解する。もちろん、大切なことです。しかし私は、この「理解する」という言葉に少し慎重でありたいと思っています。なぜなら、人間は「理解する」前に、「思い込む」生き物だからです。心理学では、こうした無意識の思考の偏りを認知バイアスと呼びます。認知バイアスとは、物事を素早く判断するために人間が身につけた「心の近道」です。本
最近、「AIに仕事を奪われる」という話をよく耳にします。事務作業。翻訳。文章作成。プログラミング。AIは驚くほど多くの仕事を担えるようになりました。障害福祉の世界でも同じです。記録を書く。制度を調べる。支援計画の下書きを作る。情報を整理する。こうした仕事は、これからますますAIが担うようになるでしょう。では、福祉の仕事そのものもAIに置き換わるのでしょうか。私はそうは思いません。もちろん、AIは非常に優秀です。膨大な知識を瞬時に整理し、制度や医学的な情報を正確に提
実存は関係性の中でのみ現れる哲学者サルトルは、有名な言葉を残しました。「実存は本質に先立つ」人間にはあらかじめ決められた本質はなく、自らの選択によって自分自身を作り上げていく。20世紀を代表する実存主義の考え方です。私はこの言葉に大きな魅力を感じています。人を固定された本質で捉えないこと。人間は変化し続ける存在であること。この部分には深く共感します。障がい者だから。健常者だから。保守だから。リベラルだから。そうしたラベルによって人間を説明しきれないという感覚も、ここ
私たちは日常の中で、たくさんのラベルを使っています。障がい者。健常者。高齢者。保護者。支援者。利用者。ラベルは便利です。複雑な世界を整理し、素早く情報を共有することができます。福祉の現場でも同じです。重症心身障害児。医療的ケア児。知的障害。発達障害。制度を運用するためには、ある程度の分類は必要です。問題は、ラベルを使うことではありません。問題は、そのラベルのバイアスがあまりにも大きすぎて、人間そのものを塗りつぶしてしまうことです。例えば私は障害福祉の仕事をしてい
レヴィナスとギリガンから考える「顔が見える関係性が大切だ」障害福祉の現場ではよく使われる言葉です。事業所同士の連携。保護者との関係。地域とのつながり。どれも重要です。しかし、なぜ顔が見えることが大切なのでしょうか。単に情報交換のためなら、メールや電話で十分かもしれません。それでも人は会おうとする。そこには、人間の関係性の本質が隠れているように思います。哲学者のレヴィナスは、人間の倫理は「顔」から始まると考えました。ここで言う顔とは、単なる外見ではありません。目の前に
「測れるものだけが真実」なのか近年、障害福祉の現場でも「エビデンス」という言葉が強く求められるようになりました。科学的根拠。数値化。効果測定。データに基づく支援。これ自体は決して悪いことではありません。経験や感覚だけに頼るのではなく、検証しながら支援を考える姿勢は重要です。実際、医学やリハビリの発展によって、多くの人が助けられてきました。しかし現場に立っていると、ときどき強い違和感を覚えます。それは、いつの間にか「測れるものだけが真実である」という空気が生まれていることです。
なぜ「必要なもの」が市場と噛み合わないのか障害福祉事業は、現在ほぼ市場経済の仕組みの中で運営されています。事業者がサービスを提供し、利用者が選び、行政が報酬を支払う。形式としては、市場原理を部分的に取り入れた構造です。この仕組みには利点があります。選択肢が増え、参入が広がり、行政だけでは届かなかった部分にも支援が広がった。これは事実です。しかし、現場に立っていると、どうしても感じる違和感があります。市場経済の原理と、障害福祉の本質は、本当に噛み合っているのだろうか。市場経済は
人はなぜ「ここにいていい」と感じる場を求めるのか「居場所」という言葉は、障がい者支援の文脈でよく使われます。安心して過ごせる場所。自分のままでいられる場所。受け入れてもらえる場所。しかし、この言葉は本来、特定の誰かのためのものではありません。人間にとって、居場所は特別なものではなく、生きていくための前提条件なのだと思います。心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求の中に「所属と愛情の欲求」を位置づけました。誰かとつながりたい。どこかに属していたい。関係の中にいたい。この欲求
発達障害支援の本質と現場のズレ発達障害支援の現場では、「自立」という言葉が頻繁に使われます。支援計画の中にも、「自立に向けて」という表現は当たり前のように並びます。一見すると、とても良い言葉です。誰もが自立して生きられるようになることは、大切な目標のように思えます。しかし、現場にいると、この「自立」という言葉に違和感を覚えることがあります。それは、この言葉が、いつの間にか「同調」を意味してしまっている場面があるからです。例えば、静かに座れるようになること。指示に従えるようにな
「頑張った人が報われる」は本当に正しいのか「努力すれば報われる」「能力のある人が上に行くのは当然だ」この考え方は、広く受け入れられています。むしろ、正しいこととして教えられてきました。しかし、この言葉には、見落とされがちな前提があります。それは、結果はすべて個人の努力と能力によって決まるという前提です。哲学者のマイケル・サンデルは、この考え方に強い疑問を投げかけました。能力は本当に自分のものなのか。努力できる環境は、誰にでも平等に与えられているのか。生まれ育った家庭。
その行動は本当に“問題”なのか障害福祉の現場では、「問題行動」という言葉が当たり前のように使われています。他害、破壊行為、大声、飛び出し。現場としては危険も伴うため、対応が必要になるのは間違いありません。しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。それは本当に「問題行動」なのでしょうか。この言葉には、ある前提が含まれています。「その行動は間違っている」「修正されるべきである」つまり、「問題」と名付けた瞬間に、その行動は“正しくないもの”として扱われます。では、その
私たちはなぜ「役に立たなければならない」のか「生産性を上げる」この言葉は、疑われることなく正しいものとして扱われています。効率、成果、価値の創出。それらはすべて善であり、目指すべきものとされています。しかし、この言葉の背後には、ひとつの強力な前提があります。人間は、役に立つ存在でなければならない。この前提は、いつ、どこで作られたのでしょうか。哲学者のカール・マルクスは、資本主義の中で人間の労働が変質したことを指摘しました。本来、労働とは人間の自己表現であり、生の活動そのもの
後付けされる物語としての意味「人生には意味があるのか」この問いは、昔から繰り返し語られてきました。そして多くの場合、「意味のある人生を生きること」が良いことだとされています。やりがいのある仕事。誰かの役に立つこと。社会に貢献すること。自分らしく生きること。私たちはいつの間にか、「意味があること=価値があること」と結びつけています。しかし、ここにひとつの前提があります。それは、「意味は最初から存在している」という前提です。本当にそうなのでしょうか。私は、意味というものは
見えないものを見える場所に置くということ「共生」という言葉は、今では当たり前のように使われています。障がいのある人もない人も、同じ社会の中で生きていく。その理念自体に異論はありませんし、むしろ大切にされるべき考え方だと思います。ただ、現場にいると、共生はそんなにきれいなものではないと感じることがあります。大きな声を出す子ども。予測できない動きをする人。周囲の空気を乱してしまう存在。そうした場面に出会ったとき、人は少なからず戸惑いを感じます。怖いと感じることもあるでしょう。不安や
ケア倫理を政治的なアプローチから考える障がい者支援の現場で働いていると、「ケア」という言葉をよく耳にします。ケアという言葉には、どこか優しさや善意の響きがあります。しかし、政治哲学者のジョアン・トロントは、ケアを単なる優しさや美徳としてではなく、社会を成り立たせる基盤として捉えました。トロントは、ケアとは「私たちの世界を維持し、修復し、そこに生き続けられるようにするためのすべての活動」であると述べています。この定義を読むと、ケアとは介護や医療といった特定の仕事だけを指すものではないこ
幸せに生きるという呪い「幸せになりたい」という言葉は、誰もが一度は口にしたことがあると思います。テレビでも、広告でも、SNSでも、「幸せ」という言葉は当たり前のように使われています。しかし、ふと立ち止まって考えると、この言葉は少し不思議です。幸せとは、いったい何なのでしょうか。お金があることなのか。家族がいることなのか。健康であることなのか。好きな仕事をしていることなのか。人によって答えは違います。それでも私たちは、どこかで「幸せであることが良い人生だ」という前提を共有して
心理学者アブラハム・マズローは、人間の欲求を段階的なものとして整理しました。いわゆる「欲求の五段階説」です。マズローは、人間の欲求を次のような段階として説明しました。①生理的欲求食事、睡眠、排泄、呼吸など、生きていくために最も基本的な欲求。②安全欲求危険から守られ、安心して生活したいという欲求。住まいや健康、安定した環境など。③所属と愛情の欲求家族や友人、仲間など、人とのつながりの中にいたいという欲求。孤立せず、誰かと関係を持ちたいという気持ち。④承認欲求他者から認
最近、「ラグジュアリー・ビリーフ(LuxuryBelief)」という言葉をよく見かけます。これは、アメリカの作家ロブ・ヘンダーソンが提唱した概念で、社会的・経済的に安定した立場にいる人が、自分には大きなリスクのない“道徳的に正しそうな思想”を掲げ、その影響や負担は別の層が引き受ける構造を指すとされています。理念は美しい。しかし、その理念のコストは誰が払うのか。この問いは極めて重要です。現場に立っていると、理想だけでは回らない瞬間が確かにあります。誰かが疲弊し、誰かが黙って引き受けている
数あるブログの中からお越しいただきありがとうございます。着付講師関東を中心に、ネガティブ思考の大掃除(エネルギーワーク)耳つぼ音叉ヒーリング、マインドオーラヒーリング、美脚ポージング講座、などをしているノンノです。先日日本最大規模のシェアハウスオークハウス様のお座敷遊びイベントで外国人10+2名の着付させていただきましたオークハウスさまでは昨年も浴衣イベントさせていただき大好評でした『国際交流浴衣着付体験会!』数あるブログの中から
危険な存在というラベル(前回の続き)支援が難しい子どもを、できるだけ受け入れたい。オークハウスでは、そう考えて工夫を続けています。動き回る。物を壊す。衝動的に他者に触れてしまう。ときに危険も伴う。支援密度は高く、緊張もある。それでも、居場所は必要です。しかし、ここで現実が立ちはだかります。その子を受け入れることで、他の利用者や保護者から「あの子は危ない」「一緒は困る」「施設を変えたい」という声が上がる。結果として、その子が出ていくか、別の利用者が去ってい
市場化された福祉と、サスペンドの現実今回は哲学というより、少し現場の話になります。障害福祉は制度の上に成り立っています。制度である以上、支援の必要度を分類し、報酬単価を決めなければなりません。その代表例のひとつが、いわゆる「重症心身障害児」の線引きです。現場では「重心」と呼ばれますが、多くの場合その判断には「大島分類(大島基準)」が参照されます。これは、肢体不自由の程度と知的障害の程度を組み合わせて整理する考え方です。一定の領域に入れば、重症心身障害児として位置づけられ、受
人を「単なる手段」にしないという原則福祉事業にとって、お金は必要です。建物を維持し、職員に給与を払い、安全を確保し、責任を持って運営するためには、現実的なお金が不可欠です。だから私は、お金の話を避けるつもりはありません。福祉が経済の外にあるという幻想は、むしろ危険だと思っています。しかし、ここで絶対に確認しなければならないことがあります。お金は手段であって、目的ではないということです。哲学者カントは言いました。「人間を単なる手段として扱ってはならない」。人は何かの道具ではな
「普通」という理念を問い直す障がい福祉の分野において、「ノーマライゼーション」という言葉はすでに疑いのない理念として受け入れられています。障がいのある人も地域の中で普通の生活を送る権利がある。この考え方は、かつての隔離や排除を正当化してきた社会のあり方を問い直し、多くの人の生き方を変えてきました。その歴史的な意味は、今もなお大きいものだと思います。私自身も、この理念そのものを否定するつもりはありません。むしろ、社会が変化するための重要な出発点であったと考えています。ただ、現場で重い障がい
「成熟した社会が抱えるもう一つの課題」社会が成熟していくにつれて、弱い立場に置かれやすい人への配慮が深まっていくことは、間違いなく望ましい変化です。かつて見過ごされてきた不利益や差別が可視化され、支援や権利という言葉によって守られるようになったことは、社会の進歩と言ってよいでしょう。しかしその一方で、別の難しさも生まれています。弱者の権利が社会の中で強く語られるようになるほど、その言葉が持つ力も大きくなっていくという点です。ここで問題になるのは、権利そのものではありません。権利が
「ギリガンとガブリエル、そして「場」という考え方」このブログでは、これまで障がい者支援やケアについて、さまざまな視点から考えてきました。支援とは何か、多様性とは何か、自立とは何か。そうした問いを書き続ける中で、「なぜ自分はこのように考えるのか」と問われることもあります。今回は少し立ち止まり、私自身の考え方の原点について書いてみたいと思います。私がもっとも影響を受けた哲学者は、キャロル・ギリガンとマルクス・ガブリエルです。この二人の思想は、一見するとまったく異なる領域に属しています。ギ
「緊張し続ける社会の中で」「安心できる場所が大切です」という言葉は、障がい者支援の現場でよく使われます。しかし、この「安心」という言葉は、時に誤解されます。安心とは、甘やかすことや、何もしなくてもよい状態をつくることだと受け取られることがあるからです。けれど本来、安心とはそのようなものではありません。私たちは日常の中で、常に何かを求められています。役に立つこと、失敗しないこと、周囲に迷惑をかけないこと。社会の多くの場面では、知らないうちに緊張が前提になっています。生産性や効率
どんな子でも、安心して産める社会のために近年、胎児の染色体検査や出生前診断が、以前より身近なものになりました。医療技術の進歩として語られ、「知る権利」「選択の自由」という言葉とともに説明されることが増えています。しかし私は、この「選択」という言葉に、強い違和感を覚えています。検査そのものが悪いとは思いません。知りたいと願う気持ちや、迷う気持ちも、否定されるべきではなありません。けれど問題は、その先にあります。結果を知らされた瞬間、親は問いの前に立たされます。産むのか、産まない