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ALOHA🌈Hawaii4日目カウアイ島この日のおすすめ写真今回で2回目のフェスティバルハワイの歴史を感じる式典次々と踊られるKahikoすごく勉強になりました。Stepな踏み方指先の動き目線衣装…フォーメーションなども。ステージの線引きは無くて、ティーで編んだものですAuanaもありましたよ。みんな素敵でした。終わってからは久しぶりにHanapepeの街へワイヤーと木でできている橋です。帰り道Kauaicoffeeへ、美味しいコーヒーアイスクリーム来る
私の愛する人、どこにいるの私の心をかき乱す人あなたをあいさずにはいられない初めからあなたは私の宝物になるさだめ雨ははふさわしくない美しい女性と一緒にいる時は私に本当にふさわしい人はそれは丘にいる赤い羽根のイヴィ鳥だコーラス愛する人を私は探すプナの森の香りの中あなたはどこにきえてしまったの?戻ってきて私と一緒にいておくれこのメレを書いたのは、リリウオカラニ女王とチャールズ・E・キング。1874年12月、女王は同じタイトルのメレを書い
ALOHA🌈曲別合同練習会12/25日から休み1/7スタートその後1月は各クラス1回づつLesson2/1からやっとスタート💦Hōʻike間近になってきて焦り気味の私…きっと生徒さんもそうなんだろうなっ…そして久しぶりの曲別練習会感染対策をしっかりとしました。3時間を4枠にして踊る人しか中に入れないようにしました。申し訳ないですけど廊下で待ってもらいました。変更になった部分をマダム達に伝えています3時間終了後…多少の疲れは残っていましたがスタッフゆかちゃんから電話
Ekuihoamaliemaila(エクーイホアマーリエマイラ)はオリです。カメハメハ4世の妃エマ女王を称えたオリ以前も書いたけれど、オリは簡単に言うと「祈り」の言葉で、誰かを称えて謳われる(チャンテイングされる)もの、独特の節回しがあります。ハッキリしているのは・・・オリにはフラはつきません人物や土地、物を称えるので、何にでも使われるわけではありません。レイやパウを着ける時に謳われるオリもあります。エホーマイのように何かを始める時に必ず唱えるオリもあ
補足:ワシントンでの日々①リリウオカラニが日記をこまめにつけていたことは以前も書きましたが、1893年の退位から95年の王党派の反乱、裁判、投獄という王国滅亡の混乱期の日記は多くが失われています。それは、王党派の反乱が失敗に終わったとき、リリウオカラニや王党派が書面に残していたものが革命政府の手に渡るのを避けるために大急ぎで多くの書類が燃やされ(危険なものやまずいやつがいっぱいあったのでしょうね!)その中にリリウオカラニの日記もいくつか含まれていたようです。現在
一年中夏のイメージがあるハワイだが、ハワイにもそれなりに季節感はある。ちょうど今頃のシーズンは、毎日晴天の日が続き、最高気温は30℃前後。ワイキキから眺めるダイヤモンドヘッドも、草木が枯れて茶色に変わっている。ハワイの王族達も、宮殿の中は暑かったのだろう。夏は、避暑地に出かけた。クイーン・エマ・サマー・パレス(エマ女王の夏の離宮)も、そんな避暑地の一つだ。この離宮があるのは、ホノルルのダウンタウンの山側にある、ヌウアヌ渓谷。古くからハワイでは、ヌウアヌ渓谷は神々の住処、と伝えられて
暑いのですが、しっかりマスク、そして換気もしながらみんなで頑張っています😃。成田のフラ教室HālauHaʻahulanahenahemekeʻalalauaʻe(ナヘナヘ)です。カメハメハ4世のお妃様だったQueenEmma、美しく賢く優しく活発なそれはそれは素敵な女性でした。そんなEmma女王が乗馬をされる姿を歌ったこのナンバー”Wahinehololio(Hewahinehololio)。オリジナルはカヒコのナンバーですが、KahauanuLakeTrioのアウアナナ
昨日は皆さんよく知っているY先生がカヒコ講座に来てくださいましたお教えした曲はAuheaWale'OeEKa'O'o(アウヘアヴァレオエエカオーオー、略してアウヘア)「オーオー鳥よ、あなたはどこにいるの」という意味の曲、カメハメア4世の王妃エマ女王を称えた曲です。高橋がこれを習ったのはもう10数年前、オアフ島でのクム・マリアのワークでした。カヒコがちんぷんかんぷんだった挫折につぐ挫折けれど楽しかったので必死に食いつき、自分のものにしました面白いなと思ったのは最
ALOHA🌈いつもブログを読んでくださりありがとうございます。今朝…びっくりしました。フラダンス部門59797の中で1位フラ部門31710の中で1位2位4位9位HULA部門8249の中で1位3位7位8位毎日の出来事。私の思いを書いているブログ。こんなにたくさんの方々に読んでいただいてるなんて。心から感謝いたします。昨日のレッスン。OHANAクラス。日曜日のブログで書いたとうり新曲は踊らず10月11月のイベントの練習。細かい細かい部分までチェッ
ALOHA🌈何とも言えないあったかい大会。場所は倉吉ホールの隣は梨館梨のソフトクリーム美味しかった🍦クムフラNalaniKanaka'oleのチャントから始まりあっというまの5時間。コンペに出たハラウの方々お疲れ様。エキシビジョンに出たグループ。踊り終わった後にはクムからの批評もいただけます。どの部分を見てもあったかさが伝わってきました。大会の主旨がよくわかり、又見てみたいと思えました。そして…私達は大雨に遭遇川の水量も増して三朝温泉で泊まることに。電車も止まってい
エマ女王は亡くなる2年ほど前に脳梗塞で倒れ、その後数回発作を起こしていました。「気が変になってしまったらしい」という噂も流れていたそうです。脳梗塞の後遺症による認知障害があったのではないかと思います。本章の前の部分でもリリウは、バーニスが亡くなる少し前、「エマ女王の精神状態に重大な変化が起きていた」と書いています。原文ではItwasherethatIfirstnoticedthegreatchangewhichhadcomeoverth
第17章ルース王女とパウアヒ・ビショップ夫人(後編)このときは、エマ女王が悪性の疾患を病む(訳注:⑤)人特有の仕草をあからさまに示していたときでもあった。ときが経つほどに身体の不調は進んでいたらしい。そしてそれはよくなるどころかどんどん悪化し、1885年4月、ついに帰らぬ人となった。この時、彼女の代理人の方で奇妙な手続きが行われていた。最初、彼女のなきがらは自宅に安置されていた。ところがカートライト氏ほか数名のエマ女王の友人が、何を思ったか棺をカヴァイアハオ教会に移
第17章ルース王女とパウアヒ・ビショップ夫人PRINCESSRUTHANDMRS.BERNICEPAUAHIBISHOP1884年の春(訳注:①)、エマ・ストリートにルース王女(訳注:②)の瀟洒な邸宅(訳注:③)が完成した。その落成を祝う大掛かりな祝宴が行われ、続いてその晩は豪華な舞踏会も開催された。ハワイ生まれ外国生まれに関わらずホノルルでも最高にすばらしい人々が皆こぞって出席した。だがこの祝宴の後、王女は急病に倒れた。健康が少しでも回復すればとの期待から
第13章補足:カラウパパリリウオカラニはほとんど本書の中でなぜか触れていないのですが、この年の行幸で、彼女はモロカイ島カラウパパにあるハンセン氏病患者たちの隔離施設も訪問しています。それはハワイ王族として初の慰問でした。1881年9月15日という日付は、本章の記述から推測すると、ハワイ島からホノルルに戻り一休みしてすぐのことだったようです。カラウパパをハンセン氏病患者の隔離地としたのはカメハメハ5世でした。1866年の1月6日、男9人・女3人、計12名のハンセン氏病患者が
ホノルルにある総合病院クイーンズ•メディカル•センターその名の通りハワイ王朝のエマ女王とキングカメハメハ4世によって1859年に設立されました。敷地内は緑が多くここが病院ということを忘れてしまいそうなとても癒やされる空間です病院内の通路にはエマ女王とキングカメハメハ4世の写真の他に病院の歴史に関するものも多数展示してあります。立派なコアの木の棚重厚感があります。各分野において最先端の質の高い医療を提供していますAkemi●こちらで商品のご予約、ご質
前編の(解説参照)部分の原文は、以下の通りです。Thekingwasdeaftotheentreatiesofthequeentobeallowedtogodirectlytoherchild,becausehethoughtitwoulddelayhisowndepartureandarrivalatthebedsideofhisboy.ここまで。※11月14日追記ヒロからラハイナへの旅には、皇太子アルバ
カピオラニ女王(1834-1899)EstherJuliaKapiolaniNapelakapuokaka’eハワイ島ヒロ生まれ。父親は上級貴族クヒオ・カラニアナ’オレ、母親はカウアイ島の大王カウムアリ’イの娘、キノイキ・ケカウリケ。1800年代初頭にキリスト教に改宗し、キラウエア火山で女神ペレにキリストの祈りを捧げたことで有名な女酋長カピオラニ(本書の第1章冒頭にも出てくる)の姪曾孫にあたり、彼女にちなんで名前をつけられたという。18歳の時、30歳以上の夫と結婚した。こ
CHAPTERVIIエマ女王QUEENEMMA王位継承争いは、我が一族ケアヴェアヘウル家を王位に押し上げる結果となった。これは純然たる歴史の事実である。国王が後継者の使命を拒まれたため、議会が選挙によって次の王を決定することになった。とはいえ、わすれてはならないのは、ここハワイ(HawaiiNei)には、最も偉大な血筋、つまり玉座につく資格のある一番直系の者が王位につくという不文律があったことだ。議会は一般市民から選ぶことはできず、血筋からいって王家と等しい、もしくはほ
(後編)環境を変えることをルナリロは勧められた。そこでハワイ島への旅支度が整えられた。ハワイ島には高い山々が連なり、高地の涼しく過ごしやすい気候は健康に良い影響を及ぼすことで知られていた。王の侍医であったトルソー医師の助言により、行く先はカイルアに決定。かくして王の一行は当地へ赴いた。トルソー医師の他には、王の侍従長チャールズ・H・ジャッドが仲間に加わった。それから、王の父チャールズ・カナイナ、故カメハメハ4世妃のエマ女王、私の妹のリケリケ王女、パウアヒ・ビショップ夫人
訳註:①ファニー・ヤング夫人(1806-1880)エマ女王の実母、ファニーは、イギリス人でカメハメハ大王の友人であり軍事顧問として重用されたジョン・ヤングの娘として生まれたハパ・ハオレ(白人の血が半分まじったハワイ人)です。母親のカ’オーアナ’エハは、カメハメハ大王のただ一人の実の(父母とも同じ)弟である、ケリ’イマイカ’イの娘ということになっています。つまりファニーはカメハメハ大王の実弟を祖父に持つ女性、というわけで、大変高貴な血筋になります。ところが、ファニーの祖父はケ
CHAPTERIIIカメハメハ4世KAMEHAMEHAIV〜前編〜カメハメハ4世として歴史に名を刻むアレクサンダー・リホリホは、一族の血に流れるありとあらゆる特徴を受け継いでいた。特にカメハメハ家ならではの激しく情熱的な性質が、王の偉業に、また思慮に欠ける行いにも顔を覗かせている。英国国教会がハワイに受け入れられたのは、彼のおかげである。王自ら英語の祈祷書を我々ハワイの言葉に翻訳なさった。クイーンズ・ホスピタル病院を創設したことでも知られている。外交に