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以下、戸矢学『怨霊の日本史――蘇我・物部の抹殺』(河出書房新社、2010年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第2章血塗られた蘇我王朝――物部守屋、崇峻帝の怨霊p.34穴穂部皇子については、登場の初めから同情の余地はまったくないように描かれている。ひたすら皇位を求める傍若無人で身勝手な人物像であるが、そのまま鵜呑みにはできない。このあたりの段については、おそらくは失われた歴史書である『天皇記』『国記』に準じているはずで、必要以上に穴穂部皇子を貶めている
ブログの訪問ありがとうございます東大阪市花園ラグビー場近くの自宅で藍香(らんこう)書道教室を開いている藍香こと正戸恵ですいつも頑張っているあなたへ日本の文化の素晴らしさをお伝えして今を愉しく幸せに生きていきたい日の元の暦、令和6年11月にお働きしてくださる神様は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の息子裏でのお働きされる神様は師長姫(シナガヒメ)御夫婦でお護りくださりますどうぞ宜しくお願いします5月からスタートした保育園のかきかた
『土佐国風土記』8土佐は土左ー遠狭とさその2川崎一水『土左国風土記』(逸文)によれば、‟土左”は‟遠狭”であるという。‟土”は‟遠”であり、‟左”は‟狭”であるという。‟遠く狭い”国であるという意味であるという。しかしそれはおかしい。当時の土左国が大和国である現在の奈良から遠いのはわかるが、けして狭くはない。山が多く平野が狭いという意味らしいが、平野が狭くて山が多い国はほかにもたくさんある。また奈良から遠いのは土左国に限ったことではない。出雲国が
こんにちは✨わたしは土曜日の朝から島根県の石見国に遊びに行っておりました。ここには石見国一宮、物部神社があり、祭神である古代豪族・物部氏の祖神ウマシマジが鎮まっております。2013年のときには、社殿建立1500年記念大祭が行われたので、とても古い神社となります。※物部神社このウマシマジが鎮まる八百山は、縄文時代からの聖地なのです👀ここは平定にきたウマシマジが、「天香具山に似ている」ということで、この地に拠点を決めたのです。なぜ、ウマシマジは島根県の石見に?それは…古代豪族・物部
ご訪問ありがとうございます🍀覗いてくださり、励みになります🐈こちらも見てくださり、ありがとうございます🍴『常備菜の記録☆』ご訪問ありがとうございます🍀覗いてくださり、励みになります🐤こちらも見てくださり、ありがとうございます🐱『【ちいかわ】PREMIUMガチャでスタンドライトG…ameblo.jp一昨日から朝晩の気温が低くて、今朝はここ数日で一番冷え込んだのでは?!朝方に目が覚めましたが、まだ5:57。もう7時くらいかと思ったんです。よく眠れた!と言うことなのか。明け方に夢を見
『土佐国風土記』土佐神社の神高鴨神はアジスキタカヒコネ命八咫烏とも呼ばれる川崎一水土佐国の一宮である土佐神社は志那禰様という。志那に禰を持つという意味である。これは秦氏のことを言うのかもしれないが、秦氏が渡来したのは紀元後三世紀であり、この神社が祀る神はもっと古い。土佐神社の神は高鴨神とも一言主神ともいわれる。高鴨神は加茂族の祖神である。奈良の御所市にある高鴨神社に祀られるアジスキタカヒコネ命である。アジスキタカヒコネ命はアジスキタカヒコであり、アジスキタカヒコ
『土佐国風土記』4物部と"神武東征”川崎一水石上神宮はもとは物部氏の神社ではあったが、物部氏に勝った蘇我氏の神社でもある。そして天皇家の武器庫でもある。その創建は崇神天皇の時代にである崇神天皇七年である。ここには物部の神である「布留の神」が祀られる。そしてのちに述べるが蘇我氏が物部氏を破り、政権を取って以降は「フツの御霊」も祀られるようになったという。「フツの御霊」を祀るのは蘇我氏である。「フツ」は布津主の「布津」でもあり、「芾」でもあった。
『土佐国風土記』3物部と神武東征川崎一水物部川は「物部」と名がつけられているように物部氏に由来する。古事記の話では神武東征といわれるものがあったことになっている。その時代は日本書紀では紀元前660年とされるが、実際には紀元後の西暦50年代であったといわれる。しかしそのときに行われた「神武東征」は神武天皇によるものではなかったといわれる。後に初代神武天皇カムヤマトイワレヒコと呼ばれ、ハツクニシロシメススメラミコトと呼ばれる狭野命が、その兄た
物部神社(石和町松本)〒406-0021山梨県笛吹市石和町松本615https://maps.app.goo.gl/mgc3wmktJukTg...本日やっと参拝させて頂きました☆山梨でも屈指の最高・最強級パワースポットだと思います♫大和朝廷の使者として武内宿禰・稚城瓊入彦命が東方巡察の折、物部氏一族の従者和珥臣麿呂により同二十七年、速日命・可美真手命外物部氏遠祖八神を合せ祀り官知物部神社として創祀された。以後甲斐国府の守護神として
物部神社鎮魂祭ウマシマジと言う神様をご存知でしょうか?古事記にもほとんど書かれておりません。宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)は物部の祖といわれる人物で、饒速日の子で石切神社にも祀られてます。そこでつながった方々がいらっしゃり紐解きのためにも神事に参加させていただくためにツアーを企画しました。出雲に行く前に石上神宮へ。『この剣をウマシマジへ。物部の社に突き立てん』と見えないフツシミタマノツルギを預かり、今回のツアーへ向かいました(宇摩志麻遅の祀った布都御魂剣が、後
こんにちは😃わたしは今日は島根県大田市を訪れましたが、なんと行きがざあざあぶりの雨だったのです☔️ですが、物部神社の手前で見事に晴れましたので、雨上がりの境内をご案内します😆✨※物部神社さて、石見国一宮物部神社は、通称、いっくうさんと呼ばれています。この裏山である八百山には、物部氏の祖であるウマシマジノミコトを祀っております。八百山が、天香具山に似ていたから、ここに宮を建てたそうですが、ウマシマジは、初代天皇である神武天皇に忠誠を誓い、天照大御神から授かった十種神宝を献上して、神武
【日本国記】番外「不輸不入の権」と「ブニヨド」と「仁淀川」土方水月「ブニヨド」という地名があるらしい。その地名の語源は「不入土」らしい。昔、高校生か中学生かのころに荘園制度のところで学校でも習った「不輸不入の権」に関わる土地のことらしい。つまり「ブニヨド」は「不入土」であり、「フニュウド」であったという。それなら「ニヨド」は「ニュウド」のはず。「ニュウド」は「入土」で「ニヨド」とも読むことに。つまり高知県の「仁淀川」は「入土川ニュウドガワ」のこと
『日本国記』「大倭オオワ」の大和族と「邪馬臺ヤマト」の出雲族の戦い限りなく真実に近いアナザーストーリー【81A】ひじかたすいげつつづく「大倭オオワ」の大和族と「邪馬臺ヤマト」の出雲族の戦い―とはわかりにくい。九州には「倭わ」があった。畿内には「邪馬臺やまと」があった。「倭わ」は中国では「倭イ」であった。後に「大和おおわ」と呼ばれる前には「大倭おおわ」であった。その後、「應和おおわ」とも書かれた。その九州にあった「大倭おおわ」は中国読みで
『日本国記』「出雲」の出雲族と「ヤマト」の出雲族の戦いその2ヤマトモモソヒメ限りなく真実に近いアナザーストーリー【79A】ひじかたすいげつつづく孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇に時代が「倭国大乱」の時期であった。第四代懿徳天皇は146年前後に崩御し、第九代開化天皇は189年頃即位したと考えられる。76-66年頃が初代神武天皇の即位した時期であった。開化天皇が即位した189年頃は戦乱が終わった時期である。新しい王として女王を立て
『日本国記』「出雲」の出雲族と「ヤマト」の出雲族の戦い限りなく真実に近いアナザーストーリー【78A】「物部東征」と「倭国大乱」ひじかたすいげつつづく宇佐の「ヒメ大神」や但馬の「息長帯姫オキナガタラシヒメ」の話の前に、出雲と物部の戦いがあったことを述べなければならない。魏志にいう「倭国大乱」である。一般に「倭国大乱」は146年から189年の2世紀後半といわれるが、天皇の代でいえば孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇に時期である。戦乱
『日本国記』「建角身・味鋤高彦」と「オオタタネコ」限りなく真実に近いアナザーストーリー【74A】ひじかたすいげつつづき「建角身・味鋤高彦」は〝神武東征”を助けた〝八咫烏”であったとよく言われる。しかし出雲の口伝では、第一次〝神武東征”はニギハヤヒの子孫である物部ウマシマジによってであり、熊野からヤマトまで戦いらしいものはなかったといわれる。その道案内をしたのは今の堺市の陶荒田神社を創建した「大田タネヒコ」であるという。そしてウマシマジらは磐余
皆さん夜分に失礼花子です。明日は早よからちょっくらデート❤️嘘🤣用事でお出掛けです。今回の遠足で物部神社には時間的にも距離的にも行けませんでした。銀山の近くの神社さんうましまじ様がいる神社❤️行きたい…物部は渡来系とか言われますが古代の半島には倭人が統治する国がありましたからね誤解を呼ぶように簡単に「半島から来た。」なんて言わないでと思います。半島にあった国でも倭人の国ではない国もあります。そこ重要‼️このamebloでも出雲の記事が多くあがっていて
皆さんこんばんは花子です。先程の「うまじ」はちょっと難しかったですね☺️衣笠の話の「うまじ」は地名でしょうが…わたくしにとって「うまじ」は「うましまじ」の事だいぶ前に和魂の微笑む横顔のイラストを記事に貼りました。そしてこれが荒魂…別人のようですね☺️ごめんなさいね難しかったですよね。強くて優しい…❤️皆さんおやすみなさい。花子拝
こんばんはスターシードKEIKOです本日2回目の投稿になります前回記事の終わりに書いた戦没者の御魂鎮神社参拝をする中で護国神社や慰霊碑etc…の流れがありどうしてそうなったのかも加奈子さんのブログ記事にあります加奈子さんブログ『超絶早口ウマシマジ様は鎮魂の神様☆』心と体を元気にするサロンLe'ale'aのブログにようこそ体がどっぷりお疲れの方→リンパマッサージをどうぞ心もちょっといっぷくしたい方→アロマで癒されよう…ameblo.jp今まで全国あちこち神社参拝をする機
ニギハヤヒとカムヤマトイワレヒコの交代劇について。ある場所にコメントに書いたものをこちらにも。これをどう読み解くかですが、みんな、権力者になりたいのかなぁ〜もし、私だったら王になりたいとは思わないし。そして、古代においては、王になることより、一族のレガリアの方が大切だったのかも?それと同時に、一族に伝わる祭祀こそが守るべき最重要項目だったのかも?と思います。そうすると、見えて来るものがあり、私は最近はそっちに興味津々です。ニギハヤヒの息子ウマシマジは物部氏の祖とされますが、ウマシマジは
おはようございます昨日11月21日は英彦山に登山に行きました!久しぶりの山登り気持ち良かったです。無事下山するまで雨も降らず、本当に癒されました。2019年の9月に良縁に恵まれ、その後娘が嫁ぎ、今日明日くらいには孫に恵まれます、私にとって本当にありがたい英彦山なのです。帰りに大宮司とお話出来ました、ちょうど下山の祝詞を奏上した際に気になっていたことをお尋ねしました。奉幣殿の前の灯籠に石切神社の木積宮司のお名前が刻まれていましたが、英彦山とどんな御縁があるのか?と。
懸念されていたお天気。ところがやっぱり😊(絶対こうなる!と思ってました☺️)。今日は、まず、物部神社⛩で正式参拝&歌唱奉納。私は、御祈祷受けるのも人生初(玉串料という言葉も知りませんでした😅)宇魔志麻運命(ウマシマジ)のお墓でも歌唱奉納。涙が出てきました。亀さんが🐢✨その後、三瓶山麓の野原に。1時間位裸足で。何の心配もない✨とても心地いい時間でした。
日本の歴史(Historyofjapan)真・この国のかたちホアカリとウガヤフキアエズは、、、ひじかたすいげつホアカリ追申「邇邇芸ニニギ」の子は「火照ホデリ・海幸彦」①、「火須勢理ホスセリ」①、「火遠理ホオリ・山幸彦」①。火遠理ホオリの子は「彦渚武ヒコナギサタケ」②、安曇の祖「宇都志日金拆」②、尾張の祖「振魂(布留玉)」②。彦渚武命の子は物部の祖「宇摩志麻遅ウマシマジ」③と神武天皇の兄「五瀬イツセ」③。「イナイ」、「ミケイリノ」、「サノ」もいたといわれる
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち明治政府は、、、その5熊本ひじかたすいげつ「熊本」はなぜ「熊本」と名付けられたか?「熊本」は、「クマ元」。元は九州のひとつ肥後国。九州は元は筑前筑後肥前肥後豊前豊後日向大隅薩摩。でもそうならもとは筑紫国、肥国、豊国、日向国、大隅国、薩摩国の六州。筑紫国、肥国、豊国の三国はふたつに分けられた。熊本は「球磨元・隈元」。「くま」は「熊」の字があてられてはいるが、元は
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち神武天皇の父と祖父その3ひじかたすいげつ神武天皇の父と祖父はだれか?古代史研究家関裕二氏はその著書の中で言う。『「日本書紀」は、ヤマト建国にまつわる「何か」を抹殺するために、神の系譜を二つに分け、イヅモを「邪(あ)しき鬼(もの)」を、罵倒したのだ。けれども、本来ひとつの系譜なら、出雲神話と天孫降臨神話は、「つながった話」ではないかと思えてくる。』と。そのことはもう今や
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち神武天皇の父と祖父その1ひじかたすいげつ神武天皇の父と祖父はだれか?先に天皇即位の年代を紹介したが、記紀のいう年代(D列)と神武天皇の先祖を日向とする年代(E列)とを対比させ、さらに神武天皇の先祖を出雲とする年代(F列)とも対比させた表を再度示す。この年代表に示すとおり記紀の年代(D列)は現実的ではない。そして、神武天皇の先祖を日向とする年代(E列)は崇神天皇が最初の
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち神武東征と卑弥呼その3ひじかたすいげつ卑弥呼は倭姫か?ヤマトトトヒモモソヒメや豊玉姫やトヨキイリヒメではなく。天皇の系譜と示す「帝紀(帝皇日嗣)」や政治的事績を示す「旧辞(本辞)」をもとにした「古事記」と「日本書紀」については、政治的編纂の結果が盛り込まれており、信憑性に乏しいのは多くが認めるところ。「古事記」は国内向けで、「日本書紀」は中国向けであるといわれるが、年
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち神武東征と卑弥呼その2ひじかたすいげつ前回の年代表を再度整理し、もう少し詳細にした。日本書紀武内宿禰の伝承から出雲の伝承から1神武天皇B.C.660年AD57年B.C.173年2綏靖天皇B.C.581年
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち神武東征と卑弥呼ひじかたすいげつ日本書紀武内宿禰の伝承から出雲の伝承から1神武東征B.C.660年B.C.25年(AD57年)B.C.173年2綏靖天皇B.C.581年AD15年AD97年
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち武内宿禰の子供とその子孫ひじかたすいげつ「国譲り」の前には神武天皇は奈良の磐余の地に。神武天皇の后である踏鞴五十鈴姫と綏靖天皇の后である五十鈴依姫の兄弟である天日方奇日方は金剛山の東・葛城に。その東・磯城には磯城王家が。そしてその東には登美山と三輪山が。ずっとずっと後には武内宿禰がこの地に。武内の宿禰の子供は併せて九人といわれる。「木氏」は後の「紀氏」。「木氏」の伝承に