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ナマステ〜🙏ジェイシュリラーム🙏こんばんは🌆ゴールデンウィーク最初の三連休どのようにお過ごしでしたか私は3日共お休みではなくヨガ🧘♀️ヨガ🧘♂️ヨガ🧘♀️をお伝えし…自身もヨガ🧘♀️三昧でした〜^_^昨日は東京月一レッスン🧘♀️🧘♂️🧘♀️移動中は…読書^_^というか…ヨガ哲学の学びの時間^_^昨日はかなり集中できました〜^_^ヨガ哲学の学びを繰り返し積み重ね実生活に生かしている中で今フォーカスしているのは…自我良い自我と良く
ところで、禅でも、老師の指導は一対一の対機説法が基本です。禅には「鑑機三昧」という禅定(サマディ)があります。これは指導を行なう際に「あらかじめ相手の機根・能力を観察する為に入る禅定」です。つまり老師は、まず鑑機三昧に入り、相手の真我(仏性)の状態を調べ、それに即した対応を採るわけです。これはウパニシャッドに於けるグルとほとんど同じやり方だといえます。自分の真我は、心の作用の止滅後にアートマンそれ自体の「顧る働き」によって観照できますが、他人の真我は、「鑑機三昧」というサマディ
つまりウパニシャッドの瞑想とは、グルの傍らに座り、さらにグルのまとったサマディの質と同一化するものに他なりません。そして、それこそがジニャーナ・ヨーガなのです。道元は名著「正法眼蔵弁道話」で次のように説いています。「端坐参禅を正門とせり」「自受用三昧、その標準なり」。参禅とは師家についてその傍らに座り坐禅を組むことであり、「自受用三昧」とは受動態(同一化)を本義としています。この事からわかるように、座禅とは(見性するまでは)一人で組むものではないのです。道元はまさしくウパ
「ウパニシャッド」とは昔から「傍らに坐る」という意味だとされてきましたが、30年位前から「ウパース」が語源だと主張する学者が増えてきました。ウパースとは「同一化」という意味です。アートマンとブラフマンを同一化させるのがウパニシャッドの目的なのだから意味的にも合致している、ということなのでしょうが、長年ヨーガを実践している側からすればやや異論があります。私は、この問題を考える時、釈迦と摩訶迦葉にまつわる「粘華微笑」という話が参考になると思います。ある日釈迦はいつもの様に霊鷲山
ところで、サマディには180以上の階梯がありますが、これらは目的別のエネルギーに満ちています。自分の真我は、心の作用の止滅後にアートマンそれ自体の「顧る働き」によって観照できますが、他人の真我は、「鑑機三昧」というサマディに入らないと観照できません。いずれにしましても、前述したように、「観」は「止」を達成してからの話です。蛇足ですが、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師の「魂の科学」によれば、密教ヨーガのクンダリーニ(生気系)覚醒後、「暗性優位の三昧」に入れるとの事です。ヨーガス
ニルヴァーナについて調べていたらこういうイメージが降りてきたので画像作ってみた^^アートマンとブラフマンについて高校時代に考えていたのだけどこれはまさにアデプトプログラムから始まる道の終着地なのかもしれない💡梵我一如とはウパニシャッド哲学で梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であることを表す。古代インドのヴェーダ(ウパニシャッド)における究極の悟りとされる境地で、永遠の至福に到達しようとする思想。宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のもの
全ての経典の中で釈迦の言葉が最も多いとされる最古層の原始仏典「スッタニパータ」の最終章では、「信仰を捨てなければ彼岸(サマディ)に至ることはできない」旨説かれています。佐保田鶴治博士の「ヨーガの宗教理念」には、あるヨーギがどうしても信仰を捨てきれず、見かねたグルがガラスの破片を彼の眉間に突き刺して、信仰心を切り離そうとした逸話も出てきます。(彼はその後ようやくサマディに入ることができました。)要するに、観想や信仰等、余分なものがなくならないと、本来のサマディに入ることはでき
哲学(思想)体系ごとの人格構造の比較哲学(思想)体系ごとの人格構造の比較ヨーガとウパニシャドなどヨーガ哲学、ヴェーダーンタ(またはウパニシャド)における人格の構造とそれぞれの意味(または特質/性質)[意識の領域]1)普遍的な意識の領域:・ヨーガ:イーシヴァラ(īśvara,至高の存在)または特別なプルシャ(puruṣa-viśeṣa)・ウパニシャド:ブラフマン(brahman,宇宙の根本原理)2)個人の純粋意識(真我)の領域・ヨーガ:プルシ
マントラや観想などのデコレーションが多ければ多いほど、本来のサマディから離れてゆきます。彼は同著でさらに「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。」と述べています。30年位前、チベット密教の奥義書「マハムドラーの詩」を読んだ時、正法眼蔵と同じことが書かれていてとても驚きました。「チベットの偉大なヨギーミラレパ」(おおえまさのり訳)に掲載されていますが、「マントラ(真言)やパーラミーター(至彼岸の菩薩行)の行、スートラ(経典)や訓戒の示すところ
また古ウパニシャッドには、真我の観え方の階梯として、①ぼんやりと、②不明確に、③くっきりと明確に、と三段階記述していますが、実際には、それに加えて、真我の輝きの「大きさ」と「強さ」という階梯も忘れてはなりませんし、さらに言えば、垢染の度合いによって、透明度も異なります。ヨーガの瞑想は、とても深遠な世界です。ヨーガスートラの説く「心の作用の止滅、純粋観照、真我独存」は、瞑想の入り口に過ぎません。自分の真我が観えてから、真の瞑想が始まるのです。瞑想というと、何かのイメージを思い浮かべた
「真我は観えるのか?」と、疑問に思う方もいることでしょう。ですが、密教ヨーガならいざ知らず、ウパニシャッドの理想を実現する為に作られた顕教ヨーガにおいては、修行者が当然通過すべき「初歩的な関門」なのです。ですからヨーガの入門書であるヨーガスートラに登場するわけです。通常、真我は、アートマンとプルシャの訳語として使われています。古ウパニシャッドによれば、両者の定義は明らかに異なりますので、もしもこれらを混同していたら、ヨーガの本質は永遠に理解できません。同じだという人は、真我を体験(
上の梵字は私、隆健の筆による、サンスクリット語・般若心経からの一文字です。ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝つぶやきを進めましょう。古代インド哲学、人間の魂とは何か?=『アン』の世界古代インドでは、人間の魂とは何?を、解明する人間哲学がありました。古代インドで発達した人間の魂とは何?を追求したウパニシャッド哲学の世界です。凄いですねぇ~、何千年の遥か昔にこのような哲学があっ
ヨガの古典書と言えば、ヨガスートラ、バガヴァッドギータ、ウパニサッド、ヴェーダ、ハタヨガプラディピカ、ゲランダサンミータ、シヴァサンミータなどが上がってくると思います。インストラクターコース中、毎月、これについて書いてある部分(アサナについて、プラナヤマについて、チャクラについて、クンダリーニについてなどなど)を探してきなさいと言われ、ページをめくりめくり、まるで宝探しゲームの様にやっていた時期があります。そのおかげか、単なる古典書オタクなのか、今でも、古典書の中に書いてあることを探すのが
瞑想というと、何かのイメージを思い浮かべたり(観想)、マントラを唱えたり、集中を繰り返したりと、作為的な努力に専念することだと思っている方が少なくありません。ですが、それはヨーガスートラに於ける「瞑想」とはかけ離れたものです。そもそも「瞑」とは、瞑目というように、「閉じる」「閉ざす」という意味なのです。ですから瞑想とは、「想」つまり心の「相(置かれた状態、表れ)」を閉ざすことを意味します。それはヨーガスートラに於ける「心の作用の止滅」(「ヨーガ根本経典」佐保田鶴治著、1-2)そのものだと
ナマステ〜🙏こんばんは🌇週末の夜…いかがお過ごしですか私はホッとしながらも…明日が朝早いので早く寝なきゃ〜という感じです明日は月一東京レッスン🧘♂️始発で東京に向かいます^_^今日のオンラインレッスンでお伝えしたことをシェアしますね♪今、私がインド🇮🇳と繋いで学んでいるカタ・ウパニシャッドというヨーガ哲学古代ヨガの文献から…叡智・智慧は準備ができている人が受け取ることができるということこれを聴いたときは衝撃でした受け取る準備ができたからこの叡智・智慧が
ウパニシャッドの根本原理は、梵我一如だと言うのはドイツの学者でどうも単純化しすぎている気もする。そこで原典の和訳で該当する部分に当たってみた。「名称がブラフマンであると尊崇する者は、名称の届く限りでは、そこで欲するままに歩き回ることができよう」と唯名論による世界炭酸を示している。続いて「実に、名称より勝れたものがある」として、言語を挙げ「言語がブラフマンであると尊崇する者は、言語の届く限りでは、そこで欲するままに歩き回ることができよう」と語りうるものとしての世界探索をしめす。この要領で、
アランデール師は、個人、地球、太陽、宇宙の4段階のクンダリーニを解説していますが、これは実に適切な分類だと思います。瞑想が深まり、光輝系のクンダリーニが覚醒を迎えますと、肉体感覚が消失し、心の作用が止滅します。その時、真我本来の働きである純粋観照が起こり、自らの真我を観照します。観え方には3段階ありますが、瞑目したままで、太陽のような強い輝きをはっきりと見ることができれば正解です。何とも素晴らしい光なのできっと驚くことでしょう。そしてその無重力の空間に浮かんでいるような真我を自
クンダリーニは生命の根源的な力を指す用語ですが、その真実についてはほとんど知られていません。一般にクンダリーニの覚醒というと光輝系ではなく生気系を指しますが、これは単に体内のエネルギーが大きく動いたというだけなので、ボディとマインドには一定の作用が及びますが、スピリットに対してはほとんど影響はありません。ですから大きな期待をしているとガッカリすると思います。他方、ジニャーナ・ヨーガなどの顕教ヨーガによる光輝系クンダリーニの覚醒は、ヨーガの核心ともいえるサマディに直結します。「クンダリ
ハタ・ヨーガやクンダリーニ・ヨーガなどの密教ヨーガは、広義のシャクティ派に属しますので、様々なアーサナ等を通じて、特に生理的な側面からタパスにアプローチしようとしています。しかしながら、古ウパニシャッドの時代には、中村元博士も言うようにジニャーナ・ヨーガやラージャ・ヨーガに代表される顕教ヨーガが主流でしたので、現在行なわれているようなヨーガ体操の類はほとんど採用されていませんでした。ですからヨーガスートラやそれ以前の代表的な古ウパニシャッドには、チャクラやクンダリーニといった言葉は全
クンダリーニには、質的に、生気系と光輝系の2種類があります。一般に知られるクンダリーニは生気系の方ですが、こちらは熱や電気系のエネルギーとして体感できます。そもそもクンダリーニとは生命の根源的な力を指す用語ですが、その活動のステージは、アランデール師の説くように、4段階にわかれます。ところで、岸本秀夫博士によれば、リグ・ヴェーダの終期頃から散見されるタパス(TAPAS=熱)という言葉が、ヨーガ的行法の前身に深い関わりがあるということです。古ウパニシャッドの時代から、このタパスの制
古代インドの人々が抽象思考を獲得したが、これを表現にする言語はどんな特質があったのだろうか?聖典リグ・ヴェーダが成立しはじめたのは紀元前15世紀頃、これはサンスクリット語の古形、ヴェーダ語によって口承で伝えられてきた。ラテン語の最も古い記録が紀元前7世紀頃なので、相当に先行している。サンスクリット語の語彙を見ると、西欧語の素になった抽象概念がnamanの他にも相当見られる。期待apeksaはexpect、時間kalaはギリシア語kairosに似ている。師guruはそのまま、天divはd
ところで、生気系と光輝系の2種類を比較体験すれば、生気系のクンダリーニがどの程度のものかがわかります。つまり生気系のクンダリーニ覚醒はヨーガのゴールではないのです。それは光輝系をサポートする役割を担っているに過ぎません。結局のところウパニシャッドのゴールとは、この光輝系の第4ステージに他ならず、そこに至る手段としてヨーガの存在意義があるのです。故に私は、アランデール師の著書がクンダリーニについて最も信頼性の高い文献だと思います。よく知りもせずクンダリーニが危険だとか言う方々は、何が何
クンダリーニは、エネルギーの質的な違いから生気系と光輝系の2種類に分かれます。生気系クンダリーニの覚醒を目指す密教ヨーガ(ハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガ等)に対して、ラージャ・ヨーガやジニャーナ・ヨーガのような顕教ヨーガは、最初から「光輝状態の始まり」を目指します。つまり密教ヨーガに依存することなく、直接究極を目指すわけですが、これはラーマナ・マハーリシやクリシュナムルティのような偉大な顕教系のグルがいる事が前提となります。ですので、彼らが没した今、密教ヨーガを活用して準備を整え
「魂の科学」の素晴らしい所は、クンダリーニの覚醒について「生気の上昇」と「光輝状態の始まり」の2種類があると述べている点です。通常のヨガ本では「生気の上昇」を以ってクンダリーニの覚醒と説明しているようですが、実際には「魂の科学」にもあるように、その程度では大したことはありません。それによって得られるものは、暗性優位の三昧と言われる低レベルの三昧に過ぎず、体力は増強されても、マインドとスピリットに対する働きかけは殆ど期待できません。実際体験してみれば、期待が大きかっただけに、ほとん
心身の健康ヘルスケア・パーソナルコーチのリアル・サイエンスドクタ—崎谷です。古代のインド哲学は、現在のサイエンスとは真逆の自然・宇宙の真理が伝えられています。古代インドの三大経典として、『ブラフマ・スートラ』(『ヴェーダーンタ・スートラ』)『ウパニシャッド』、『バガヴァッド・ギーター』があります。8世紀にこの経典をわかりやすく解釈して教えていた人物がいます。サンカラ(ĀdiŚaṅkara)という人物です。サンカラは、オルフェウス
クンダリーニについて巷間のヨーガ関係の書物では、チャクラと共にクンダリーニについての言及を多く見受けます。生命の根源的なエネルギーであるとか、尾てい骨辺りにとぐろを巻いている「蛇の火」だとか、さまざまな説明がされていますが、自らの深い体験をもとに、研究と研鑽を積み重ねた記述は稀だと思います。クンダリーニについては、賛美系から警告系まで諸説様々でとてもわかり難いという声が多くあります。クンダリーニには、そもそも質的に、生気系と光輝系の2種類があるわけですから、当然、その顕れ方も一つではあり
私は、集中とはむしろ「諸感官をそれぞれの対象と結びつける」行為そのものであり、ヨーガスートラの説く制感に逆行するものだと考えます。ですから、ここは文字通り「諸感官を、それぞれの対象と結びつけない」練習をすべきなのであって、集中力を高めると解釈するのは明らかに間違っていると思います。ヨーガスートラのヨーガを完成させるには、「集中」は不要物そのものであり、排除されるべきものなのです。ヨーガスートラの冒頭には次のように書かれています。「ヨーガとは心の作用を止滅することである」(1-2)
制感(プラチャーハーラ)について。ヨーガスートラ8部門の最初の4部門(五禁戒&五勧戒、坐法、調気、制感)は、綜制(凝念、静慮、三昧)に至るための「準備段階」(「ヨーガ根本経典」佐保田鶴治博士)として位置づけられています。前回ご紹介した調気(プラーナヤーマ)は、坐法(アーサナ)に於ける安定を得る為に不可欠な技術ですが、特に「内外の対象を排除したもの」(2-51)という第四の調気をマスターすることが必須となります。ところが「内外の対象を排除」するのは、かなり難易度が高く簡単にクリアでき
さてこのプラーナヤーマですが、結論を言うならば、自身の五気を動かすことで、自分を取り巻く大気のプラーナを制御する技術なのです。ですから「調気は外部的と、内部的と、静止的なはたらきとからなり~」(2-50)という話になるわけです。ところで大概の解説者は、ここですぐに調気法=クンバカと誤解してしまうのですが、それでは「内外の対象を排除したものが第四の調気である」という2-51の句を説明することができません。ですからここは『内外のプラーナを動的&静止的に制御し、さらに進んで、内外の境をなく
プラーナヤーマというとすぐに呼吸法だと想われる方が少なくないと思います。しかしながら佐保田鶴治博士は「ヨーガ根本経典」の中で次のように述べておられます。「調気法プラーナヤーマは呼吸法と同一ではない。」ではプラーナヤーマと呼吸法は何がどう違うのでしょうか?その答えがわかりませんと、ヨーガスートラの境地を体験することはできません。なぜならアーサナにおける「安定」(2-46)の重要な鍵を握っているからです。佐保田先生は「気(プラーナ)というのは体の中と外の世界にある生命のエネルギー