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ナポレオン戦争後、敗戦国なのに、講和会議を仕切る。世界史に残る空前の外交をやってのけたタレイランの個人的力量は卓越していました。その秘密を4つ上げます。一つは、料理と女です。フランス一のシェフを連れていき、毎日のようにパーティーの連続でもてなします。これは情報収集や買収といった意味合いもありますが、文化的優越性を見せつけることにより、交渉における心理的優位を確保しようという意味もあります。ハニートラップに関しては、『おもてなし』です。武士の情けで国の名前は出しませんが、東方のスラブ人の皇帝など
ソフトタイプのチーズで、まず思い浮かぶのはカマンベール❕写真は無かったので、代わりに同じくソフトタイプ(ウォッシュチーズ)のモン・ドール👆。カマンベールは試験の場合、正確にはカマンベール・ド・ノルマンディー。CamembertdeNormandie.直径10.5〜11.0cm高さ3cm重さ250g.固形分中乳脂肪分45%熟成期間最低21日ノルマンド種の牛🐂海洋性気候マリー・アレル1855年パリ・リジュー・カーン間の鉄道開通経木のパッケージ(通気性良し、積み重ねられるので輸
1789年のフランス革命から25年、英仏の抗争は大英帝国の勝利で幕を閉じます。フランスは大英帝国の海洋覇権に挑戦して敗北し、ナポレオン帝政も崩壊します。しかし、ここからが常に不屈の闘志で立ち上がるフランスの真骨頂です。根性、孤高、勝利!フランスは、最後には必ず勝ち組の座を勝ち取ります。このナポレオン戦争の講和会議である、ウィーン会議は我が日本の近代史をも変えます。フランス革命・ナポレオン戦争は、アジアを巻き込みました。オランダなどはナポレオンに踏み潰され、本国は占領されてしまいます。かつての海
横帯に記述されているように「日本の開国は在外皇統の強制指令」という内容の一部を書き出しておいた。2014年12月初版。【大塔政略】私は、後醍醐天皇と文観が極秘裏に建てた国是がことごとく実行されたことを、京都皇統代から知らされました。その国是を拙著は「大塔(おおとう)政略」と呼びます。(p.5)《参照》『地球維新天声会議宇宙の黙示録』監修・中今悠天(明窓出版)《後編》【楠木正成と文観から見えるもの】鎌倉時代末期に建てられた「大塔政略」は、
今日はお昼あがりなので兄にLINE母「お昼、マックいる?」兄『ウィーン会議』?????(@_@;)何ですか?母「どういう事?」兄『レポートてやったからだ』?????(@_@;)ウィーン会議の情報は要らんのですよマック買うかどうか答えてくれ
ナポレオンが1812年のロシア遠征失敗を機に失脚し、その後フランス革命とナポレオン戦争の戦後処理をどのようにするかということを、1814年ウィーンのシェーンブルン宮殿でヨーロッパ各国の代表が集まって話し合うことになった。通称ウィーン会議。議長はメッテルニヒ。敗戦国であるはずのフランスからはタレーランが出席し、辣腕を振るう。実はそのウィーン会議に、ベートーヴェンが少しばかり関与している。ベートーヴェンは1801〜1802年の間に作曲した「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」第6番から8番
今日は、赤松林太郎先生のオンラインセミナー「『古典派の舞曲をどのように理解したら良いのか?』〜新しい時代・古典派の舞曲は、どのようにレッスンしたら良いのでしょうか?〜」を受講しました。「会議は踊る」と言われた背景を初めて知ったよ。金田一少年ばりに「謎は全て解けた!!」と叫びたい!!世界史でウィーン会議とセットで覚えたけど、ただ風刺された言葉で、舞曲と絡んでるなんて思いもよらなかったよ。中高生の生徒ちゃん達に教えてあげよう。こんな風に音楽と歴史と政治を学べたら楽しいよね。だって世界史って出来事だ
近況:天皇誕生日を祝う今日2月23日は天皇誕生日でした。それにしても、勤め人でなくなってから、祝日のありがたみはなくなりましたが、祝日をおめでたく思う気持ちが変わらないのは、実に興味深い気もします。ウィーン:シェーンブルン宮殿ウィーンは、オーストリアの首都で、オーストリアの東部に位置し、チェコ、スロバキア、ハンガリーとの国境近くにあります。ウィーン市内中心部には、ドナウ川が流れています。ウィーンは、その音楽の遺産から「音楽の都」(あるいは「楽都」)と呼ばれています。また、広範囲にわたる歴史
1814年、ナポレオン戦争後の国際秩序を取り決めるウィーン会議が開かれました。『会議は踊る、されど進まず』で知られている会議です。旧大国だった、スペイン・オランダ・スウェーデンなどは大事な会合には招かれず、名実ともに小国に転落しました。英露仏墺普が5大国となります。名ばかりとなっていた神聖ローマ帝国は、哀れナポレオン戦争中にお取りつぶしにされ、オーストリア帝国と名前を変えていましたが、実態は同じで、ハプスブルク家が支配する帝国です。会議が長引く中、亡命先から帰国したナポレオンを、ワーテルローで
となりの戦争好きないばった王様が攻めてきたが、建物も兵士もおじぎしているので弾は当たらず、戦争好きな王もうちの軍隊強いから犠牲者ひとりも出さなかったもんね、と威張って帰っちゃうという。唯一度だけ、映画「会議は踊る」の主題曲。会議は踊る、されど進まず。ヨーロッパの趨勢を議するウィーン会議が先へ進まず、その間のロシア皇帝と町娘との逢瀬を描いた映画です。1分版会議は踊るで佐野洋子さんのぺこぺことなりの戦争好きないばった王様が攻めてきたが、建物も兵士もおじぎしているので弾は当たらず、戦争好
家族の出張お土産。ホテル・ザッハのザッハトルテ。一つがずっしり重たくて、甘さも強め。チョコレートに砂糖が混ざっているから、時々シャリシャリ(福砂屋のカステラみたい⁈)する。あんずジャムの酸っぱさがアクセントになっていて、美味しかった。コーヒーや紅茶のストレートと、ぴったりの味だと思う。
最近は……………ウクライナが正義!!(=゚ω゚)ノ…………で!!…………ロシアを擁護するやつは!!みんなロシアのスパイだぁ~!!ヽ(`Д´)ノ……って、……言うのが!!…………世論の、定番になっているワケですけど(。-`ω-)…………その!!…………保守の中でも!!…………ロシア擁護の急先鋒と言われている!!(実際はちがうけど)…………馬渕睦夫先生の講演会!!………行って来ましたよ~!!ヽ(
ラノベ「双頭の鷲―ハプスブルク家物語―」会議は踊る、されど進まず④会議期間中浮かれ踊ったのは貴族達だけでは無かった。どこかの貴族の殿方に気に入られ、パトロンを得た事で派手な暮らしぶりとなったウィーン娘が登場すると、若い娘達は今度は自分もと社交場に出入りする者で溢れ、売春婦も一稼ぎしようとウィーンの街は賑わった。そんなこんなで一向に進まない会議だったが、ある時、王侯貴族達の間に激震が走った。「ナポレオンがエルバ島を脱出‼︎」ニュースはヨーロッパ中に駆け巡り、人々は震え上
ラノベ「双頭の鷲―ハプスブルク家物語―」会議は踊る、されど進まず③「…では、会議を始めます。え~、赫々しかじかで…」流石にヨーロッパ中の大小様々な国の代表が一同に会する訳だから中々話は進まない。大詰めに入る前に、先ずは2ヶ国、3ヶ国で内容を詰め、ある程度纏まった所で全体が揃って大詰めとなるのだが、この小会談が全く纏まらないのだ。何故か?勿論、各国の言い分、取り分もある。しかし‼︎何といっても社交大好きの王侯貴族の集まり。今夜はフランスのタレーラン外相主催の
ラノベ「双頭の鷲―ハプスブルク家物語―」会議は踊る、されど進まず②オーストリア外相とタレーランは秘密裏に協力し、戦争を避ける為ライプチヒでフランス内閣と会談を持つ事にする。会談は、ナポレオンが作ったワルシャワ大公国の解体を始め、ナポレオンが奪いとった領地の殆どを解放せよといった、フランスには相当厳しい内容だった。当然、フランス側は受け入れず、戦争は避けられない。会戦マリー・ルイーゼが一番恐れていた事が起こってしまった。マリー・ルイーゼの願いも空しく、父と娘は
日本人の中でどれだけの人が」”ブリー・ド・モー”というチーズを知っているだろうか?長年、チーズ業界に携わってきた私の感覚では、チーズに多少興味のある方でもブリー=カマンベールに似た白カビチーズという認識が多いように思う。たしかに同じ白カビチーズあることと、一見すれば見た目も似ていて選ぶチーズによっては、味も似ている。さらに、日本人を混乱させる要因として「ブリー」の表記のあとに60%などの表記があるのを見たことがないだろうか?これはチーズを製造する際に原料乳にさらに、クリーム
1814年、ナポレオンは退位し、ルイ18世が国王に即位して、ブルボン王朝を復活させます。ナポレオン戦争の講和会議となる、ウィーン会議が招集されました。仕切るのはオーストリア外相のクレメンス・フォン・メッテルニヒです。会議がロンドンでもモスクワでもなくウィーンで開かれたのは、ナポレオンを倒す決戦局面で、メッテルニヒが20万の大軍を動員して勝利の立役者になったことと、その見識が認められてのことです。メッテルニヒの嫁は、かのカウニッツ伯の孫娘でエリート中のエリートです。メッテルニヒ本人は、フランス革
プロトコールマナー講師の嵯峨裕美子です。「ハプスブルク家のお菓子〜プリンセスたちが愛した極上のレシピ」を愛読中です。ハプスブルク家のお菓子〜プリンセスたちが愛した極上のレシピ〜第二章エリザベートのスィーツでは、ヨーロッパ各国の君主が一堂に会した「ウィーン会議」でのスィーツがご紹介されています。華やかな晩餐会や楽しい音楽会の席で、参加者の脚光を浴びたのがウィーン宮廷菓子です。ハンガリー王妃戴冠時のエリーザベト(1867年)「ウィーン会議」以降
OBERLAAで注文したこの子。その名も「WienerKongresstorte(ウィーン会議のクーヘン)」。フランスのナポレオン戦争後に開催された、かの有名なウィーン会議で出されたお菓子だそうです。ちなみに会議の会場はシェーンブルン宮殿とのこと。外側はショートブレッド?中にはキャラメル、バター、蜂蜜、クルミが。クルミの香ばしさがいいですねぇ。ウィーン会議といえば「会議は踊る、されど進まず」というセリフが思い出されます。ドイツのオペレッタ映画や宝塚もウィーン会議を時代背景にした
スイス🇨🇭ウィーンバーゼルウィーン会議以降の歴史スイスには、国際的な中央バンクがあるイエズス会粛清リストに名を連ねた面々は、この世にもういない…世界連邦日本国会委員会名簿2017年1月20日現在知った名前がわんさかありますな
本日産経新聞掲載のコラムです。美食と外交は切り離せません!そんな中、お菓子も大きな役割りを果たしてきました。ウィーン会議ではアントナンカレームがおおいに腕をふるい、長く開催されていたその会議に、会議目的でなく、カレームの料理が目当てで来る政治家もいたとか。ら
世界近代史入門(ウィーン体制・ラテンアメリ諸国の独立と七月革命)(ウィーン会議)フランス革命はアンシャン=レジーム(旧制度)を打破して第一・第二身分の聖職者・貴族に対して第三身分の平民が自由・平等の権利を獲得した革命であった。フランス周辺のオーストリア・プロイセンなどの専制君主(絶対主義)国は自国に革命が及ぶことを恐れてフランス革命を抑圧するために対仏同盟を結んでフランスに侵入したので革命の子、ナポレオンはこれらのヨーロッパ諸国と戦った。フランス革命とナポレオン戦争の中で、フランス
演奏される機会が極めて少ないこの曲を聴いてみた。ベートーヴェンが描いた舞台付随音楽。当時のウィーンを想像しながら聴く。当時を再現した、人形劇を思い出した。若い女性の悲劇を描いた劇音楽で、ハープとグラスハーモニカが効果的に使用されている。以下、ライナーノートより引用「プロイセン王室秘書官ヨハン・フリードリヒ・レオポルト・ドゥンカー(?~1842年)は1814年後半から翌15年前半にかけてウィーンで開催されたウィーン会議に、プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の随行員として
さ~て、我が国の隣国の無法な振る舞いを見て居りますと(外交関係に関する)ウイーン条約は生きているのかな?と思う事が続出していますね。そこで、今日は、ウイーン条約に関して少し見て行きたいと思います。ウイーン条約は、外交関係に関する基本的な多国間条約であり、外交関係の開設、外交使節団の特権(外交特権)等について規定されています。内容の大部分は国際慣習法として確立した規則を明文化したものとも言われます。常駐外交使節に関する規則は古くから国際慣習法として確立しており、欧州諸国の間
遂に、『ナポレオン』(GBA)をクリア。初のGBA(ゲームボーイアドバンス)挑戦だった。俺としては中学生の頃、友人のヒデキ(仮名)に借りてやった、最後にプレイした“ファミコン”ソフト、『ナポレオン戦記』(FC)のような“戦略シミュレーション”を期待していた。フランス革命後、混乱したフランス国内をまとめ、ヨーロッパ各国と対戦。ファミコンでの“リアルタイム”戦略シミュレーションを期待したが、やってみると…。“臼”のような化物や、何百年前に死んだ英雄らと戦う羽目に…。史実ではなく、ファ
『高坂正堯』(服部龍二著中公新書)を読む。高坂正堯のお父さんはカント学者だった。お父さんから歴史の話をきいたり『ポエニ戦役』を読んだりした。学者になってから吉田茂論を書いた。佐藤栄作首相のブレーンになった。ウィーン会議も論じている。「会議は踊る。されど進まず」というのはメッテルニヒにとっては批判ではなかった。しかしそういう外交ゲームはもはやなくなった。高坂正堯―戦後日本と現実主義(中公新書)Amazon(アマゾン)73〜5,350円
ウィンナーワルツは19世紀のウィーンで室内で踊るダンスとして流行し、ウィーン会議を通して人々に広まっていった3拍子のワルツです。ウィンナーワルツの主な作曲家と音楽の特徴を紹介していきます。ウィンナーワルツに置ける3拍子は、3泊が均等の長さを持たず、2泊目をやや早めにずらすように演奏され、独特の流動感を生んでいますが、これは当時の演奏習慣ではなく、20世紀中頃に成立した習慣であるとする見解もあります。リズムの取り方ダンスの音楽ですから、早すぎず軽やかに。一泊目、💃🚶
ナポレオン戦争の終息で、大英帝国の覇権は盤石のものになります。その大英帝国に果敢にチャレンジしていったのがこの頃、世界第2位の帝国、ロシアです。アレクサンドル1世の治世から、このロシア帝国の外政を担った人物が、ネッテルローゼです。彼は10代の時に数年の軍隊勤務がしたほか、外交官として生涯を過ごします。ナポレオン戦争期には指令部付き外交官として転戦し、1815年のウィーン会議にはアレクサンドル1世の補佐をし、1816年には外務大臣に就任し、1862年に死去するまで、ロシア外交を取り仕切っていまし
nonbiri@nonbirisan88·2月12日全てはウィーン会議で決定してるね!スイスが永世中立国になったと同時に、日本の開国が決定してるからね日本国民の皆様、明治維新は華々しい産業革命とちゃうぞ~(-_-;)
7年前のオーストリアのウィーンへの旅です。