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それまでの41話に比べて最終話があっさりし過ぎ!と言う声を頂いた(凄くソフトに言って下さってましたが)ので、エピローグとしてもう一話だけ語らせて頂きます。稲垣社長の功績として素晴らしいのは、誰にも平等に、平均的な金額でトップ争いが出来るエンジンを用意して下さった点にあります。自分のテクニックが足りないのか?それともマシンなのか?マシンの中でもエンジンの力が足りないのか?それもと足回りのセットが外れているのか?経験が足りないビギナーは、誰もがその迷宮の中で迷い苦しみお金を無駄にします。で
95年で日産ザウルスJrレースを卒業した私でしたが、後輩がスプリンタートレノAE101をレース用に改造し、トヨタC/SNC(カローラ/スプリンターノーマルカップ)に参戦する事になりました。マーチよりも敷居の高いカテゴリーだったせいか、車作りもより高度で、まともに走らせる様にまでにより時間がより掛かり、戦うどころか完走するのがやっとと言う状態で96年の1年が経過してしまいました。特にエンジンは2度のブロー、1度はECU(エンジンコントロールユニット)の基盤に錆が発生した為ショートし、燃料が噴き
あっという間に始まった冬⇨夏タイヤのシーズン履き替え!お陰でブログを書く余裕が持てませんでした。さて久々の回顧録です。前戦をリタイヤした為に、それまでのシリーズ3位から僅差の5位に落ちて迎えた最終戦。ここで望みうる最高の3位が取れれば、またシリーズ3位に復活出来ます。そんな思いと共に冷え込み始めた11月のMINEサーキットに乗り込みました。練習では47秒台がコンスタントに出ていて、ライバル勢とも戦えそうな感じです。そして迎えた予選は・・・47秒台前半で8台中4位です。さぁ決勝はや
前回のJTCCに続き、第4戦は全日本GT選手権のサポートレースとビッグレースが続き、トップクラスのレースやドライバー達が生で見られるのは嬉しいのですが、メンテナンスや待機がピットでは無くパドックでは、圧縮エアや電気が使えず不自由極まりないのです。さぁレースの展開は・・・と、ここ数日色々と昔の物をひっくり返して結果表等を探してみたのですが、このレースの物だけどうしても見つからないのです。ようやくひとつ分かったのが、リタイヤした!と言う事実のみ。マーチの時はスイスイ記憶が蘇って来るのに、ザウ
7月の第3戦がやって来ました。このレースは、全日本格式のJTCCと言う2.000ccの4ドア車で戦うレースで、トヨタ、日産、ホンダ、マツダに、BMWにオペル、そしてアルファロメオ155を大阪のユニコルセが走らせ、毎レース接触当たり前の大バトルレースで注目されていました。私の師匠影山正彦さんも日産サニーで出走されてます。しかし、レースのスケジュールを見ると、ザウルスJrは土曜日予選の土曜日決勝です!なんと日曜日のJTCC本戦が見れません。まぁ混走させられる位の台数なので仕方ありません。
やっと表彰台に上がれた初戦の2ヶ月後の4月に第2戦がやって来ました。初戦こそ11台のエントリーでしたが、この第2戦は7台に減ってしまっています。練習からそこそこ好調をキープしていたのですが、予選は前夜からの雨が残り路面は濡れたままです。ドライのセッティングまま行くのか?レイン用にセットするのか?タイヤを含め、もう予選が始まるのに決めかねて、ドライタイヤを外しレインタイヤへ!そして2周してピットへ戻りドライタイヤへ!と15分しか無い中で考えられないバタバタ状態です。妻曰く、自信の無さが
今日は、94年から乗り始めた日産ザウルスJrと言うマシンについてお話ししようと思います。1991年に兄貴分のザウルス・レースの弟分として、よりビギナー向けに始まった最も安価な本格的レーシングカーによるレースです。最初は関東圏だけでしたが、その後各地にシリーズが広がって行き、シリーズに組み込まれなかったのは、国内主要サーキットでは鈴鹿サーキットのみと言う幅広いものでした。私が乗った"前期"モデルは、初代マーチ(私が乗っていたマーチ)のエンジンMA10をベースに、キャブからターボエンジンに使わ
結局MINEサーキットだけの3戦で終わった94年の日産ザウルスJr西日本シリーズ。3戦中リタイヤと5位二回のシーズン6位が最終成績でした。それでも95年シーズンに向けてのサポートは、全ての会社が継続していただけた事は、私にとって最大のニュースでした。そして年も明け2月の第1戦がやって来ました。94年のシリーズ1位と2位が卒業?したので、その分上に行かないといけませんが、前年からの残留組4台に加え、ニューカマーが7台増えて11台での争いです。初戦ぐらいはと、気分も新たにタイヤを新調して臨
8月の前戦から約3ヶ月と間が空いた11月の最終戦。その間に何とかトップとの差を詰めるべく頭を悩ませ、ザウルスJrに様々なトライを施しました。その際たるものがアライメント調整です。90年代に入ってカーショップに導入され始めた、4輪アライメントテスターを、私所属のお店も愛媛で2番目に導入したのです。そのテスターを使ってザウルスJrを測定し、小学生の頃から読んでいたAUTOSPORTS誌のレーシングカーのセッティング情報等を思い出し、ネガティブキャンバーを前後共に1°ずつ増やして、コーナーで
ぶつけられたカウルを直して、捲土重来を期して乗り込んだ8月の第2戦。前回のタイヤ組み替えのミスをしない様に流れを大事にします。但し、所有者である後輩が気になる事を言っていたのが引っかかっています、「ストレートが遅い気がします」。まさかイナガキエンジンがもうタレた?そんな事無いだろう。と、何時も以上にプラグを用意して乗り込んでいたのです。そして土曜日の練習に挑みます。アレ?確かに遅い。今までならスリップストリームを使わなくても抜けたマシンに、スリップで付いて行くのがやっとです。コ
本来94年の初戦だったオートポリス戦が流れたお陰で、6月のMINEサーキットのフレッシュマンレースが、私のザウルスJrデビュー戦となりました。日曜日1日での予選&決勝のワンデイレースなので、土曜日は朝から練習に励みます。ただ乗せられた状態で、攻める!所までは行って無いのですが、前年の最終戦のポールタイム、1分44秒台には届きこそしないものの、何度も45秒台に入ったりします。直線に入ると絶対に前車との差を詰めると言う!さすがイナガキパワー。これでマシンに慣れたら44秒台も入るんとちゃう?な
後輩の仕事の関係で、愛媛第1号ザウルスJrのデビュー戦は私が務める事になりました。94年のザウルスJr西日本シリーズの開幕戦は、オートポリス・サーキットで行われます。このレースは、94年から始まる「全日本ツーリングカー選手権」(2.000ccまでの4ドア車で行われ、欧州で大人気だったレースが日本でも行われる事になったのです。ここで有名になったのがBMW318とアルファロメオ155、オペル、ボクスホールです)の開幕戦でもあったので、マスコミやファンが大注目していたレースでしたし、レース好きの私
後輩がイナガキレーシングエリアさんから新車のザウルスJrを引き取って来ました。本当は着いて行ってあげたいのですが、初見の場所や道程を経験するのも一つの試練です。マーチの時に一緒に行った後輩が、その後甘えから中途半端にレース活動を終えてしまった反省から、出来そうな所は敢えて本人にさせよう!と考えを改めたのです。まぁかく言う私にも、まだ見ぬ試練が待ってます。他人のマシンに初めての本格的ミッドシップレーシングカー、そして右シフト。そして初のMINEサーキット。彼が慣らしを兼ねて岡山国際サー
レースを続けるには、当然ながら先ずは妻と話さなければなりません。稲垣社長に大体の交換部品や頻度、それにレース費用を聞くと、大きなクラッシュをしなければマーチと大差無いと言います。サポートしてくれていた友人に話すと、ザウルスJrの方が派手で良い!から、マーチなら止めようと思っていたけど、ザウルスJrなら増額すると逆に喜びます。タイヤはTOYOのワンメイクだったので買わないといけません(マーチの時も買っていましたが、メーカーに頼んで安くして貰っていた)が、マシンが400kgと軽いので、そんなに
私が勤めていたショップには、様々なタイプのクルマ好きがお客さんとして来店していました。その内の一人物静かなS君は、本人の印象とは正反対の、バリバリに改造したシビックSi-Rに乗っていました。そんなS君が93年のある日、「僕もレースしたいんです。やるとしたらザウルスJrが良いんですけど、yariさんが乗っているイナガキレーシングさんも、ザウルスJrを沢山走らせてますよね?。だから詳しい事を聞いて貰えないでしょうか?」と聞いて来ました。間に入って間違えた事が伝わったらいけないので、「S君の事
シリーズ5位になった!と思っていたら、最終戦で3位になったドライバーがレース後の車検で燃料違反(筑波サーキットのガソリンスタンド以外の燃料を使用した為)で失格となったため、そのドライバーの年間ポイントも無効となり、私はシリーズ4位に繰り上がりとなりました。稲垣社長が口癖の様に仰っていた「違反が嫌いで、車検に引っ掛かる事は絶対にしない」が今でも耳に残っています。関東シリーズ以外の年間表彰は、各サーキットで個別に行うのですが、関東シリーズだけは豪華です。品川にある(現在は不明)日産スポーツパレ
前回の表彰台から約2ヶ月。初秋の10月末に最終戦が行われました。またもや夜行バスで乗り込み、マーチを借りての行動です。ホテルはいつもの水海道第一ホテルで、夜はいつもの豚カツ屋さんに行こうとしたのですが、少し流れを変えてみよう!と、気になっていた手打ちラーメン屋さんに入ってみました。残念ながら味の記憶はございません。それよりもレースです。練習の1本目から最終コーナーを積極的に攻めてみて、記憶では25分で3回はスピンしたと思います。そのおかげで最終コーナーの怖さが消えて来ます。そして
93年の初レースを5位+ベストラップで終えて1ヶ月足らずで、次のレースがやって来ました。当時の筑波サーキットで行われる最大のカテゴリーである"グループA“で行われる「レース・ド・ニッポン」です。SCCN(スポーツカークラブニッサン)主催のレースなので、サポートレースは全て日産系ワンメイクレースです。93年にイナガキレーシングエリアがメンテナンスしていた、鈴木学選手(その後ドラフトの司会で有名に)がザウルスで参戦していて、イナガキレーシングの陣地も、スポンサーさんや関係者が出入りして、前回よ
早朝の東京駅に降り立ち、その後常磐線等を使って筑波サーキットを目指します。(当時はつくばエクスプレスは無かった)最寄りの駅にチーム員のHさんが迎えに来てくれていて、乗って来ていたマーチが私の足車だと言います。何から何まで助けて頂いてます。そして筑波サーキットの向かいの、オートルック筑波ガレージに入って行きます。ガレージの一角をイナガキ製がまとめて借りていて、そこにワークスカーや私が送ったタイヤ等が置かれているのです。サーキットへ持ち込む最低限の荷物を積んだら、マーチを押して道路を横切り
1990年代は、今程情報の広がりが早い時代ではありませんでしたが、イナガキレーシングエリアのエンジンの凄さが広がったからか、93年シーズンへ向けて、稲垣社長の元には例年以上のオーダーが入っていたそうです。その煽りを受け、ワークスカーの仕上げが遅れに遅れて、結局93年の関東シリーズの初戦には間に合いませんでした。第2戦は4月でしたが私の方が都合がつかず、イナガキワークスカーのデビュー戦は、3年前までマーチで優勝争いをしていたT選手が、インターバルが開いてるからとマーチBレース(デビューしたばか
予定通り後輩にマーチを売却したら、私の手元に残ったのは92年度の山陽シリーズチャンピオンの盾だけとなりました。それ以上に参ったのが、ポッカリ空いた失望感。去年は今頃こんな事してたなぁ。とか、東京へ向かって走ってたなぁ。とか、止めどなく思い出が溢れて来ました。そんな時、前年私と一緒に山陽シリーズに参戦したものの、後方集団でしか戦えなかった後輩が、急遽イナガキレーシングエリア製のエンジンに載せ替えたい!と言い始めました。93年シリーズまで1ヶ月しかありません。その手配の電話を稲垣社長にした事
いよいよマーチ使い日本一を決める15周のレースのスタートです。中山サーキットのカウントダウン方式の簡単な物と違い、筑波は赤ランプ点灯の後の青点灯スタート方式(これが当時は一般的)なので、それまでの別レースを見て予習をしていました。フォーメーションラップが終わりグリッドに整列し、ブルーランプ点灯でスタート!中山とは違い好スタートが切れた私は、前の10位の選手を交わし、よっしゃ貰った!と1コーナーへ・・・と思った瞬間、斜め後ろに居た11番グリッドのN選手がオーバースピード気味に突っ込んで来ま
レース初日の土曜日の朝イチに、各地から集まったドライバーの為に、ニスモが25分の練習枠を設けてくれていました。さぁ初めての筑波サーキットです。コースインして気付いたのですが、筑波サーキットの路面が何より滑らかな事。色も黒々としていて、舗装し直したの?と思った位です。中山サーキットの路面の凸凹やうねりに合わせたセッティングで大丈夫なのか?と不安が過りましたが、もう行くしかありません。1コーナーは逆バンク気味ですが問題無し!S字は直線的にクリアし、1ヘヤピンにはミドル⇨イン⇨アウトで立ち上
筑波でのマーチ日本一決定レース「マーチ・エキスパート」を含む大会は10カテゴリーのレースを行う大会なので、時代はバブルの末期だった事もあり、全日本格式でもないのに2.5DAYでの開催でした。金曜日から車検だったので、木曜日の午後から筑波入りします。既に地元勢は練習走行に励んでますが、筑波サーキットのライセンスを持ってない私にはどうしようもありません。と、西日本シリーズのチャンピオンである福岡の城野レーシングのマーチが走ってじゃないですか!稲垣社長に聞くと、「毎年このエキスパートに出てるか
山陽シリーズのチャンピオンとして乗り込むマーチレース使い日本一決定戦。正式名称「マーチ・エキスパートレース」。北から北海道、東北、関東、山陽、そして西日本の5地区から猛者が集まり、その年のマーチ日本一を決めるのです。中山サーキットと四国・徳島の阿讃サーキットしか走った事無い私は、筑波サーキットはもちろん初めてです。中山サーキットと同じ2kmながら、ほぼフラットでコーナーと呼べるのは5つだけ!最大の違いは、最終コーナーがマーチにとっては高速コーナーである事。3速全開で入って、100km
前レースから1ヶ月と少ない時間でしたが、打てる手は全て打って最終戦を迎えました。チャンピオンを取るには4位でもOKでしたが、4月以来勝ててない状況でしたから、勝ってチャンピオンを決めて、3週間後の日本一決定戦に弾みをつけようと気合いを入れて中山サーキットに乗り込みました。土曜日の練習で、載せ替えたミッションの感触を確かめます。違和感も無く良い感じです。タイムも14秒フラットが出ているし、これなら行けそうだ。開けて日曜日の本番がやって来ました。先ずは予選です。4月に出したコースレコー
涼しくなって来た10月の第5戦。シリーズも終盤戦に差し掛かって来たので、取りこぼしだけは厳禁です。今回はエンジンオイルも元の「REDLINE」に戻し、プラグも新品の7番と8番を用意して中山サーキットへ乗り込みます。但し、前日の土曜日が親友の結婚式だったので、このレースは練習無しのぶっつけ本番です。自身のエンジンのかかりが悪いのが少し心配ですが、そこは腹を括って行くしかありません。少しでも周回を重ねる為、予選開始と同時にコースイン。8割位の走りでも14秒台が出ています。そして全力ア
意気消沈した気持ちに反し、真っ青な空と路面を焼く太陽が照り付ける日曜日。何も出来ないのですから調子が良くなる訳も無く、予選はこの年初めて2列目となる3位となりました。この結果を知って喜びに湧く広内自動車陣営。そりゃそうです。広内陣営が1位、2位、4位を占めて私を取り囲んでいるのですから。ポールの選手は前回私が最後に抜いたドライバーで、2位は前回のウイナーです。そして17周の決勝レースのスタートです。トップ4は順調なスタートで、団子になったまま膠着状態で序盤は進んで行きます。2位のド
6月に中山サーキットに来られた稲垣社長から、「今までの0.3mmのに変えて、0.25mmと言うヘッドガスケットを使ったので、今のよりも2〜3馬力は上がりそうなんだよねぇ」と言う甘い囁きが有ったのですが、これ以上は参戦費用の兼ね合いでエンジンに注ぎ込む事は出来ません。それにしても飽くなき探究心&向上心だなと感心したものです。さて梅雨のレースの次は、8月のお盆前灼熱の第4戦です。そんなレースの前に、オイルのサポートの話が舞い込みました。まぁ戦績がどうこうよりも、カーショップのスタッフとして働
3周目にコースオフしたものの、幸か不幸か周回数は14周残っています。トップは難しいにしても、何とか表彰台まで辿り着かないと!と追撃に拍車を掛けます。万が一トップのミラーに33番(私のゼッケン)を映せば、ひょっとして自分みたいにミスするかもしれないし。と信じて。それからは、スタンド前の飛び込みて1台(自身へのリベンジも込めて、このコーナーで絶対に1台は抜いてやろうと思ってました)、最終コーナーへの飛び込みで1台、1コーナーへの飛び込みで1台と、セオリー通りに走るライバルを次々にラインを変えて