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足らない、足らない、何時になったら叶うの?私は、何を変えたら良いの?不安だから次の策を練らずには、いられない。罪悪感、厭世感、自己憐憫、恐怖、思考が止まらない、スピリチュアルな探求に疲れて↑みたいになることってあると思う。モンキー🐵マインドとも言われる私達のマインドは、常にあるがままに抵抗している。今に激しく抵抗し、問題を探す。この声は、脳に問題があったりする。脳の扁桃体からストレスホルモンが過剰に出てしまうと、足らない、私は充分じゃないと人は
こんにちは、源ゆうです。心からの祈りと共に、大切なあなたにお届けします。今日は、起きたことをそのまま書いてみようと思います。先日、朝目がさめたときにはっきりと感じたことがありました。「ああ、ほんとうにこの世界は何もないんだな」という感覚でした。自分の肉体も跡形もありません。ほんとうに何もありませんでした。ただ、空(くう)。本当に「空」でした。考えたというよりそのまま分かったという感じです。その瞬間、ラマナ・マハ
こんにちは。MIKAです。今日は水瓶座の新月。日本からは見えないけれど金環日食というパワフルな新月✨変革の象徴である水瓶座。スタートを意味する新月は何を示してくれているのでしょう。早速新月チャートを観てみましょう。水瓶座新月チャートより新月チャートはこちらです。月は自由の象徴でもある水瓶座、至福や冒険がテーマの5ハウスにあります。風の元素でもある水瓶座の自由とは「とらわれていない心の自由」です。私たちは鏡を見た時、殆どの大人は鏡の中に映っているのは「自分」である
ヨーガ瞑想が明かす“世界の本質”―多様性の背後にある唯一の実在インドの聖典『バガヴァドギーター』には次のような詩節があります。第7章詩節13tribhirguṇa-mayairbhāvairebhiḥsarvamidaṁjagat,mohitaṁnābhijānātimāmebhyaḥparamavyayam.これら三つのグナからなる状態によって、この世界のすべては惑わされている。そのため、人々はこの三つを超え、不滅である私を理解しない。第7章詩
アドヴァイタ(不二一元)のシャンカラ説についてよせあつめのインド古代のヴェーダの聖典のうちさいごにつくられたウパニシャッド(ヴェーダのおわりの意味のヴェーダーンタ)の教えに関して紀元後に編纂された、よせあつめのブラフマスートラを注釈した有名な人物としてシャンカラは知られています。シャンカラ(紀元後700年ごろの人物)は一元からの多様な世界の発生について仮現説(つまり幻影論)を説いたと一般にいわれていますが、じつはまだ彼の説の段階では完全な幻影説ではありませんでした。じつは
『マインドは、癒しを知らない。大いなる愛だけが私を癒します。』奇跡のコースをやろうが他の様々な癒しをしても中々楽にならなかった時期、浄土仏教を信仰されているおばあちゃまのお話にとっても癒された事がある。「神様を信じられないとか、煩悩(エゴ)が、手放せないなんて、悩む事が、おかしいのよ。個人の私達は、煩悩を手放す力も信心を持つ力も無いから元々、全部、他力の方から来て頂いてるのよ。自分でやって来たとあなたは、思っているかもだけど、来て頂いてるのよ。全ての
こんにちは。ともだ未佳です。今、東京は31°・曇りなんですけど30°超えてるのにもっと暑い日に比べたらちょっと楽。気温も反応も思考も感情も変化して流れていくもの、ですね。今日は水瓶座満月🌕早速満月チャートを見てみましょう。満月チャートより今日の満月チャートはこちら。自由と平等の象徴である水瓶座にある月は前回の獅子座新月に引き続き「自己像」「私」がテーマの1ハウスにいます。同じく1ハウスには破壊と再生の星、冥王星がいて双子座の天王星(革命の星)牡羊座の土星(生き
完全に「イマココ」に在ると、個としての「私」はいなくなります。そこには、純粋な「現実体験」とそれをただ観察している「意識」のみが100%一致して存在しているだけです。これが私だ、私が〇〇している、といった「私」がなくなったらどれだけのスペースが生まれるでしょうか?「個の私」という存在は体験の器です。そこを通っていく体験そのものを私たちは「私」だと分離させ、認識しているに過ぎないのです。生きている限り肉体そのものから完全に自由になることはできませんが、「私」という制限さ
すべてのジャッジメントを手放しただありのままでありなさい。思考が出てきたらただその思考を「見つめ」なさい。思考そのものになるのではなく。感情が出てきたらただその感情を「見つめ」なさい。感情そのものになるのではなく。行為が生じたらただその行為を「見つめ」なさい。そのときあなたはその行為そのものである。常に真我というスクリーンを忘れてはいけない。そこに永遠の至福と安寧があるのだから。あなたはいつでもそこに還れるのです。なぜなら、それがあなたそのものだから。あなたが体験す
あなたはいつも、幸せで在りなさい。この世に1人しかいないのだから。あなたという神の通路はいつでもクリアにしておきなさい。あなたはいつも、1人でいなさい。世界の中心に1人で立つのです。孤独を恐れず、無理解を恐れず、ただ1人で在りなさい。あなたはただ、まっすぐ自分だけで在りなさい。隣の人は幻想です。あの言葉は幻です。あなたの中に響くあなただけの言葉を常に信じ続けなさい。きっといつか、あなたにはわかるでしょう。この世界はすべて、あなた自身なのだと。勝手に、1人で、います
私たちが経験するすべては常に真であり、確実な「ある」です。ない、もある。何でも、ある。すべての現象は対等で同じ価値。良い悪い、正しい正しくない、そんな二元論もまた「真」である。この「真」というのは、正しい、正しくないという意味ではなくただ「ある」ということ。あるがままにすべてがある。どれも同じくらいのもの。価値、という概念もあり、価値を超えた概念もある。マインドもあれば、意識もある。思考もあれば、感情もある。そのどれもが対等に存在する。その「場」がわたしやあなた
私たちが生きている現実は、時間も空間もなくただの「真なる点」です。私たちはその「真点」を常に体験し続けています。未来は思考の中にしかなく、過去は記憶の中にしかありません。そして、その思考や記憶を体験するのはいつだって「今ここ」なのです。未来のことを考えている「今」や過去のことを想う「今」を体験しているに過ぎないのです。「今ここ」しか存在しないのだから法則、というものも記憶や思考の中にしか存在しません。法則が存在するためには必ず時間の概念が必要となりますので。法則
留まり続けることどこにも行かないこと身体は動いても何もしないこと言葉を発しても何も言わないことここにいることそこにいてもここにいること
変えなきゃいけないものなんてない問題なんて思考の産物実態のないもの問題なんてない本当に"変えなきゃいけない""良くならなきゃいけない"そんな努力なんて必要なかった本当にそうしてるからどんどんと分からなくなっていく抵抗するから否定するから逃げようとするから苦しみはますます肥え太り大きくなる♢♢♢起こることに意味なんてない言葉に意味などない単なる記号それは真実ではない真実を指し示すことはできるかもしれないけど決して真実ではない真実だと思い
(意識のまとめ)意識について受動意識仮説で取り扱われている意識というのはなんらかの程度のある注意意識のことをさしているすなわち最低限の注意意識(それがなければ救急車をよばれることになる)が受動意識仮説における意識であるこの意識というのは、魂側の意識にとっては、魂側の意識上にあらわれる投影へのアクセスポイントになる日中の投影がおわり、睡眠の夢の状態にはいると夜の夢(この次元も投影)の身体のなかの注意意識機構に同様にアクセスするそして両方の次元(投影)が休んでいるとき
純粋なる気づきのままにこの現実で生きていく、という在り方を実験中です。純粋なる気づきの場はエネルギーそのものであり、方向性(秩序や形)はまだありません。理性でとらえられるものではなく、感じられるものでもありませんが、たしかにある、とわかるものです。思考と思考の狭間、なにも考えておらず、感じてもいないその瞬間にその姿が現れます。マインドフルネス的な瞑想をするのはその状態を得るため、だと思われます。何かに極限的に集中した状態も、ある意味その空の状態といえますね。我が完全に消え去
ノートの図のポイントは魂の下にかいてある補足文ですねこの補足が救済の運命のパーフェクトを暗示しています
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→非二元・スピリチュアルセラピスト中野真作さんと秀峰さんとの鼎談このブログでも度々お話ししているように、シャンカラなどの古典的非二元と現代の非二元(ネオアドヴァイタ)は異なる視点を持っているので、その辺のギャップをどう埋めていくかは今回の裏テーマでもある。現代の非二元でよく聞く言葉、「私はいない、個人はいない」「全自動」「思考は悪い」まあ、それは言葉として、そのリアリティをどこまで追求できるのかは興味深い。「個人はいない
不二一元論を説いて、世界にバガヴァット・ギーターの解釈を広められた初代シャンカラーチャーリヤ赤い衣をまとってるこの方、見たことはあるでしょうか。私はこのシャンカラーチャーリヤ作詞のバジャンが好きでたまに歌っているのですが、この方の教えでバジャ・ゴーヴィンダムをシュリー・スワミジがテレビで解説されているのでそちらを翻訳しましたのでぜひお読みください。日常生活に関連した霊的教えは、どんな方にも役立つものだと思います。ブログ|シュリー・スワミジ日本公
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→解脱について岡本このカイヴァリヤ(独存)は『ヨーガスートラ』で説かれているラージャ・ヨガの目的でもありますよね。リタカイヴァリヤっていうのはどういう状態なんですか?岡本カイヴァリヤはプラクリティから切り離されてプルシャだけが残ることで、いわば人間の死です。ここで「プラクリティは活動を終え」と書いてあるように、生命活動は終わります。そして、「この25の原理に習熟することによって、誤りから完全に離れることの
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→鑑賞者の視点岡本それで、二元論は『サーンキヤ・カーリカー』という書物で説かれているわけですが、この思想の特徴はプルシャ(純粋意識)とプラクリティ(根源物質)の二つの根本原理と、プラクリティから展開する23の要素を合わせて、世界を25の原理で説明しているんですね。この二元論については今回のお話しの主題ではないので詳しく説明しませんが、先ほども説明したように、見る者(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)に分かれていて、見
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→一元論二元論リタヨガをやっている人は『ヨーガ・スートラ』とか『バガヴァッド・ギーター』を読むことが多いと思うんですが、それらも難しいですけど、ウパニシャッドもまた難しいですね。岡本そうですね。ブラフマンは正直説明しずらいですよね。それは体験できるようなものではなく、また、言語を超えたものなので、それ自体を表現しようとするとどうしても矛盾した言葉が並んでしまい、混乱させてしまうというのは一つの問題です。そこで、まずは
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→不死の存在岡本次は『カタ・ウパニシャッド』を見てみましょう。アートマンは知性そのものであり、生まれもせず、死にもしない。これはなにものからも生じなかった。また、なにものにもならなかった。これは、生じることも滅することもなく、常にあり、永遠のものであって、肉体が死にゆくときも、死ぬことはない。もしも、殺す者が殺そうと思っても、また、殺される者が殺されたと思っても、両者は共に真相を知らないのである。これは、殺さず、殺
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→万物の根源岡本では、『ムンダカ・ウパニシャッド』を少し見てみましょう。現れたものであり、隠れたものであり、また、心臓の奥に動いているものと言われる、これは偉大な基底である。動くもの、息するもの、瞬くものはそこに安住している。これを有なるもの、無なるもの、望まれるべきもの、認識理解のかなたにあるもの、生きもののうちで最高のものであると知れ。かの輝けるもの、微細なものよりもさらに微細なもの、諸々の世界および諸々の世
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→ヴェーダーンタとウパニシャッド岡本それで、非二元の話しをヴェーダーンタから始めていきたいんですが、ヴェーダーンタは六派哲学の一つですが、ヨガ系の人でも知らない人が多いですよね。リタ私もヨガは分かりますが、ヴェーダーンタはあまりよく知らないです。岡本簡単に解説すると、紀元前1300年ぐらいにアーリア人がインドに侵入した過程でバラモン教を作り上げて、先住民のドラヴィダ人などを宗教的に支配していく流れがあるわ
クラスや講座のご案内、お知らせなどはこちらから→非二元とは何か岡本非二元とは何かについてはいくつかの考え方があって、まず基本的なものは先ほどお話ししたアドヴァイタ・ヴェーダーンタですね。これは二元論を否定した一元論の体系で、ブラフマンと言われる一者からあらゆるものが展開しているという思想です。それで、もう一つは仏教にも不二と呼ばれる体系があって、それは『維摩経』という一世紀頃の大乗仏教の主要な経典で説かれています。その内容は、「善も悪もない」とか、「涅槃(至福の
意識、「私は在る」という実存の感覚、夢をみずに寝ている状態に在るもの。これらが私たちの本質である、と考えられているがこれらも「現象」にすぎずそれ以上の意味は為さない。存在は現象であり、変化も消滅も現象である。意識も現象であり、空(くう)の状態も現象である。常に存在するのは単なる現象でありそれに本質的な意味はなく、ただ「在る」から「在る」だけのこと。現象とは状態、とも言い換えられる。意識も状態のひとつである。「在る」というのは所有していることでも行為でも、起こりでもなくた
「私」が体験するすべて、つまり肉体によって得られた経験も思考も、感覚も感情も気分も、ありとあらゆる全ては「わたし」という意識の中で自然にそうあるべき姿で発生し、変化し、移り変わり、終わっていく。どんなものごともできごとも、意識という大海の中で起きた「ただの波」のようなものにすぎない。波には色々な性質がある。それらがあまりに精巧にできているから、その波一つ一つが分離して独立して存在しているようにも見える。でも実際は全て同じ「波」という質のもの。どんな波にも違いはあれど優
最近やっと「自分」というものの性質のままに生きられるようになってきた気がします笑私は「分析」が大好きな人間ですが、それを使うところが今までなんか違ってた自分の思考、能力、特性という方向ばっかりに目を向けていたけれどどうやら「分析」は「外側」に使う方がいいみたい。(のめり込む、というわけではなく)あくまで私の場合。自分の内側に入り込んで分析するんじゃなくてぜーーんぶ「引き」で視て、感じる方が私にとっては楽で気持ちよくて軽い!私のプロセスでは自分が生きやすくなったのは「私」