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1943年アッツ島の戦いひとつ、串刺し・火あぶりでアッツ、アッツと熱い!ひとつ=1串刺=943アッツ=アッツ島の戦い蚊のフランソワーズさんの前世の赤ん坊時代の物語です。厳しいおじいさまの部屋を滅茶苦茶にしてしまったフランソワーズさん、どうなってしまうのでしょうか。
80yearslater,relativesbearemotionalscars|NHKWORLD-JAPANNewsOneofthelesser-knownbattlesofWorldWarTwooccurredjustoffthecoastofAlaska.TheJapanesearmyoccupiedAttuIslandin1942.Thefollowingyear,morethan26-hundredJa
街に買い物に行った際にハンバーガーを食べたと前の記事で書きましたが、フードコートはこんな感じでした海外らしい派手なお店が多くてとても楽しかったです。ピザやハンバーガー、なんでもありました!5番街モールクチコミ・アクセス・営業時間|アンカレジ5番街モールを実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミサイトフォートラベルで5番街モールや他のショッピング施設の見どころをチェック!5番街モールはアンカレジで11位のショッピングセンターです。4travel.jp泊ま
アラスカは都会過ぎず自然が沢山で気候も過ごしやすくとても良い街でしたホテル付近の風景とってものどかで夜も騒音とかも全くなく、木々が多くて気持ちい所でした。ホテルから少し歩くと街に!ダウンタウンがあります。モールがあったり、キッチンカーがあったりかなり賑わっていました!前回行った時は全日天気が良く毎日お散歩日和な天気でした。アラスカのイメージはオーロラとか寒いなイメージでしたが、7月はかなり暖かく日本と違いカラッとしているのでジメジメがなく感動しました(笑)です
この日はアラスカで有名なキングサーモンをいただきました!キングなだけあってとっても大きい、食べ応え抜群。ステーキと変わらないくらいボリューミーでした。身もふわふわでとっても美味しかったです!ベリーのタルトも食後にいただきましたまたしてもどこのお店なのか分からないのが申し訳ないです、、、アラスカに行った際はキングサーモンが有名なのでぜひそしてこれはアメリカに行ったら必ず食べたいハンバーガー!我慢できずにアンカレッジの五番街モールに自由時間で買い物に行った際に食べました
アンカレッジでは和食もいただきました〜!まさかアメリカで湯呑みでお茶いただけると思いませんでした。やっぱり温かい日本茶はホッとしますね〜。父が飲んでいたアラスカビール!アラスカン・アンバーと言うらしい。アラスカ州の州都であるジュノーにある、アラスカン・ブリュワリーで造られているアラスカのローカルビールらしい!当時は未成年だったので大人たちが飲んでるのを見ていました。次行ける時は飲みたいそしてお食事!天ぷらでした〜!結構本格的な和食御膳。日本茶に続きまさかアメリカで
違う土地に行った際に楽しみなのが食事ですよね。今回はアラスカや行く道中で食べたものをご紹介〜!前回はデルタ航空でシアトル、アラスカまで行きました。これはシアトルに行く際の夕食です、5年前のことなので食事の内容は覚えていません、、、(笑)ですが美味しかったことは覚えています!笑量もそれなりにあるので女性の私としては満足な量でした!下の写真は父が飲んでいたお酒です。長距離の際はフライト中に結構な量飲んでる方が多かったですね〜!シアトルに着いた際に食べたヨーグルトさすが海
前回はアラスカでの慰霊祭の話をしたので今回はアラスカがどんな所だったかのお話を前回は平成30年7月にアラスカに渡航しました。新千歳→成田→シアトル→アンカレッジ5日間の予定ですが2日くらいは空の上でした(笑)そしてアンカレッジは日本との時差なんと-17時間!日本が2日の13時だとしたらアンカレッジは1日の20時です。これだけの時差があると一緒に行った方の中にも時差ボケが凄い方が沢山いました。私は自己流の時差ボケ対策でなんとか持ち堪えましたが、アラスカに着くまでが本当に長旅で
前回の投稿で札幌での慰霊祭のお話をしましたが、5年前の2018年にアラスカでの慰霊祭が執り行われました。なぜアラスカなのか?と思う方もいるかもしれませんので、そこからの説明を現在アッツ島は無人島となり、上陸も困難になっています。そのため一時的に遺骨を埋葬していただいた、アラスカ州アンカレッジのフォートリチャードソン国立墓地が現状としてアッツ島に一番近い場所。基地内に慰霊碑があります。現在は木製ではなくなっていますが、5年前まではこのような木の慰霊碑が建っていました。
5月29日はアッツ島で玉砕の言葉が使われた日です。そのため毎年5月29日には札幌護國神社さんで慰霊祭を執り行っています。今年5月29日は平日だったため、前週の28日日曜日に執り行いました。当日は予定していた人数を上回り40名ほどの方が参列してくださり本当に感謝しています。昔から慰霊祭には参列していますが私が小さい頃は物凄く少ない人数でした。それでも神社さんが毎年執り行ってくださり、慰霊の会発足後、会長を中心に沢山の方からのご協力のおかげで令和5年にはこんなに多くの方に
産経新聞(5月15日)https://www.sankei.com/article/20230515-VODI5CT2INMR5B55B7RFW3N23M/北海道新聞(5月15日有料)https://www.hokkaido-np.co.jp/article/845851/毎日新聞(5月24日)https://mainichi.jp/articles/20230524/k00/00m/040/089000cNHK北海道ニュースWEB(5月28日)https://www3.nhk.o
前回のひいおじいちゃんのお話の続きひいおじいちゃんがどんな人だったのか、当時私は小さかったのでひいおばあちゃんに聞くことも出来ず大人になってしまいました。でも周りから話を聞く限り、曾祖父母はとても仲が良かったんだろうなと思います。こう思う1つの理由としては小さい頃の不思議な体験です。私と母がある日でかけていました、どこに出かけたのか今では母も私もよく覚えていません。でもいつもなら午後に神社やお寺には絶対行かない母がたまたま近くまで来たからと「札幌護國神社」さんに立ち寄りました。札幌護
今回は他のSNSでは書ききれていないことお話しします。私はアッツ島戦没者の遺族にあたります。西村正義はアッツ島で玉砕しています。会長にとっては祖父、私にとっては曽祖父です。会長からのお話はまた今度に、今回はひ孫の私のお話を。私が生まれるずっと前に亡くなっているひいおじいちゃんに私は会ったことがありません。でも、ひいじいちゃんの奥さんは私が幼稚園に入る前まで元気に過ごしていました。私のとっての曽祖母、ひいおばあちゃんですね。だからおじいちゃんは会ったこともないのに私
札幌を中心に活動しております「アッツ島戦没者慰霊の会」会長・西村浩一(ひろいち)慰霊祭開催など様々な活動を行っております。今年でアッツ島玉砕から80年となります。節目の年ともあり、TVや新聞で取り上げていただく機会が増え沢山の方からご連絡いただいておりますことをきっかけにもっとこの活動が広まれば良いなと思いSNSを開設いたしました。アッツ島のこと、活動の報告沢山のことを報告していきたいと思っています。SNS管理は娘のきょうこが管理しております!こちらのブログにコメ
皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦したアッツ島の戦いをご存知でしょうか?この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。日米間の交戦は主としてハワイ・真珠湾から始まり南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・アリューシャン列島のひとつ。.なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、これはその前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻略し
連日、昼間20度を越える暖かい日が続いています。昨日は今年初の扇風機活動日となりました。近くの珈琲屋さんでは桜より先にチューリップ🌷が咲いていました。我が家にも春を呼ぼうということで、前から気になっていた花を植えました。アッツさくらです。前々から、この花の名前が気になっていました。アッツとはアリューシャン列島の第二次世界大戦の時に玉砕した島という記憶がありました。はるか北のベーリング海の寒いところに咲く花だとばかり思っていました。調べてみたら、南アフリカの山岳地帯が原産なんだそうで
実はTwitterにもアカウントを持っているのでしてフォロワーさんのツイですが8月3日必ずリツイートするツイートがありまして自分は。どうするだろうかたぶん・・・差し出すにしろ隠すにしろ・・その後・・・・生き物は飼わないと思う。
1942年6月上旬、ミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン方面のアッツ島・キスカ島を占領しました。しかしミッドウェー島攻略は失敗し、アッツ・キスカ島は孤立することになります。敵は両島を放置するはずもなくアムチトカ島に飛行場を建設しアッツ・キスカへの空爆を開始。また駆逐艦等の艦砲もあり、アッツの飛行場建設は進まず、同海域の制空権は奪取できません。5月12日、敵はアッツに上陸を開始。アッツ島守備
伊号潜による敵国本土の砲撃と言うと、1942年2月23日に伊17によるエルウッド石油製油所への砲撃、6月20日の伊26によるバンクーバー島への砲撃、21日の伊25によるフォート・スティーブンスへの砲撃が良く知られていますよね。ところが、伊号潜が敵国本土を砲撃したのは米国だけではないんですね。豪州もまた標的となっています。1942年5月31日夕刻、シドニー沖まで静かに進出した5
玉砕:玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。国民に対し報道するにあたり、“全滅”を使用すると不安等をあおりかねないという報道統制から“玉砕”に置き換え、「潔く散った」「武人の誉れ」などの戦意高揚を図ろうとした施策の一環。アッツ島の玉砕以降、太平洋戦線の各地において頻繁に使用されることとなります。アッツ島の戦いは、1943年5月12日に敵の上陸から、29日日本軍
皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦したアッツ島の戦いをご存知でしょうか?この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。日米間の交戦は主としてハワイ・真珠湾から始まり南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・アリューシャン列島のひとつ。.なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、これはその前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻
映画「キスカ」。奇跡の無血撤退作戦を描いた映画で海軍が主役であるが、キスカ島には陸軍が多く居た。隣の島、アッツ島が最初の玉砕と言われているが・・・・ニューギニアでは既に玉砕戦に・・・・アッツ島への救援が出来ない代わりにキスカの将兵は撤退させたい。そんな中で行われた霧に紛れて撤退作戦を敢行した。本当に奇跡であり、しかも様々な偶然というより奇跡のような話が幾つもある。キスカから撤退した将兵は終戦直後の占守島戦で戦うこととなるのは別の話である。戦後、キスカ島
1943年5月29日第二次世界大戦のアリューシャン方面の戦いでアッツ島の日本軍守備隊が米上陸軍の攻撃で全滅し、アッツ島の戦いが終結した日。昭和天皇御製昭和三十四年国のため命ささげし人々のことを思へば胸せまりくる昭和18年5月12日アッツ島奪還の為に上陸せり米第7歩兵師団2万の挟撃を受け、山崎部隊は孤軍奮闘、緋想壮絶、鬼神も泣飾らん熾烈な戦闘により寡兵よく大敵を制し、昭和18年5月29日「コレニテ無線機破壊処分ス」の電文を最後に2600名悠久の大義に殉じたり。生
昭和17年の今日・日本時間の6月5日は「ミッドウェー海戦」で、帝国海軍緒戦の立役者、南雲機動部隊の航空母艦4隻を喪失した日です。航空母艦「赤城」(引用:Wikipedia)(Japanesemilitary-U.S.NavyNationalMuseumofNavalAviationphotoNo.1996.488.037.009;USNavyphotoNH73059.,パブリック・ドメイン,https://commons.wikimedia.org/
皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦したアッツ島の戦いをご存知でしょうか?この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。日米間の交戦は主としてハワイ・真珠湾から始まり南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・アリューシャン列島のひとつ。(↓)なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、その前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻略