ブログ記事98件
こんにちは、Midoriです。私達人間は、ハッピーな出来事が起きると喜びその反対は落ち込むという様に出来事、物質的なものに振り回されて生きています。落ち込みたくない、つまり負の感情を感じない様にハッピーな出来事や物を求め続けコントロール、執着しています。今はいのちの活動があるだけなのですが、そのエネルギーの流れを滞らせてしまうのが、思考でありそのコントロール、執着です。いのちは常に良くなろうとする自然のエネルギー、自然治癒力です。自然は循環するいのちのエネルギーですが、この循環
末娘が沖縄に修学旅行にでかけいつもより静かな3日間うまい具合に懇談会で給食もお休みでしたさっそく娘のシーツをひっぺがし部屋に散らばるゴミを回収しその勢いで居間のソファーの下や家じゅうの排水口を磨き上げ気が付くと夕方までひたすら掃除をしていましたいつもよりちょっとだけすっきりした部屋なかなかいいものですむこうは今頃お土産でも物色している頃でしょうか2泊3日なんて本当にあっという間早朝のお弁当作りから解放されてすこしゆったり気味に始動する朝さぼりがちな瞑
音を聴く、耳はマイクでしかない。その音は私(思考)の中で消えていく。スマホを見る、スマホだけにとらわれていたら、何も見えないし、生活出来ない。すべては私の中で現れては消え行く。その私(思考も含め)という認識さえも、都度、消えていく。その場かぎり。だから、今、今、今だけ。だから、私はいない。すべては生命(全体)の現れにすぎない。
アップダウンの繰り返しがなぜおきるのか?それは全てにおいて私と常に一体となっているからなんです。誰かの言葉で私は傷ついた私は苦しい、不安、恐れなど全てに私が前提になっているのではありませんか?今、私は気分が良い気分が悪いなどと現実に起こる出来事に左右されあ〜でもないこ〜でもないそんな時に私は考えてるな〜ではなく考えや気分が湧いてきてるな〜と流しこの場でじ〜っとするかぼ〜っとするとなんと言う事でしょう🎶ここにはもうそれはありませんあるのは事実だけ
日常生活は地味地味ですが菜穂さんに触れることによってリラックスだったり喜びだったり落ち着きだったり癒やしが起きてきます。ただ、菜穂さんからよくシェアがある「わたし」という存在はそれだけで生きることができない。ので、まあ、現実は色々です(現実がよくなるための教えじゃないし)菜穂さんのシェアでよく出てくる「わたし」というのはエネルギー的な何か。だと、伝わってきています。菜穂さんの言う「わたし」を「エゴ」という解釈をすることもあるかもしれないけれどちょっとそういうの
わたしは…いない…って…なに?どいういこと??❓❓❓ずっと…その疑問を持ち続け…わからずにいました形としてのわたしは…確かにここに存在しています。ただ、確固たる「わたし」が…どれであるのか??それが無いのです。手でもなく…顔でもない。頭の中でもないし…全部合わせて…わたしと思って来ました。でも…家族が見るわたしは…わたしがわたしと思っているわたし…ではないことは確かです。家族も何人かいるので…それぞれどう見ているかは違
私から離れたいは、わたしの勘違い。私がリアルだと、根っこからくる勘違い。そして勘違いと理解するわたしは、次の理解へと向かう。どこまでも、わたしからの勘違い。わたしの終わりはタイミングでおこる。そのわたしは生まれていません💗リボン🎀が付いお気に入りの靴👞。
誰かが何かを語る時また文面とかそれが知識からの言葉なのか体感からの言葉なのかいつしか"解る"ようになったのだけどもそれはただ"解ってしまう"ようになっただけで特別なことでもなんでもない"特別意識"が勝手に発動して"わたし"を特別にしているのだ…あの日はあの大きな地震の後で銀座のお店も休みになってしまってヒマだし"わたし"は当時住んでいた場所第二京浜辺りを歩いてたんだけどその時突如拡大する意識に遭遇した一瞬だったけどそれは永久に流れているどこに
いきなりだけど…わたしはいない…ってこの感じ…?みえる景色も浮かんでくる思いも何一つ変わらない…けども…ただ浮かんでくるって両手もはなしてどこにも力入れないでそれでも自然に浮かんでくる自然に…夕飯は青椒肉絲にしようとかあと少し進めようとかお腹すいたなとか帰ったら洗濯もの取り込もうとかこっちの方が得だったかなとかいつもの慣れ親しんだ思いが自然と湧いてくるこれはなんにもしなくても自然に自然に浮かんでくる浮かんで来て、そうしようとか
今朝、太陽の光を浴びていたら「私の役目はなに?」とゆう思考が湧いてきた、、笑自我は常に何かに向かわそうとする。「わたし」は常に何かに向かおうとする。笑が込み上げてきた。。笑
忘年会のシーズンですね。知人・友人、親戚、会社の人やお得意さんと……。未だ続くコロナで、今年はどのくらい行われているのでしょうか。ありがたいことに僕には1つも予定がありません(笑)。勤め人やライターの仕事をしている時はいくつかの会に出ましたけど、その日が来るまで妙に重い気分で過ごしていたものです。宴席に着いてしまえばそれなりに楽しめないわけではないのですけど、僕は基本的に「グループ」が苦手なんですね。そんな僕が今も忘れられない忘年会があります。2008年の暮れに自分
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれてありがとうございます。🌿🍎🌿🍎🌿🍎子育てはだいたい思い通りにはなりません。どんな親御さんでも子育てを大変だと感じてます。中には思い通りにならないどころではなく、子供の不登校や、うつ病や、自律神経失調症や、拒食や、昼夜逆転などが原因で親御さんが心を病むこともあると聞きました。子供の幸せを願って努力している親御さんほど、子供が突然学校に行けなくなったり、夜眠れなくて深夜に漫画やゲームに浸るようになったりまともに食事も
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれてありがとうございます。🐝🌳🐝🌳🐝🌳人間が未だかつて見たことがない未知の生き物が日本中の都市部に存在する・・というニュースが流れたとします。シルエットだけ写ってる写真が掲載されたりして。体長10センチぐらいの亀みたいな形でドアや窓が開いてるとすばやく侵入し、人間には見えない死角を選んで移動していると書いてあったとします。その未確認生物が人家に侵入する目的は、「人間にストレスを感じさせる事」だと書いてあってそのニュ
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれて、ありがとうございます。🐧🌲🐧🌲🐧🌲「運命の人」とか「運命の相手」と言う言葉があり、理想の恋人やパートナーを意味しているようです。「運命の人を見分ける方法」などのタイトルを見る事があります。誰にでも運命の人がいると言う考え方があるんですね。だとしても「運命の人」の意味するものが、「わたし」の趣味や好き嫌いを理解してくれて「わたし」が不快になる事を一切しない相手・・という意味であるならば、そういう人は存在しません。
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれてありがとうございます。🌳🌻🌳🌻🌳🌻ミミズも人間も同じものでできてるのに、ミミズに生まれたらミミズというプログラムの範囲でしか世界を知ることが出来ない。人間に生まれたら人間というプログラムの範囲でしか物事を知ることが出来ない。・・・前のブログでは、そういう話をしました。ミミズとして生を受けたら、バッタのようにはねることや、尺取虫のように木の上を歩くことはあり得ません。生き物は最初に定められたプログラムの通りに変
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれてありがとうございます。🌷🐜🌷🐜🌷🐜「私」はもともと生まれてないのだから「自我」は錯覚だ。「自我」は薄めた方が良い・・前回のブログはそういう内容でした。「自我」とは、自分に実体があると思い込み、自分の肉体、持ち物、グループ、権利、子供、趣味、能力、意見などに執着すること・・です。日本には、勝ちか負けか決めたがる人が結構いますが、AさんとBさんの一生を比較してどちらが勝っている負けていると判断する事は不可能です。「勝
あたしはまた一つ大きな勘違いをしていましたこの世は縁によってできていてコントロールできるものは何もない、コントロールするあたしはいない、それは流れる川の流れるままにサレンダーで生きること。でもそのイメージはこれだったの!!流れている「あたし」(カモ)がいる!「あたし」が川の流れに逆らわずに一緒に流れるって感じに思ってましたいないっちゅーのに、やっぱりイメージすると「あたし」がいるんだよねでもそれが勘違いだったあたしは川の中
「あたし」というものにくっついていた名前や身体や思考や記憶、肩書、役割、全部外して最後に「感情」が離れた時、「あたし」そのものもあたしから離れました。「あたしがいない」それが分かった時、同時にせかいも消えましたでも、五感は残ってて五感があたしとせかいをつなぐんですあたしは見ているし聞いているし臭いがするし触れるし食べるって。。あたしがいる、せかいと分離している、と感じる時もあり。でも、昨日ふと「あたしが
きのう、ブロ友のあおいさんから「どこへ行くんですか?」というコメントをいただきハッとしました。試験に合格したりなにかをがんばったりなにかと闘ったりついわたしは力んでしまいます。でもわたしはどこへも行かないし「わたし」さえ記憶や思考の塊で存在していない身体がなくなったらこの思いやこだわりはきれいに消えます。時々思うのはいま居るこの場所にはこれまで数えきれない人間が死んでいったのにその人たちはキレイに消えてしまっているということです。親族とか身近な人であったら
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれてありがとうございます。🍐🐝🍐🐝🍐🐝赤ちゃんだけが自由意志のない「無我」の状態なのではなく誰もがすべて、自由意志を持たない状態にあるんだ・・私の行動は、ただ起きていることなんだ。私がこの事に気がついたのは6年前です。そこに気がついた時はしばらくの間、心が平和で悩みが消えた感じがしていましたが、しばらくすると「私がいる」という感覚がだんだん強まり、すると「このままではいけない」とか「これでは不十分だ」という感じが
「私」はいないのだから、私は何も選択できない。「私」しかいないのだから、私しか選択してない。どっちも正しい。夢わたのセッション「私はいない」なんて当たり前!コレしかないのその先へ(どこへ?(笑))セッション60分/1回×6回お振込みの方で分割希望の方はお申し出下さい(3回分割まで対応しています。)私達が認識している世界とは?非二元のメッセージとは?概念を外す...yumewata.comスタエフの配信達夢見る「私」じゃいられない!|stand.fm
わたしが感じてることそれが世界だ。だから世界は寸分違わず私なのだ。よって私はいないのだ。よって私しかいないのだ。さて、あるのは世界なのか?私がいなければ世界はない。感じるということ、気づくということがなければ世界はない。だから、非二元というのだ。夢わたのセッション「私はいない」なんて当たり前!コレしかないのその先へ(どこへ?(笑))セッション60分/1回×6回お振込みの方で分割希望の方はお申し出下さい(3回分割まで対応しています。)私達が認識している世界とは?非
「あんたのせいだ」と言った人は、あたしの目を見て言ったけど、誰に言ったんだろう?あの人はあたしに言ったけど、あたしに言ったんじゃない。あたしはあの人がそういうのを聞いたけど、あの人が言ったんじゃない。ただ、「アンタノセイダ」という音が、空間に現れて消えてった。。あの人とあたしは同じ空間の中の、一枚のフィルムの中で同じ「アンタノセイダ」という音の現れを感じた。正確には、それしかなかった。それを、あの人が言って、あたしが聞いた、と解釈
最近、よく聞かれるようになった『ノンデュアリティ』という言葉。なんぞ?これ?と思う人。知ってはいるけどいまいちわからんという人。「私はいない」「時間もない」「未来は存在しない」「過去も存在しない」……………ほんまいったいなんやねん!そんな人におすすめです。金森将さんの本『バタ足ノンデュアリティ』むちゃくちゃわかりやすい。理解しようと思うこと自体がノンデュアリティから離れちゃう事なんですがとりあえずこれは難しく考えないでも今、あなたが感じてる「それ」がそ
私というのは全体からイロイロなものをつまんで、今イロイロな事を体験しているのだけどなんかそれが、答え合わせというかそれを、やりに生まれたというかなんかひとまず私ってただただそれを体験しているだけなんだなーって腑に落ちてそりゃ私ないわなってそれが真理かどうかはしらんけど今の私はそれがしっくりくる。私の体はずー---っと細胞分裂していて1分前の私は今の私と違うし3年前の私なんて、全細胞違うわけでしょけっきょく肉体自体が私で
私はいない。誰もいない。これはどういうことか?というと、主語がありませんよ。と言ってるんですね〜。夢わたのセッション達夢見る私じゃいられないメニュー|非二元メッセージに翻弄されてるんじゃない?yumewata.comスタエフの配信達夢見る「私」じゃいられない!|stand.fm夢ワタオリジナルセッション!お申し込みはこちら↓https://yumewata.com/menuノンテュアリティのメッセージに触れ、日々深まりを経験中のmomoyoと
こんにちは夢わたです。夢わた(ももよ&まゆみ)は主にスタエフで非二元や自我システムについての話をしているのですが、なんと実は、セッションもしているのですね!その中で「私はいない」なんて当たり前!コレしかないのその先へ!!というセッションがあります。私達がナビゲート出来る全てを入れていこうという思いのこもったセッションなので、他のメニューと比較すると少々お値段も高く設定しています。ももよもまゆみが思うのは、度々非二元界隈で言われる「
私が考えている。私が感じている。私が行動している。私がやっている。私が聞いている。私が見ている。この「私が」という感じ。おそらく、こういう風に思っていると思う。考えているのが「私」である。感じているのが「私」である。行動しているのが「私」である。聞いているのが「私」である。やっているのが「私」である。この違い、わかるだろうか?先立つものがどちらか?というような視点のシフトといえると思うのだが、この視点のシフトができると、非二元で言われているところの「私はいない」とい
イエスが起こした奇蹟は、聖書によって広く知られている。例えば、耳が聞こえず、話すことも出来ない人がイエスによって、耳が聞こえ、たちまち話し出した話。(新約聖書マルコ7章34、35)ブッダも奇蹟を数々、起こしている。例えば、マハーカシャ(摩訶迦葉)が、ブッダを訪ねて来た時の話である。ブッダが手で、彼の頭に触れただけで、一瞬にして、彼にブッダと同じ悟りが起こった!一方、既に弟子であったアーナンダ(阿難)は、40年もブッダの元で修行をしていたのに、未だ