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心をひらくということは、「なんでも話す」ということではなく、なんでも話せるという「信頼を持つ」ということなんだと思います。実際にことばにして相手に伝えるかどうかはさておき、どうしてもしんどくなったとき受け止めてくれる人がいるだけで人は強くしなやかに生きられる。弱音を言ったり、愚痴をこぼすことが心をひらくということではなく、正直(自然体)でいられることが心をひらいている状態にいちばん近い気がする。今日も「わくわく海賊団」に
じぶんの好きなことをたのしんでやっている人が、いちばんだと思います。たのしんでやるには、好きなことを好きでいることを認めて心地よく受け入れてくれる人が集まる場所にいることが大切です。周囲がなんと言おうとじぶんが好きならそれでいいと考えることもできますが、周囲に理解されないでやっている好きなことと、周囲から認められてやっている好きなことでは、どっちがよりたのしいかは明確です。「水を得た魚」というけれど、じぶんの好きな
評判がいいレストランに行くとおいしい料理が提供されます。そしてそれだけではなく、そこに集まるお客さんたちも、「ここでたのしい時間を過ごそう」そういう意識で訪れています。ですから、服装、ことば使いなど、その場にふさわしい振る舞いでレストランに訪れます。結果として、レストランにいい雰囲気をもたらしています。「ここでたのしい時間を過ごそう」これはつまり参加意識です。レストランでお金を払ったからいい時間が提供されるだろうという
じぶんのことばにしてなにか文章を書いてみると、じぶんがどこにピントを合わせてその「なにか」を見ているのかよく分かると思います。伝言ゲームがむずかしいのは、人それぞれのフィルターを通って解釈された文章というのが、それぞれ合わせているピントがちがうからだと思っています。ハワイと聞いて、きれいな海を想像する人もいれば、買い物天国と想像する人もいる。食事やダンスを想像する人だってきっとたくさんいるでしょう。文章にして書いてみる
なにかを決めるとき、「すべてが完璧な選択はありえない」と最初に決めてしまうことで、納得の選択ができるのだと思っています。どんなに慎重に、どれだけ時間をかけて選んだ答えも、完璧を求めた正解には、必ず不満が残ります。たとえば服を選ぶとき。デザインで選ぶのか、価格、素材、使い勝手と総合的に判断する選び方が一般的でしょう。しかしすべてに完璧を求めようと思えば、短所は排除されることになるわけで、結果として特徴のない平均的な服が選ば
なにがどうなるか予想できない不確実な世の中を生きるうえでは、「打率」より「ヒットの数」を意識してアクションを起こすほうがいいでしょう。打率というのは、凡打との比率のことなので、打率をあげることを意識すればできるだけ失敗を避けます。ですから、不確実な打席には、立たないほうがいいことも戦略としてあるはずです。一方で、ヒットの数というのは、凡打の数は関係ありませんから、打席にできるだけ立つほうがいい。空振りしようが凡打
根拠もなにもないのだけれど、「雨の日が好きだ」という人っておしゃれな人が多い印象です。ほとんどの人にとって、雨はたのしくないものです。濡れるのも嫌だし、髪がボサボサになるし、傘もなんだか邪魔だし、雨の日が嫌という人は多いでしょう。この嫌で避けられないものに対して、「雨の日が好き」と言えるまでに視点を変換できるセンスが、おしゃれに感じる要因かもしれません。傘にこだわる。レインコートを可愛くする。長靴を特別なものにする。
どういうときに、うれしいと感じるのか。どういうことがあると、しあわせか。それを知っておくことは、大事なことだと思っています。ほんとうは責任なんておいたくなかったはずなのに、うっかり出世してしまったとか、バッシングに耐えられる強さを持たずだれもが知っている有名人になることは、周囲から見れば幸福そうであっても、本人はどうかは分かりません。いやならやめればいいと思うかもしれないけれど、こういう類の不幸は厄介で、一度手にするとなか
ほんとうに分かるには、やっぱり少し時間がかかるのだと思います。じぶんで噛み砕いて飲み込んでお腹に力を入れて、もう一度じぶんの中から「出す」という作業をしないと、ほんとうの意味で「分かる」には、たどりつけないのかもしれない。この消化にかかる時間は、おそらく人それぞれちがっていて、あっという間に消化してしまう人もたしかにいるとは思うけれど、少なくとも「食べ過ぎ」というのは、よくないのだと思うんですよね。情報過多のこの時代に、
こんな田舎じゃ夢もみられない。そんなことばを残して、東京へ向かった若者がいたのもいまはむかしでありまして、ネットさえ繋がっていればどこにいてもチャンスはある…そんな時代になりました。本社を地方へ移転する企業もあります。Amazonで頼めば東京に行かなくたってなんだって買える時代になりました。むかしにくらべて地方もインフラが整ってきたけれど、それでもやっぱり東京にしかないものがあります。たとえば、渋谷・新宿に行けば、
なにも「言わない」人は、なにも「思っていない」人ではありません。語彙力がまだ足りない子どもが、なにも「言わない」からといって、なにも「思っていない」わけじゃない。外国に行ったときの(語彙力の乏しい)じぶんの姿を想像すると、「言わない」が「思っていない」と同じではないと体感できます。そして「思っている」ことを、安心して言える場所というのは、これからもっともっと需要が高まっていく気がします。ネットはそういう人の欲望を解放したひ
時間というフィルターは、信頼をあらわすひとつの指標です。昔のものが今に残っているということは、先人たちが「これは残すべき」として、努力した結果だと思うからです。さらにどんなに時がたっても、その時代その時代でそれぞれに「いい」と思わせる「なにか」を持っていたということでもあるわけですよね。長く残ってきたものを注意深く観察してみると、「シンプル」というのがひとつ共通点としてあるように思います。本質以外の枝葉末節をはっきりカット
スポーツの試合を観ていると、たまに「完膚なきまでの敗北」を目にすることがたまにあります。そういう場面を目撃すると、「あそこまできれいに負けると、むしろ気持ちよさそうだな」と思ってしまうんですよね。じぶんのなかの奢りを素直に受け止められる瞬間が、「完膚なきまでの敗北」でしょう。大人になって日常生活をしていて、「完膚なきまでの敗北」を経験することってほとんどないんじゃないでしょうか。むしろ負けないように気をつけながら生活している
子どもはよく親に叱られます。しかし、大人になるとその機会は、途端に少なくなりますよね。新社会人のころなら、まだ先輩が叱ってくれても、じぶんが部下を持つようになったり上の人が少なくなってくるとお叱りは一気に減ります。さらにいまの時代は、逆恨みされる可能性もあって、ますます叱らなくなった気がします。そもそも叱るって、エネルギーが必要ですからね。めんどくさいのです。ということで、一定の年齢を過ぎると、ぼくらはじぶんの
なにをがんばるかは、じぶんで自由に決めていいはずです。「どうして努力しないの?成長したいのなら努力しなさい。◯◯になるには努力が必要」その◯◯になるかどうかは、その人が自由に決めていいはずで、努力や成長というのは◯◯までのあくまで過程の話だと思います。努力や成長ということばを耳障りがいいからと多様して、まるでそれ自体が目的かのようにやたらめったら努力するのは、しんどいと思うんですよね。そういうのが好きな人もいるけれど。
イメージでもの言う危うさは、イメージというものがいま現在のじぶんとの「関係性」で驚くほど変化するからなのだと思います。「隣街の奴らなんて大嫌い!」そんなふうに毛嫌いしていた隣街にひとりでも仲のいい友だちができると、意見も変わったりするものです。「アイドル好きなんて気持ち悪い…」「鉄道好きってなんかこわいんだよね…」「あの国の人たちってなに考えてるの?」好きを言うときには、べつにかまわないと思うけれど、嫌いを主張したり大声で叫ぶなら
よかれと思って。この「よかれと思って」は、たいてい「いいこと」とセットで存在するものだと思います。ただ、曲者だと思うんですよね。「いいこと」をしていると思いながら「いいこと」をするっていうのは、あんまりよくないんじゃないかな。「こういうのを許してしまったら社会が成り立たなくなるぞ!」と、口角に泡をためて怒鳴っている人も「よかれと思って」言っています。すごく雑に言ってしまえば、戦争だって「よかれと思って」ではじまっているのだと思
人との出会いは、あたらしい価値観との出会いでもあってじぶんのこれまでの価値観では、ままならぬことも出てきます。でも、それこそがおもしろい。じぶんのやっていることが、正しいに決まっていると信じて疑わないような場面からは、期待できるものってあまり生まれない気がします。頑なにじぶんの正義を貫くより、柔軟にじぶんをアップデートしている人と話をするときはほんとうにおもしろい。真逆の価値観に出会ったとき、受け入れる入れないは別とし
それは、ほんとうにいるのか?世の中には目に見えない存在を確認できないものがごまんといます。たしかめようがないものを、これまで「ある」としてきた背景には、「世界のバランスを保つ」という役割があったのだと思います。そういう意味で、「そんなもの絶対にない」と証明してしまうことによって、世界のバランスが崩れるということは、大いにあり得ることだと思います。むかしの人たちにとって、鬼とか、おばけとか、精霊がいなければ、バランスがとれな
こわい体験をおぼえています。命の危険を感じるようなことは、強固に記憶されているように思います。たぶん脳の仕組みとして、ヘビに出くわしてこわい体験をしたら、たとえ具体的な内容は忘れていても、ふたたびヘビに出会ったときには、「近づかないようにしよう」とプログラムされているんだろうな。感情をつかさどる扁桃体が、どんなふうにこわかったかという具体的な体験内容を忘れても、「なんかあいつイヤだな…」と過去の記憶から警告します。爬虫類が
その人が生きたせいで、いま、ここにあるもの。その人に子どもがいたら、まさしくそういう存在だと思います。その人が買ってくれたもの。その人がつくってくれたもの。その人が書いてくれたもの。それだって、その人が生きたせいで、いま、ここにあります。そういえば「あのとき」あんな話をしていたなとか、「あのとき」怒っていたなとか。「あのとき」悲しんでいたなとかも、その人が生きたせいで、いま、ここにある。いま、ここにその人がいなくて
予定が空くか分からないけれど、とにかく休みの予定を入れてしまう。そうすると、限られた時間のなかで、どうすればタスクをこなすことができるかに思考がシフトするんじゃないかと思います。休みを確実に取得するために休みの予定を先に入れるというより、「生産性をあげるため」にそうする。たとえば年始に仲間に「今年の夏は沖縄に行きます」と宣言する。日程調整が必要な場合は、この時点で可能なかぎりずらすなり実現可能なかたちに変更しておきます。「やっぱ
ぜんぶを知っていると豪語する人でも、ほんとにぜんぶ知っているわけありません。家電について詳しいという人だって、毎日すべての会社の洗濯機は試せないし、洗濯機だけが家電ではありませんから、テレビ、エアコン、冷蔵庫など、すべてを調べて試すなんてことはやっぱり限界があるわけです。注目を集め話題になりそうな製品は、チェックすることもあるかもしれませんが、おそらく他の人の使用レポートや感想をじぶんの情報ファイルに入れるなどして、知識を構築している
なにより脳がエネルギーを消費するのは、「人間関係」についてのことなのだそうです。人間関係の問題というのは、だいたいが距離感の問題だと思っています。あっちがそれほど親しいと思っていないのにこっちが親しすぎるふるまいをしたら、関係は当然わるくなります。「親しき仲にも礼儀あり」というくらい、親しいと思っている同士の間柄であっても距離感というのは大事なんだと思います。大人気のアイドルが、「わたしはモテない」とか言うようなこと、いくらでもあると思
だれかの悪口を言うとき、たぶんほとんどの人が悪口を言う人を攻撃したいわけではないのだと思います。そこまでの興味をじつは持っていない。ただ「あの人はこういうところがダメ。それというのもね…」と、この続きの部分の持論を述べたいんじゃないでしょうか。つまりじぶん語りの入口として、「ダメなあの人」を置いているだけ説です。なぜ、そんな入口が必要なのか。じぶんを含めてほとんどの人が、「わたしが大切にしていること(信念)」が、他者との比較のなか
ごちそうは、日々を生きるためにかならず必要なものではありません。栄養やエネルギーを確保することだけを考えれば、ごちそうである必要はないはずです。ごちそうを定義してみると、「生きていることをよろこぶもの」なんてどうでしょうか。高価なお店でいただく料理だけがごちそうではないと思います。まちの定食屋さんでいただくごちそうもあるでしょう。家で食べるごちそうだってある。それじゃ、どういうときにごちそうを食べるかを考えてみると、
子どものころの遊びのなかで、「かっこいい」ことにくらべたら、「勉強ができる」の魅力というのは、かすんでしまうんですよね。クラスの人気者には、「勉強ができる」だけではなれなかった。もちろんそれは、「運動ができる」だけでもなれなかったし、「親がお金持ち」だけでもなれませんでした。順位がつくものの上にいるわけじゃないのに、いつも輪の中心にいる子が子どもの世界にはいました。見た目の美しさでもなく、性格のすばらしさだけでもなく、お笑い
人になにかをしてもらいたいときには、いくつかの方法があります。ひとつは、お願いすることです。「パンを買ってきてください」はお願いです。命令もあります。「パン買ってこい!」です。相手との間に上下関係がある場合に、この命令のかたちは成立します。相談という方法もあります。「100円あげるからパン買ってきて」です。そして、脅すという方法もあります。「パン買ってこないと、大変なことが起こる」「もうパンがなくなってしまうぞ」「パンを買わないで不幸
映画などでたまにある、悪役側からのサイドストーリーを描いた作品などを観たりすると、「(メインストーリーだと)すごく嫌なやつだったけれど、こういう気持ちも分かる」と共感することがあります。日常生活においても、「すごく嫌なやつ」だったけれど、じぶんのなかで相手のストーリーを思い描ける想像力を持ちたいな。どれだけ意見が異なる相手でも、その人の生い立ちを知って、どんな景色を見てきたのかを想像し、じぶんも同じ立場だったとして考えてみたら
ケンカにならない会話のコツは、おたがいに関係のないことについて話をすればいいのだと思います。おたがいに共通の話題をさけて関係のない"なにか"について話せばおたがいを責め合うことはありません。でもそれでは、ずっと天気について話しているのと変わらなくなってしまいます。関係性を深めたいと思うなら、たとえケンカのリスクを負ってもおたがいに関係のあることについてやっぱり話したほうがいいのでしょう。ずっと天気の話をしていても、そこ