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1960年6月、時の岸信介首相は(日米安保条約改定に「反対」の声を上げない人たちの)「声なき声を聞いている」と言って、広範なデモ(60年安保闘争)の参加者の声を軽視しようとしました。この言葉に対抗して、美術教師の小林トミさん(1930-2003)が“声なき声の会”を作り、非暴力に徹した「誰でも入れるデモ」を始め、後のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の生みの親になりました。はじめて参加したデモの会場で渡辺先生から紹介していただいたとき、トミさん(と、みんなに呼ばれていた)はニコニ
東京医科歯科大学に入学した1967年の6月、雑誌『思想の科学』で「60年代後半・われわれの状況」という文章を読みました(『思想の科学』は浪人中から読んでいたのだろうか?)。その筆者の肩書に東京医科歯科大学勤務と書いてあるのを見た時「事務職員かな」と思ったのですが、「そういえば、あのぼそぼそと(私の大嫌いな)物理の講義をする先生はこんな名前だった」と気づいた時、その「落差」に驚いてしまいました。それが渡辺一衛先生との出会いでした。次の物理の授業が終わるのを待ちかねて「『思想の科学』を読み
1968年当時、日本大学や東京大学だけでなく日本中の多くの大学で、様々の課題をめぐって大学闘争が行われていました。その闘争の主体は特定の政治党派に属さない学生たち(ノンセクト・ラジカルと称していた)が中心でした。全学共闘会議(全共闘)はそうした動きのなかで自然発生的に生まれた、「自由」で「開放的」な組織たったのです1)。しかし、1969年になり「沖縄返還」が近づくにつれ(沖縄は相変わらずベトナムへの出撃基地でしたし、その上沖縄は本土から差別され続けているというのに)、学生運動は次第に街
阿部文明「争そうより愛しなさい!」最近知った言葉、まだよくは解らないけど。沖縄の若者たちの新しい運動スローガンらしい。若者たちはこれこそ自分たちの想う言葉だと言う。大切な言葉の意味をもっと知りたくて以下の「動画」を見始めました。私の世代からすると「love&peace」&というベトナム反戦運動時代を思い起こします。https://youtu.be/kXSW6LPoX-U
阿佐ヶ谷北5丁目(2-2)日の丸の青年は「三島由紀夫氏が主宰する『楯の会』へ入りたいが、一人息子だから親に迷惑はかけられない」と話していた。氏は1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷の駐屯地で決起を促し自裁した。私も四ツ谷駅で早速夕刊を買い求めた。大きく報道され、その後も色々な方が「あの時、私はここにいて、どうした」と長く紙面を彩っている。その日、私は秋空の下で体育の授業を受けていた。二人一組が背中合わせになり、のんきにギッタンバッタン。すると相手方が「今日はやけにヘリコ
高速を降りて、新宿副都心。右手に東京都庁舎。有楽町の東京国際フォーラムの場所から、新宿に移転してきたのは、1991年だったそうです。つい最近のような気もするけど、もう、30年も経っているんですね。こんな晴れた日は、最上階の展望室からの眺望が見事なんですけど。。。新型コロナ感染の急拡大のさ中、今回は、パス。最近できた高層ビル。見あげると、地下入口から吹き抜けになっていて、空が、まあるく切り取られています。人間ドックは、高層ビル
オイラの辛気臭いネタをご覧いただき、ありがとうございます。さて、香港では様相が変わってきたようです。>香港デモ、10週連続地下鉄駅でゴム弾や催涙ガス発射香港の「逃亡犯条例」改定案の取り下げなどを求めるデモは10週連続で行われ、11日も参加者と警官隊が衝突した。2カ月にわたって続いているデモは、参加者と香港政府の双方が譲らず、鎮静化の兆しが見えていない。略湾仔地区では、デモ参加者たちが警官隊に火炎瓶やれんがを投げつけ、警官隊が警棒で参加者たちを制圧にかかる場
DVD上映&アピール「時をつなぐ反戦・平和市民運動」異議をとなえる“住民”が切り捨てられる今こそ考える[市民が主役であろうとした時代─ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のメッセージ]【日時】2019年6月30日(日)午後2時~4時半(開場午後1時半/先着順)【会場】永山公民館ベルブホール京王線・小田急線永山駅3分(多摩市永山1-5)【登壇者】吉岡忍さん、大木晴子さん、神子島健【プログラム】14:00~14:15開会主催者挨拶阿部裕行多摩市長(平和市長会
オイラの辛気臭いネタをご覧いただき、ありがとうございます。さて、サウジアラビアの「バラバラ殺人事件」は、おそらく「トカゲの尻尾切り」で終わるのではないかと思います。一部、「アメリカとサウジアラビアが険悪になり、原油が上がる」報道があります。しばらくは予断を許しませんが、サウジアラビア側は「偶発的に起きた過失致死」にしたいようですが、「バラバラ解体部隊」を呼んでいるので、ありゃ「殺人」だと思いますwさすが中東「バイオレンス」だなぁwってか、総領事館
「不逞老人」鶴見俊輔対談を読んでいる。おもしろい。戦争中、海軍でドイツ語通訳。人殺しはしない。という基本方針。ジャワにいたとき、中立国ポルトガル領ゴアの民間人を殺せという命令が下った。運よく鶴見氏に対してではなかった。もし、そういう場合は、自殺しようと決めて、薬を用意していた。ジャワは、オーストラリアの近く、もし、攻め込んできて、銃撃戦になったら、上官を撃つだろう。と書いてあった。私もまったく同感。「敵に敬意を持つのは、ヒトとして最低の義務」鶴見さんの信念