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旧金森船具店函館市の旧東浜桟橋に面し周囲の街並みからひときわ目をひく間口6間(約一〇・九㍍)二階建てのれんが造りしっくい塗りのルネサンス風で初代渡辺孝平経営の金森洋物店の船舶部として明治四十四年(一九一一年)に建築されたものである国指定文化財の太刀川商店道文化財の金森洋物店酒谷商店などは部分的に洋風的な土蔵風の和風建築であるがこの建物はそで壁と一階商店部分の戸袋は和風なものの主体的にはルネサンススタイルで二階窓の三角形のペディメントや軒蛇腹胴蛇腹のシルエットを見
五稜郭の松林五稜郭公園内には古城をしのぶにふさわしい赤松が亭々として変わらぬ緑をたたえておりその数はおおむね百十五本である五稜郭築城と同時に移植されたもので大きなものは樹齢二百年以上を数えるが近年害虫や台風の被害で数が減少しているのは寂しい幕府は蝦夷地を直轄した寛永十一年(一六三四年)ごろから松前藩に代わって植樹に力を入れ七飯などで苗木を育てた安政元年(一八五四年)二度目の幕府直轄時代には一層奨励し七飯で生育させた松を五稜郭の周囲十万余坪(約三三〇、〇〇〇平
五稜郭公園の井戸元治元年(一八六四年)五稜郭奉行庁舎が完成し同時に亀田川の水を引き水道も完成させたしかし渇水期や非常時のことを考慮して郭内には水道施設とは別に深さ五㍍近い井戸を掘った現在の郭内西北すみと広場松林の中(当時の奉行庁舎詰め所横)広場中央(庁舎裏)の三ヵ所であったが現存するのは広場中央の一ヵ所だけとなり他はつぶされてしまったここも広場の盛り土のためだんだん埋もれ今は水も濁り干上がってきた昭和十三年ごろまでは四季変わらぬ清水をたたえ夏季林間学
とび職人供養碑函館市青柳町天台宗天祐寺境内にあるとび職人は江戸時代から鳶口(とびぐち)とか鳶者(とびもの)とかいわれて土木工事の人足としてはあまり恵まれた存在ではなかった昭和三年実業界の大立物・遠藤吉平氏らを中心に函館工建鳶工事業慰霊碑奉賛会なるものができ今上天皇の即位を記念して明治四十年(一九〇七年)以来の函館労力請負業組合(とび職人の組合)物故者慰霊碑を建てることになりその十月松風町の成田山函館寺境内に見事な碑を建立しただが昭和九年(一九〇九年
大森稲荷神社もとここの神官だった加藤忠義氏著『函館外史」』では一八〇〇年代のはじめ函館・大森浜に渡って来て漁をした青森地方の漁民が祠(ほこら)を建てた場所は今の大森小学校の前角で最近弘化三年(一八四六年)の再建棟札が発見されたといっている安政三年(一八五六年)の『蝦夷実地検考録』にも箱館八幡宮の末社として社名が出ているからたしかに江戸時代からの存在である函館市大森町二二の現在地に移ったのは明治四十三年(一九一〇年)で昭和九年の大火で焼けたときは一時神霊を山
遺愛の宣教師館ハリス宣教師夫人によって創立された遺愛女学校では常時数人の女性宣教師が教壇に立っていたその宣教師館が校舎の東南に今もひっそりと建っているいつとはなしに人々はその白い二階建ての建物を〝ホワイトハウス〟と呼ぶようになった建物の中には故国を離れて遠く函館の地に赴任した若い女性宣教師のかたみであろうか青い目の人形や支那陶器やクリケットの道具がひっそりと時間を忘れたかのように置かれている昔はよくガーデンパーティーが催されたという宣教師館の周囲も今
宮崎郁雨の歌碑郁雨は歌人としても文学者としても並の人間であり一流ではないしかし啄木を発見したというだけで彼は十分に自分の役割を果たした彼は啄木という天才に援助を惜しまなかったその啄木のそばで下手な歌をつくりながら悪びれるところは何もなかった人柄が良くなければ決して出来ないことだ蹣跚(まんさん)と夜道をたどる淋しさよ酒はひとりし飲むものならずの歌碑が啄木一族の墓と並んで建っているゲーテとシラーの像かもしれぬただ郁雨はシラーのような才
遺愛の校舎明治十五年(一八八二年)二月女学校としては東京以北で最初の遺愛女学校が設立された創設の裏には次のような美しい話が残っている明治初期米国メソジスト教会宣教師として来函していたハリス師の夫人フローラ・ハリスが函館にも女子教育の必要性を痛感女学校を設立する資金援助を故国アメリカの伝道雑誌に訴えたこれに応じそのころ愛嬢を失って悲歎の底にあった駐独アメリカ公使ライト夫人が亡き娘のために蓄えていた多額の資金を託したこうして函館・元町に女学校(当時は校名をカロライ
石川啄木居宅跡阿部たつを氏(啄木研究家・医師)らが昭和三十六年に出した『函館と啄木』に啄木の住んでいた家の場所を「函館公園の方から来て金光教会の先き元三村医院(院長死亡後閉院)の横の汐見町に出る露地を入り石段を上り左に曲がって左側の最後の家のあたり」と説明しているここは現在青柳町十五番である三村医院というのは今はないが近所に永住している人に聞くとすぐわかる啄木は明治四十年(一九〇七年)五月五日函館に来て松岡蕗堂の仮宅(今の青柳小学校上辺)に世話になり七月七
五稜郭内の大砲②明治二年(一八六九年)五月十一日の箱館海戦で幕艦蟠竜の砲弾を火薬庫荷受け七重浜で沈没した官艦朝陽(約四〇〇㌧)の艦載砲であるこの年の四月五日朝陽艦が箱館戦争に遅れて品川を出帆の際艦長中牟田倉之助の要請で積み込まれた砲架回転式最新鋭の砲と考えられ砲身が長いので命中精度もよかった昭和七年二月七重浜埋め立て工事中に発見され亀田八幡宮に奉納された終戦と同時に武器であるためGHQの追及をおそれ土中に埋没されたままになっていたが三十三年七月一日皇太子の
五稜郭内の大砲①武田斐三郎は外国船の侵略があっても砲弾の届かない位置として五稜郭を選定したといわれるが欧米の火器の進歩は目覚ましく滑腔丸弾丸発射の胴胞からライフル後込め式大砲へと移行し箱館戦争では官艦の砲弾が七重浜沖から遠慮なく五稜郭内に飛来したこの大砲は弁天台場を側面から援護する築島台場(現在の豊川町付近)備えつけの鋳鉄砲だが鋳物の成分が悪いためか肉厚で巣穴を埋めた跡があちこちにある明治二年(一八六九年)五月の戦いで砲尾を破損使用不能となったため脱走軍はそ
日本基督教会相生教会跡函館市末広町の五島軒本店の向かい側に木造のチャーチ風の建物があるいまは軽食店になっているがこれは元の日本基督(キリスト)教会函館相生(あいおい)教会である同教会は昭和四十九年本町へ移ったので今は民間が使用しているここにあった日本基督教会というのはプロテスタント系の独立教会で明治十三年(一八八〇年)に桜井という牧師が大町にきて伝道したのが最初であり三年後にこの場所に会堂を建てて初めは日本基督一致函館教会といったのち前記の名称になっ
太刀川家住宅・店舗函館弁天町の太刀川家は明治三十四年(一九〇一年)初代太刀川善吉が米穀店漁業に乗り出す一方持ち船筑紫丸で回漕業を営み一代で財をなしたこの住宅・店舗はその時代に建てられた間口五・五間(約一〇㍍)奥行七間(約一二・七㍍)のれんが積み土蔵風づくりで洋風のアーチを取り入れた塗り籠(ごめ)の卯建(うだつ防火用そで壁)のついた関西風商家の建物である建物内部の木組みは豪快で六十㌢以上の柱のはりけたを十文字に組み合わせて柱も二十四㌢角材を使い二階床板
旧函館郵便局現在2月23日の写真です函館郵便局の歴史は古い明治五年(一八七二年)三月開拓使郵便局が開設され明治二十年(一八八七年)函館郵便電信局と改称され郵便業務が行われていたが明治四十年の大火で焼失し豊川町に明治四十四年新築した豊川町は当時海浜と湿地のため基礎工事が難航し総面積約二千八十三平方㍍に千二百本の木ぐいを打ち敷地も地盤より二㍍掘り下げ古れんがやコンクリートを埋めたれんが造りの建物右側は電話課左側は電信課ともに二階建て中央は平屋の郵便課であ
谷地頭切通青柳町の電停から谷地頭の電停に至るまでの間は坂になっているがこれはもと谷地頭切通(やちがしらきりとおし)といわれたところである切通というのは山や丘などの高いところを切り開いて通した通路のことをいうのであるここは明治十一年(一八七八年)から十四年にかけて開削した道路でその工事は幅五十間(約九一㍍)深さ九尺(約二・七㍍)長さ二百間(約三六四㍍)にわたって土を掘りその土で谷地頭の湿地を埋めたのであるこれは明治七年(一八七四年)から谷地頭の土地を一般
横津岳横津岳は道南の玄関口にそびえる高山(一一六七㍍)で駒ヶ岳より少し高い横津岳の語源はアイヌ語の「ユックオツ・ヌプリ」から転訛して「ヨコツ」となったもので「シカのいる山」という意味である古老は「明治三十五年(一九〇二年)ごろまでは毎年シカを三頭くらいとった」と語っている昔は「大川岳」とも呼んでいた松浦武四郎は弘化二年(一八四五年)八月蝦夷地を踏査探検して『蝦夷日記』を著したがその中の一節に「大きい川があるこの川は石川である急流で源を大川岳に
昭和九年大火供養碑函館市湯川町三丁目三五ノ五竜吟寺の境内にある昭和九年三月二十一日の大火は死者二千人を超す大惨事であったが大森街に慰霊堂を建ててこれを供養しているほかに湯川地区でも仏教聯合会(れんごうかい)や有志が供養碑建立を計画し同十二年竜吟寺の境内に建てた焼死だけでなしに寒さのために凍死した人や火に追われて海に投じ新川に落ちるなど水死した人も多い昭和九年に記したという碑文は「我湯川区域中溺死…六百余」と当時を語る碑文は撰文・清書ともに能筆化として知られ
馬車止石本州方面の古い寺院の門前や神社の鳥居の前などに「下乗」「下馬」「下車」などと石に彫ったものやあるいは木札に墨書きしたものがあるがこれらは「下馬牌(げばはい)」とか「二字札(にじふだ)」とか呼ばれるものである聖域だから乗ものから下りることを教示しているのである境内の広いところでは中に入ってから一定の場所に建てているものもある二字札というのは「下馬」とか「下車」とか二字になっているからいうのであるこの下馬牌の変形したものがここに見られる「馬車止」などと表
※今日は、以前に書いた記事を、リニューアルしたものです。今日は北海道・函館市を守っている、伊勢神宮に縁ある古い神社の話題。山上大神宮の事を知ったのは、はこだて歴史散歩という本から。※ここからはあくまで、個人的見解です。実は、山上大神宮の鎮座する場所が、函館を上空から、五稜郭を中心として見た場合、裏鬼門に位置しています。そのため、函館の裏鬼門を守っているのでは?という好奇心と、神社・仏閣好きの血が騒ぎ、参拝に伺うことにしまし
中島父子最期の地この碑は地元有志の手で昭和四十九年旧松川中学校(函館市中島町)前のグリーンベルト横に建てられたものである中島三郎助(四十九歳で死亡)は浦賀与力でペリー艦隊が来航した時最初に外国船に乗り込み交渉した気骨のある人物安政二年(一八五五年)長崎海軍伝書所第一期生として機関術砲術を学び勝海舟とは同期で榎本武揚の一年先輩であるまた俳人としても知られ雅号を木鶏と称し多くの秀作を残したほととぎすわれも血を吐く思いかなの句がある
千代ヶ岡陣屋跡文化五年(一八〇八年)幕府から蝦夷地警備を命ぜられた仙台藩が築いたものであるが安政二年(一八五五年)津軽藩が受け持ち東西百三十㍍南北百四十五㍍高さ三・六㍍の土塁で周囲を囲みさらにその外側に十二㍍の濠(ほり)を巡らし北側に表門を設けた津軽陣屋ともまた地名を取って千代ヶ岡陣屋とも呼ばれた現在の中島小学校付近から野球場にかけての丘陵地帯で五稜郭攻略を前に大挙して陣屋に攻撃を加えて来た守備する中島隊も砲五門を据(す)えて五稜郭からの援軍を加え
高田屋本店跡函館市大町九ノ八木島商店の前に「高田屋本店跡」との石標柱がある文字通りかつての豪商高田屋の本店があったところだ寛政八年(一七九六年)から箱館に来た高田屋嘉兵衛は同十年ここに支店を設け弟の金兵衛に支配させて手船五隻で貨物運漕を営業した嘉兵衛は淡路(兵庫県)出身で当時の本店は兵庫においていた彼のエトロフ航路開発や北方漁場の経営などは有名だが文政元年(一八一八年)五十歳で郷里淡路へ帰り後事一切は金兵衛に託した金兵衛はよく嘉兵衛の志を
写真発祥之地碑昭和三十九年函館市豊川町のグリーンベルトに写真普及百年を記念して「北海道写真発祥之地」の碑が建てられた開港と同時に西洋文明をいち早く取り入れた箱館で越後(新潟県)新発田の木津孝吉という人物がロシア領事ゴスケウィッチから写真の技術指導を受け船見町に写真館を開いたのは元治元年(一八六四年)であった碑文によればわが国最初の写真師上野彦馬に遅れることわずか二年であったというその後長崎で写真術を修業した田本研造が箱館に来てこれまたロシア領事からさらに
五稜郭の兵糧庫五稜郭内には箱館戦争当時二十二棟の付属建物が建てられたがこの兵糧庫は面積百九十八平方㍍土蔵造りで解体をまぬがれた現存するただ一つの建物である明治元年(一八六八年)四月幕府に代わって設けられた箱館裁判所は津軽藩から米三千俵を購入し一部をこの倉庫に備蓄したが戦に敗れて青森へ退却したので脱走軍がそっくりちょうだいするという一幕もあった置屋根形式のため四季にわたって野鳥が営巣し憩いの場として訪れる数も多くこれらの卵を盗み取るために屋根がわらが
勇敢な聖女の像(トラピスチヌ修道院)湯川トラピスチヌの聖堂の壁には旗と剣を持つ乙女の白い像が飾られているこれは大正十五年(一九二六年)フランスからとり寄せられたジャンヌ・ダルクの像であり、おそらく修道院の創立者がフランス人であったためにここに置かれることになったのだろうフランス人にとってこの百姓の娘・勇敢な乙女こそ人気者であるフランスの暗黒時代にどういうわけかジャンヌ・ダルクは神から若いフランス王カロロ七世を応援する使命を受けた真っ白い旗を掲げて乙女ながら
誤解される聖像(トラピスチヌ修道院)トラピスチヌ修道院を訪ねる観光客は必ずといってもいいくらい真っ白で大きな修道女の像をバックにしてマリア様かトラピスチヌの姿のつもりで記念撮影をするところがこの像はマリア様ではなくトラピスチヌの姿でもない別の修道会つまりカルメル会の幼きイエズスのテレジアという聖人像であるこの像が昭和十一年ここに置かれることになったのはその前年キリストの愛つまり聖心の信仰を広めようと当時世界を歩いていたマテオ神父が来函されトラピスチヌ
北京から送られた祭壇(トラピスチヌ修道院)函館湯川トラピスチヌ修道院の新しい資料館の中央に一番目立つものは大聖堂の古い中央祭壇であるどういうわけか北京から五十年ほど前に送られてきたそうである修道院の名前が天使園なので祭壇の上部下部も立派な木彫の天使で埋まっている一人一人の天使の名前が面白い向かって左の上部の天使はアモール(愛)それからラオス(賛美)ユピラショ(喜び)コンプラセンシャ(福楽)となっている下部は同じく左からインペタラショ(祈り
旧金森洋物店明治十三年(一八八〇年)内澗(うちま)町(現・末広町)に開拓使製茂辺地れんがを使用し西洋のれんが建築の技術と日本の伝統的な土蔵造りを折衷して建てたのがいわゆる洋風不燃質建築の「金森洋物店」である現在は郷土資料館になっている当時の函館は火災が多かった開拓使は区画整理を呼びかけながら不燃質家屋を盛んに奨励したのだったがこのことは財力者らによって協力を得ている例えば平塚平田今井などといった店舗がそれでしかもそれらの不燃質建物は明治四十年
ルルドのマリア様函館・元町カトリック教会を訪れる観光者は聖堂の裏になお大切な遺跡があることに気がつかないであろうしそこまで案内されることもめったにないと思うところが行ってみると割合大がかりな洞窟がありその上に高さ一・五㍍ぐらいの聖母マリア像が飾られているこれは「ルルドの洞窟」といい安政五年(一八五八年)二月十一日ピレネー山脈のルルドという村での聖母マリアの出現を記念するものである日本の建国記念日との偶然の一致からルルドの聖母は日本の教会においてこそ人気を集
トビ坂(日和坂)函館西部の坂は明治十二年(一八七九年)の大火後に整備されたものが多くそれ以前は今のように下から上まで真っすぐではなかった八幡坂の西隣の坂を「日和(ひより)坂」といっているがこれも大火前の地図では今のバス通りの下の部分は細く東へ寄っているそして上のほうの船魂(ふなだま)神社の前の辺りに「トビ坂」と坂名が記されているトビは鳥のトビで天気のいい日にトビが飛んだとの説もあるがはっきりしない下の方が日和坂ということになるがこの名は明治になっ