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離婚したい病がまた発病してます。もういちいち面倒くさいけど、記しておこう。まあ、今年に入って、私の気持ちのギアが少しだけ変わったんだよね。離婚する方が面倒臭いみたいな。というか、今じゃなくてもいいみたいな。諸々の理不尽に慣れてきたってのもあって。王子の進路とか、せめて姫が中学生になるまではとか。まあ、その後もいろいろあるにはあったけど、家探しとかをアプリで検索するって行動は減ってたし、探したとしても、見てたとしてもちょっと先の話みたいな感じで。それが本日ムカついてるのは。私は買
え?ドリカムの歌?おはようございます。今日は朝から上司(経営者)のご機嫌がよろしいようで。昨日の競馬。どうやら勝ったのではないでしょうか(^^)と休み明け月曜の上司の機嫌次第で仕事がはかどるか、はたまたつまずくか。。。なかなか下っ端家来たちも大変(^^)あはこんな事を以前は夫に帰宅してから言ってたのですが、今は4んじゃったんでブログに(^^)いや、4んでねーよ!生きとるわ!ってか。こういう乗りツッコミも一人でするのは
「病弱で、軍国主義に染まった、ごく平凡な文学青年」だった峠三吉が、知らなかった原爆の真実を一つ一つ掴み取っていくような詩を書いてほしかった。あの日、近所で知り合いの河内さんは動員されて、市内中心部の建物疎開作業に出かけていき原爆に遭った。建物疎開は原爆でなくても危険な作業だった。多くの人が集まれば、空襲になった時に隠れる場所がない。それでも軍の命令とあれば行かざるをえなかった。しかし三吉は、「被爆日記」を見る限り特に気にする様子もなく、どちらかというと呑気である。7月30日の日記
峠三吉の詩の仲間であった増岡敏和さんによると、峠三吉は、「かれ自身の生活がうたわれた作品がないと、あの当時若いみんなからいわれて」いたという(増岡敏和『八月の詩人』東邦出版)それ以上具体的な中身はわからないが、少なくとも『原爆詩集』に戦時下での三吉の生活や、そこから世の中をどう見ていたか、原爆や敗戦でものの見方がどう変わったかといった詩がないことは確かだ。被爆当時大学の教官だった小倉豊文さんは原爆や敗戦の衝撃の中で改めて自分のしてきた「自己欺瞞」と向き合って『絶後の記録』を書き、中国新
峠三吉は朝鮮戦争が目前に迫る中で詩「呼びかけ」を書いて反戦反核を訴えた。しかし戦争は始まり、1950年11月30日にアメリカのトルーマン大統領が記者会見で原爆の使用を考慮していると述べたと外電が伝えた。峠三吉は当時療養中だったが、療養所の中で『原爆詩集』をつくることを決意する。それはまさに自分の骨身を削る営みだった。それでも、原爆が炸裂したらどんなことが起きるのか、人々はどんな悲惨な目にあうのか、私たちは何としても戦争をやめさせないといけないと三吉は決意したに違いない。三吉の武器は詩だ。三
大田洋子は、原爆は「日本の軍閥政治そのものによって落とされた」と『屍の街』に書いた。それは、「広島市街に原子爆弾の空爆のあったときは、すでに戦争ではなかった」のであり、「軍国主義者たちが、捨鉢な悪あがきをしなかったならば、戦争はほんとうに終わっていた」のに、悪あがきを続けたためにアメリカによって原爆を落とされることになったと考えたのだ。いくつもの体験記からは、どうしてもっと早く戦争をやめてくれなかったのかという嘆きの声が聞かれる。私は気分が悪くなって来ました。降伏するつもりなら広島を
死んだ少女は自分がどんな姿で死んでいったか知ることもできないが、峠三吉は、少女の死は日本人全体の屈辱だと訴える。それは残酷それは苦悩それは悲痛いいえそれよりこの屈辱をどうしよう!すでに君は羞恥を感ずることもないが見たものの眼に灼きついて時と共に鮮やかに心に沁みる屈辱、それはもう君をはなれて日本人ぜんたいに刻みこまれた屈辱だ!(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)それは、なぜアメリカは原爆を落としたのかというその理由にある。君は知ってはいなかった、ハ
峠三吉の詩「その日はいつか」については以前思ったことを延々と書いるので繰り返しになるけれど、戦争責任ということで、もう一度考えてみたい。爆心地のすぐ近く、紙屋町交差点のあるあたり、一人の少女が死んでいたという。裸になった赤むけの屍体ばかりだったのにどうしたわけか君だけは衣服をつけ靴も片方はいている、少し煤けた片頬に髪もふさふさして爛れたあとも血のいろも見えぬがスカート風のもんぺのうしろだけがすっぽり焼けぬけ尻がまるく現れ死のくるしみが押し出した少しの便がひからびてつ
峠三吉は1945年9月20日に糸崎の療養所を出て翌日広島に戻っている。それからしばらくは誰もがそうだったように日々を生きることに精いっぱいだったので、世の中の動きにどれだけ目を向けることができただろうか。新聞が何時から読めるようになったのかもよくわからない。10月7日になって、日記から、そのころ新聞を読んでいたことがわかる。治安維持法の撤廃、政治犯の釈放等々連日の新聞は嘗ての日本に夢想も出来ざりし新事態を報道す。政治といふもの、時代といふもの、今年の後半程これらについて眼を開かせられたる
1952年4月28日サンフランシスコ平和条約が発効し、それによって朝鮮人は日本国籍を有しないものとされ、国籍の選択は認められなかった。そのころ朝鮮半島は戦争の真っ最中である。帰るに帰れなかった人たちは日本で何の援助も保障もない中、自分の力だけで生きていく他はなかった。一方故郷に帰ることのできた人にも幾多の困難が待ち構えていた。朝鮮戦争の戦火は3年で下火になっても、放射能の被害は海を越えて死ぬまで追いかけてきた。1965年6月日韓基本条約が締結され、日本と韓国の間で国交が結ばれた。その年
1945年8月28日、帰国朝鮮人、引揚日本人のために、山口県の仙崎と釜山の間を興安丸、博多と釜山の間を徳寿丸が運行を始めた。当時日本政府は帰国を希望する朝鮮人の数を約91万人と推定している(深川宗俊『海に消えた朝鮮人徴用工ー鎮魂の海峡ー』明石書店1992)。広島からも多くの朝鮮人が続々と仙崎港を目指したに違いない。しかし港までの汽車賃に公的な援助はない(たぶん)。港では何日も待たされたというから食費もばかにならない。何といっても必要なのは金である。呉鳳寿(オ・ボンス)さんは爆心地からわ
観音新町の三菱重工広島機械製作所、江波町の三菱重工広島造船所には、1944年に2800人もの朝鮮人徴用工が送り込まれた。深川宗俊さんが広島機械製作所で朝鮮人徴用工の指導員となったのは1945年7月だった。そのころには、あまりにも待遇が悪いのと空襲の危険を感じて逃亡者が続出し、両三菱の徴用工の人数は約1000人であったと深川さんは証言している(深川宗俊『海に消えた被爆朝鮮人徴用工ー鎮魂の海峡ー』明石書店1992)。同じころ、私の父も観音の三菱に動員されていた。昭和20年初夏の頃とも
戦時中、大洲町(現広島市南区大洲)と府中町に藤川製鋼所という軍需工場があった。他の工場と同じく、兵隊にとられた従業員の穴を埋めるべく、松本工業学校(現瀬戸内高校)などの中学生が動員され、また朝鮮半島出身の人たちも働いていた。藤川製鋼所には半年くらい通いました。鉄砲の弾を作っていた工場です。そこでは、機械を疎開させるために山に横穴を掘る作業を手伝いました。最も危険な先頭で穴を掘る作業は朝鮮の人たちが行い、私たち生徒や挺身隊の女性は、掘り出した土を外に運び出し、田んぼに埋めるのです。落
峠三吉の詩「その日はいつか」の中で、言葉を選びながらも、加害者をはっきり指し示している。ああそれは偶然ではない、天災ではない人類最初の原爆は緻密な計画とあくない野望の意志によって東洋の列島、日本民族の上に閃光一閃投下されのたうち消えた四十万の犠牲者の一人として君は殺された、(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)そして被害者を代表するのは一人のけなげに働く少女だ。殺された君のからだを抱き起そうとするものはない焼けぬけたもんぺの羞恥を蔽ってやるものもない
1972年に日中国交正常化が行われ、1978年には日中平和友好条約が締結されて、1980年代に入ると敗戦直後に中国に取り残された人たちが親に逢いたい、故郷に帰りたいと声を上げ始めた。テレビニュースの中でそれを聞いたアナウンサーが涙があふれて言葉にならなかったのを憶えている。1990年代に入ると、当時私のいた高校に、中国から帰ってきたいわゆる「中国残留孤児」の人たちの子どもが高校生として入学してきた。校内では勉強会が始まった。1995年にNHKで放送された「大地の子」の主人公は出身が長野
1945年8月15日、日本敗戦の報を知って中国新聞大佐古一郎記者の母が言った。なんでひと月ほど前にやめとかなんだかのう。もっと早うやめとったら、あのむごい大勢の人殺しはなかったし、孫の病気がぶり返すこともなかったろうに…(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)原民喜も小説『廃墟から』の中で言っている。病院の玄関先には次兄がまだ呆然と待たされてゐた。私はその姿を見ると、「惜しかつたね、戦争は終つたのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終つてくれたら――こ
戦争をやめる術を知らなかったのはファシストではなく国民ではなかったろうか。崇徳中学4年生だった私の父は勤労動員で働いていた観音の三菱の工場で呉に住む同級生から呉空襲の話を聞いた。「呉の町はもう全滅だぞ、夕べの空襲で丸焼けになったんだ」といいながら、草履と下駄を半々に履いて出勤してきたT君も、猛火に追われて逃げ回った身で呉の住人である。それが今朝はもう出勤して来たのだ。「いずれ新聞には損害軽微と出るだろうが、あれは大嘘で、呉へ来て見い、沖には軍艦がいっぱい沈んでいるんだ、グラマンの急
1945年5月10日、山口県徳山市が大空襲にあった。1日約3000バーレルの原油を精製する国内最大の燃料拠点海軍燃料廠が標的だった。燃料廠では500人以上が死亡し、重油タンクは三日三晩燃え続け、工場の全機能は停止した。(『改訂版呉空襲記』中国新聞社1975)燃料がなければ残った日本の軍艦も身動きできない。しょうがないので甲板を松の木で覆ってあちこちの島陰に隠れた。石油を失った艦船は島蔭にかくれて動けず(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)ポツダム宣言の前々日の7月24日
峠三吉は詩「その日はいつか」の中で、戦時中新聞やラジオでは決して知ることのできなかった戦争の行方を書き留める。そして近づく八月六日、君は知ってはいなかった、日本の軍隊は武器もなく南の島や密林に飢えと病気でちりぢりとなり石油を失った艦船は島蔭にかくれて動けず国民全部は炎の雨を浴びほうだいファシストたちは戦争をやめる術さえ知らぬ、(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)原爆投下時には日本軍はすでに戦争遂行能力はなかったと言いたいのだろうが、どうしてこれらの出来事を選
峠三吉の詩「その日はいつか」の中で、紙屋町広場で亡骸となっていた少女の生い立ちは、三吉の想像力によって生み出された。君のうちは宇品町日清、日露の戦争以来いつも日本の青年が、銃をもたされ引き裂かれた愛の涙を酒と一緒に枕にこぼし船倉に積みこまれ死ににいった広島の港町、(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)宇品町は被爆時に峠三吉がいた翠町の南に広がる広い町だ。1894年7月、日本軍が朝鮮王宮を占拠し、翌月清国に宣戦布告して日清戦争が始まった。先陣を切って宇品港から朝
ガリ版刷りの『原爆詩集』が発表されると、多くの称賛の声と共にいくつかの批判もあったという。「原爆は広島だけでなく長崎にも落されたものであり、何よりも日本人の頭上に落されたという、政治的追及の不足」といった新日本文学会内部の批判意見…(「中国新聞」1983.12.14)また、「われらの詩の会」の仲間である増岡敏和によると、次のような意見もあったという。…原爆は日本を降伏させる為以上に世界の政治情勢の中でヒロシマに落された…(増岡敏和『八月の詩人』東邦出版社1970)
占領軍兵士による犯罪や事故は占領下の日本全土で多発し、被害を受けた人は泣き寝入りするしかなかったという。そのことを峠三吉は「その日はいつか」で取り上げているのだが、その次がよくわからない。「五月にも耐え」とは、いつの五月のことなのか。ジープに轢かれた子供の上に吹雪がかかる夕べも耐え外国製の鉄甲とピストルに日本の青春の血潮が噴きあがる五月にも耐え(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)峠三吉の日記をずっとめくっていけば分かることかもしれないが、手持ちの資料や年表ではどうも
峠三吉の詩「その日はいつか」にマッカーサー道路が出てくる。そして思いもしたろうか此のなつかしい広島の、広場につづく道がやがてひろげられマッカーサー道路と名づけられ並木の柳に外国兵に体を売る日本女のネッカチーフがひらひらからんで通るときがくるのを(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』岩波文庫)「その日はいつか」は1951年9月20日に発行されたガリ版刷りの『原爆詩集』には収められていない。翌年2月に出版された青木文庫版に出てくる。「その日はいつか」は、その半年ぐらいの
原爆で廃墟となった広島市中心部は9月17日の枕崎台風で一夜湖底に沈み、広島の復興はこれ以降のことになる。1946年2月、広島市復興審議会が発足した。三月、焼け跡に春がめぐって来て、青い草の芽が吹き出すと、それを待ちかねたように、あちこちにバラックが建ちはじめた。バラックは毎日どんどんふえた。それを見て、私たちも、審議会の委員も慌てた。グズグズしていると、この勢いでは再び元の無秩序な町が出来上ってしまう。見渡すかぎり何もなくなったいまこそ、りっぱな町づくりのチャンスではないか。(浜井信三
8月8日、日本銀行広島支店1階の一角で芸備銀行、住友銀行などが営業を再開した。原爆の火災に遭っても銀行の金庫室は無事だったが、金庫室内部はかなり熱くなっていたようで、芸備銀行で恐る恐る金庫室の扉を開けたのは8月23日のことだった。紙幣は当初日銀から借りたが、預金を払い戻すにも、重要書類は金庫の中で、通帳の印鑑の照合ができない。客の方でも通帳も印鑑も焼けてしまった人が多かったが、客の申告を信用して払い戻した。それでも後で大きな問題は起きなかった。(『広島原爆戦災誌』)ともかく、被爆後
峠三吉は『原爆詩集』の中の「その日はいつか」で、紙屋町交差点で亡くなっていた一人の少女を描いている。熱い瓦礫と、崩れたビルに埋められた道が三方から集り銅線のもつれる黒焦の電車をころがして交叉する広島の中心、ここ紙屋町広場の一隅にかたづけ残されころがった君よ、(峠三吉「その日はいつか」『原爆詩集』岩波文庫)紙屋町交差点は1949年までT字型の三差路だった。紙屋町の北側は広島城に至るまで陸軍が占拠していた。路面電車は広島駅から己斐・横川・江波方面に向かう路線が東西に走り
8月7日になると広島市近郊から警防団が続々と市内に入り遺体の収容、火葬に当たった。また、本土決戦でのゲリラ戦を想定して編成された特設警備隊も出動した。今の東広島市(当時の賀茂郡北部)から出動した特設警備隊は「賀北部隊」と呼ばれている。1987年、NHK広島放送局は残留放射能の影響を調べるため賀北部隊の元隊員を取材し、その年の8月3日、NHK特集「救援・ヒロシマ残留放射能の四二年」を放送した。そして翌年には『ヒロシマ・残留放射能の四十二年ー原爆救援隊の軌跡ー』が出版されている。賀北部隊の
紙屋町の芸備銀行(現広島銀行)内で被爆した高蔵信子さん(当時19歳)は一つ下の同僚宇佐美君子さんと一緒に西練兵場に逃げた。一時は死を覚悟した高蔵さんだったが、ふたりは運よく宇佐美さんのお父さんに見つけてもらい、高蔵さんは郷里の倉橋島に帰ることができた。ただ、宇佐美君子さんは被爆してから一か月もたたないうちに亡くなったという。(「中国新聞」2014.8.4)8月7日も西練兵場や入り口の紙屋町付近には多くの重傷者が身を横たえていたという。この日、住友銀行広島支店の建物が広島市中心部の
宇品にあった陸軍船舶司令部は8月6日8時50分には舟艇による市内の消火、救助活動を開始した。さらに午前11時30分、船舶司令部は傘下の全部隊(暁部隊)に日常業務を停止し市内の救難救護活動に全力を尽くすことを命令した。江田島の幸ノ浦で水上特攻の訓練をしていた陸軍船舶練習部第十教育隊約1500名も正午ごろから次々と船に乗りこんだ。午前十一時過ぎであったか、船舶司令官佐伯中将から、直接の電令が私にあり、「広島市は全滅的打撃を受けた。君の部隊は、訓練も大切だが一時中止して、全力を以て、広島
芸備銀行本店で被爆した高蔵信子さんは、黒い雨が降って火の勢いが弱まったのを幸いに西練兵場に避難した。西練兵場は現在の広島市民病院、広島県庁から東の八丁堀京口門公園、広島YMCAまでの一帯を占めていた。広島城から紙屋町交差点に至る鯉城通りはまだない。紙屋町交差点からすぐ北が西練兵場である。銀行から西練兵場までの距離は約200m。爆発時、歩行中即死なさった方々の遺体が赤茶色に焦げ、道一杯に折重なっていて、そばを通りすぎて行くことがとても苦痛でした。朝からのショックの故でしょう、しっ