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中日ドラゴンズホーム用・ビジター用1965年~1968年途中略年表1965年《ホーム・ビジター共通》西沢道夫監督就任に伴い、濃紺と赤をベースにしたユニフォームに変更。1967年《ホーム・ビジター共通》ホーム用の筆記体Dragonsロゴ変更。ビジター用はCHUNICHIロゴのNの部分が分断されず生地に乗るタイプにマイナーチェンジ。ともに1968年途中まで(ただし、1969年のキャンプ時に練習用としても着用)。ホーム用西沢道夫監督就任だけでなく球団オーナーが変更になるのに伴い、ユ
読売ジャイアンツホーム用・ビジター用1961年〜1974年略年表1961年《ホーム・ビジター共通》川上哲治監督就任に伴いユニフォームを変更。ホーム用はクリーム地に、ビジター用はブルーグレー地になる。1974年まで。1972年《ホーム・ビジター共通》ユニフォームの生地がニット素材になる。デザインは変わらず。ホーム用前年までの赤を多用し不評だった、「カラーテレビ用ユニフォーム」を廃止し、黒とオレンジのチームカラーを復活させました。入団した時のユニフォームには思い入れがあるのか、川
また懲りず(!?)プロ野球ユニフォームを語るシリーズを再開します。プロ野球ユニフォームを語るシリーズ第7章「ジャイアンツV9時代のセ・リーグのユニフォーム」を投稿します。今回は昭和40年代に9連覇を達成した読売ジャイアンツのユニフォームはもちろんのこと、打倒ジャイアンツに心を燃やしていたセ・リーグ各球団のユニフォームを取り上げます。今回もだいたい2月頃までアットランダムで仕上がったら随時投稿します。今回も私が産まれる前の時代ですからいつものように(!?)知らないことを知っているかのように語
御覧いただいている読者の皆様のお陰で、第6章「1950年代・1960年代のユニフォームセレクション」をなんとか終えることが出来ました。本当にありがとうございます。今までと同様に、様々な読者の方々に御覧いただき、しかも多くのいいね!をいただけて大変嬉しいです。しかも、今回は私が産まれる前の時代を取り上げましたが、想像以上のいいね!をいただくことが出来ました。これにはただただ恐縮するばかりです。さらに、フォローしてくださる方が増えてきており、大変嬉しく思います。今後の予定ですが、実は12月31
阪急ブレーブスホーム用1962年~1969年ビジター用1962年〜1969年途中略年表1962年《ホーム・ビジター共通》ホーム用は白地にグレーの縦縞、ビジター用は濃紺地に白のペンシルストライプのユニフォームに変更。ビジター用はこの年限り。1963年ビジター用のみ。グレー地のユニフォームに変更。1969年途中まで。1964年ホーム用のみ。左腰部前面についていた腰番号を廃止し、胸番号を着ける。1969年途中ホーム用の左袖に黒文字でオレンジの縁取りのHANKYUロゴがつく。
阪神タイガース※1960年までは大阪タイガース。ホーム用1953年〜1957年、1958年~1959年、1960年~1965年途中ビジター用1954年~1957年、1958年~1959年、1960年~1965年途中略年表1953年ホーム用のみユニフォームを変更。戦前創成期以来の久しぶりの縦縞の帽子と縦縞のユニフォームが復活。1957年まで。1954年ビジター用のみユニフォームを変更。胸ロゴがOSAKAに変更し、黄色の縁取りが入る。1957年まで。1958年《ホーム・ビジ
東映フライヤーズホーム用1961年〜1967年ビジター用1961年〜1967年前半、1967年後半略年表1961年《ホーム・ビジター共通》水原茂監督就任に伴い、焦げ茶とオレンジを使ったユニフォームに変更。1967年途中ビジター用のみ。水色地に金色の縁取りのユニフォームに変更。この年限り。ホーム用1960年オフ、東映球団は水原茂監督を招聘しました。当時球界きってのお洒落でダンディな水原監督が採用したのは、パッと見で読売ジャイアンツによく似ている焦げ茶とオレンジを使った白地
※2020年1月4日の投稿を再編集したものです。先月、こんな記事が話題になりました。ナイキジャパンは2019年12月23日、J1でユニフォームを提供している鹿島アントラーズ、浦和レッズ、広島が20年シーズンに着用するアウェーユニフォームデザインを発表。赤色のトーンは若干違うが、シャツとソックスは白地、襟元は赤、パンツは赤という組み合わせは共通している。「3クラブ史上初の統一テーマの新アウェイユニフォーム」という。背景にあるのは東京五輪で、「スポーツの魅力や楽しさ、感動、そして、幸せや平和
大洋ホエールズホーム用・ビジター用1960年〜1962年略年表1960年《ホーム・ビジター共通》三原脩監督就任に伴いユニフォームを変更。この年から胸番号を採用する。1962年まで。また、ホーム用のみ日本シリーズからチャンピオンエンブレムが左袖につく。1961年ホーム用のみ。番号と胸ロゴの色、オレンジと黒を反転させた夏用ユニフォームを着用する。この年のみ。ホーム用1960年にセ・リーグは胸番号をリーグをあげて採用しました。それに伴いホエールズはホーム用のユニフォームをオレンジ色の
南海ホークスホーム用・ビジター用1959年〜1968年略年表1959年《ホーム・ビジター共通》鶴岡一人監督の提案によりユニフォームを変更。また、帽子のマークも変更。1960年《ホーム・ビジター共通》シーズン後半から腰部全面に番号がつく。また、ポケット部分のラインが廃止される。1968年まで。ホーム用リーグ優勝5回、日本一2回を誇った、後の南海ホークスをイメージしたユニフォームです。最大の特徴が2㎝の太さの肩ラインです。これは鶴岡一人監督の「ひとつ太い線でも入れてたくましく
西鉄ライオンズホーム用・ビジター用1954年途中〜1959年、1960年〜1961年、1962年~1965年※今回は1954年途中~1959年までを中心に語ります。略年表1954年《ホーム・ビジター共通》日本シリーズから採用される。また、この日本シリーズだけNLマークの紺地の帽子を着用される。1958年ビジター用のみ胸ロゴがNISlTETUからFUKUOKAとなる。1960年《ホーム・ビジター共通》帽子のマークが花文字のLマークに変更。左袖に番号がつく。ともに1961年まで。
読売ジャイアンツホーム用・ビジター用1953年~1960年前半略年表1953年《ホーム・ビジター共通》サンタマリアキャンプでニューヨーク・ジャイアンツのユニフォームをモチーフにしたウィルソン製のユニフォームを着用し、帰国後に改めて読売ジャイアンツ仕様のユニフォームに変更。帽子は紺地と黒地の2種類あり、帽子のマークはTGマーク。1954年《ホーム・ビジター共通》帽子のマークがオレンジ色のYGに変更。1955年《ホーム・ビジター共通》この年のみ、YGマークの色がYがシルバー、Gがゴ
中日ドラゴンズ※1952年~1953年は名古屋ドラゴンズホーム用・ビジター用1952年~1959年略年表1952年《ホーム用・ビジター用共通》ドジャース型の縦縞からライン無しのユニフォームを変更。帽子のマークがNになる。1953年まで。1954年《ホーム用・ビジター用共通》中日ドラゴンズに改称に伴い、左袖に中日新聞社の社章が入る。ビジター用がこの年のみ、胸ロゴがNAGOYAのものと併用する形でDragonsロゴのユニフォームを導入。1956年ビジター用のみ。胸ロゴが以前
松竹ロビンス1950年~1951年。略年表1950年。松竹と資本提携を結び、チーム名を松竹ロビンスと改称。それに伴いユニフォームを変更。また、赤色のRobinsロゴの夏用ユニフォームも導入。1951年。この年のみ、2種類のユニフォームの左袖にチャンピオンエンブレムがつく。1950年のユニフォーム大陽ロビンスから松竹ロビンスと改称し、ユニフォームを変更しました。当初は白地とグレー地のユニフォームに左胸に紺色文字で小さくRobinsとありました。この左胸に小さくチーム名を入れたユニフ
毎日オリオンズホーム用・ビジター用1950年~1957年略年表1950年《ホーム用・ビジター用共通》ホーム用は濃紺の縦縞で右胸にMのマーク、ビジター用はグレー地にMainichiロゴ。ビジター用のみ、前半は毎日新聞社のマーク、後半からはホーム用・ビジター用ともに三色のエンブレムが左袖につく。ホーム用は1957年まで。ビジター用はこの年のみ。1951年《ホーム用・ビジター用共通》左袖に月桂樹をチャンピオンエンブレムをつける。また、ビジター用はOrionsロゴに変更。1956年まで。
随分おそくなりましたが、プロ野球ユニフォームを語るシリーズを再開します。プロ野球ユニフォームを語るシリーズ第6章「1950年代・60年代チャンピオンユニフォーム」を投稿します。今回は1950年代~1960年代にリーグ優勝、日本一になった時のユニフォームを各球団1投稿で、一部まとめて語るものもありますが、知らない時代に想いを馳せて投稿していきます。今回もアットランダムで仕上がったら随時投稿します。今回は2000年代のユニフォームの大まかな傾向をざっと語ります。フランチャイズ制度1948
いつも私の拙い投稿を御覧いただき、さらに多くのいいね!をいただきありがとうございます🙇お陰様で800投稿目を迎えることが出来ました。700投稿目が2024年9月17日でしたので、700投稿目までに1年経たずに迎えることが出来ました。5月の過去最多投稿数を更新したことも手伝ってペースが上がってます。またしてもお陰様で、ここ最近アクセス数がさらに増えてます。また、多くのいいね!をいただいております。いつも本当にありがとうございます🙇♂️皆さんに読んでいただけるような投稿が出来るように頑張りま
戦後間もなくのユニフォームユニフォームを語るシリーズ#77終戦80年特別投稿です今年は終戦80年になる年でして、夏場に入り太平洋戦争を振り返る番組を取り上げる機会が増えました。太平洋戦争は日本プロ野球にも暗い影を落としました。太平洋戦争が激化してきてアメリカの国技である野球が敵性スポーツ扱いされるようになりました。当時の日本野球連盟は政府の方針に英語使用を自主規制しました。その中に球団名やロゴなどが漢字などに改めました。さらに、1943年にはユニフォームや帽子に国防色の使用を、1
※2021年12月29日に投稿したものを再編集したものです。戦時中のユニフォームユニフォームを語るシリーズ#76終戦80年特別投稿です今年は終戦80年になる年でして、夏場に入り太平洋戦争を振り返る番組を取り上げる機会が増えました。太平洋戦争は日本プロ野球にも暗い影を落としました。太平洋戦争が激化してきてアメリカの国技である野球が敵性スポーツ扱いされるようになりました。当時の日本野球連盟は政府の方針に英語使用を自主規制しました。その中に球団名やロゴなどが漢字などに改めました。さら
先日もお伝えした様に、「プロ野球ユニフォームギャラリーシリーズ」シーズン1をここで一旦終わりにします。ダラダラ続けるより一旦終わりにしたほうがいいと思ったからです。また、以前どこかで投稿した「プロ野球ユニフォームギャラリー・シーズン1のおまけ」をいつになるかはお約束出来ませんが、やるつもりでいます。楽しみにしてください。お陰様で、多くの方々が私のブログを訪れて御覧いただき、多くのコメントをいただき、多くのいいね👍️もいただきました。いつも感謝の気持ちでいっぱいです。正直これほど好評をいただ
読売ジャイアンツユニフォームギャラリーシリーズ#18皆さんのお陰でシーズン1も終わります。いまだに好評なことに驚きを隠せません、『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第18回目は読売ジャイアンツ「地獄の伊東キャンプで鍛えたヤングジャイアンツ達」を取り上げます。130試合58勝62敗10引き分けで勝率.483の5位になり、1979年シーズンは4年ぶりのBクラスに転落しました。この成績に加えて世代交代の必要性を痛切に感じた長嶋茂雄監督はジャイアンツの未来に危機感を抱きました。そこで長嶋茂雄監
阪神タイガースユニフォームギャラリーシリーズ#17ブログ全体のアクセス数の底上げに貢献してます、『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第17回目は阪神タイガース「黄色と黒は猛虎のしるし!?改めて振り返ると豪華な補強をした1979年シーズン」です。1978年シーズン、130試合41勝80敗9引き分けの勝率.339で、ついに阪神タイガースが最下位に転落することになりました。これを受けて球団は新監督にドン・ブレイザー氏を招聘し、新球団社長に小津正次郎氏を就任させ、最下位脱出と球団体質改善を図り
日本ハムファイターズユニフォームギャラリーシリーズ#16いつやるかはまだ決まってませんが、プロ野球ユニフォームギャラリーシリーズ・シーズン1のおまけを投稿することにしました。7月21日で一旦終了する、『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第16回目は日本ハムファイターズ「1978年のオールスターゲーム、ファン投票ジャックで当選したハム戦士」です。日本ハムファイターズになってから、ファンサービスに力を注ぐようになりました。その努力が実を結び観客動員数に反映されるようになり、1978年頃には
ヤクルトスワローズユニフォームギャラリーシリーズ#15最近バタバタしている感がありますが、投稿しないと段々遠ざかりそうで怖い「プロ野球ユニフォームギャラリー」。第15回目はヤクルトスワローズ「スワローズ念願の初優勝に貢献した選手達」を取り上げます。球団創設29年目を迎えた1978年に初のリーグ優勝を達成しました。初優勝だけでなく、その勢いで阪急ブレーブスとの日本シリーズで4勝3敗で日本一になりました。最初から勝っていたわけではありません。シーズン序盤は負け越してましたが、前年2位
プロ野球ユニフォームを語るシリーズ特別編④「交流戦限定ユニフォーム4選」を4回に分けて投稿いたしました。今回もいいものはいい、ダメなものはダメ!がはっきり出てましたがどうでしたか?実際には読者に満足できたかは定かではありませんが、多くのいいね!をいただくことが出来ました。いつもながら皆様のおかげです、いつもありがとうございます。次回の「ユニフォームを語る」シリーズは、ユニフォームギャラリーシリーズの続きを投稿してからになりますが、『プロ野球歴代ユニフォームを語る第6章1950年代・6
近鉄バファローズユニフォームギャラリーシリーズ#14再開したところ想像以上のアクセス数を記録しました。いつもありがとうございます『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第14回目は近鉄バファローズ「初優勝がすぐ目の前にあった時期の猛牛軍団」を取り上げます。西本幸雄氏が監督に就任したのが1974年でした。この時、後に近鉄バファローズのシンボルになる赤袖のユニフォームが誕生しました。赤袖のユニフォームでリーグ優勝が3回、いくつかのマイナーチェンジを経て1996年までの23シーズン着用す
日拓ホームフライヤーズユニフォームギャラリーシリーズ#13どこかでやらないと忘れられてしまいます『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第13回目は「七色のユニフォーム、カラー画像を極力見せます!」です。以前、「日拓ホームフライヤーズの七色のユニフォームを取り上げてほしい」とのリクエストがございまして、カラー画像を探すことにしました。以前取り上げたものと被ってない画像を探してみました。しかし、日拓ホームフライヤーズは弱かったこともあり、取材も少なく、カラー画像もなかなか見つけられませんでし
埼玉西武ライオンズ交流戦限定ユニフォーム2008年略年表2008年ホーム用のみ。交流戦限定ユニフォームを着用。この年限り。ユニフォームデザイナーとして有名な大岩Larry正志氏がプロ野球ユニフォームを初めて手掛けたユニフォームです。ライオンズブルーの上着に肩に白の星(というより手裏剣?)を型どり、首周りと袖に白と黒のライン、肩から袖まで、脇部分、ロゴ、番号書体がグレーでした。背番号下にはスローガンが掲げられました。また、右胸には30周年記念エンブレムがありました。個人的にはなかなか
阪神タイガース交流戦限定ユニフォームホーム用・ビジター用2007年、2008年略年表2005年ホーム用のみ。1979年〜1981年のホーム用を交流戦限定で復刻。2006年《ホーム用・ビジター用共通》1979年〜1981年のホーム用をビジターゲームにて、1979年~1983年のビジター用をホームゲームで復刻。2007年《ホーム用・ビジター用共通》交流戦限定ユニフォームを着用。2008年《ホーム用・ビジター用共通》交流戦限定ユニフォームを着用。2009年《ホーム用・ビジター
東北楽天ゴールデンイーグルス交流戦限定ユニフォーム2006年〜2009年略年表2006年ホーム用のみ。交流戦限定のユニフォームを着用。2009年まで。創設2年目の2006年、交流戦限定ユニフォームを着用しました。詳しい経緯は不明ですが、野村克也監督が交流戦を盛り上げようとしたのかなと思います。このユニフォームは野村克也監督在任中に着用されることになります。白地に、袖の大部分と脇部分がエンジ色と黄色の縁取りになっていて、番号書体や背ネーム書体が通常のホーム用ユニフォームと異なって