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呉のまち呉は歩いて楽しいまちです。戦艦大和をつくったドックの上屋がそのままの形で現存し、潜水艦基地も間近に見られる。同時に戦争の教訓を伝えるモニュメントも多い。歴史とロマンがありチョッピリお洒落なまちでもあります。今回の呉訪問は入船山記念館の見学にしぼりました。昼食も美術館で済ませたので駅と入船山記念館の往復に限ったまちなか散策です「海色の歴史廻廊くれ」呉のシンボル的な山灰ヶ峰めがね橋交差点水兵さんの一団が歩いていた旧下士官兵集会所映画「この世界の
人知れず最適化する日々ご縁した全ての森羅万象に感謝🙏
映画「この星の片隅で」コロナ禍真っただ中って感じの香港の映画。主人公は清掃会社の社長。社長だけど同時に社員で、社員は彼だけ。だった。そこで新しく働くことになったのはーーー。映像が美しかったです。キレイなものをキレイにとるというだけでなく、日常の美しさ、生活の美しさのようなものがスクリーンに映っていて、とても美しい。コロナの影響で人影のない街でしたが、それでも香港らしい街の景色だらけで、香港の気温を感じるような映像でした。構図とか、そういうものもすごく私の好みでいい感
1955年4月、下田隆一さんら5人が原告となって、原爆による損害賠償請求の裁判(「原爆裁判」「下田事件」)が始まった。原告のひとりに多田マキさんがいる。マキさんが勇気を出して原告に加わったその出発点は、1952年の暮れ、山代巴の勧めで「原爆被害者の会」に入り自分の被爆体験を手記にしたことだった。マキさんは広島市皆実町の路上で被爆した。爆心地からの距離は約2km。警報が出ていないのに飛行機が飛んでいるのが気になって空を見ながら歩いていたらピカッと光り、とたんにペンキをどろっと溶いたものを投げ
***ブレス/RADWIMPS*君が願ってるよりも君はもう僕の全部でどうぞお望みとあらばお好きに切り刻んでよ今ならば流れる血も全部その瞳から零れる涙は落ちるには勿体ないから意味がなくならないようにそのコップに溜めといてよそれを全部飲み干してみたいよ閉じ込めたその涙には人を人たらしめるすべてが詰まっていて触れたら壊れてしまいそうで触れなきゃ崩れてしまいそうな君をここでただ見守るよ偉大な歴史の一部を遺すように僕は歌うその口から落ちる言葉は
アイコンも変更🌹TakanoriIwata(@takanori_iwata_official)•Instagramphotosandvideos3MFollowers,453Following,591Posts-SeeInstagramphotosandvideosfromTakanoriIwata(@takanori_iwata_official)instagram.comTakanoriIwata@T_IWATA_EX_3JSBただい
この宇宙の片隅で解禁🥰🌹雨がやんだら虹になるから大丈夫😌🌈MV動かないと思ったら20:00解禁ね😂
広島逓信病院では吐き気や下痢の症状はすぐに消えていった。それで赤痢の疑惑も晴れたのだが、それが急性放射線障害の潜伏期間だったことは当時誰も知るはずはなかった。8月18日、小林さんという19歳の女性が逓信病院に入院した。小林さんは爆心地から700m離れた八丁堀の路上で被爆し、避難する途中で数回嘔吐した。それから3日間はひどい倦怠感、食欲不振、下痢に悩まされた。それが少し良くなったと思ったら18日になって再び悪化し、全身に小指の頭ぐらいの大きさの皮下出血斑が出てきたのだ。入院した時は髪の毛も全
今日は、アニメーション映画「この世界の片隅に」(2016年制作)について書きます。この劇場版アニメーション映画「この世界の片隅に」は、ヒットの要素が見当たらないとして、企画段階で挫折し資金調達がままならず、当時としては珍しいクラウドファンディングによりこの映画に賛同するファンにより資金を調達して制作されています。この映画は、「普通の人々が、普通の生活の中で自分がすべきことをして生きて、その普通の生活の中で、幸せを見出します。しかし、その普通の生活を突然に奪ってしまう出来事が、起こりま
1944(昭和19)年2月。18歳のすずは、突然の縁談で軍港の街・呉へとお嫁に行くことになる。夫・周作のほか、周作の両親と義姉・径子、姪・晴美も新しい家族となった。配給物資がだんだん減っていく中でも、すずは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの艦載機による空襲にさらされ、すずが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。そして、昭和20年の夏がやってくる。
なんでも、「76回目の広島原爆の日となる6日、東京五輪の中継が多い影響もあり、NHKでは総合テレビ午前8時からの「広島平和記念式典」中継以外に原爆や戦争に関する特集番組を放送しなかった」そうです。なるほどねえ、NHKにとってはオリンピックのほうが大事なのでしょう。それはいいとして、私は広島と長崎に原爆が落とされたという事実は未来永劫伝えていくべきだと思っています。戦争の悲惨さや残酷さを忘れないために。ありきたりのことを書いて申し訳ありません。他に表現のしようがないの
自立、人とのつながり……。小林みさをさんや寺田愛美さんの話を読みなおしてみて、「声をかけられる」というきっかけが大切だと思った。他人とつながることで小林さんも寺田さんも自分を見つけ、仲間と学び合う中で自分を育てていったのだ。山代巴の母イクノさんも「タンポポ」グループの勉強会に入っている。その時イクノさんは78歳。…母は「お前のように好きなことのためにしか動かなかった者には、わしらのように家の務めか、妻の務めか、母の務めで過ぎてきた者の心の動きは分かりはしない。わしらが勉強せなんだら
山岡秀則さんは長崎県の対馬にいた。イカ漁をしている親戚が働き手として連れて行ったのだ。中学生に船に乗っての作業は重労働だったろう。しかも初めての日本海の荒波だ。けれど中学を卒業する時に、その親戚から言われた。「中学の学費と生活費を払え」と。山岡さんは有り金全部渡して親戚の家を飛び出した。「原爆孤児」が親戚から親戚に「たらいまわし」にされるというのも珍しい話ではない。山口勇子は『この世界の片隅で』の中で道子さんという「原爆孤児」の話を伝えている。道子さんは両親を原爆に奪われ、その後兄がど
「広島子どもを守る会」のクリスマスの集いに参加した山岡秀則さんのところに、年が明けてすぐ、知らない女性から手紙と小包が届いた。手紙には「きょうから母さんと呼んでください」と書いてあった。私は、すごく、すごく嬉しく、「母さん!」と言ったことがない子どもでしたので、初めての手紙を何度も読み、夢みたいでした。(山岡秀則「原爆孤児となって」広島県被団協「空白の十年」編集委員会『「空白の十年」被爆者の苦闘』広島県原爆被害者団体協議会2009)初めて「おかあさん」と呼べる人ができた。自分の
山岡秀則さんは3歳の時原爆に遭った。家は爆心地から4kmほど離れていたが原爆の爆風で窓のガラスが飛び散り、背中に突き刺さった。父親は中学の教員で、その時市内中心部で生徒と一緒に建物疎開作業にあたっていて火傷を負い、何とか家まで帰ってきたものの、10日後に苦しみながら死んでいった。母親はその年の4月に建物疎開作業中の事故で亡くなっている。そして秀則さんが5歳の時、秀則さんと秀則さんの姉の面倒を見てくれていた祖父が亡くなる。3歳上の姉は誰かに引き取られてそれっきりになり、秀則さんは親戚の家
「おこりじぞう」で知られる山口勇子もまた正田篠枝の親しい友の一人だった。わたしの友のなかには戦争のため原爆のために孤児になった子供を見守って子供を守る会で活躍しておる女(ひと)がおります(正田篠枝「ひろしまの河」部分『耳鳴り』平凡社1962)山口勇子は広島市郊外の井口村(現広島市西区)に疎開していて助かったが、市内中心部の大手町に暮らしていた自分の両親と夫の両親は原爆に命を奪われた。突然に襲ってきた親しい人たちの死、そして焼け跡をさまよう「ばけもの」と
正田篠枝は1965年6月15日に自宅で息を引きとった。正田篠枝の歌の友であり、篠枝を物心両面で支えた東京の月尾菅子は訃報が伝えられるとすぐに飛行機に飛び乗り、告別式の2時間前に篠枝の自宅についた。篠枝の棺の前には、栗原貞子が「その前に仕えるように黙坐」していたという。(月尾菅子『正田篠枝さんの三十万名号』藤浪短歌会1968)栗原貞子は1962年に、ソ連の原爆保有を容認する意見に我慢ができず、正田篠枝らと共につくった「原水爆禁止広島母の会」を抜けた。正田篠枝が詩「罪人」で言う「それにもまして
ソ連の核実験再開が伝えられると、広島県原水協の森瀧市郎理事長(当時)はソ連に対して核実験再開を中止するよう強く要請するとともに、アメリカやイギリスにも「核実験競争を激化させるような方向は厳に戒められるよう」求めた。それにもかかわらずアメリカが大気圏核実験再開を表明すると、吉川清とともに原爆慰霊碑前で座り込みをはじめ、この座り込みには多くの人が加わっていった。しかし、日本原水協内部ではソ連の核実験をアメリカ帝国主義に立ち向かうものだとして支持する人たちも勢力を拡大して対立が激しくなり、ついに
升川貴志栄さんは鶴見町で建物疎開作業中に原爆の閃光で火傷を負い、爆風に吹き飛ばされて右足を骨折した。火が迫る中もう逃げられないと観念したが、古い松葉づえを見つけて、どうにか自宅に戻ることができた。しかし広島一中1年生だった息子の宗利君はいくら待っても帰って来なかった。貴志栄さんは、自分の命を救った松葉づえは、もしかしたら親思いの宗利君が投げてよこしてくれたのではないかと思うのだった。(広島平和記念資料館平和データベース)1960年1月、原水爆禁止のために日常的な学習や活動をしていこうと、升
1955年8月6日、原水爆禁止世界大会の壇上に被爆者代表として立った高橋昭博さんは、原水爆禁止と被爆者救済のためには自分自身もっと積極的に運動に参加して行こうと決意した。翌年3月18日に開かれた「原爆被害者広島県大会」では国会に被爆者援護法の立法化を求めて45名の国会請願団広島代表が選出され、高橋さんもその一員となった。3月20日、高橋さんたちは当時の鳩山一郎首相と面会し水爆実験禁止や被爆者医療国庫負担を陳情した。高橋さんはその時鳩山一郎のつぶやいた言葉が忘れられない。一人一人の顔を見
1965年7月20日、山代巴らによる岩波新書『この世界の片隅で』が世に出された。そのいきさつを山代巴はこう書いている。昭和四十年(一九六五年)、広島の被爆二十年を記念して、広島の実情を岩波新書で出すことを約束したとき、私は川手健らと共に闘った時代の方法を、彼の友人たちを中心にして継承することにした。そこで得た一番大きな収穫は、胎内被爆による小頭症の子を持つ親たちの、二十年の沈黙を破らせたことと、小頭症の子と親の会、きのこ会の誕生だった。これを記念して、この新書の名は「この世界の片隅
戦争が終った。広島で所帯を持っていた長女のツル代は原爆で消息不明のまま。長男の虎男は兵隊にとられて沖縄で死んだ。ふたりの子どもには苦労させたまま死なせてしまったという悔いがセキさんの心を痛めた。一方セキさんの夫の茂市はというと、荷車引きで辛苦したかいがあってわずかながらも田を手に入れ家を建て、さらに小作していた田が農地改革で自分の物になり羽振りがよかった。ところが戦争が終って5年目、茂市は突然血を吐いて動けなくなった。ツル代を探して焼け野原の広島を三日も歩いたからではないかと疑う人は県
セキさんは、ナツノが心を開いて自分を受け入れてくれたのを見習って、自分も人の心をわかろうと努めるようになった。考えてみれば結婚以来セキさんにずっと酷い仕打ちをしてきた姑も、若い時から自分を愛してくれる人、自分を認めてくれる人が誰もいなかった。息子の茂市の「孝行」だけにすがって生きてきたのだ。それゆえ嫁への嫉妬がどれだけ激しくても、姑は他のやり方を知らなかったのだと思うとセキさんは涙が出てくるのだった。「荷車の歌」のページをめくりなおして気がついた。茂市から「お母」と呼ばれ、幼い孫娘から「バ
1954年5月15日の「原水爆禁止広島市民大会」を受けて婦人会やPTAを中心に多くの団体が集まって、広島県内で原水爆禁止を求める100万人署名運動が始まった。山代巴も県北の村々で女性たちと一緒に人権の学習会をしながら署名を集めてまわった。その中で、山代巴は日野イシさんという70すぎのお婆さんと出会う。そのころイシさんは自分の家を、村の女たちが「誰に気兼ねもなく話せる場」にしようとしていた。そしてその場でイシさんがありのままに語った自分の人生、すべてさらけ出した「生き恥」が、底辺の暮らしの中
1953年3月10日、峠三吉は西条町(現東広島市)の国立広島療養所で息を引きとったが、山代巴は三吉を看取ることができなかった。広島で原爆被害者の体験記『原爆に生きて』の出版に向けて大詰めの作業に追われていたのだ。山代巴は原稿をすべて出版社に渡した時、「原爆被害者の会」の活動を離れ農村に帰ることを決めていた。1952年12月、「原爆被害者の会」が被爆によって生活に困窮する人たちへの救援を呼びかけたところ、県北のいくつもの婦人会から手が差し伸べられ、餅が全部で6200個、米は4斗も届けら
山代巴は『原爆に生きて』の1953年3月31日付の序文で、「広島平和記念都市建設法」とからめて広島の「立退き問題」についてこう述べている。この強力な事業法は、焼野ガ原に家を建てて、やっと住んで来た生き残りの人々に、大量の、行くあてもない立のきを要求しています。それにつれて極度に家の少ない広島では、実にたくさんの市民が、行くあてもない立のきの要求に泣いています。(原爆手記編纂委員会『原爆に生きて』三一書房1953)川手健を事務局長とする原爆被害者の会は、1952年12月の総会で決
山代巴は立田松枝を初めて見た時のことが忘れられない。黄昏の小道へ人夫姿の女が、前かがみの急ぎ足で現れると、下の女の子がまっ先に、ひよこのように飛び立ち、兄も妹もその後を追うた。母はしゃがんで胸を開き、下の女の子は乳にすいつき、兄と妹は両方から母の肩を抱いた。その母子の姿は、名画のように私の目に焼きついた。(山代巴「ある母子像」『山代巴文庫原爆に生きて』径書房1991)立田松枝は1955年4月から始まる東京原爆訴訟(「下田事件」)において、「多田マキ」という名前で原告の一人とな
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターのデータベースによると、高橋昭博さんが「原爆被害者の会」に入会したのは1953年。「被爆者同士が互いになぐさめあい、励ましあおう」というところに救いを求めてのことだった。会員の家に集まって酒を飲んだり歌ったりする中で、吉川清さんが言ったという。「夏に半袖を着てみたいなあ。ケロイドがあるから長袖は夏になってもよう脱げんよ」といった。私もまったく同感だった。(高橋昭博『ヒロシマ、ひとりからの出発』ちくまぶっくす1978)しかし「原爆被害者の